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2013年11月30日

『侘助』(拙著)小さな大人(たいじん)(下)

 
 渋沢栄一の誕生は、一八四〇年である。天保十一年で幕末には成人している。西郷隆盛、大久保利通、坂本龍馬、福沢諭吉といった人々とそれほど年齢は違っていない。九十一歳という長寿に恵まれ、昭和の初期まで実業界で活躍した。渋沢の生まれた家は、火災で焼失したが、明治二十八年に再建され、母屋、副屋、土蔵、門などとともに残っている。豪農としての屋敷の風格があり、見学することもできる。
 
 この屋敷は、「中の家」(なかんち)と呼ばれている。父親の元助は、渋沢家の本家筋にある「東の家」から婿養子となった人物で、「中の家」を隆盛に導く商才があった。養蚕や藍玉の製造と販売、質屋業も手がけた。少年栄一も藍の買い出しを任され、大人顔負けの取引をした。少年時代から利発であった。母親のえいは、ライ患者の娘を、平気で世話する人であった。後年、長く東京府の養育院の院長として慈善事業に貢献したのは、母親の影響かもしれない。
 渋沢家は、武士ではないが、多額納税者として名字帯刀を許されていた。栄一は、父親が病気のため、代官所に父親の代わりに呼ばれ、金を工面するよう言われたことがあった。その時、即答はせず、自分はあくまで家長の名代だから話だけは伝え、後日返答するようにしたいと代官に言ったという。封建時代、こうした道理は通らなかった。代官からすれば、「問答無用」という感覚に違いがなかったが、栄一からすれば、こんなおかしな社会は壊してしまいたいと思ったかもしれない。この体験が、後の過激な高崎城乗っ取り計画の複線になったかもしれない。
 裕福な家に生まれたとしても、士農工商の中の農民であり、武家には服従しなければならないことは、わかっていても、既に知行合一の儒学を学び、社会正義を考え始めていた栄一には、黒船来航により開国に向け社会も変化しつつあったことも刺激的に働いて攘夷思想が正しく思えるようになっていた。
 一時期、お尋ね者のように幕吏に追われる立場になるが、人物を見込まれ、一橋家の家臣になる。一橋慶喜の側近であった原市之進に仕えることにより、薩摩藩の西郷隆盛などと接することになる。こうした幕末の志士との交流が、明治政府の要人との人脈につながっていく。しかし、渋沢栄一としての人生最大の幸運は、一橋慶喜の弟である徳川昭武を代表とするパリ万博の幕府随員として、海外に渡ったことにある。明治維新の動乱期に海外にいたことが、政争の中に命を奪われることから渋沢栄一を救ったとも言える。なによりも、西洋文明に触れ、経済の仕組みに目を開かせられるものがあった。それは、資本主義の仕組みである。多くの人がお金を出資し、事業を起こすことであった。自然と金融のことにも目を向けることになる。
 帰国した渋沢栄一は、戊辰戦争後、政治的に謹身し静岡にいた徳川慶喜のもとで財政立て直しに従事するが、大隈重信の要請もあり、大蔵省に出仕する。大隈重信の口どきは
「八百万の神の一人になってくれ」
というものであった。財政の基礎作りを手掛けるが、官吏にはなりきれない栄一の理想は、民間にあって実業を起こすことであった。その手始めが、銀行の設立である。国立第一銀行は、歴史教科書にも登場する、清水喜助の設計した建物で、錦絵や写真に残っている。国立と名がついていても、民間出資の銀行である。三井財閥の資金も多いが、多くの人々の出資を求めた。西南戦争を境に新興の財閥になった三菱の当主である岩崎弥太郎とは経済人としての考えが違い、会社の富は多くの人々に分かち合わなければならないというのが、渋沢栄一の考えであった。「道徳経済の合一」「論語と算盤」という言葉にあらわれているように特定な人が豊かになる、弱肉強食の社会を否定した。
確かに、東京、王子駅の近くの広大な土地に屋敷を構え、日本を訪れた南北戦争の北軍の将軍であったグラント元大統領や孫文、タゴールなどを自宅に招くほど財力も成したが、それは、渋沢栄一の人物的魅力に焦点を当てた方が良い。渋沢記念館は、この地にもあるが、現在戦災を免れた建物は、行政の管理になっている。戦中、戦後、日銀総裁や大蔵大臣を歴任した孫の渋沢敬三が物納したことによる。渋沢の家系をみると実業家もいるが学者も多く出ている。単にお金に執着するような血は濃く流れていないように感じる。渋沢敬三は、民族学にも大きく貢献している。渋沢栄一の長女の夫は、我が国の法律学の草分け的存在である穂積陳重であり、甥の渋沢元治は初代の名古屋大学の総長になっている。華麗な一族とも言える。
江戸から明治にかけ、日本は西洋文化を大いに取り入れた。戦後の経済復興は、アメリカの影響が大きい。市場原理主義、物質文明への傾斜と行き過ぎた面は確かにある。人間にとって心の喜びが最初になければならない。ただ、貧困と飢えは人を幸せにしないのも事実である。江戸時代は、しばし飢饉にみまわれた。富の蓄積があれば、その危機を乗り越えることができる。資源に乏しい日本は、物づくりによって世界と交易して生きる道を歩むことに異論はないはずである。「衣食足りて礼節を知る」というのも論語の言葉である。渋沢栄一という人物が成し遂げたことは、その点からも評価してよい。
渋沢栄一という人は、生涯にかけて一国の総理大臣の二倍も三倍も国民に貢献したというある人の賞賛もあながち過大評価ではないような気がする。群馬に程近い、埼玉深谷にこれほどの人物がいたことをこの年までに意識しなかったのは、自分の視野の狭さによる。渋沢栄一の屋敷の隣に小さな池があった。当時は、きれいな泉だったらしい。そこから号をとり青淵と名のった。そして、家族からは大人と呼ばれた。まさしく、心の澄んだ、小さな大人が渋沢栄一だと思いたい。渋沢栄一の葬儀には、多くの人々の参列があった。労働界からも哀悼の意が寄せられている。


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