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2013年12月13日

『侘助』(拙著)踊りと渦潮の国へ(中)

 
 初めて降り立つ徳島空港は、吉野川の下流域にあり、紀伊水道に接している。二月の寒さは残っているが晴れていた。少し風が強い。徳島市内には、バスで行く。路線バスなので三〇分はかかった。ホテルは確認したが、チェックインには早いので、JR徳島駅から、香川県高松市に至る高徳線で、初日の目的地である坂東に向かう。途中、池谷駅で分岐していて一つ目の駅である。車両一台の普通列車で極めてローカルな感じがする。ワンマン列車で、乗客も少ない。沿線の畑には、梅や菜の花が咲いている。板東駅は、無人駅であった。
 徳島県出身の往年の名投手で、現在タレントで活躍している坂東英二が育った地であるらしいが、そのことがこの地を選んだ理由ではない。大正の中期、この地に俘虜収容所があった。日本は、第一次世界大戦に参戦した。日英同盟により、中国の青島の要塞を守るドイツ軍と交戦し、降伏により四六〇〇人以上の俘虜を日本各地に収容することになった。その俘虜収容所の一つが、坂東俘虜収容所であった。現在、その跡地は公園になっていて、ドイツ館などの展示館が立っている。ドイツ館に隣接して、戦後ノーベル平和賞の候補にもなった賀川豊彦記念館もあり、この地を訪ねることになったのである。
 『侘助』(拙著)踊りと渦潮の国へ(中)
 板東駅からは徒歩である。街中を抜け二車線の広い道に出ると、その先には高速道路が走っている。駅で手に入れた簡易な地図を広げる。左手に寺がある。西国巡礼の一番札所霊山(りょうぜん)寺である。ちょっとお参りして先を急ぐ。先ほど視界に入った高速道路をくぐると、大きな朱の鳥居が立っている。阿波国の一宮大麻比古神社の鳥居で、参道の両脇には、真新しい燈篭がならび、社殿まで続いているがその距離は、一キロ程はあるだろうか。一宮と言えば古い社に違いないから、ドイツ館や賀川豊彦記念館を訪ねる前に参拝することにした。日頃の心の汚れを少しでも洗い流しておこうという安易な思いがある。
 『侘助』(拙著)踊りと渦潮の国へ(中)
祓川橋を渡り、神域に近づくと大きな楠があり、千年を超える木は御神木となっている。拝殿の前で拝礼するが、周囲に人は数えるほどしかいない。初詣となれば人で溢れるのであろうが、閑散としている。
  坂東俘虜収容所の痕跡は皆無に近いが、俘虜たちが築いた石橋は、ドイツ橋として残っている。不幸にも収容所で亡くなったドイツ人の墓もある。大麻比古神社から、ドイツ館に向かう。途中レトロな洋館が目に入ったが、こちらは一代目で中には入れない。二代目ドイツ館の二階に坂東俘虜収容所の様子が分かる展示コーナーがあった。収容所の開設は、大正六年(一九一七)とある。今から九〇数年前のことである。この収容所の存在を知ったのは、数年前「バルトの楽園」という映画を見たからである。収容所のロケ地が観光地として残されたが、昨年閉鎖された。
この時代、日露戦争と同様、俘虜に対する人道的な配慮は、国際条約もあり良く守られていた。近代化を進めた日本が一等国の仲間入りするためにも必要であった。有名な乃木大将とステッセル将軍の「水師営の会見」が象徴的である。歌に曰く「昨日の敵は今日の友」である。武士の情けも残っていた。板東俘虜収容所に収容されたドイツ人は、約千人である。ちょっとした村の人口であるが、狭い空間での囚われの暮らしは辛い。しかし、彼らにとって幸運だったのは、所長になった松江豊寿という大佐が管理者になったことである。展示コーナーには、松江大佐の遺品や、写真、紹介記事があった。父親は、会津藩士である。
 少し横道にそれるが、明治維新後の会津藩ほど辛酸をなめた藩はないかもしれない。白虎隊の悲劇や西郷頼母一家の自刃をもたらした会津戦争では、負傷者を虐殺したり、遺体を放置し埋葬させなかった。官軍といわれる長州、薩摩連合軍の非道な行為が今も、会津人の心に残って消えないという話を聞く。特に長州人、すなわち山口県に対しては。明治になってからも、青森の斗南(となみ)に移され、不毛の地で苦しい生活を強いられたこともあった。西南戦争では、会津藩士を警察官として採用し、西郷軍に抜刀隊を編成し立ち向かわせている。この時の戦死者は七〇人ほどで、田原坂を訪ねた時に、碑に刻まれていたのを見たことがある。
 『侘助』(拙著)踊りと渦潮の国へ(中)

 藩士の子供の中には、軍人を目指すものもいた。松江豊寿もその一人であった。陸軍と言えば長州であり、その総帥ともいうべき山形有朋などは、会津出身者が、将官になることを嫌ったという。義和団の乱の「北京籠城」で知られる柴五郎が初めて大将になったが、柴は松江大佐の先輩になる。松江豊寿は、少将となり予備役になった。人格、識見からすれば、大将になってもおかしくない人物であったが、人事には上官の好き嫌いや、閥というものがからむ。苦しみを体験した者にわかる不遇な状況に置かれた他者への同情、会津出身ということは、松江所長の人格的資質と無関係ではない。映画「バルトの楽園」の松江所長を演じたのは松平健である。
 その対極的な人物が、久留米俘虜収容所の真崎中佐である。後の二・二六事件の影の首謀者と見られ、終戦後A級戦犯として指名されたが、罪はのがれることになった真崎甚三郎大将である。俘虜に対しては、管理的で高圧的な態度でのぞみ、部下が殴ったりするのをあえて止めもしなかった。映画の真崎中佐を演じたのが坂東英二である。真崎という人は東京裁判でも知られるように、自己保身のかたまりのような面がある。概してこのような人が出世するものである。
 松江所長が俘虜たちから、模範的な管理者として慕われた理由は何であったかと言えば、部下に暴力は禁じ、ドイツ人の生活様式を最大限に許したことである。それは、彼らの文化を尊重したことになる。収容所には、職人や技術者もおり、パン屋、肉屋、お菓子屋もできた。ハムやソーセージといった肉の加工技術、酪製品などの製造も地域の人には、驚きであった。町工場に行き、機械の技術指導に行くことも許可し、非常に喜ばれ給料まで出たという。収容所の俘虜達は、労働がない日はスポーツに汗を流し、テニスやサッカー、ボーリングに興じ、周囲の日本人が暇があれば煙草やお茶を飲んで過ごしていることを彼らからは不健康な生活習慣と映った。
 俘虜の中には、音楽家もいた。オーケストラが編成され、地域の寺などを会場に演奏会が開かれた。祭り好きというか、開放的な徳島県民の気質もあってか、回を重ねるたびに盛況になった。日本の曲も演奏されたが、ベートーベンの「歓喜の歌」が合唱付きで演奏されることになった。映画「バルトの楽園」でも感動的に描かれている。ちなみにバルトは髭の意味で、松江所長は立派なカイゼル髭の持ち主だった。大正九年にヴェルサイユ条約にドイツ帝国は講和条約に調印し、収容所の俘虜達は解放された。その後、日本に残った人もおり、坂東俘虜収容所体験者ではないが、神戸に「ユーハイム」の名でドイツ菓子バームクーヘンの会社を残した人物もいた。ドイツ館の一階は、土産物が並び、とりわけドイツワインに目がいったが、手荷物になるのを嫌い、クッキーと関連図書を買い、隣接する賀川豊彦記念館に向かう。


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Posted by okina-ogi at 09:31│Comments(0)旅行記
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