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2013年12月19日

『侘助』(拙著)奈良の桜

奈良の桜
 極めて平凡なタイトルになった。念願の吉野行きが実現した。桜の名所は、日本各地にあるが、代表格は吉野山であろう。こよなく桜を愛した西行もここに庵を結んだ。吉野の桜の多くは、山桜である。本居宣長が詠んだ
 敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花
である。吉野に向かう途中、近鉄沿線の桜は満開であったが、吉野山の桜は咲き始めたという感じである。
 吉野について、充分に下調べをして出かけたわけではないので、中千本あたりを歩くことにした。花を愛でる場所は、下千本、中千本、上千本、奥千本というふうになっていて、桜も麓から咲いていく。西行庵がある場所は、奥千本よりもさらに先である。吉野に宿をとったわけではないので、西行庵に歩を進めることは断念した。
 『侘助』(拙著)奈良の桜

 吉野山の桜は、自然に増えたわけではない。役行者(えんのぎょうしゃ)以来、山岳修行者が苗木を植えたという話がある。今でも植樹をしている。吉野駅では、協力を求め募金を呼び掛けていた。お参りはしなかったが、金峯山寺は修験道の総本山になっており、寺院の建物としては東大寺に次ぐ大きさだという。吉野山でひときわ目立っており、上千本から写した写真が観光案内に良く使われている。
 吉野は、壬申の乱に勝利した、大海人皇子、後の天武天皇が身を潜めた場所として知られている。それ以上に、吉野を有名にしたのは、後醍醐天皇がこの地に皇居を置いたことである。鎌倉時代の後、南北朝という不思議な時代があった。朝廷が二つに分かれたのである。その御座所となったのが、今日の吉水神社である。世界遺産になっている。
 何気なく立ち寄った吉水神社には、重要な文化財が建物のそこかしこに置かれている。いつも国立博物館などで展示品を見るので、無造作のように見えて、レプリカなのかと思ってしまう。建物自体が、書院造の様式を残す貴重なものらしい。しかし、南朝の皇居というには、あまりにも小さな建造物である。後醍醐天皇のここでの暮らしぶりが想像できない。後醍醐天皇は、隠岐の島に流されたことがあった。その途中、天皇を奪回しようとした人物がいた。児島高徳である。有名な「天莫空勾践時無非范蠡」の十字の詩が、門前の立て札に書かれていて、その横で巫女さんが募金していた。
 花にねてよしや吉野の吉水の枕の下に石走る音
                    後醍醐天皇
 『侘助』(拙著)奈良の桜

 時代は前後するが、吉水神社は、兄頼朝に疎まれた、義経が身を隠した場所でもある。「義経潜居の間」もあった。静御前と別離を惜しみ五日間を過ごした場所とされる。踊りの名手であった静御前の舞を見おさめとして、弁慶達従者と大峰山を越えて奥州に落ちのびていったのである。大峰山は女人禁制であった。『義経千本桜』は見たことはないが、悲哀に満ちたロマンスは日本人好みで、まさに桜の舞台がふさわしい。
 吉野山峯の白雲踏み分けて入りにし人の跡ぞ恋しき
                     静御前
 太閤秀吉が徳川家康や、前田利家ら多くの要人をひきつれて吉野で花見をしたことがある。その時に、置かれた狩野派の襖絵も神社内にあった。秀吉は、金の茶室を作ったことでも知られるように派手なことが好きである。この時、我が世の春を満喫したのであろう。吉水神社は、この花見の本陣になっている。一目千本からの眺めは素晴らしく、秀吉は絶景だと唸ったという。平成の一目千本も見事な眺めである。新幹線と近鉄線を利用する間に時間があるので、本を数冊持参したのであるが、吉川英治の『黒田汝水』を読むと、秀吉が人情の機微に触れることに長けた人物として描かれている。秀吉の周りには有能な人物が集まったのも事実である。
 奈良の松原邸に着いたのは夕方であった。近畿圏や下関、群馬から五人が集まり宿泊させていただくことになった。岡先生のお嬢様である松原さおりさんと孫の始さんが食事の世話などをしてくださる。さおりさんの御主人の勝昭先生は一昨年他界された。昨年は、三人の春雨塾の塾生だった人が亡くなった。さおりさんに伺うと、今年で三二回目の春雨忌だという。数えてみたことはないが、半分近くはお邪魔しているかもしれない。ここまで、それほど大過なく人生を過ごしてこられたのも、この集いが心の支えになったのは事実である。
 『侘助』(拙著)奈良の桜

 松原邸から歩いて数分の距離に新薬師寺がある。新となっているが、薬師寺よりも創建は古い。新は「あらたかな」という意味である。天平一九年(七四七)に聖武天皇の妃である光明皇后が、夫の眼病の平癒祈願のために建立された。当時は大伽藍であったが、落雷がもとで現本堂のみが焼け残ったのである。もともとは厨房であったらしい。平成の大修理が済み、この建物には薬師如来坐像とそれを取り巻くように十二神将が周囲を睨んでいる。十二神将は干支の仏であり、そのうち一一体が天平時代のもので国宝である。一体は昭和に造られていて、干支は辰である。派夷羅(ハイラ)大将で手に弓矢を持っている。自分の干支は辰である。堂内には、創建当時の十二神将の色彩を復元した伐折羅(バサラ)大将が展示されていた。今日の像からは想像できない色鮮やかさである。
 朝の一〇時からは岡先生の京都産業大学での四〇年前の講義のテープを拝聴することになっていた。その前の時間を利用して新薬師寺を訪ねたのだが、桜が満開で青空に向かって美しかった。秋は境内を萩の花が彩る。薄暗い本堂の中でしばし瞑想に耽っていたら、薬師如来が岡先生やさおりさんに重なってきた。深い祈りと慈悲の心を発しているような存在に見えてきた。十二神将が我々塾生になるのだろうか。円陣の周囲にいるから等距離である。方角が違うだけである。個性と役割が異なるからであろうか。その一二神将に加えていただくことを前提とし、最も若いのが(昭和生まれの像)派夷羅(ハイラ)大将(辰)というのも面白くはある。春になると職場の組織図が届く。組織図というのは管理者が上にいる。管理者を真ん中にして新薬師寺のように円陣にできないものか。管理者の近くに日光菩薩のような中間管理者がいても良い。
 昼からは、参加者が増え花見をしながら関西電力会館で会食となった。その後、岡先生の眠る墓地をお参りした。霊園の桜も満開である。近くには白豪寺がある。椿が美しい寺で知られている。


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Posted by okina-ogi at 13:27│Comments(0)旅行記
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