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2013年12月25日

『侘助』(拙著)配流の島佐渡へ(下)

 


 友人の旅の目的はともかく、佐渡に渡るにあたり意識した人物は、世阿弥である。世阿弥は、能の世界でも、明治になるまで忘れかけられた存在に近かったらしい。今日では『風姿花伝(花伝書)』が有名で、能という芸の奥深さを伝えている。世阿弥の生涯を知るために教材にしたのは、白洲正子の『世阿弥』と瀬戸内寂聴の『秘花』という小説である。『秘花』は、瀬戸内寂聴の八〇代の作品である。世阿弥の言葉で、人口に膾炙されているのは「秘すれば花なり」であり、小説のタイトルもこの言に由来する。「初心を忘るべからず」も世阿弥の言葉であることも併せて知った。
 今日まで、能の実演を、正式な舞台を前にして見た体験はない。テレビの実況で演じられているのは知っているが、意識して鑑賞したこともない。日本の芸能の中で能ほど自分にとって無知な世界はない。だから、能について語ろうとも思わないし、その資格もない。しかし、世阿弥という室町時代に能を確立した人物の概要は紹介したい。
 世阿弥の父親は、観阿弥であり、観世流の能の創設者である。観阿弥の母親は、楠木正成の姉妹だとされている。世阿弥は、幼い頃から父親の指導を受け、能の芸を高め散った。世阿弥の幸運は、室町幕府三代将軍、足利義満に寵愛されたことである。童子であった世阿弥の舞に一目惚れしたのである。世阿弥は、この時一一歳であった。相当の美少年だったらしく、信長と森蘭丸のような関係になったと伝えられているが、真偽のほどはわからない。
 二一歳の時に、観阿弥が死去し、観世座を継承する。そして、父親から伝授された芸を、言葉に表したのが『風姿花伝(花伝書)』である。三七歳の時の作品だとされている。元雅、元能の後継者にも恵まれ、七〇歳の齢を超えた頃、世阿弥の身辺に不幸が訪れる。元雅は、死に、元能は、出家する。世阿弥は、六代将軍足利義教により、佐渡に流されることになる。罪という罪はないほど、理不尽な配流としか言えない。七二歳の老境を襲った不運である。足利義教は、為政者として善政とは程遠い政治を行ったために、守護大名に暗殺されている。足利義教は癇癪持ちで、気分にむらがあり、無闇に人の首を刎ねたり、領地を没収し、世阿弥のように遠島を命じたりもした。これでは、家臣や、側近の者は枕を高くして寝ることもできない。足利義教の末路に同情は寄せられなかったようだ。ようやくにして、世阿弥は赦免され、京に帰ることができた。既に、妻は世を去り、数年して八〇歳の生涯を終える。一休禅師の計らいもあり、大徳寺の真珠庵の墓地に眠っている。
 佐渡に流された、世阿弥の足跡は詳しく知らないが、佐渡博物館に「佐渡状」の写しがあった。娘婿の金原禅竹に宛てたものである。少しの不自由はあるが、芸の道を捨ててはいない。悲痛さはなく、世を恨むような表現はない。配流は、人為的に世を捨てさせる行為とも言える。かの聖女、マザーテレサが指摘したように、人は相手にされず、無視されたときが辛い。配流という行為は、死は与えなくも、生きながらえながら人を世から隔離する残忍な行為ともいえる。順徳天皇は、その行為に二〇年しか耐えられなかったが、世阿弥は、高齢にもかかわらず前向きであった。瀬戸内寂聴は、それに惹かれて『秘花』を書いたのであろう。
 「秘すれば花なり」とは、意味深長な言葉である。観阿弥の言だともされる。能は、能面をつけて演じられる。表情は、観衆に見られることはない。しかし、この能の仮面芸術としての様式以上に、精神的な能役者のあり方を、伝えようとしたのだと思われる。白洲正子は、エッセイの中で、兼好法師の徒然草の一節を引用しているが、それは
「物に争はず、己を曲げて人に随ひ、私が身を後にして人を先にするに如かず」
この、無私の精神は、茶や俳句の世界にも通じ、日本文化の底辺に流れているような気がする。日本人には、道徳がないという人がいるが、道徳のような戒律を超えている。
 「初心を忘るべからず」は、平凡な言葉にも見えるが、『花伝書』には繰り返し書かれている。世阿弥は、演じる人であり、創作する人であり、論ずる人であった。その点、能の世界では、万能、天才の逸材であるが、『花伝書』自体、父観阿弥の教えを忠実に書き伝え、実践してきた結果生まれたものである。現代流に言えば、生涯学習の教えとも言える。さらに、自己の精神的、芸術的向上は、次の世代への継承を重視している。現代の観世流は、観阿弥の直系ではない。観阿弥が世阿弥に教えたのは、血の継承よりも心の継承だった。世阿弥の生き方は前向きだと書いた。佐渡には金山もある。チリの鉱山に閉じ込められた人に世阿弥の精神を伝えたいと思った。
紀行を書き終えた頃、友人から旅の俳句が届いた。無理にこちらからお願いしたのであるが、最後に
「切れ切れの記憶も辿って創ってみたが、以降は句の注文には応じられんのであしからず」と、今回で、友人の句の掲載は終わりとする。
旅の時間の流れに整理して、七句そのまま載せる。
○日盛りやとろりと眠る波の上
○そもそものはじめを忘れところてん
○日盛りを歩く海辺の宿屋まで
○海鳥(うみどり)の声する闇やメロン喰う
○佐渡に寝て波も銀河も夢の外
○沖くらくけふも風なき百日紅
○緑陰に客待つバスも眠りをり


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