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2013年12月26日

『侘助』(拙著)中欧を行く(上)

中欧を行く
 一昨年のイタリアから北上して、オーストリアとチェコ、スロバキアを旅することになった。九名の小グループの七日間の旅である。主催は、群馬日墺交流協会である。墺の文字で推察できると思うが、音楽愛好家の団体で、五〇人近くが会員になっている。墺とは、オーストリアのことで、この地域は中欧と我が国では呼んでいる。ドイツやポーランド、ハンガリー、スイスなどの国々も中欧に入る。戦後、中欧の一部の国々は、共産圏に組み込まれた時期があったが、現在は、EU(欧州連合)に加盟している国が多くなっている。
 

 EUは、通貨を統一しているわけではないが、ユーロが広く使われている。イギリスは依然としてポンドであり、今回訪問したプラハのあるチェコは、コロナである。しかし、国境を越えてのヨーロッパ旅行の入国手続きが緩和され、移動しやすくなった。オーストリアの首都ウイーンからスロバキアの首都ブラチスラヴァへ日帰りで行き来したのだが、高速道路をノンストップで国境を越えることができた。検問は全くない。列車での移動も同様である。
 イタリアでは、ローマ帝国を強く意識して旅をし、紀行にもそのことを書いた。しかし、その後のヨーロッパの歴史についてはほとんど知識を持ちえていないが、ローマ法王庁を核としたキリスト教がアルプスを越え広くローマ帝国が支配していた地域に伝播していった歴史と捉えても良いかもしれない。四世紀から、一五世紀に至る千年以上に渡る期間が中世と言われる時期で、この時期に当たる。王族、貴族といった一部の実力者が人々を支配し、階級的な区別が固定していた時代である。
 実力者が群雄割拠する中、今日のドイツを中心とした地域の中に、神聖ローマ帝国という宗教を権威とした共同体のような不思議な帝国が誕生した。オットー一世が初代とされる。西暦九六二年のことである。ここから、中欧を軸とした帝国が、ヨーロッパの歴史を動かしていく。その中で、長きにわたり、神聖ローマ帝国を維持させ、光り輝いたのが、ハプスブルグ家である。ハプスブルグ家については後に触れたい。旅先で、ガイドさんがうまい解説をしてくれた。神聖ローマ帝国を、範囲は狭いが、今日のEUと思えば良いというのである。EUには、ローマ法王庁のような権威が背景にあるわけではないが、政治、経済の上での自由主義経済、民主主義的政治形態といった共通項がある。
 日本人のツアー客にさらに分かりやすいようにと思い
「日本史で言うなら、ローマ教皇が朝廷で、神聖ローマ皇帝が幕府のようなものですかね」
というと
「そんなスケールの小さいものではありません」
余計な説明は無用というばかりにお叱りを受けたが、喩があまり大雑把過ぎたとは思いつつも、自分では納得いくところがあると、旅から帰ってもその考えは変わらない。隣で、日本から我々を引率していた添乗員さんが笑っていたからである。この人は、歴史への見識が深い。
 ヨーロッパと日本との時差は、十月だと七時間である。しかも、気流の関係で往路は時間がかかる。行きは、辛くて一日が長い。飛行機の中は、なかなか眠れない。温度管理ができていて、寒さは気にならない。トイレに行く時、上着を脱いで行って帰ってくると、ユーロ紙幣を入れた財布が内ポケットにない。座席の下を見たが、隣席に人もおり狭くて捜しにくい。飛行機は、高度を下げて目的地に向かっている。乗務員には、話そうと思っていたが、財布を身につけていなかった自分が悪いと半分諦めかけていたら、後ろの席から
「これ、あなたの財布とはちがいますか」
と財布を差し出す女性がいた。今回の旅の同行者のOさんである。足元に光るものがあったので分かったという。財布は黒であった。暗雲立ちこめた気の重い旅の始まりに雲間が割れて光が差し込んできた気分になった。彼女の姿がマリア様に見えてきた。旅の中では、マリア様と呼ばしていただいた。この旅の中で、キリスト教におけるマリアの存在、さらにはカソリックの歴史を少し覗いてみたいと考えていたので、この財布紛失は、二重に忘れられない出来事になった。


 最初の訪問地はプラハである。カレル橋から見たプラハ城の町並みは実に見事である。多くの戦乱もあったが、良く歴史的建物が残ったものである。ロマネスク、ゴシック、バロックなどと称する建築様式がこの町には見事に残っている。到着日の翌日、案内されたのはカレルシュタイン城である。プラハの町から西南に四〇キロ程言った山の頂に建てられている。カレル四世は、神聖ローマ皇帝であり、チェコ王でもあった人物で、チェコ人から「祖国の父」と尊敬されている。彼は、チェコの守護聖人の筆頭ともいうべき、ヴァ―ツラフの末裔である。ヴァ―ツラフ広場に名を残し、ホテルは広場の近くにあった。チェコの民衆が民主化に立ち上がった「プラハの春」の舞台になった場所でもある。カレル四世のカレルシュタイン城の築城は、一三四八年に開始された。日本の室町時代にあたる。彼は、またプラハの町の骨格を作ったともいえる。聖ヴィート大聖堂やカレル橋の建設を着工し、カレル大学を設立し、市街地も新たに整備した。この時代は、「黄金のプラハ」と呼ばれている。ゴシック建築が多く建てられ、尖塔が林立する今日のプラハの景観もこの時代に発している。
カレルシュタイン城の中を案内してもらったが、暖炉もあり冬の寒さを凌げるようになっている。日本を旅立つ時は、二〇度近くあった気温が、この日は昼でも六度くらいしかならなかった。木々は紅葉し冬も到来したといってもよい。コートの冷たさが腕に伝わり、耳が冷たい。城内には、騎士の住居もあったが、祈りの場所である聖母マリア教会がある。プラハ城もそうだが、城と教会がセットになっている。カレル四世の時代、大司教座があったため、プラハ城の中にある聖ヴィート大聖堂は壮大で長い年月をかけて完成に至っている。宗教の権威と政治の権力がなければ成し得ない事業である。同行者にプロテスタントの信者さんがいて


「私たちは教会にこんなにお金はかけない」
という一言が印象に残った。
 カレルの息子のヴァ―ツラフ四世も神聖ローマ皇帝になったが、カレルほど有能ではなかったために、プラハは衰弱の道を辿ることになる。この時代に登場するのが、ヤン・フスである。ローマ教会の腐敗に反旗を翻したのである。確かにカレル四世は、ローマ法王庁の権威に深く結び付き政治を行ったが、高位の聖職者を優遇したために、教会の腐敗の芽を作ってしまった。カレル大学の総長までになった、学識あるフスの知性と良心はこの事実を無視できなかった。尋問にも意見を曲げず、その結果火刑に処せられた。「真実以外の何物にも従わない」というのが辞世の言葉のようになった。心を売るようなことはできなかったのである。考えを変えれば、命は保証すると言われてもそれをしなかった。ルターの宗教改革よりもほぼ一〇〇年前のことである。
彼の死は、後にカトリック教徒の間に争いを生むきっかけとなった。フスの唱えたキリスト教を信奉する人々の力は抑えきれず、カトリック側も容認せざるを得なくなったが、一六二〇年「白山の戦い」でフス派は、決定的な敗北を受けて、首謀者とされる人々は、広場で処刑され、カレル橋に晒されるという悲惨な結果を生んだ。舌や手足を切られて処刑された人もいた。キリスト教とは、程遠い行為である。清教徒は、イギリスを離れ新天地に向かったが、この時代、宗派間の融和というのは、一神教であるキリスト教では難事だったというべきなのだろうか。
 フスが自らの死も享受した考えとは良く理解してはいないが、現世の権威の中にある矛盾に目をつむってはいられなかったということではないだろうか。彼の晩年の死までの道のりを見ると、安政の大獄に斬首された吉田松陰を想起させられる。何か体質が似ている。チェコ民族の魂を純粋培養したような人物ではなかったであろうか。
後年、この国には、スメタナという音楽家が生まれた。現在、市民会館の中にスメタナ・ホールがあり、プラハの春音楽祭のメイン会場になっている。彼の命日である五月一二日に演奏されるのが「わが祖国」である。その交響詩の中の「モルダウ」は、日本人にもよく知られている。次郎物語の映画のバックミュージックに使われたのを覚えている。スメタノの代表的なオペラ「売られた花嫁」は有名である。彼は、ベートーベンと同じように、中年を過ぎ、五〇歳のころ聴力を失った。「わが祖国」の作曲は、その後の作品だというから驚きである。精神病となり亡くなったという。


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