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2013年12月27日

『侘助』(拙著)中欧を行く(中)

 
 


 カレルシュタイン城からプラハ市内までの郊外には、別荘地があって、週末や、夏休みを別荘で過ごす習慣があることを教えられた。都会人が、自然の中でゆったり過ごしたいという願望は、日本人以上だと思った。音楽会や、美術鑑賞、教会での礼拝も心の洗濯にはなっているのだろうが、別荘で過ごす時間は、家族や友人との絆を深めることになっているのだろう。この夜には、オペラの鑑賞が予定に入っている。ロッシーニの作品で「セビリアの理髪師」が国民劇場で上演される。その前に、少し早い夕食をとることになった。食事には、お酒がつきものだが、時差ボケもとれない旅行二日目の夜ということもあり、添乗員から飲みすぎないようにという注意があった。チェコは、ビールの消費量が世界一の国だという。黒ビールがおいしいと言うので、中ジョッキに二杯飲んだ。セーブしたつもりである。食事の途中、流しのおじさんが演奏してくれる。日本の曲までサービスしてくれたのだが、旅行メンバーの中に声楽家の若い女性がいて「オオソレミオ」をリクウェストして歌いだす。その声に惹かれて、隣の部屋から客が顔を出し、歌が終わると、大拍手で「ブラボー」ということになった。
 ホテルに帰り、ほろ酔い気分も抜けて、正装してオペラ会場に。席は、最前列から三番目という絶好のポジションだった。会場内の雰囲気は見事である。建物の装飾が豪華である。演奏付き三時間というのだからオペラは贅沢である。日本で鑑賞すれば、数万円というところだが、一万円もしない。内容は素晴らしいのだが、さすが言葉の意味もわからず長時間の鑑賞に睡魔が襲ってくる。まるで修行のようにして観て聴いた。
チェコスロバキアは、二〇年前は、一つの国であった。一九一八年にオーストリア・ハンガリー帝国から独立し、共和国になった。初代大統領がマサリクである。プラハ城前の広場に彼の像があった。細身で長身の姿に見えた。近くで、「モルダウ」をヴァイオリンで演奏している人に出会った。マサリクはチェコ人を母に持ち、父はスロバキア人であった。プラハ大学の哲学の教授でもあり、ジャーナリストでもあった。国際感覚を持った自由主義者で、チェコの民族性も無視しなかった。妻は、アメリカ人である。この両民族の国家は、二つの世界大戦とソビエトの共産主義のくびきから解放され、チェコ共和国とスロバキア共和国に分かれた。円満な離婚のようでもあり、ビロード革命と呼ばれている。


 スロバキアの首都はブラチスラヴァである。オーストリアの首都ウイーンから六〇キロメートル程の近距離にある。ドナウ河の近くの丘の上にブラチスラヴァ城がある。ハプスブルグ家の女帝マリア・テレジアも足繁く滞在した由緒ある城だが、火災で一五〇年間放置されていたが、きれいに修復されつつある。丘の下の道路を挟んで聖マルチン大聖堂がある。マリア・テレジアはこの教会で、ハンガリー王として戴冠式を行った。この教会も修復中であった。
ハプスブルク帝国という呼称は適当ではないと思うが、ハプスブルグ家が収めた帝国といった方が良いかもしれない。長くオーストリアのウイーンに都を置いた。スイスの北東部、ライン川上流に近い小さな城主が、突然神聖ローマ皇帝に選出された。ルードルフ一世である。一二七三年のことであるが、それから約七〇〇年の間に、神聖ローマ皇帝を長く務め、帝国を治めてきた貴族であるハプスブルク家は、戦によらず、婚姻によって領土を拡大していった。
 一八世紀の女帝ともいうべきマリア・テレジアは、女性であったため神聖ローマ皇帝にはならなかったが、帝国の改革に着手し、政治手腕を発揮した。彼女は、人材活用に長けていた。宰相になったカウニッツがその代表的な人物である。帝国の政治は、皇帝をとりまく数人の人物の補佐によって行われていた。財務大臣、外務大臣、内務大臣それを統括する宰相である。ナポレオンと渡り合ったメッテルニヒの時代は、外務大臣を兼務した。有能なスタッフと皇帝のリーダーシップが帝国の運命を大きく左右する。フランツ帝は、マリア・テレジアにとって良き伴侶であった。一六人の子供に恵まれた。早世した子供も多かったが、フランスのブルボン家のルイ一六世に嫁ぎ、革命によって断頭台に消えたマリー・アントワネットは娘の一人である。
プラハから、ウイーンまでは空路で一時間もかからない。ウイーン訪問は、一五年ぶりである。束の間の記憶しかないが、オペラ座やホーフブルク王宮あたりの景観は、当時とほとんど変わっていない。日曜日の朝、皇室礼拝堂で聴いた、ウイーン少年合唱団の讃美歌もその場所、その声である。ウイーン滞在二日、旅の四日目は、午前一一時から楽友協会でウイーンフィルの演奏会が予定されていた。小沢征爾が指揮した、ニューイヤーコンサートの会場である。ツアーの面々は二派に分かれる。音楽組と絵画組とに。音楽組五人、絵画組四人。既に旅行前、演奏会のチケットを購入していたのは、三人で、娘がウイーンに長く定住していてその配慮で、その日なって演奏を聴くことになった人がいた。加えて、当日券を買って聴いてみたいという人がいた。三〇〇席ある立見席で、極めて安価で求めることができるが、購入できる保証はない。見事願いは成就して、五ユーロで購入できたという。
 

 絵画組が訪ねたのは美術史博物館である。この美術館を薦めたのは私である。一五年前にウイーンを訪問した時も、足を運んでいる。レンブラント、ブリューゲルといったネーデルランドの画家の作品が展示されている。この美術館を鑑賞後、音楽組と合流してリヒテンシュタイン美術館を見学することになっていた。この美術館の収蔵作品もネーデルランドの画家の作品が多いのである。芸術は、音楽ばかりではない。絵画も心の調べを表現している。ブリューゲルの絵に再会した。「バベルの塔」をはじめ、「農民の踊り」も展示されていた。彼の作品は、多くの人間が描かれている。当時の世相も知ることができる。宗教画や肖像画が多く描かれていた時代にあって特異な画家である。しかし、今回じっくり見たいと思っていた絵がある。イタリア、ルネッサンス期の画家、ラファイエロの「野中の聖母」である。


 二人の子供を見つめる、聖母マリアの姿は清楚である。子供は裸であり、無垢である。平和そのもの、命そのものという感じがする。その対象に、ピエタがある。十字架から降ろされた我が子を抱くマリアである。リヒテンシュタイン美術館で見た、レンブラントが描いた、刑死後のキリストと、マリアの顔から血の気が引いている絵は強烈であった。生と死、人間の宿命を感じざるを得ない。その間にドラマ(人生)があるのだが、聖母子の生と死の構図に、キリスト教のカソリックの信仰を見るような気がした。ブラチスラヴァの旧市街地の広場近くに、聖母子像を見たが、紅葉の木々に包まれて印象的であった。黄葉が、まるで萌黄色のようであり、今まさに葉が萌え出ずる春のように感じたからである。俳句にできないかと思案したが説明句になってしまう。
聖母子像 萌黄に紛う黄葉かな
御子抱く 母も黄葉に抱かれて
 キリストの余りある愛の行動、犠牲という崇高な終焉、それ自体純粋な父性の精神と言い切れるのか。プロテスタントの、敬虔で、つつましい印象と同義と言えるのか。背後にあるマリアの存在、大地という存在を無視して神を語れるのか、その結論は出なかった。自分にとって、そもそも一神教の世界は理解しがたい。多神教の方が余程気が楽である。少なくとも男女二神という方が救われる。日本人だと思った。種と土、農耕民族は太陽が好きである。
最後の晩餐、つまり旅行メンバーの打ち上げは、王宮の近くのアウグスチナーケラーであった。ワイン蔵のような場所で、ウイーンでも名の知られた居酒屋らしい。ウイーンと言えば白ワインだというが、赤ワインも飲みつつ、大いに旅の思い出を語りあえた。ウイーン在住の音楽家である、同行者の娘さんが、赤飯を炊いてきてくれた。日本に帰る日、娘は父や我々を見送ってくれた。彼女は、ウイーンの森近くに住んでいる。
父娘別離 ウイーン郊外氷雨降る


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