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2014年01月03日

『侘助』(拙著)黒田藩五十二万石(中)

 秋月郷土館で購入した本がある。『第一四代城主―秋月黒田藩黒田長榮』、著者は、現理事長である。著書といっても自筆本ではないが、御人柄が伝わってくる好著である。この本で、長榮氏の半生を知ることもできたが、「華族」制度について良く理解することができた。華族制度は、明治政府によって明治一七年に定められた。封建社会の階級制度はなくなったが、公家や大名、維新の功労者に爵位が与えられた。いわゆる「公候伯子男」の順になる。公爵になったのは、公家では摂政家である近衛家や徳川宗家であり、薩摩藩の島津家、長州藩の毛利家、維新の功労のあった木戸家、大久保家、岩倉家である。維新の元勲であった木戸孝允、大久保利通、岩倉具視は既に世になかったが、子孫が爵位を受けた。天皇を中心として近代国家を目指す中で考えられた、貴族制度のようなものである。天皇の藩屏ということである。今では、叙勲制度がその名残だと思うが、こちらは一代限りの栄誉である。華族の子弟は、学習院で学んだ。帝国大学の進学も容易にできたらしい。
 秋月黒田藩の城主であった黒田氏の爵位は子爵であった。黒田長榮さんが、二〇歳の時、宮中に呼ばれた。従五位となるためである。これは、宮中の席次であり、軍隊では大佐の待遇にあたる。華族の特権でもあった。戦後華族制度は廃止されたが、先の大戦では、華族の戦死者や犠牲になった人も多い。有事になれば率先して国を守り、天皇の外郭となって働かなければならなかった。女王陛下のために、率先して戦場に出たイギリスの貴族にも似ている。
 『侘助』(拙著)黒田藩五十二万石(中)

 黒田藩の藩祖は長政であるが、父親の如水は稀代の人物といってよい。天運があれば、天下人になっていたかも知れない。童門冬二などの小説を読むと性格がそれをさせなかったと書いている。加えて切れ者過ぎたということも。政治家としても軍師としても実績を残し、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と政権が移る中で、見事、家の隆盛を果たしている。秀吉には、その功にしては少なすぎたともいえる中津一二万石に甘んじたが、息子に家督を譲り、長政を陰で支え、関ヶ原の功により、筑前黒田五二万石の大大名に導いたのである。
 黒田官兵衛と名のっていた頃、小寺家の家老として、毛利氏につくか織田信長につくか迷っていた頃、織田信長の将来性を確信し、交渉にあたったことがあった。伊丹城主であった荒木村重の説得に失敗し、一年有余獄に繋がれたことがあった。獄から出た時には、歩行も困難な体になっていた。生命の最大のピンチであった。このあたりのことを吉川英治が小説に書いているのである。信長は、黒田官兵衛が寝返ったと疑い、人質になっていた長政を殺せと命じる。それを匿ったのが、竹中半兵衛であった。二人に友情が生まれ、秀吉を支えるのだが、病弱な竹中半兵衛は若くして死ぬ。
 織田信長が明智光秀によって殺されたという報をいち早く知ったのが、黒田官兵衛である。秀吉は主君の死の悲しみも受けとめながら、次は自分が天下を取ると心の中で考えていた。その心を黒田官兵衛は見抜いたように
「次は殿の天下になりますぞ」
と囁くのである。ここから、秀吉が有能な部下と認めつつも、黒田官兵衛に警戒心をおこすのである。この男に天下取りの野心があるかは分からないが、その資質は充分にあると認めるのである。劉邦と韓信の関係に似ている。ライバル意識が働いたのである。後に、側近が
「上様の後、天下を狙うのはどなたでしょうか」
と聞くと、秀吉は、誰だと思うかと反問し、皆が徳川家康や前田利家の名前を挙げると、以外にも
「黒田の禿げ頭」
だと答えた。それを知った黒田官兵衛は、隠居して如水と名のるのである。自分に野心がないことを示すためであった。しかし彼は、隠居の身ながら、朝鮮出兵や小田原攻めにも秀吉に協力するのである。秀吉が死に、次は徳川家康の天下になることを長政にも話し、石田三成とは敵対する。当然関ヶ原の戦いでは東軍にくみした。兵は、長政が戦場に連れて行ったので、中津藩には兵力は残されていなかった。しかし、蓄財していた財力を使って兵を集め、九州の石田方の城を攻め、範図を広げた。この時も如水に天運は向かなかった。関ヶ原の戦いが、意外と早く決着したからである。東軍と西軍が膠着状態になれば、次は自分の番だと考え九州全土を拠点にしようと考えていたのである。


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Posted by okina-ogi at 09:28│Comments(0)旅行記
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