2014年01月04日
『侘助』(拙著)黒田藩五十二万石(下)
今度は、徳川家康に警戒されることになった。家康も、長政の功績は、小早川秀秋を東軍に寝返らせたことにより、第一だと考えていた。望みは全て叶えるといったが、家康の考えに任せたのである。その結果が、五二万石の福岡の地であった。甘受したということであろうが、今日の福岡の発展を考えれば、良い場所を選らんだともいえる。
もともと、福岡は、博多の名が残るように、商人の町であり、海外貿易が古来より盛んであった。近年、福岡城内、平和台球場のあったところに、外交施設であった「鴻臚(こうろ)館」跡が発掘された。秋月に出かける前の午後、見学したが復元された建物や、想像図は立派なものである。福岡城の敷地も広く、天守閣は残っていないが、高台で博多港が見渡せる。このあたりは、福崎といったが、福岡の名は、福崎の丘ということではない。黒田家の発祥の地ともいえる岡山の福岡の名を如水が残したかったからだとされる。そのため、商人の町である博多と城下町である福岡が共存するような大都会になっている。如水の辞世はすっきりしている。
おもいおく言の葉なくてついに行く道は迷はじなるにまかせて
この旅の前に本のタイトルは、『侘助』と決めていた。季節的に、秋月で侘助が見られるかとも期待したが視界の中にはなかった。それはそれとして残念であったが、友人との再会もでき充分満足し、また感謝している。友人とは遠方にあってもありがたい存在である。第一号になった『春の雲』の書き出しでも福岡の友人を訪ねている。下関から福岡に出て柳川に行った。日付が紀行に残っていて、平成九年の九月であった。あの時から、一三年の歳月が流れている。
今生での人との関係は、時が移るとともに同じ空間にいても疎遠になったりもするが、触れあった心や思い出というものは残るものであって、良い思い出こそは大事にしたい。福岡の友人との出会いは、学生証を拾ったことがご縁になった。その拾った場所が、同志社大学の正門前に今も残っている喫茶店である。四〇年も前のことである。その店の名前が『侘助』であった。今回の旅先で、友人が乗車用のカードを紛失した。今度は名前が書いてあるわけではないから拾い主が現れないと思うが、いやに印象に残った。
もともと、福岡は、博多の名が残るように、商人の町であり、海外貿易が古来より盛んであった。近年、福岡城内、平和台球場のあったところに、外交施設であった「鴻臚(こうろ)館」跡が発掘された。秋月に出かける前の午後、見学したが復元された建物や、想像図は立派なものである。福岡城の敷地も広く、天守閣は残っていないが、高台で博多港が見渡せる。このあたりは、福崎といったが、福岡の名は、福崎の丘ということではない。黒田家の発祥の地ともいえる岡山の福岡の名を如水が残したかったからだとされる。そのため、商人の町である博多と城下町である福岡が共存するような大都会になっている。如水の辞世はすっきりしている。
おもいおく言の葉なくてついに行く道は迷はじなるにまかせて
この旅の前に本のタイトルは、『侘助』と決めていた。季節的に、秋月で侘助が見られるかとも期待したが視界の中にはなかった。それはそれとして残念であったが、友人との再会もでき充分満足し、また感謝している。友人とは遠方にあってもありがたい存在である。第一号になった『春の雲』の書き出しでも福岡の友人を訪ねている。下関から福岡に出て柳川に行った。日付が紀行に残っていて、平成九年の九月であった。あの時から、一三年の歳月が流れている。
今生での人との関係は、時が移るとともに同じ空間にいても疎遠になったりもするが、触れあった心や思い出というものは残るものであって、良い思い出こそは大事にしたい。福岡の友人との出会いは、学生証を拾ったことがご縁になった。その拾った場所が、同志社大学の正門前に今も残っている喫茶店である。四〇年も前のことである。その店の名前が『侘助』であった。今回の旅先で、友人が乗車用のカードを紛失した。今度は名前が書いてあるわけではないから拾い主が現れないと思うが、いやに印象に残った。
Posted by okina-ogi at 06:54│Comments(0)
│旅行記