☆☆☆荻原悦雄のフェイスブックはこちらをクリック。旅行記、書評を書き綴っています。☆☆☆

2014年01月05日

元旦の大磯(2014年1月)

元旦の大磯
 今年の元旦は、年末から大磯に行くことを決めていた。一昨年の元旦、小田原に出掛けたこともあり、東京の雑踏を気にせず移動できる高崎発の湘南ラインが痛く気に入った。友人とも一緒である。大磯は、海水浴場もあるが、季節が違う。昨年の大河ドラマで新島襄が登場し、その終焉の地が大磯だったので自然と足が向いた。没後一〇〇年以上も経ているが、その最後の足跡を残した地を踏んでみようと思った。そして、暫くは新島襄のことは、距離を置いてみようとも思った。
 視聴率は低かったようだが、「八重の桜」は、近年異色の大河ドラマだったように思う。徳川長期政権の中に生まれたとしか言えない会津精神に充満した八重さんと、海外に渡らなければ攘夷思想家になったかもしれない二人が出会い、日本人自らが教育とキリスト教を合体させ、新しい国づくりの基礎を築こうとしたことは、西洋文化をいち早く取り入れようとした時代だからこそできたことかも知れない。新島襄が、ただ宣教師のように、教会を作り伝道だけをしていれば、心臓を悪くして寿命を縮めることもなかったかもしれない。加えて、洋食で通したことも、日本人の体質に無理があったとも考えてみたくなる。八重さんにも新島襄も武士の精神の上にキリスト教があるような気がする。内村鑑三や新渡戸稲造などにも同じ事が言えるかもしれない。
 元旦の大磯(2014年1月)

 大磯駅を降りて、海岸に向かって坂道を下ると、国道一号線に出る。少しカーブする信号機の近くに、新島襄終焉の地の石碑が立っている。さほどの広さはないが、小木も植わっている。墓碑には、生花が供えられていた。説明板には、百足屋旅館の写真もあった。ここで新島襄は、四八歳の生涯を閉じたのである。明治二三年一月二三日のことである。石碑は、昭和一五年に建立され、石碑の文字は、徳富蘇峰による。蘇峰は、キリスト教から離れたが、新島襄への思いは終生持ち続けた。新島襄の臨終の様子は、ある画家の手により描かれ、蘇峰が発行する「国民新聞」に掲載されている。蘇峰だけでなく、京都から駆け付けた八重さんの姿も描かれている。
 この日、同行の友人は体調が悪く、近くのコンビニに立ち寄り小休憩をすることにした。彼も心臓に持病を持っている点では新島襄と変わらない。海が好きな人で、今回同行した動機に海が眺められることもあったに違いない。コンビニの先には西行ゆかりの鴫立庵がある。このあたりで作ったとされる西行の有名な歌が
 心なき身にもあわれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ
である。年末年始は開館していないが、いつもは観光客に開放され、催しも行われている様子である。庵の前には石橋がかかり、小川が流れている。西行が滞在した当時は、背の高い草が周囲に茂っていたのだろう。だから鴫立つ沢と詠んだ。
 元旦の大磯(2014年1月)

 短歌は、作らないのでこの歌を借用して
心ある身にも利欲は知られけり鷺立つ沢の秋の夕暮れ
とパロディー風の狂歌まがいの一首を作ってみた。鷺は、詐欺と掛けている。アベノミックスで欲得に執着する人もいるだろう。二日に年賀状を書いたので、この歌を書いてみたが、受け取った人はどう思っただろう。元旦に届いていた年賀状に、この歌を諌めるような言葉を送ってくれた人がいたので、これは、軽いジョークだと思ってもらえたかも知れない。
「道下有食 食下無道」
中国の満州国のラストエンペラーの一族の書家の書いた言葉と説明があったが、東洋風の教訓のような響きがあるが、新島襄が残した言葉といっても不思議がないとも思った。
「人はパンだけで生きるものではない」
という聖書の言葉を連想したからである。
さらに国道を進み、今は資料館と公園になっている吉田茂邸があった場所に行く計画だったが、目的地は二キロ先である。友人の体調を考えても無理があるので砂浜のある海岸に行くことにした。海岸近くをバイパスが走り、道の下に通路があって海辺に出られるようになっている。明日はこの道を箱根駅伝の選手が走る。
 この日は強い風が吹いていて、東海道線の列車にも遅れが出るほどだった。砂浜の風はさらに強く感じ、砂粒が服に当たる。友人は土手に坐り、風を避けるように海を眺めていた。波しぶきも高いので、海に近寄らないようにして海岸線と遠景の山をカメラに収めようとしたら。帽子が飛ばされた。帽子は、車輪のようになって回転して砂浜を走りだす。いつまで経っても倒れず、追えども追えども追いつかない。三〇〇メートル以上先で漸くにして掴むことができた。その追っ駆けっこを友人はユーモラスな風景と余裕で見ていたらしい。こちらは必死な気持ちになっているのにも関わらず。
 「僕の帽子どこへ行くのでしょね」
という感じだったと言うと友人は笑っている。彼は、音楽に詳しく、西条八十の詩を思い出してくれたのだろう。森村誠一原作の映画「人間の証明」に出て来る詩である。海も見られ、滑稽な場面に遭遇し、少し気分も良くなったと思えば良い。
 国道を横断して駅に戻ることにした。その途中に標識があって、島崎藤村旧邸と書かれている。藤村が晩年過ごしたのは、大磯だったということを初めて知った。昭和一八年の夏、亡くなる前に
「風が涼しいね」
元旦の大磯(2014年1月)

 と妻に話したというその家である。旅に出た時の偶然の産物のようなものがあるが、今回もそれに近い。藤村がこの地を選んだのは、気候が温暖だということもあるようだが、左義長に興味を惹いたこともあると説明板に書かれている。どんど焼のことである。群馬では古くから続く正月行事だが、海辺に近い大磯にもこうした行事があるというのは、新鮮な驚きである。藤村の生まれた木曽路にもありそうな行事だが、確かめてはいない。相当な昔訪ねた馬籠、妻籠あたりを再訪しても良いと思った。
 大磯から近い、平塚の駅近くに天然温泉があるということを調べてあった。ゆっくり湯に浸かり家路につくというのが、元旦日帰り旅行のいつものパターンである。「古代の湯」という名前が面白い。相当古い地層から汲み上げられている。掘り当てた人の執念も凄い。平成になってからの温泉源の発掘だったらしい。先ほどの浜辺の珍事の疲れも取れたような気がした。


同じカテゴリー(旅行記)の記事画像
上野界隈散策(2017年10月)
九州北岸を行く(平戸、武雄温泉編・2017年8月)
九州北岸を行く(唐津編)
春めくや人様々の伊勢参り(2017年4月)
東京の桜(2017年3月)
三十年後の伊豆下田(2017年3月)
同じカテゴリー(旅行記)の記事
 上野界隈散策(2017年10月) (2017-10-20 11:16)
 この母にこの子あり(2017年9月) (2017-09-12 17:44)
 九州北岸を行く(平戸、武雄温泉編・2017年8月) (2017-08-26 09:04)
 九州北岸を行く(唐津編) (2017-08-25 17:19)
 春めくや人様々の伊勢参り(2017年4月) (2017-04-04 17:56)
 東京の桜(2017年3月) (2017-03-27 16:36)

Posted by okina-ogi at 08:52│Comments(0)旅行記
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
元旦の大磯(2014年1月)
    コメント(0)