☆☆☆荻原悦雄のフェイスブックはこちらをクリック。旅行記、書評を書き綴っています。☆☆☆

2014年01月06日

『侘助』(拙著)鹿島立ち(上)

鹿島立ち
 平成二三年の元旦の旅は、近くて遠い地となった。今年で、元旦旅行は、十年連続となるが、当初は初詣が目的ではなかったが、ここ数年は、気づいてみれば寺社詣になっている。日本人は、神社などには不思議とお祭りや祝い事でもなければ足を運ばない。スポーツの戦勝祈願や合格祈願という場合もあるが、普段はひっそりとしている。それでいて、小さな神社も含めれば、全国各地に数多く点在している。長い間維持されてきているのだから、日本人にとって大切な存在だということくらいは分る。
 『侘助』(拙著)鹿島立ち(上)

 鹿島神宮は、一度は参拝したいと思っていた。芭蕉の鹿島紀行が頭の片隅にあったからだ。この神社は、利根川河口に近い、茨城県鹿嶋市にある。群馬の高崎市からだと鉄道もあるのだが、近くて遠い感じがする。新幹線の開通と無関係ではない。最近の旅は、距離と時間が必ずしも比例していない。今回は、JRの日暮里駅から近接する京成電鉄で成田まで行き、JR成田駅から終点の鹿島神宮駅を目指すことになった。往路、普通列車を乗り継いだら五時間近くもかかってしまった。銚子に宿をとっていたので、下総の一宮である香取神宮との元旦ダブル参拝と考えていたが、不可能になってしまった。
 鹿島神宮の祭神は、建御雷神(たけみかづちのかみ)である。この神様は、神話では大国主命(おおくにぬしのみこと)と外交交渉により、国譲りを成し遂げたとされている。その時、持参したのが十握剣(とつかのつるぎ)であり、その剣を波の打ち寄せる浜に突き立てて、その前に座り大国主命と談判した。長刀であり直刀であったとされる。我が国最古のものとされ、鹿島神宮に奉納された刀が残っている。今から一三〇〇年前に造られたものとされる。国宝である。レプリカであるが、鹿島神宮の宝物館で展示されている。
 『侘助』(拙著)鹿島立ち(上)

 大国主命も出雲を中心とした中国地方を治め、相当な勢力を持っていたが、最終的には武力で決着しようと考えなかったが、何度も天津神(あまつかみ)の使者の要請を断っていた。しかし、今回は建御雷神の迫力に、国を譲ることにした。ただ息子たちに意見は聞いた。兄である事代主神(ことしろぬしのかみ)は納得したが、弟の建御名方神(たてみなかたのかみ)は、反対し戦いを挑んだが敗れ、諏訪湖まで逃げて降参したとされる。諏訪大社の祭神になっている。ちなみに、大国主命は大黒様、事代主神は恵比寿様として七福神の一員として後世人々に慕われている。
 大国主命は、政権を譲った代わりに、全国の神々を治める権限を得た。その拠点が出雲大社である。十一月は、全国の神様が出雲に集まることから、神無月と呼ばれるようになった。大国主命という神話の神様には、最近夙に親しみを感じている。三十年来の友人で赤間神宮の神官である青田さんが『真情』誌の「古事記問答」でわかりやすい解説を書いている。兄弟神に殺され蘇生したり、須佐之男命(すさおののみこと)から試練を受けたりして、人生逆境と苦難の連続にも関わらず、「因幡の白兎」の話のように優しさを失っていない。年を重ね少し太ってしまったが笑みを浮かべている。ちょっとした女性好きの性癖は、許容の範囲といっておこう。人が嫌がることでも引き受けられるなんとも慈愛に満ちた神様である。
 剣は武力の象徴なのかもしれないが、交渉する者同士の人徳や品格、見識が争いを治めることができることをこの神話は教えている。神話の時代にあって外交交渉に鍔迫り合いはあったが全面戦争を回避できたという故事になっている。この時、建御雷神に同行したのが経津主大神(ふつぬしのおおかみ)で香取神宮の祭神になっている。この神様も天津神である。初詣に二か所の神社を選んだのは、両社が関係深いからであり、しかも距離が離れていないからである。蛇足とは思うが、明治以前、神宮と呼ばれていたのは、この二社と伊勢神宮だけである。このことは、創建が古いという事と皇室とのゆかりがあるということを意味している。

 伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美(いざなみ)の二神は、国生みをしたり、とうてい生物界の存在のようにしては描かれていない。伊邪那美が火の神を生み、その火傷がもとで死に、黄泉の国に行くことになるのだが、この生みの苦しみ中で嘔吐したり、小便をしたり、大便をした時に神様が生まれたという表現は、何を意味しているのかと不思議でならなかったが、「母なる大地の変動だと解釈すればよい」という故人となられているが、元鹿島神宮の宮司東実(とうみのる)氏の見解には納得いくものがある。ちなみに、建御雷神の出生のありさまは、火の神を伊邪那岐が刀で怒りのために切り殺し、その血が流れて生まれたと書かれている。これは、火山噴火による溶岩流を想像させる。浅間山も富士山も活火山である。そういえば、関東には浅間神社という名の神社が多い。ただし浅間(せんげん)神社と呼ぶ場合が多いような気がする。我が家から数百メートル離れた場所にある神社がそうである。


同じカテゴリー(旅行記)の記事画像
上野界隈散策(2017年10月)
九州北岸を行く(平戸、武雄温泉編・2017年8月)
九州北岸を行く(唐津編)
春めくや人様々の伊勢参り(2017年4月)
東京の桜(2017年3月)
三十年後の伊豆下田(2017年3月)
同じカテゴリー(旅行記)の記事
 上野界隈散策(2017年10月) (2017-10-20 11:16)
 この母にこの子あり(2017年9月) (2017-09-12 17:44)
 九州北岸を行く(平戸、武雄温泉編・2017年8月) (2017-08-26 09:04)
 九州北岸を行く(唐津編) (2017-08-25 17:19)
 春めくや人様々の伊勢参り(2017年4月) (2017-04-04 17:56)
 東京の桜(2017年3月) (2017-03-27 16:36)

Posted by okina-ogi at 09:14│Comments(0)旅行記
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
『侘助』(拙著)鹿島立ち(上)
    コメント(0)