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2014年01月08日

『侘助』(拙著)伊東忠太という人

伊東忠太という人
 明治になって、西洋文化が日本に浸透していったが、建築もしかりである。初めは、外国人居留地になった、港の周辺に瀟洒な西洋館が建ち、今も函館や横浜、神戸などの地に歴史的建造物として、数は多くないが残っている。日本人が、専門的に西洋建築を学び、建築した建物は関東大震災や東京空襲に遭遇したが、今も東京の近代ビル群の中にひっそり残ったりしている。そうした建物をじっくり見てみるのも面白いと思った。
 明治から昭和にかけての建築家に、伊東忠太という人物がいる。慶応三年(一八六七)に山形県米沢に生まれ、東京帝国大学の工学部を卒業し、日本で建築家としては最初の文化勲章を受けている。夏目漱石と同年の生まれである。その名は、薄っすらと意識したことはあったが立ち入って知ろうとする機会はなかった。数年前、大阪の御堂筋界隈を散策した時、北御堂に立ち寄り、大谷探検隊で知られる大谷光瑞が神戸に建てた二楽荘のことを知った。設計者が伊東忠太である。この建物は、現存していないが華麗な建物であったらしい。
 『侘助』(拙著)伊東忠太という人

 築地市場に近い場所に、築地本願寺がある。設計したのは伊東忠太である。昭和九年に竣工している。戦災に遭わなかったのは、近くに聖路加病院があったからであろう。米軍は、聖路加病院を空襲の対象から外していた。進駐後の医療の拠点にしようと考えたのかも知れない。地下鉄の築地駅からごく近く、建物はインド風の外観をしている。石段を登り、建物に入ると結婚式が行われている。香が炊いてあって、仏式の結婚式の体験がないので、違和感はあるが厳粛な感じはある。一階に下りる階段には、動物が置かれている。建築の装飾に動物を配置するのは、伊東忠太の特徴であるらしい。象、牛、鳩、馬、どれも微笑ましい姿をしている。神社建築も多く、平安神宮、明治神宮、郷土米沢の上杉神社も彼の作品だが、新潟の弥彦神社は、建築はもちろん狛犬も伊東忠太のデザインである。
 
 この日は、東京国立博物館で開催されている平山郁夫展を鑑賞するのが目的だったが、築地本願寺と大倉集古館という伊東忠太の建築も見てみようと、いつもの職場の美術愛好メンバーに許可をとってコースに加えたのである。最初の案では、美術見学を最初にして、築地は最後にするつもりだった。新鮮な魚介類の買い物ができると思ったからである。逆になったため、築地場外市場の店で、上等な寿司を昼食にすることができた。平山郁夫展も閉館に近かったためか来館客も比較的少なく、同行者には満足してもらえた。
 築地という地名の由来だが、埋立地からきているという。江戸時代から沿岸を埋めて陸地を拡張していたのである。築地は地を突き固めた土地という意味なのである。重機のなかった時代だから、人海戦術で大変な労力を要したであろう。築地はまた、日本海軍と深く関わっている土地でもある。明治の初めに、海軍の兵学寮ができ、海軍士官、将官を養成し、日清日露の大戦を戦ったのである。後に、兵学寮は、海軍兵学校と名称を変え、広島の江田島に移った。絵画鑑賞の人達には、無関係なことで、余談として記したまでである。
 『侘助』(拙著)伊東忠太という人

 昼食後、場外市場にあるテリー伊藤の兄が経営する卵焼きの店などを見て、地下鉄で大倉集古館に向かう。神谷町で降りて、ホテルオークラをめざす。このあたりは丘陵地になっていて坂が多い。霊南坂はホテルオークラからアメリカ大使館脇に向かって下る代表的な坂である。大倉集古館は、ホテルの玄関前の一角に建っている。こちらは中国風建築様式である。二階に上がる階段に動物の姿があった。蛙である。大倉集古館は、美術館になっていて、横山大観や下村観山、川合玉堂などの日本画の大家の作品が展示されている。西郷隆盛と勝海舟の書が並んで掛けられていた。古美術品もあって、展示されているのは一部である。
これらを蒐集したのは大倉喜八郎である。彼は、明治、大正の実業家として巨額の財を成した。いわゆる政商で、武器商人という一面もあるが、公共事業や教育事業に私財を投じて社会貢献もしている。新潟新発田の名主の子として生まれたが、江戸に出て、鰹節店の奉公人から財閥を築いた才覚は、驚きである。
『侘助』(拙著)伊東忠太という人

 伊藤忠太の設計した大倉集古館であるが、建物の外観はシンプルに見えたが、内部の意匠は、建築の門外漢にも趣向を凝らしていることが感じ取れた。二階にはテラスもある。今では、近代ビル群の谷間にあるように建っているが、建築当時は威容を誇っていたであろう。伊東忠太という人は、八七歳という長命であったが、精力的に仕事や研究に実績を残した。今も論争になっているようだが、法隆寺の柱とギリシャのエンタシスとの関係に言及したことは有名である。それを実証するための調査旅行もしている。建築の中に登場する動物だが、幼いころから妖怪の存在を信じていたらしく、数多いスケッチを残している。「ゲゲゲの鬼太郎」の水木しげるも彼の存在を知っているのだろか。妖怪博士という称号を贈っても良いかもしれない。平山郁夫画伯の絵画展のことがすっかり希薄になってしまった。


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Posted by okina-ogi at 11:58│Comments(0)旅行記
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