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2014年08月14日

山本五十六記念館訪問記

山本五十六は、明治十七年に生まれた。父は貞吉、母は峯である。山本五十六の名は、父貞吉五十六歳の時の子であることに由来する。父貞吉は養子として高野家を継いだので、山本五十六は、高野五十六として生まれた。
貞吉は高野家の娘峯の姉である美保、美佐とも婚姻し、美佐との間にも子供をもうけている。そのため、美佐との間に生まれた長男は、五十六の甥でありながらも八歳も年長であった。この時代、家の相続が重要であり、こうした今からすれば不思議な姻戚関係が生まれたのである。
山本五十六の生家は、長岡駅に近い。古びた生家は、保存されていて、敷地は公園になっている。軍服姿の胸像は黒く重厚な雰囲気があり、生家を見つめているようである。台座もりっぱで人の背丈を越える高さがある。背後には四本のヒマラヤスギが植えられている。山本五十六記念公園から歩いて数分の場所に、平成十一年に開館した山本五十六記念館がある。一見すると民家のように見える。
会館に入ると中央に置かれた翼の残骸がまず眼に写る。ブーゲンビル島で撃墜された一式陸攻の翼である。日の丸は褪せているが、その朱は色を失っていない。搭乗していた山本長官の座席も展示されている。はるか南洋の島からこの地に運んできた山本記念館設立の委員の想いが伝わってくる。
近代戦争にあって、一国の海軍の最高司令官が戦場において死ぬということはまずもってない。イギリスのネルソン提督が、スペインの無敵艦隊との戦い中で死に、英雄となった時代とは違う。思えば、あれほど戦争に反対した山本五十六は、いざ開戦になったとき、一切は武人にもどり、生きて帰ることはないと覚悟していたふしがある。このあたりは、河井継之助の心境と同じである。
山本五十六の揮毫した掛軸があり、その書は見事である。
国雖大好戦必亡 天下雖安亡戦必危
中国の兵法書からとっている。大意は
「大国であっても力が強くそのいきおいにつられて、好んで戦争することは、国家の滅亡につながる。一方、平和の中に安住していても、国が危ういときは国を救おうとする気概がなければこれもまた国家の滅亡にいたる」
人類はいつも戦う宿命にあるということを言っているのではない。言葉を変えれば、人生順調にいっているときは過信せず謙虚になれ。また平穏な日々にも命がけで生きようとする気概をもっておけ。という意味にとった。〝常在戦場〟まさしく長岡藩の家風である。また隣には、明治天皇の御製を書にして
ときおそきたがいはあれど貫かぬ 
こと無きものは誠なりけり 
と書き記している。
「誠」という言葉ほど日本人をひきつける言葉はない。ただこれほど実行し難きものもない。明治天皇の御製で誠について詠んだものに
目に見えぬ神にむかいて恥ざるは 人の心の誠なりけり
武士の世では「忠」という言葉が「誠」を表していたと言っても良いが、封建時代でなければ成立しないかもしれない。四民平等、民主主義の時代になると、忠義を何に向って果たすかの対象がはっきりしない。むしろ主が自分になっているのが現代である。
高野家は、古くから儒者の家系である。儒教の始祖孔子は、目上を敬い、父母に仕えその愛を尊ぶことを教えた。近年になって自我や、自己が確立すると「誠」をつくすべき対象は何かということになる。ともあれ、山本五十六という人は誠という言葉が好きで、それを生涯かけて実行した人に思える。
長男義正氏の『父山本五十六』を記念館で買って読む。通読して思う事はただ一つ
〝優しい〟人だなあということである。
〝黒い手帳〟という章がある。毎朝父五十六は一人ぼんやりと時を過ごすことがあった。黒い手帳をめくっていたのである。そこには亡き部下のことがしるされていて、郷里の住所まで書かれている。部下のことをこれほど想うリーダーはまれである。病床を見舞い、時には墓前や遺族の前で涙する山本五十六のことを息子義正氏は綴っている。軍の最高司令官のこの優しさはどこからくるのか。
山本五十六は、日露戦争に従軍する。日本海海戦のとき軍艦日進の伝令役となった。二十二歳の少尉候補生で、日進は殿(しんがり)軍艦のため敵弾を集中的に浴びた。日進の艦橋で炸裂した砲弾の破片により、左手の人差し指と中指を失った。加えて右腿の肉を赤ん坊の頭ほどえぐりとられた。生死にかかわる重傷であった。もし左手の指をもう一本失っていれば軍にとどまることはできなかった。〝廃兵〟という屈辱的な身分となり現役を去らなければならなかったのである。療養中にも左手の傷口から入った黴菌のため腕を切断する危機もあった。
この体験が、山本五十六の人格形成におおいに影響を与えたとみて良い。
「天は我に新しい生命を授け、軍人としてもう一度国のために尽力するように命じられた」という自覚を持った。「死」は天命であると。
部下には妻が寡婦になることを考え結婚を勧めなかった山本五十六は、三十代半ばにして結婚する。妻になった人は三橋礼子といって会津藩士の娘であった。このとき、山本は、自分の体の事を包み隠さず身上書をもって親族や見合いの相手に伝えたという。礼子が後年息子に語ったことは
「あの人は自分の欠点ばかり書いて長所らしい点は何も書いていなかった」ということである。
肉体に負った傷の他に山本五十六には心の傷があった。山本五十六と長兄の間には三十二歳の年齢差があった。長兄譲の子、甥力(ちから)は五十六よりも十歳の年長であった。大変な秀才で未来を嘱望されていたが、二十四歳で夭折する。父貞吉は力に高野家の再興をかけていたのである。
貞吉の落胆は大きく十四歳であった五十六少年に向って
「おまえは高野家にとってどうでもいい存在だ。力に替わっておまえが死んでくれたらよかった」
この言葉は生涯山本五十六の心に深く刺さってとれなかった。心と体に大きな傷を持ちそれを自分の十字架として負ったことが山本五十六の心の優しさと無縁ではなかったであろう。彼は三十になった頃、姓を高野から山本に改めた。長岡藩で家老職を務めていた山本家を継いだ。養父は山本帯刀である。北越戦争では河井継之助の率いる軍の大隊長となった人であるが、捕らえられ斬首された。二十四歳であった。その人物を知った政府軍には助命しようという声もあったが
「藩主は自分に降伏せよとは言わなかった」
としてそれを拒んだ。市内長興寺に山本五十六の墓と並んで眠っている。
山本家も高野家も儒者の家柄であった。「誠」「忠」は武人の目指す気高い心ではあるが、山本五十六には庶民的な気さくさと人間臭さがあった。情にもろいことは悪いことではない。また数学が得意で合理主義のところもあり、近代海戦に航空兵力の価値を見出し、実戦して見せた人である。
米英と戦うべからずと三国同盟に反対した山本五十六を右翼の人間がその弱腰を批判した時
「大和魂は不敗だというが、アメリカにはアメリカ魂がある。それにアメリカの煙突の数は日本と比べものにならない」
といって追い返したことがある。
教条主義、観念主義、全体主義、絶対価値論者、学者肌こうした言葉と無縁なのが山本五十六であると思う。そして良きリーダーの典型ではなかろうか。山本五十六連合艦隊司令長官の下で戦った人々は幸せだったかもしれない。
「やってみせ、させてみて、言って聞かせ、褒めてやらねば人は動かじ」
陣頭指揮、思いやり、豊富な知識。あまりにも有名な言葉である。最後は南洋の島ブーゲンビル島の上空で死んで見せたのである。こうしたリーダーのためなら死んでもよいというのが部下の心理である。ただ地位や権限で強制し、自分は常に後方で指揮をとるようなリーダーには心の底から部下は身を任せるようなことはない。
長岡の街は、雄大な信濃川が流れ、良寛や貞心尼のゆかりの史跡があったり、与謝野鉄幹、晶子夫妻が愛した自然豊かな地であるが、今回の旅ではあまりにも山本五十六元帥への意識が大きかった。
長岡の夏の花火は有名である。一週間後の八月二日と三日がその日である。その日は自分の誕生日でもある。いつかその日に訪ねることがあるかもしれない。その時は、今回果たせなかった元帥の墓前に花束を手向けたいと思っている。


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