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2015年05月09日

山本宣治の碑



 別所温泉の案内図を見ていたら山本宣治の碑があることを知った。何でここにあるのかというのが第一印象である。山本宣治の名前は、ほとんど忘れかけているに近い。遠い過去の記憶がある。その映画の名前さえ覚えていないが、学生時代に観たのだが、山本宣治が登場していた。それよりも小林多喜二の死が痛々しかった。昭和の初期の思想弾圧を描いた作品だったのだろう。
 安楽寺の国宝の塔を見た帰りに、案内の標識を頼りに捜すとこの碑の前に出た。碑は一つだけではない。その説明も書かれている。山本宣治が東京で右翼団体の一員に刺殺される前に、上田に来て多くの農民の前で演説をしている。昭和四年三月一日のことである。山本宣治は、第一回の普通選挙で当選した。労農党からの出馬であった。しかし、この頃共産党との繋がりを持つようになっており、彼を上田に招いたのは、高倉輝であった。彼の碑も並んで建っている。彼は、共産党員であった。


 山本宣治は、京都の宇治の料理旅館の息子で、両親は熱心なクリスチャンであった。同志社にも入学している。その後、東京帝国大学、京都帝国大学で学び、生物学者になった。当初は、キリスト教社会主義者に近く、安倍磯雄との交流もあった。彼も同志社ゆかりの人物である。山本宣治が、演説の中で残した言葉がある。
「山宣ひとり孤塁を守る。だが私は淋しくない。背後には大衆が支持しているから」
戦前の悪法と言われる治安維持法に真っ向から反対したが、彼が暗殺された日に成立し、その後多くの共産党員が検挙された。この法律で思い出すのは、佐久総合病院の院長だった若月俊一である。労働災害の調査活動がこの法律に抵触したという理由で拘留されたことがあった。戦後、佐久病院に赴任し、予防医学に力を入れ、農村医療を確立し、全国から注目された。都落ちではあったが、今日の長野県の医療は、若月俊一の功績に恩恵を受けている。
 戦後は、言論の自由や思想、宗教の自由は憲法で保障されているが、少数意見は、無視されがちなのは変わりはない。山本宣治の政治行動は過激でもなくみえるが、当時の国家権力には大衆を扇動する危険人物と写っていたのかもしれないが、自分の中に生まれた良心を無視することができなかったというふうに感じるのである。同志社設立者である新島襄の教えも少なからず山本宣治(山宣)に影響しているのだろう。
 

 別所温泉の安楽寺近くにあった山本宣治の碑にはラテン語で書かれ、その意味は
「生命は短い、科学は長し」
である。山本宣治の死後、有志が建立したが、官憲から粉砕撤去するよう命令される。碑の文字を揮豪した高倉輝は、検挙され、その借地にしていた場所にあったので、地主であった斎藤房雄という人が、機転を利かし、現在でも別所温泉で旅館業を営んでいる柏屋別荘の敷地に埋めて、当局には処分したと報告したのだという。それから三八年後の一九七一年にこの地に再び建立されだという数奇な歴史がある。山本宣治の碑については、別所温泉訪問の余話のようなものである。


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