2015年07月15日
『我が人生に茜さす』 笠原浩一郎著 日本図書刊行会 1700円+税
7月14日、帰宅するとポストに小包が届いていた。差出人の名前を見ると、笠原浩一郎とある。中身は、ご自身の著書である。笠原先生は、今も開業した診療所で現役の医師である。1933年のお生まれだから、82歳になられる。
群馬大学医学部を卒業し、ドイツに留学した経験のある笠原先生は、1982年から10年近く榛名荘病院の院長をされたことがあった。そのときに面識ができ、年賀状のやりとりなどさせていただいた。拙著をお送りしたこともあり、医師会誌などに掲載された文章を送っていただき拝見したことがあった。今回出版した、本の中にはその文章も綴られている。
夕食後、本を開くと紀行文が目に留まった。国内旅の自分と違って、先生は海外が多い。それも、アフリカや、中国の西域といった場所に行かれているのには驚いた。それも、先生の類まれなる好奇心による。3人の息子さんがいらして、医学の道に進んでいるというのも驚きである。アフリカは、息子さんが赴任していたからの訪問であり、北アフリカでは、カルタゴの遺跡も訪ねられている。サンテグジュペリの星の王子様も引用されての紀行文は興味深かった。中国の沙漠の旅は、先生が仏教を信仰されていることと無縁ではない。漢詩の素養もおありで、仏教伝来を描いた、平山郁夫の薬師寺の壁画を思い浮かべながら読んだ。
ドイツ留学時代の、思い出の記も貴重な人生の体験だったことがわかる。このとき親交のあった人々は、皆一級の知識人だったこともあり、笠原先生の人生を豊かにしている。女優左幸子や作家山崎豊子の通訳を務めたというのは貴重な体験だったに違いない。うらやましいのは、本物の音楽や、絵画といった芸術作品に触れる機会があったことである。
加えて、洋画、邦画ともに詳しいことである。それは、叔父に笠原良三という脚本家がいたことと無関係ではないようだ。戦後の映画黄金期の脚本家で、今日世に知られる作品を書いた人である。
笠原先生のお人柄は、女性的ともいえるほど温厚だと思っていたが、戦時中に少年時代を過ごしているので、戦前と戦後の極端な思想の変化に懐疑心のようなものが残り、時の権力に迎合することに抵抗があるようだ。もちろん平和主義者、仏教の慈悲の心の深い方なのだが、真珠湾攻撃の時、母親の妹の夫が戦死したことが先生の心深くに刻まれていることも知った。
外国旅行は、今も続けられている。シアトルでは、イチローとマー君が出場した野球を観戦している。旅の多くは、夫婦同伴である。その奥様が、イチローが振り向いた時に「イチロー、イチロー、イチロー」とコールすると「イチローの上にコーをつけなさいよ」と御主人の注文に「それはジェラシーというものよ」という。おしどり夫婦というべきか、うらやましい限りである。蒸し暑い夜ではあったが、一気に読んでしまった。
Posted by okina-ogi at 16:07│Comments(0)
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