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2015年12月17日

大隅半島の旅(2015年12月)

 今年は暖冬なのか、師走になっても寒い日が続かない。数カ月前から計画していた鹿児島行きは、十二月半ばになった。日本の南端にあるだけに、さすがに暖かい。昼間は、コートいらずである。目指すは、鹿児島市からさらに南にある大隅半島である。この旅行を企画したのは、友人で、当初の計画では、鹿児島市から指宿まで鉄道で行き、フェリーで大隅半島に渡り、バスで鹿屋市に行くことになっていた。列車の車窓から錦江湾を眺めながら、船で海を渡るのも良い。海なし県の人間にとっては、海には憧れがある。
童謡「海」、「海は広いな大きいな。行ってみたいなよその国」の作詞者は、群馬県の人である。
 大隅半島にある鹿屋市には現在でも、海上自衛隊の基地がある。戦前もこの地に、海軍の航空基地があった。この基地から終戦近くになって特攻機が飛びたって行った。薩摩半島にある知覧基地からの特攻も知られているが、こちらは、陸軍による。特攻機の機数は、海軍の方が多かった。そのことは、意外と知られていない。いずれにしても、将来の日本を背負う、有為な青年が尊い命を犠牲にした。
 以前、知覧にある特攻平和記念館を訪ね、自分の中では特攻についての整理はできているつもりだったので、今回の旅のメインテーマにはなっていない。ただ、手記などが展示されていて改めて、慰霊の気持ちが高まったのも事実である。鹿屋航空基地資料館については、これ以上触れない。
 鹿児島市内には、以前から尊敬している人がいて、数年前お会いして知己を得た。厚生官僚から、大学で教鞭を執り、研究者の道に進んだ人である。その生きる姿勢に共感し、再度親交を深めたいと思っていたのである。前回お会いし、フェイスブックにより友人に加えていただいている。紀行文などを小冊子に纏め、友人知己に贈っていたが、ブログで掲載する方法も教えていただいた。大変な読書家で、退職後も思索を深められている。メールで鹿児島行きのことを送ると、我々の旅に同行してくださることになった。
 維新の偉人を多く出した、加治屋町に近いホテルで待ち合わせ、フェリーで垂水へ渡るコースとなった。鹿児島の港から垂水港までは四十分位で行ける。左手に櫻島が見える。角度を変えると、櫻島も円錐形に見える。晴れていて、近くにその雄姿を見ることができた。


 垂水市には、友人が訪ねてみたい理由があった。「軍艦行進曲」を作曲した瀬戸口藤吉の生地だったからである。垂水市のタクシーの運転手に案内してもらったが、公民館の垣根に看板があるだけであった。軍艦マーチは、すっかりパチンコ店のメロディーになった感があるが、友人には名曲として記憶されている。鹿児島市内にある「ふるさと偉人館」で、フェントンが作曲した「君が代」のメロディーにも痛く感心していた。共に軍楽隊が演奏する曲であった。軍隊と音楽には人並み以上の関心を持っている。戦争を鼓舞する手段と言うことではなく、明治以降の日本の音楽の歴史に軸を置いている。鹿児島の友人の配慮でもある。
 垂水市から鹿屋市へ向かう道は、しばし海岸線を走る。列車ではなく車での錦江湾の眺めになった。彼方に開聞岳が見える。街路樹を見ると南国に来たという感じがする。背の高い椰子や低いのがあって「ワシントン」、「フェニックス」は覚えたが、他のものは、失念した。赤い実をつけた木は、「クロガネモチ」で、ヒヨドリが好んで食べるのだと言う。運転手は、鳥に詳しい。幼い時、トリモチで野鳥を獲って遊んだらしい。この旅で、鳥の句をものにしようと思っていたが、肝心のヒヨドリが現われないのでは、句も創れない。
 

 鹿屋市にある海上自衛隊の航空基地資料館に立ち寄る。観光バスが何台も停まっていて平日であっても入場者は多い。多くの航空機が、資料館の周囲に置かれている。ひときわ目に付くのが飛行艇である。二式大型飛行艇として知られているが、日本にはこの一機しかないという。館内には、ゼロ戦があった。約一時間の見学だったが、友人からすれば、もっと時間をかけて見たかったかもしれない。
 次に向かったのは、肝付町である。島津氏に征服される前に肝付氏が治めていた土地である。鹿児島市在住の友人の奥様の実家があって、石高の高い由緒ある家柄の武家で立派な門がある。一昨年、老朽化が進んだ門を、昭和三十年代の写真を参考に修復した。その門と屋敷を見せていただいた。日高家は、江戸初期からこの地に屋敷を構えた。現在残る家に、西郷隆盛も立ち寄ったらしい。愛犬を連れて狩をし、温泉などで体を休めた後のことだったのだろう。歴史を感じる。
 武家門の施主の思いや冬の空
自費で改修した思いは、いかばかりかと想像して見た。門の上の冬空は青々としていていた。この門の前の通りを流鏑馬祭りの行列が通る。若武者の射手は中学生だという。日高家と同じような門を持つ家が、続いていて、歴史的景観が残されている。
 武家門を見学する前に、町の食堂で昼食になった。店の古さは、四、五十年前に立ち戻った感じがした。地元の人で空席がないほどである。メニューも多い。店のおすすめの「魚フライ定食」を注文。なんと三枚のフライが出てきた。他にサツマイモと野菜のてんぷらも付いている。キャベツの千切り、ポテトサラダと皿から溢れんばかりである。もちろん味噌汁つきである。値段が五百五十円というから驚く。タクシーの運転手も同席した。
 

 大隅半島は神話の地でもある。古事記や日本書紀を詳細に読んだことはないが、およその流れは、分かっているつもりである。肝付町にある神代三山稜の一つ吾平山上稜に案内してもらった。石橋を清掃している業者以外に参拝者はおらず、原生林に囲まれた神域の雰囲気は格別なものがあった。正月には多くの人々が訪れるらしい。神代三代は、天孫ニニギノ命から始まる。天照大神の孫にあたる。高千穂の山に降臨したと言われる。
ニニギノ命は大山祇神の娘コノハナサクヤ姫の間にヒコホホデミノ命をもうけ、その子がウガヤフキアエズノ命である。吾平山上稜は、この命の御稜ということになっている。明治になって政権が朝廷に移ると、神代三代の御稜を特定する必要に迫られた。政治的な目的もあったが、訪ねて見るとヒコホホデミノ命がお隠れになったといっても不思議ではない場所に感じる。御稜の前を流れる清流は、まるで伊勢神宮の五十鈴川のようである。
山形や福島、栃木などの県令や警視総監を歴任し「鬼県令」、「鬼総監」と恐れられた三島通庸も調査に加わった。三島通庸は、尊王思想の持ち主であったが、調査の中で熊襲の踊りを見た時、自分の中に流れる血と同じものを感じたと言う。熊襲は、時代が下って、景行天皇の御世にヤマトタケルノ命によって征伐されている。薩摩隼人の血は熊襲の血が流れているのかもしれない。鹿児島に戻り、夕食を共にすることになったが、友人が予約してくれた店は、熊襲亭であった。不思議な巡り会わせとなった。肝付町の芋焼酎「小鹿」も店に置いてあり、郷土料理のコースに満喫することができた。このような旅はなかなかできるものではない。


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