2017年01月24日
映画「沈黙」
遠藤周作の小説「沈黙」が映画化され封切りとなった。小説『沈黙』の中に、司祭が踏み絵を踏む場面があった。その部分を書き抜いてみる。
「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私は、お前たちにふまれるために、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつために十字架を背負ったのだ。こうして司祭が踏み絵に足をつけた時、朝がきた。鶏が遠くで鳴いた」
映画の中では、神父となっている。踏み絵を踏んだのは、棄教なのだが、信者の命を救う行為にもなっている。長崎奉行の井上政重は、実在の人物であるが、元キリシタンであった。神父が棄教すれば、信者も救われると考えていたので説得するのである。演じた役者も、名演だった。
その説得として、日本の土壌にキリスト教の苗木は育たないという言葉があった。日本も古来から、神道や仏教の信仰がある。そこにキリスト教が唯一の神を説くことを、時の権力は認めなかった。明治になって文明開化として西洋文化が入り、キリスト教の布教も許されるようになった。しかし、キリスト教徒の数は、ザビエル後の布教による信徒の数とかけ離れて多くなっていない。
なぜなのか。歴史と風土ではないかと思っている。一神教ということに、日本の土壌は合わないと言った長崎奉行も思っていたかもしれない。
「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私は、お前たちにふまれるために、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつために十字架を背負ったのだ。こうして司祭が踏み絵に足をつけた時、朝がきた。鶏が遠くで鳴いた」
映画の中では、神父となっている。踏み絵を踏んだのは、棄教なのだが、信者の命を救う行為にもなっている。長崎奉行の井上政重は、実在の人物であるが、元キリシタンであった。神父が棄教すれば、信者も救われると考えていたので説得するのである。演じた役者も、名演だった。
その説得として、日本の土壌にキリスト教の苗木は育たないという言葉があった。日本も古来から、神道や仏教の信仰がある。そこにキリスト教が唯一の神を説くことを、時の権力は認めなかった。明治になって文明開化として西洋文化が入り、キリスト教の布教も許されるようになった。しかし、キリスト教徒の数は、ザビエル後の布教による信徒の数とかけ離れて多くなっていない。
なぜなのか。歴史と風土ではないかと思っている。一神教ということに、日本の土壌は合わないと言った長崎奉行も思っていたかもしれない。
Posted by okina-ogi at 16:21│Comments(0)
│日常・雑感