2017年08月26日
九州北岸を行く(平戸、武雄温泉編・2017年8月)
唐津からJR九州で平戸に向かう。宿泊はしないが、二日目の目的地である。長崎と平戸は、同県であるが共鳴する響きがある。キリスト教と南蛮貿易である。九州北岸を行くとしたタイトルは、福岡から唐津、伊万里、松浦、平戸への移動を意識している。最初の予定では、帰路も伊万里に戻り武雄温泉駅に行くコースになっていたのである。伊万里からたびら平戸口までは、JRではなく、松浦鉄道になっている。元々は、JRであったが、第三セクターの経営になっている。JRの民営化になって、不採算路線は、こうした形で残っているケースが多い。松浦鉄道は、佐世保と有田間を運行している。
途中通過した松浦は、漁業が盛んだが、古くは、松浦水軍が拠点を置いていた。平戸の藩主も松浦氏である。その系図は詳しくは知らない。
たびら平戸口は、日本西端の駅である。小さな駅である。乗車券をワンマンカーの運転手に渡し、改札口を抜けると売店の前の長椅子に猫が寝ていた。この猫は帰りにも同じ場所から動かないでいた。平戸は島であって、平戸桟橋を路線バスで渡った。市街地までは橋を渡りそれほど遠くない。平戸で最初に訪ねたのは、フランシスコ・ザビエル記念聖堂である。寺院と教会の見える観光スポットがある。本当にこの坂からは、お寺と教会が重なって見える。ザビエルは、鹿児島に上陸し、山口や京都へ布教に行くが、平戸も三度訪ねている。藩主が、ポルトガルとの貿易に前向きだったことと無関係ではない。藩主松浦氏は、自らキリシタン大名には、ならなかったがキリスト教の布教は許した。多くの宣教師が伝道活動をして信者も全島に広がっていった。隠れキリシタンの歴史を経て、今も教会があり信者がいる。カソリック教徒が多い。
やがて、貿易の相手は、オランダに移っていく。近年になって、オランダ商館が復元され、建物が港の海べりに建っている。この白亜の洋館は、当時の平戸の人を驚かせたに違いない。島原の乱などがあり、キリスト教の布教に熱心なポルトガルは去り、オランダは、平戸を去り長崎の出島で貿易を許された。短い、平戸滞在であったが、オランダ通りという町並みで、ちゃんぽんをご馳走になった。イギリス人、ウイリアムアダムス(三浦按人)や吉田松陰ゆかりの地は訪ねられなかったが、松浦資料館で鄭成功が紹介されていた。近松の浄瑠璃にもなった国姓爺は、平戸の生まれである。たびら平戸口に戻り、佐世保経由で二日目の宿、武雄温泉を目指す。
武雄温泉に宿をとったのは、有田焼で知られる有田の町に近いからである。佐世保線の駅だが特急が停まる。ホテルにチェックインし、共同浴場に向かう。ここには、唐津出身の明治大正の建築家辰野金吾が設計した楼門がある。門をくぐると何種類からの共同浴場があって、元湯に入ることにした。入湯料は四百円だが、翌朝ホテルから三百円の優待券があることを知った。湯の温度は高いが、源泉の温度を下げ、入り分け出来るよう
に湯船が区切られている。二回目の朝風呂は、長湯ができた。
日の出ともに早起きをして、再度元湯に入るために街を散策する。ホテルと元湯と正三角形の(?)一画の距離に武雄神社がある。歩いて十五分ほどである。神社を参拝するのが目的ではなく。神社の裏山に樹齢三千年の御神木がある。これは見るべき価値があると思ったのである。何せ紀元前からの樹木である。有史より古い生命体である。楠である。本殿の横の鳥居くぐり、よく整備された通路を行く。道の脇には紅葉が植わり、やがて竹林と杉林があり、その先に広々とした場所があって、ご神体は一部の幹は朽ちているが、朝日を浴びて聳えていた。木の近くまでは寄ることができない。神々しいとは、こういう雰囲気を言うのだと思った。神が宿っていても不思議ではない。ザビエル先生に感想を求めたら、無神論者と言われるに違いない。この旅の圧巻だったかもしれない。有田焼のことは、語るに及ばず、贅沢な客用皿として家に宅急便で送ることにした。もちろんお土産も含んでいる。元々陶器への趣味もない。生活用品として使えれば良いのである。有田は、秀吉の朝鮮出兵がらみの訪問である。
途中通過した松浦は、漁業が盛んだが、古くは、松浦水軍が拠点を置いていた。平戸の藩主も松浦氏である。その系図は詳しくは知らない。
たびら平戸口は、日本西端の駅である。小さな駅である。乗車券をワンマンカーの運転手に渡し、改札口を抜けると売店の前の長椅子に猫が寝ていた。この猫は帰りにも同じ場所から動かないでいた。平戸は島であって、平戸桟橋を路線バスで渡った。市街地までは橋を渡りそれほど遠くない。平戸で最初に訪ねたのは、フランシスコ・ザビエル記念聖堂である。寺院と教会の見える観光スポットがある。本当にこの坂からは、お寺と教会が重なって見える。ザビエルは、鹿児島に上陸し、山口や京都へ布教に行くが、平戸も三度訪ねている。藩主が、ポルトガルとの貿易に前向きだったことと無関係ではない。藩主松浦氏は、自らキリシタン大名には、ならなかったがキリスト教の布教は許した。多くの宣教師が伝道活動をして信者も全島に広がっていった。隠れキリシタンの歴史を経て、今も教会があり信者がいる。カソリック教徒が多い。
やがて、貿易の相手は、オランダに移っていく。近年になって、オランダ商館が復元され、建物が港の海べりに建っている。この白亜の洋館は、当時の平戸の人を驚かせたに違いない。島原の乱などがあり、キリスト教の布教に熱心なポルトガルは去り、オランダは、平戸を去り長崎の出島で貿易を許された。短い、平戸滞在であったが、オランダ通りという町並みで、ちゃんぽんをご馳走になった。イギリス人、ウイリアムアダムス(三浦按人)や吉田松陰ゆかりの地は訪ねられなかったが、松浦資料館で鄭成功が紹介されていた。近松の浄瑠璃にもなった国姓爺は、平戸の生まれである。たびら平戸口に戻り、佐世保経由で二日目の宿、武雄温泉を目指す。
武雄温泉に宿をとったのは、有田焼で知られる有田の町に近いからである。佐世保線の駅だが特急が停まる。ホテルにチェックインし、共同浴場に向かう。ここには、唐津出身の明治大正の建築家辰野金吾が設計した楼門がある。門をくぐると何種類からの共同浴場があって、元湯に入ることにした。入湯料は四百円だが、翌朝ホテルから三百円の優待券があることを知った。湯の温度は高いが、源泉の温度を下げ、入り分け出来るよう
に湯船が区切られている。二回目の朝風呂は、長湯ができた。
日の出ともに早起きをして、再度元湯に入るために街を散策する。ホテルと元湯と正三角形の(?)一画の距離に武雄神社がある。歩いて十五分ほどである。神社を参拝するのが目的ではなく。神社の裏山に樹齢三千年の御神木がある。これは見るべき価値があると思ったのである。何せ紀元前からの樹木である。有史より古い生命体である。楠である。本殿の横の鳥居くぐり、よく整備された通路を行く。道の脇には紅葉が植わり、やがて竹林と杉林があり、その先に広々とした場所があって、ご神体は一部の幹は朽ちているが、朝日を浴びて聳えていた。木の近くまでは寄ることができない。神々しいとは、こういう雰囲気を言うのだと思った。神が宿っていても不思議ではない。ザビエル先生に感想を求めたら、無神論者と言われるに違いない。この旅の圧巻だったかもしれない。有田焼のことは、語るに及ばず、贅沢な客用皿として家に宅急便で送ることにした。もちろんお土産も含んでいる。元々陶器への趣味もない。生活用品として使えれば良いのである。有田は、秀吉の朝鮮出兵がらみの訪問である。
Posted by okina-ogi at 09:04│Comments(0)
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