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2017年09月12日

この母にこの子あり(2017年9月)

 いつかはとは思いつつ、野口英世の生家を訪ねることができた。青春十八切符が一回分残り、思案していると猪苗代の広々とした田園と磐梯山が浮かんできた。野口英世にあこがれたというより、野口英世を生んだ風土への関心が強かったのである。同じことは、信州の安曇野にも言える。言葉では説明できないが何故か惹かれる土地なのである。野口英世は、偉人としての伝記が広く読まれている。千円札は野口英世の肖像が使われて久しい。その知名度は高い。上野の東京国立博物館に行く途中、森の中にある博士の像の前を良く通る。
 青春十八切符の有効期限の最終日、九月十日の天気は、快晴に近かった。信越本線の群馬八幡駅を六時三十三分に経ち、高崎で高崎線に乗り換え。高崎弁当の限定の「朝粥」を口にできたのは幸運である。朝七時の販売で直ぐに売れきれると言う幻の弁当とも言われている。大宮で乗り換え、東北本線で宇都宮へ。快速電車でそれほど時間はかからない。これからが大変である。宇都宮駅の乗り換え、黒磯駅の乗り換えは、慌しい。帰りは、帰宅時間も考え、郡山から大宮までは新幹線を利用することにした。郡山から目的地の猪苗代駅は磐越西線の会津行きである。沿線の風景は、磐梯熱海を過ぎ、猪苗代湖方面には、収穫が近い稲田が広がっている。休耕地には、蕎麦が植えられ白い花が見事である。会津磐梯山の雄姿が眼に入る。山の形が変わるほど大爆発が、野口英世が十一歳の時にあった。そんな活火山には見えない宝の山である。宝の山には、三説あるとタクシーの運転手さんから聴いたが、麓に広がる美田を生んでいることがふさわしいと思った。爆発によってもたらされた鉄資源もまんざら嘘ではないが、磐梯山と猪苗代湖に挟まれた田園地帯は、かけがえがないと思った。
 猪苗代の駅は小さく、駅前も簡素で商店街はない。数台タクシーが停まっているが、青春十八切符の旅のため、タクシーの利用には抵抗がある。バス停を覗くと、十分後の野口英世記念館行きのバスがあった。帰りの時間もわかったが、見学時間を考え、猪苗代駅に帰る手段はタクシーにすることにした。経費削減が全てではない。おかげで、「会津磐梯山は宝の山よ」の意味を教えてもらえたのだから。運賃は、野口英世が二枚で足りた。磐梯山と田園が移る場所に車を停めてもらい、薄も入れて撮影することができた。
 記念館の横に、野口英世の生家が保存されている。幼児の時に大火傷をした囲炉裏もあった。今にも囲炉裏に向おうとする清作の人形があった。床柱には、「志を得ざれば、再び此地を踏まず」が刻まれている。そして、記念館には母シカの手紙があった。このあたりが、『偉人野口英世』の記憶である。母親のシカは英世にとっては、慈母であり、
終生心の支えだったことは、知られている。記念館に『野口博士とその母』という本があった。野口シカ伝と言ってよい。美談が散りばめられ過ぎている感があるが、「野口英世にこの母あり」である。この母にこの子ありと言い換えてもよい。
 野口シカは、嘉永六年の生まれとある。黒船来航の年である。生まれて直ぐに、両親は家から出て、祖母に育てられたと書いてある。父母恋しい、淋しい幼年期を過ごしたのである。しかし、シカは、近所の人々が感心するほどの賢く、健気で勤勉な子供であった。八歳から家の貧しさを凌ぐために奉公に出ている。もちろん学校には行けず無学であった。後年、ひらがなを覚え、息子の帰国を嘆願した手紙は、名文として有名になった。
 二十歳の時、婿養子を迎え、野口英世を含み、三人の子供を生んだ。英世の姉が家を継いだが、貧農であった。野口英世の父親は、大酒のみで、仕事も好きではなかったと書いてあるだけで影が薄い。家の厄介者で、母親だけが野口英世を偉人たらしめたという書きぶりなのである。『野口シカ伝』だから仕方がないかもしれない。
 野口英世と言う人は、努力家で寸暇を惜しんで勉強したことにより、世界的な医学者になることができたのは事実である。明治から昭和にかけこうした人物が、子供たちの手本になる生き方として、教科書にも取り上げられた。戦後になっても、人類に貢献した野口英世の実績は変わらない。教科書で子供たちに知らされていない、野口英世の人間模様が、もう四半世紀前にもなるが、映画化された。「遠き落日」である。人から借りたお金を浪費する、堕落してもおかしくない野口英世が描かれている。まるで、父親譲りの性癖もあったのである。
 資料館に展示されていたが、野口英世の趣味は多く、将棋や囲碁には熱中したようだ。海外に長くいたのでチェスもできたらしい。浪花節も趣味だったと言うから驚く。油絵は画家に学び、素人離れしている。信仰心が強く、ひたすら息子の出世を願い、体にむちを打って家計を支えた母の血ではない。父親は、酒飲みではあったが、人の良い憎めない人物だったらしい。野口英世には、渡航する前に婚約した女性がいた。目的が渡航するための資金を工面するためだというから偉人らしくない。しかも、相手から婚約を破断するのを待ち、お金も返さなかったらしい。そのような面もあったが、つぎのような言葉は、この旅で彼に学んだことである。
「過去は変えることも出来ないし、変えようとも思わない。人生で変える事ができるのは、自分と未来だけだ」
「人の人生の幸せも、災いも自分が作るもの、周りの人間も、周りの状況も、自分が作り出した影と知るべきである」
後者には、説明が要る。野口英世の才能を愛し、援助した人物はかけがえのない人間である。小林栄、血脇守之助といった人物である。人類の幸福のために研究したことが美しいのである。


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Posted by okina-ogi at 17:44│Comments(0)旅行記
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