2017年10月20日
上野界隈散策(2017年10月)
日暮里駅の近く、谷中墓地に隣接するような場所に、彫刻家朝倉文夫の旧宅がある。数年前に保存修理が行われ一般に公開されている。昭和初期に増築が重ねられ完成した建物で、アトリエは鉄筋コンクリートの建物になっている。国の指定名勝になっており、国の登録有形文化財でもあり、台東区が「朝倉彫塑館」として管理している。入館して驚いたのは、建物や庭の隅々に朝倉文夫の芸術的空間が広がってことである。池のある中庭といい、それを取り巻く居室は和風建築であり、日本文化の伝統も流れ、アトリエや書斎は西洋風でそれが、違和感無く調和している。アトリエの上も和風建築になっていて、屋上は緑化のために、庭園と菜園になっている。都会の先駆的発想になっている。入館して、靴を入れる袋を渡された意味が了解できた。
朝倉文夫の代表作に「墓守」があるが、「大隈重信像」とともにアトリエに展示されていた。角界の著名人の像を多く製作したことでも知られている。滝廉太郎像は、同郷竹田の縁であろう。鹿児島に旅行した折、照国神社を訪ねたが、立派な礎石の上にあった島津斉彬像も朝倉の作品である。鳩山和夫夫妻の像も良く知られている。意外だったのは、晩年まで猫の彫刻に情熱を注いだということである。猫百態を目指したが、彼の死によって達成できなかった。家に猫を飼い、観察もしたが写真を撮って製作したという。
朝倉彫塑館を出て、団子坂の坂上にある森鴎外記念館を訪ねることにした。それほど遠い距離ではないが、上野近辺は坂道が多い。上野だけではなく、東京そのものが坂の多い都市なのだという。歩いてみるとそのことが良くわかる。三菱財閥の岩崎邸のあたりは、無縁坂がある。暗闇坂という坂まであるらしい。森鴎外邸は既に火災や戦災で焼失しており、面影を残すのは銀杏の木くらいである。森鴎外邸は、観潮楼と呼ばれ、2階建てで東京湾も見ることができたらしい。アララギ派の歌人や、石川啄木、与謝野鉄幹夫妻もこの家に会している。今は、近代的なコンクリート造りの記念館になっている。「慶応三年生まれの文人たち」という企画展で、鴎外ゆかりの文人が紹介されていた。夏目漱石、正岡子規、幸田露伴、尾崎紅葉といった作家たちである。「めさし草」という雑誌を鴎外が発行し、そこには、樋口一葉も寄稿していた。陸軍の要職も勤め、一方文壇にも影響力を持った鴎外の能力は群を抜いている。明治の生まれであるが、永井荷風も紹介されていた。東京散歩に、『断腸亭日乗』を携帯したのも、鴎外の記念館を訪ねることと無関係ではない。荷風は鴎外を尊敬していたし、影響も受けた。
鴎外邸のあったところは、千駄木で文京区になる。森鴎外記念館は、文京区立である。文豪漱石もこのあたりに住んでいたはずである。漱石が教鞭に立った第一高等学校は、東大農学部の場所にあった。歩いて通える距離である。そう思って、標識や観光地図を探していると、観潮楼跡と書かれた近くにあった。日本医科大学の近くである。たどり着いてみると、跡地の解説と、猫の像があるだけである。ここで『我輩は猫である』を書いたのか、あらすじなどを思い出してみるが、百年も経った景観に何の感慨も浮かんでこない。カメラに収め、足早に立ち去る。朝倉彫塑館といい、漱石居住跡といい、猫にご縁があった。
根津神社に立ち寄る。都会の緑の空間は貴重である。境内に入ると都会の喧騒と無縁である。木々の合間にビルが見えるが、許容の範囲である。東京十社の一つで、歴史も古い。徳川綱吉との関わりが書いてあったが、徳川家の保護があったということである。春になれば、つつじが咲き、多くの人が訪れる。森鴎外も夏目漱石も鑑賞したであろう。
今夕七時に鹿児島からの友人と会うことになっている。友人と言っても十歳以上年上である。大学の同窓会が明日あり、その前日にお会いしましょうという声かけがあった。「オフ会」というのだが、いわゆるフエースブックの友達の会である。主催者である鹿児島の友人を含め、四人の会食会である。二人は、当方にとっては初対面と言うことになる。鹿児島の友人の母校は東京大学である。キャンパスに入ったことは一度も無い。友人に敬意を表し、立ち寄ってみることにした。実に広い。緑も豊かである。安田講堂を初め、校舎の外観は古めかしい。それがかえって重厚感と伝統を感じさせる。関東大震災や、東京大空襲から被害に遭わなかった建物が多かった。この日も、古い校舎の修復工事が行われていた。加賀藩ゆかりの赤門も見た。高校生の観光客らしき団体がいた。この生徒の中に、入学生が生まれるかもしれないが、当方は試験で入ることはない。今回が、最初で最後になる可能性が大である。残念だったのは、安田講堂の中にある小杉未醒の壁画が見られなかったことである。二人のガードマンが入場する者を監視していたのである。
本郷三丁目の交差点を左折し、夕食会場に向かう。湯島天神の鳥居を過ぎ、山手線が眼に入る。御徒町駅前にある吉池食堂に着く。鮮魚を扱った店で、東京に出ると良く立ち寄る店である。しかもアメ横も近い。定刻より早くついたので、アメ横での買い物もできた。
朝倉文夫の代表作に「墓守」があるが、「大隈重信像」とともにアトリエに展示されていた。角界の著名人の像を多く製作したことでも知られている。滝廉太郎像は、同郷竹田の縁であろう。鹿児島に旅行した折、照国神社を訪ねたが、立派な礎石の上にあった島津斉彬像も朝倉の作品である。鳩山和夫夫妻の像も良く知られている。意外だったのは、晩年まで猫の彫刻に情熱を注いだということである。猫百態を目指したが、彼の死によって達成できなかった。家に猫を飼い、観察もしたが写真を撮って製作したという。
朝倉彫塑館を出て、団子坂の坂上にある森鴎外記念館を訪ねることにした。それほど遠い距離ではないが、上野近辺は坂道が多い。上野だけではなく、東京そのものが坂の多い都市なのだという。歩いてみるとそのことが良くわかる。三菱財閥の岩崎邸のあたりは、無縁坂がある。暗闇坂という坂まであるらしい。森鴎外邸は既に火災や戦災で焼失しており、面影を残すのは銀杏の木くらいである。森鴎外邸は、観潮楼と呼ばれ、2階建てで東京湾も見ることができたらしい。アララギ派の歌人や、石川啄木、与謝野鉄幹夫妻もこの家に会している。今は、近代的なコンクリート造りの記念館になっている。「慶応三年生まれの文人たち」という企画展で、鴎外ゆかりの文人が紹介されていた。夏目漱石、正岡子規、幸田露伴、尾崎紅葉といった作家たちである。「めさし草」という雑誌を鴎外が発行し、そこには、樋口一葉も寄稿していた。陸軍の要職も勤め、一方文壇にも影響力を持った鴎外の能力は群を抜いている。明治の生まれであるが、永井荷風も紹介されていた。東京散歩に、『断腸亭日乗』を携帯したのも、鴎外の記念館を訪ねることと無関係ではない。荷風は鴎外を尊敬していたし、影響も受けた。
鴎外邸のあったところは、千駄木で文京区になる。森鴎外記念館は、文京区立である。文豪漱石もこのあたりに住んでいたはずである。漱石が教鞭に立った第一高等学校は、東大農学部の場所にあった。歩いて通える距離である。そう思って、標識や観光地図を探していると、観潮楼跡と書かれた近くにあった。日本医科大学の近くである。たどり着いてみると、跡地の解説と、猫の像があるだけである。ここで『我輩は猫である』を書いたのか、あらすじなどを思い出してみるが、百年も経った景観に何の感慨も浮かんでこない。カメラに収め、足早に立ち去る。朝倉彫塑館といい、漱石居住跡といい、猫にご縁があった。
根津神社に立ち寄る。都会の緑の空間は貴重である。境内に入ると都会の喧騒と無縁である。木々の合間にビルが見えるが、許容の範囲である。東京十社の一つで、歴史も古い。徳川綱吉との関わりが書いてあったが、徳川家の保護があったということである。春になれば、つつじが咲き、多くの人が訪れる。森鴎外も夏目漱石も鑑賞したであろう。
今夕七時に鹿児島からの友人と会うことになっている。友人と言っても十歳以上年上である。大学の同窓会が明日あり、その前日にお会いしましょうという声かけがあった。「オフ会」というのだが、いわゆるフエースブックの友達の会である。主催者である鹿児島の友人を含め、四人の会食会である。二人は、当方にとっては初対面と言うことになる。鹿児島の友人の母校は東京大学である。キャンパスに入ったことは一度も無い。友人に敬意を表し、立ち寄ってみることにした。実に広い。緑も豊かである。安田講堂を初め、校舎の外観は古めかしい。それがかえって重厚感と伝統を感じさせる。関東大震災や、東京大空襲から被害に遭わなかった建物が多かった。この日も、古い校舎の修復工事が行われていた。加賀藩ゆかりの赤門も見た。高校生の観光客らしき団体がいた。この生徒の中に、入学生が生まれるかもしれないが、当方は試験で入ることはない。今回が、最初で最後になる可能性が大である。残念だったのは、安田講堂の中にある小杉未醒の壁画が見られなかったことである。二人のガードマンが入場する者を監視していたのである。
本郷三丁目の交差点を左折し、夕食会場に向かう。湯島天神の鳥居を過ぎ、山手線が眼に入る。御徒町駅前にある吉池食堂に着く。鮮魚を扱った店で、東京に出ると良く立ち寄る店である。しかもアメ横も近い。定刻より早くついたので、アメ横での買い物もできた。
Posted by okina-ogi at 11:16│Comments(0)
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