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2017年01月24日

映画「沈黙」

遠藤周作の小説「沈黙」が映画化され封切りとなった。小説『沈黙』の中に、司祭が踏み絵を踏む場面があった。その部分を書き抜いてみる。
「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私は、お前たちにふまれるために、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつために十字架を背負ったのだ。こうして司祭が踏み絵に足をつけた時、朝がきた。鶏が遠くで鳴いた」
 映画の中では、神父となっている。踏み絵を踏んだのは、棄教なのだが、信者の命を救う行為にもなっている。長崎奉行の井上政重は、実在の人物であるが、元キリシタンであった。神父が棄教すれば、信者も救われると考えていたので説得するのである。演じた役者も、名演だった。
その説得として、日本の土壌にキリスト教の苗木は育たないという言葉があった。日本も古来から、神道や仏教の信仰がある。そこにキリスト教が唯一の神を説くことを、時の権力は認めなかった。明治になって文明開化として西洋文化が入り、キリスト教の布教も許されるようになった。しかし、キリスト教徒の数は、ザビエル後の布教による信徒の数とかけ離れて多くなっていない。
なぜなのか。歴史と風土ではないかと思っている。一神教ということに、日本の土壌は合わないと言った長崎奉行も思っていたかもしれない。
  

Posted by okina-ogi at 16:21Comments(0)日常・雑感

2017年01月21日

『失敗の本質』 共著 中公文庫



小池東京都知事の座右の書らしい。財界人でこの本に関心を寄せている人もいる。副題として、日本軍の組織的研究となっている。軍隊と企業は、その目的は異なるが組織という点においては同じである。小池知事が言うようには負けてはいけないのである。日本航空や、多額の損失を出して企業の存続が危惧されている東芝のようになってはいけないのである。組織の失敗は何から生まれるのか。
本著が分析した日本軍の戦いの中で、六つのケースを取り上げている。①ノモンハン事件②ミッドウェー作戦③ガタルカナル作戦④インパール作戦⑤レイテ海戦⑥沖縄戦である。
このうち、③と⑤どのように戦われたかは知らず、特にガタルカナル島がソロモン諸島にあることを知った。日本から随分と離れている。伯父が、ニューギニアで戦病死しているので南方の戦争には関心があったが、悲惨な戦いだと聞いて知るのを避けていたこともある。
 本の内容から、負け戦を分析するぐらいなら、負ける戦をなぜしたのかを研究したほうが良いと考えていたら、そのことも最初に書いてある。そのことを分かった上で、あえて戦いの失敗を日本軍という組織に眼を向け分析しているのである。いろいろな指摘があるなかで、「主観的で「帰納的」な戦略策定―空気の支配」というのがあった。これだなという感じがした。一方、演繹的という言葉がある。客観的と言うか、冷めた判断である。日本人の良さでもあるが、情に流され易いのである。情報や状況の冷静な分析は、アメリカが優っていた。もちろん、国力の違いがあり、力のあるものに戦いを挑んでも勝つ見込みは少ない。孫子の兵法というのがあった。「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず」亡くなった大叔父は陸軍少佐で終戦を迎えたが、「先の大戦は無謀な戦いであった。戦争を国際紛争の解決手段にすべきではない」という言葉を残し、この孫子の言葉を引用していた。
  

Posted by okina-ogi at 15:51Comments(0)書評

2017年01月19日

『足るを知る生き方』神沢杜口「翁草」に学ぶ 立川昭二著 講談社



神沢杜口は、江戸時代中期(1710~1795)の人。京都に住んだ。40歳で与力を娘婿に譲り、隠居の身になった。それから45年、85歳まで生きた。多趣味多才の人で、俳人与謝蕪村とも親交があった。蕪村の墓は、左京区の金福寺にある。
『翁草』を書いたことで知られるが、世に広く流布したわけではないので、後世神沢杜口を知る人は少ない。『翁草』は、定年退職後、それも老齢期の随想集とも言っても良い。日常雑感でもあるが、人生訓としても良い深い思索から生まれた文章もある。また、神沢杜口が79歳の時に発生した京都の天明の大火は、取材記事であり、焼失した地図も残し、今日の貴重な歴史資料になっている。
当時、神沢杜口が見聞きしたエピソードが綴られていて興味深い。江戸時代にタイムスリップした感じがする。森鴎外の小説『高瀬舟』は、『翁草』の記述からヒントを得たものである。安楽死がテーマになっている。『興津弥五右衛門の遺書』も同じで、こちらは、乃木将軍の自刃に刺激され『殉死』がテーマになっている。
現代、リタイアしてからの老年期の過ごし方は、人さまざまであって良いが、神沢杜口の行き方は、実に参考になった。彼ほどの趣味や才能はないが、共感するところが多い。俳句、将棋(神沢杜口は囲碁)、随想を書くこと等。意識してそうなったのではないが、拙著の紀行文に『翁草』がある。これも、時代を超えたご縁かもしれない。しかし、江戸時代にあって85歳の長寿を全うしたのは凄い。
  

Posted by okina-ogi at 16:21Comments(0)書評

2017年01月18日

『悪党芭蕉』 嵐山光三郎著 新潮社 1500円(税別)



署名が、凄い。芭蕉と言えば俳聖。求道者的なイメージもある。俳句を通じて、日本人の精神生活を豊かにした功労者だと思うし、現代なら文化勲章を受章してもおかしくない人物である。
冒頭、芥川龍之介と正岡子規の芭蕉批判が出てくる。龍之介は、芭蕉は「大山師」だと言い、子規は、芭蕉の句は、悪句駄句が大半だと酷評している。後世、芭蕉の句碑や廟を建立する輩の気が知れぬと憤慨している。
問題は、芭蕉の作品。俳句、連句、紀行文、日記である。やはり、後世にゆるぎない文学的地位を占めていると思う。とりわけ、連句については良い勉強になった。心の交流というものの味が少し分かったような気がする。親しい友人たちと連句をした経験があるが、蕉門の深さと真剣さは、群を抜いていると思った。芭蕉門下は、豪商であったり、武士であったり、医師であったり生活に余力のあるインテリ層が多い。そうした人々の経済的支援の元に生活していたことになる。長期の旅をして、紀行文が書けたのもうなずける。連句を纏めて出版し、紀行文も世に出した。大坂御堂筋で客死するが、体調が悪いのに出かけて行ったのもプロデューサーとしての仕事だったとも言える。
芭蕉の「ひとたらし」の能力は相当なものだが、俳句の魅力を伝える資質は、カリスマ的であったと思う。
  

Posted by okina-ogi at 11:58Comments(0)書評

2017年01月14日

法律門外漢のたわごと(雇用保険の改正)


平成29年1月1日から、65歳以上でも雇用保険に加入できるようになりました。そうであれば、65歳以上で退職した場合、基本手当てとしての失業給付が給付されるかというとそうはなりません。以前と同様、受給用件を満たせば、高年齢求職者給付金が、一時金として支給されます。
実際に、雇用保険に加入し、事業主と雇用されるものが保険料を支払うのは、平成32年の4月1日からになります。それまでは、保険料は免除になります。この改正は、何を意図しているのかは容易に推測されます。65歳以上の就労を促しているということです。その先には、年金の受給年齢の引き下げが待っているかもしれません。
  

Posted by okina-ogi at 15:29Comments(0)日常・雑感

2017年01月12日

『芭蕉紀行』 嵐山光三郎著 新潮文庫



古典を読むのに限るが、ガイドブックのような本も悪くはない。著者の感性もあるが、芭蕉の旅の状況を良く調べている。著者は、若いときからの旅好きで、芭蕉への思い入れもある。旅は酔狂だけでできるものではないから、旅費の工面や、旅の企画は、芭蕉一人ではできなかったことがわかる。『奥の細道』などはまさにそうであって、同行した曾良の役割は大きい。
嵐山光三郎は、作家であるが雑誌の編集などを手がけた苦労人である。編集者は、本が売れるかどうかを考えなければならない。そうした経験が、俳聖芭蕉の違った面を浮き彫りにしてくれる。『奥の細道』も読者を意識して、ただの紀行文ではなく、虚構の部分も盛り込まれていると言う。
『西行と清盛』という彼の著作があるが、面白く読んだ記憶がある。蔵書にするほど繰り返して読む本ではないと思ったから、友人にプレゼントしてしまって手元にはない。その本の中で、西行がみちのくを旅したかどうかは疑問だと書いていたように思う。また、西行が出家したのは、政争に巻き込まれることを避けたという指摘である。この本にも、人間くさい芭蕉の一面を書いているが、それはそれで面白い。
弟子の杜国との関係は、そうなのという感じがするが、渥美半島には行ってみようかなと思わせてくれた。杜国の没した地であるだけでなく「椰子の実」の歌の誕生の地でもあるからだ。旅には、旅情が必要だ。
  

Posted by okina-ogi at 17:34Comments(0)書評

2017年01月05日

『真情』

正月4日、『真情』という小冊子が送られてきました。号を重ね、112号となっています。年3回の発行ですから、40年近く発行し続けていることになります。発行の責任者になっているのは、長く赤間神宮に奉職し、現在は、萩市の松蔭神社に奉職している青田國男氏です。30年来の親交があります。数学者、岡潔先生の春雨塾の塾生というご縁でもあります。
本のタイトルになっている「真情」(まごころ)について、昭和49年度の京都産業大学での岡先生の講義録が載っています。講義の最後のところで、「真情」とは何かを例を挙げて語っておられ、抜粋して紹介することにします。

『日本人は無自覚的にではあるが真情を自分と思っているのである。「真情」の一例を挙げよう。
明治の初め頃の話である。
東北の片田舎に母と子が二人で住んでいた。息子が13になった時、自分は禅を修行したいと云い出した。それには家を出て師を求めなければならない。それで母と子が別れることになった。その別れる時、母は子にこう云った。
「もし修行が上手く行って、人がお前にちやほやしている間は、お前は私のことなんか忘れてしまっていてよろしい。然しもし修行が上手く行かなくなって、人がお前に後ろ指を指すようになったら、必ず私のことを思い出して、私のところへ帰って来ておくれ。私はお前を待っているから」
それから30年経った。子は偉い禅師になった。松島の碧岸寺という寺の住持をしていた。その時郷里から飛脚でこう云って来た。
「お母さんはお歳を召してこの頃ではいつも床に就いておられる。お母さんは何とも云われないが、私達がお母さんのお心を推しはかって云うのだが、どうか出来るだけ早く帰って来て一目お母さんに逢ってあげてほしい」
禅師は取るものも取りあえず家に帰って、寝ている母の枕辺に座った。
そうすると母は子の顔をじっと見てこう云った。
「この30年、私はお前に一度も便りをしなかった。然しお前のことを思わなかった日は一日もなかったのだよ」
私はこの話を聞いた時、涙が出て止まらなかった。
子から見れば、子と母とは二つの心であるが、母から見れば母と子とはただ一つの心、真情だけになっているのである』
これが心というもの。
  

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2017年01月04日

相模国一宮



元旦の日帰りの旅を続けて久しいが、初詣が目的ではなかった。そろそろ、神様に1年の願い事をしても良い年になったという自覚から、神社にお参りすることにした。茅ヶ崎市から近い場所に、寒川神社があることを知った。この神社は、相模国の一宮でもある。関東近辺の一宮でお参りしていないのは、この神社と栃木県の宇都宮市にある二荒山神社だけである。
昭和29年の元旦は、天気に恵まれた。晴れ渡り、冬の厳しい寒さもない。藤沢あたりを過ぎると富士山がくっきりと見える。元旦の富士も拝みたかったのでその願いが、先ず叶えられた。寒川神社あたりから、ゆっくりと眺めてみようと楽しみにしていたが、高速道路が邪魔して裾野が見えない。しかたなく高速道路を超え、見晴らしの良い堤防に出て、カメラに収めた。
寒川神社の人出は尋常ではない。参拝するのに1時間以上かかった。タクシーの運転手に聞いたら、1月、2月は参拝する人が多く、近くに住んでいるが季節を選んで参拝すると話してくれた。神社は、普段は人がまばらだと思っていたが、さすが一宮である。元旦のもう一つの目的は、天然温泉に入ることである。茅ヶ崎駅から近い場所に、竜泉寺の湯という日帰り温泉がある。昼食もそこで摂り、くつろぐことができた。昭和30年は、宇都宮に行くことも決めた。
  

Posted by okina-ogi at 11:59Comments(0)旅行記

2016年12月24日

青春18きっぷの効用



このきっぷが売り出されてから久しい。年に3回売り出される。春と夏と冬。試用期間が限定されているが、1ヶ月間は使用が可能である。日帰り旅行に使えば、通常料金の半額以下になることもある。個人で使っても良いし、グループでも良い。値段は、1,1850円である。
このきっぷを利用して、江ノ島・鎌倉散策に5人で出かけた。高崎駅から藤沢駅まで行き、藤沢からは江ノ電で江ノ島駅に移動し、江ノ島に行き、再び江ノ島駅から長谷駅で下車し、由比ヶ浜駅ら鎌倉駅へ。JR鎌倉駅から新橋駅で途中下車し、高崎駅に戻る。通常料金ならば、江ノ電を除き、5,180円である。青春18きっぷでは、一人の料金は、2,370円。半額以下である。ちなみに、江ノ電は「のりおりくん」を利用。1日乗り放題で、600円。いちいち購入する手間もいらない。
  

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2016年12月24日

行く我に留まる汝に秋二つ(2016年12月)

(津山編)
新幹線と在来線の乗り継ぎは上手くいって、吉永駅には午後一時前に着くことができた。無人駅でバス停は見当たらない。タクシーが二台停まっている。帰りの岡山行きの列車の時間を確認し、帰りのタクシーを予約することになった。約一時間半見学することにした。資料館もあるらしい。見学者は、少ない。山間にあっても意外と広い。日当たりも良い。建物は、古いがしっかりしている。講堂は国宝だという。敷地は、枯れているが芝生になっている。観光シーズンは秋の紅葉の時期らしい。既に落葉しているが、孔子廟のある斜面に二本の大樹があって、桑の木かと思ったら、楷の木であった。孔子のゆかりの地から種を持ち帰り苗にして育てたものだという。
閑谷学校の創建は、一六七〇年で初代岡山藩主の池田光政による。儒教、とりわけ陽明学に関心を寄せた人で、名君の誉れが高い。中江藤樹の弟子である熊沢蕃山を招聘し校風を確立した。儒教には、朱子学があるが、こちらは体制側の思想になる。保守的な思想でもある。熊沢蕃山も幕府から危険視され、不遇な人生を送っている。岡山には、山田方谷がいるが、幕末になって熊沢蕃山は評価されるようになった。閑谷学校が、庶民も学ぶことができたのは、陽明学と無関係ではない。建設に当たったのは津田永忠という家臣で、閑谷学校の近くに居を構え、屋敷跡は今も残っている。


閑谷学校の景観をもう少しスケッチすると、堤防のような石塀で囲まれていることである。城ほどではないが、外敵の襲来にも備えているような機能を持っている。また、城下や住宅地から離れた場所にあり通学するのには、不適である。そのため、寄宿舎が整備されていた。教師と生徒は近くにあって学んだことになる。明治になって、閑谷学校は廃止されるが、中学校、高等学校となり、明治期に建てられた校舎は、資料館になっている。正宗白鳥や三木露風もこの地で学んでいる。駅に戻り、津山の友人に到着時間を連絡した時
「おぬしの国は学問の底辺が広いのう」
という言葉になったのは、閑谷学校を見た素直な感想でもある。
吉永駅から岡山駅で津山線に乗り換える。各駅停車のワンマン列車である。沿線には旭川が流れ、谷あいを列車はゆっくり進む。冬山に夕陽が当たっている。民家の付近では、焚き火かしれぬが、煙が昇り、谷間を這うように流れている。
津山線 斜陽に映えて 山眠る
 津山駅の一駅前の津山口の午後五時に到着。この駅も無人駅である。友人が車で迎えに来る予定になっているが、それらしき車はない。少し遅れて、友人の友達が運転して迎えに来てくれた。友人は後部座席に同乗している。昨年、腰を圧迫骨折して、歩行が不自由になっていることを気にかけていたのである。車は、運転できるが歩行には杖が必要になっている。
 彼の友人には、過去にも会っている。職場時代の友人で親切な人である。二人の岡山弁が微笑ましい。いつも貶しあっているようなやり取りの中にも、友情が感じられる。
「おまえ、夕食はまだじゃろ。肉食うか」
焼肉店に直行。出された肉は牛肉である。それもステーキほどの厚さがある。それに柔らかい。こちらのでは、肉は牛肉という感じで、ホルモンも牛肉の内臓である。津山のB級グルメの「ホルモンうどん」の肉も牛肉である。昨日のこともあり、お酒は控えめにした。友人は、酒の酔いもあったが、家の玄関で転んでしまう。おでこに傷を負ったが、大事には至らなかった。来春、群馬に行きたいと言うが、先年果たせなかった日光詣は一人では難しそうである。御つきの者と車椅子が必要になりそうである。
 

 翌日は、彼の家でゆっくり過ごそうと思っていたが、温泉と津山城に友人が案内してくれた。何度か津山に来ているが、城に上ったのは、新婚旅行以来だから四十年近く前のことである。櫓が復元され、石垣も修復されつつある。初代藩主は、本能寺の変で、信長と共に死んだ森蘭丸の弟の森忠政であるが、大大名の城といっても良い城である。明治になって城の建物は壊されたが、復元した映像は、見事というしかない。国宝の資格がある。津山は鶴山が転じた地名で、津山城は、鶴山城ともいう。天守閣があった場所まで上り、津山の市街を眺めると、東西に吉井川が流れている。ちょっとした運動後の入浴になったが、温泉は病院の一角にあった。最近出来た日帰り温泉である。市内に、衆楽園という大名庭園があるが、翌日見ることが出来た。池が広々としていて、鴨やオシドリが優雅に泳いでいた。近くには市役所がある。城にも近い。
 

 津山の二日目の夕食は魚料理である。彼の好物の「のどぐろ」がメインである。いつからか高級魚になった。煮魚にして食べた。こちらは、予約である。キスのフライも柔らかくて美味しかった。ウツボのフライも酒の肴としてなかなかいける。昨夜は焼酎だったが、河豚の鰭酒をいただくことにした。三杯飲んだが熱燗の日本酒を継ぎ足せば、味もそれほど落ちない。経済的な飲み方だといつもそうしている。
 帰宅の日、昨日に続き将棋を指した。運転しない気楽さか、朝から缶ビールを飲んでの対局になったが、これまでなら飲んでもなかなか崩れない棋風だが、今回は読みがあっさりしている。勝負に拘る執念も感じられない。連勝したが、勝利の喜びよりも、少し心配になってきた。介護保険の申請もしてあって、認定が出たら週一回、ヘルパーに掃除をしてもらうつもりだという。仕事柄、ケアプランのアドバイスをしたが、買い物や入浴も不自由があるようだ。福岡の友人の年金相談と言い、確実に老齢期に差し掛かっている。岡山空港まで送って来てくれたが、足取りはおぼつかない。
 行く我に留まる汝に冬二つ
  

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2016年12月23日

行く我と留まる汝に秋二つ(2016年12月)

(福岡編)
俳句を紀行のタイトルにするのは、初めてだが、今回の旅は、この句がふさわしいと思ったのである。正岡子規の句で、汝は夏目漱石である。旅の拠点にするのに友人とは重宝なものというのは失礼な言い方だが、日常の時空間にない再会と言う時間と旅先の新鮮さが貴重なのである。一人は、福岡市、一人は津山市の住人である。福岡空港に行き、博多駅から鉄道で津山駅に行き、岡山空港から帰路に着く三泊四日の旅である。二人とも、老後の窓口に立っていると言って良い。健康や、年金生活を意識する年でもある。「行く我」も同様である。
博多駅から鹿児島本線で小倉方面に向かう途中に東郷駅がある。海岸に向かって数キロ行ったところに、古いお社がある。宗像大社である。官幣大社でもある。神社は、三社に分かれているが、辺津宮にお参りすることにした。もう二つの宮は、島にあり普段はお参りすることができない。中津宮は、大島にあり、更に沖合いにある沖ノ島に沖津宮がある。共に玄界灘に浮かぶ小さな島である。宗像大社の歴史は古い。由来は、神代に遡る。


祀られている神様は、宗像三女神と呼ばれ、天照大神の御子とされる。古事記や日本書紀に記述される御子の誕生は神秘的である。天照大神の弟君であるスサノオノミコトとの「うけい」によって生まれた姫君とされている。スサノオノミコトの剣を貰いうけ、洗い清めた後、剣を噛み、それを霧としてはいた時に生まれたというのである。スサノオノミコトも天照大神の勾玉などでできている飾り物をすすぎ、これを口に噛んではきだした霧の中に五人の男神を生んだとされる。
辺津宮に祀られているのは、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)であるが、ご神体は、鏡である。ご神体と社殿に向かいお参りしたが、不思議な気持ちになった。友人の家は、宗像大社の氏子だということを思い出したからである。しかも、三人の女の子の親であることも。一年ほど前に父親を亡くし、辺津宮の一画にある祖霊社に祀られている。鳥居の外から、お参りする友人の後ろ姿を見ながらお参りさせてもらった。
宗像三女神は、天照大神から皇室を守護するように申し付けられている。そのためかは分からないが、三度に渡る国難を救っている。鎌倉時代の元寇(二回)と日露戦争の日本海海戦である。神風を吹かせ、連合艦隊の歴史的大勝利に導いたのは、宗像三女神だと、日本人なら思いたい。特に日本海海戦の戦場となった海域は、沖津宮のある沖ノ島にごく近かった。明治三十八年五月二十七日、海は「天気晴朗なれど波高し」であった。司令官であった東郷平八郎は、戦艦三笠の羅針儀を宗像大社に奉納している。神宝館を見学したが、見ることはできなかった。


福岡市に戻り、夕食には時間があったので、友人に水鏡天満宮に案内してもらった。菅原道真を祀っている。この地に移ったのは、黒田長政の時代である。一度お参りした記憶がある。東京裁判でA級戦犯になり刑死した広田弘毅は、この近くに生まれ、石工であった父親の関係で、幼いときに書いた文字が鳥居に掛けられていることでも知られている。誕生地の碑が前にある店で、九大の友人の先生と飲んだ記憶がある。天神の地名もこの神社に由来する。
友人の予約してくれた店も天神にあった。高校時代の友人の息子さんが経営しているお店で、その日に釣れた魚を食べさせてくれるのだという。その日に釣れた魚の名前は忘れたが、刺身や煮魚、天ぷらにしていただいた。海のない県の人間には、こうした食事はなかなかできない。焼酎をボトルで注文し、すっかり酔いがまわってしまった。ホテルは近いのだが、タクシーを拾い、予約した部屋に千鳥足でたどりつく。翌日、友人からメールが届き、無事に着けたかの確認と酒は控え目にというアドバイスを頂戴した。
行く我と留まる汝に冬二つ
盗作である。
ホテルでは、すっかり寝坊。いつもなら五時半に起床するのだが、時計を見ると八時を過ぎている。博多駅からの新幹線は十時をまわっている。津山までは、直行せずに寄り道をすることにしたが、冬至に近く明るいうちにたどり着けるか心配になってきた。岡山県には、閑谷学校と言う史跡がある。亡くなった牧師さんから薦められた史跡で、日本遺産第一号に認定されている。地図を見ると、岡山駅から山陽本線で結構な距離がある。しかも山間にあり、バスやタクシーを使わないと行けそうもない。
  

Posted by okina-ogi at 16:24Comments(0)旅行記

2016年12月17日

『海は甦える』第5部 江藤淳 文春文庫


『海は甦える』は、大作であった。5部を読了。最終巻に当たる5部は、政治家としての山本権兵衛を描いている。桂内閣の後を受けて内閣総理大臣となった。時代は、大正になっている。ちなみに、歴代総理大臣の中で、通算して最も長く内閣総理大臣を務めたのは桂太郎であった。しかも、長州閥であった。もはや、そういう言い方は死語になっているが、安倍総理も長州出身である。プーチン大統領を招いた長門市が選挙地盤である。
当時、元老がいて、長州閥には、山県有朋や井上馨がいた。薩摩閥は、松方正義、大山巌がいた。西園寺公望もいたが公家の出身である。元老が、天皇に総理大臣を推薦する形になっていた。山本内閣のスタートは順調に見えたが、海軍における汚職事件が明らかになり、予算も成立せず総辞職に追い込まれている。
山本内閣を支えていたのは、政友会という政党で、伊藤博文が初代総裁となって設立した政党であった。平民宰相と言われた原敬が、党の実力者として内務大臣として入閣して山本権兵衛を支えた。政局を見るのに鋭く、弁論にも長けた政治家として描かれている。
原敬は、後に総理大臣になるが、東京駅で暗殺されている。
 尾崎行雄、犬養毅といった政治かも登場し、帝国議会での質疑も詳しく書かれている。速記録として残っているのだろうが、当時の弁舌は、格調が高い。文語調でもある。時たま野次も出てくるのだが、『ヒヤヒヤ』は、どんなニヤンスかと気になった。議長との丁々発止もなかなかの醍醐味がある。
 大正2年の国家予算を見ると、軍事予算が3分の1である。陸軍と海軍の予算の取り合いも激しい。この小説の始まりは、海軍を国防の要にしようという国家観であった。陸は山県有朋であり、海は山本権兵衛であってその両巨頭の争いにも見える。大隈内閣になって、山本権兵衛は、予備役になり、海軍からも去ることになった。
  

Posted by okina-ogi at 15:08Comments(0)書評

2016年12月15日

東京株式市場12月場所

アメリカの大統領選挙でトランプ氏が次期大統領に決まってから、株価が上昇している。先場所も勝ち越しで、今月になってもその勢いが停まらない。15日の中日まで8連勝である。利益確定で株価が下がってもおかしくないが、その日の終値は、前日より上がっている。こんなに上昇すれば、反動もあるだろうが、その気配がない。
人間の心理として株価が永遠に上がるとは考えなくとも、まだ上がるのではないかとの期待感で売るのを控えるものだが、最高値は、後で分かることであって、少しずつ手放す決断が必要である。特に、長い間のマイナスで損失が出ているのであれば、マイナスを減らし現金化しておくのも懸命な考え方である。株は買うより、売るのが難しい気がする。
  

Posted by okina-ogi at 16:12Comments(0)日常・雑感

2016年12月14日

『新逆旅』 土岐文英著 文芸社



著者は、田舎の開業医。東京帝国大学医学部を卒業し、父親の後を継いで、町医者になった。大変な読書家で、80代半ばにこの本を出版し、贈呈された。著書のタイトルになった「逆旅」は、著者の人生観を著している。
唐の詩人、李白の「夫天地者萬物之逆旅」からの引用である。漢詩、短歌、俳句に通じ、著書の内容は、文芸評論家と言えるほどの内容である。芭蕉の「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり」を彷彿させる紀行文も載っている。随筆もあって、絵画や陶器、音楽の造詣も深い。読書家らしく、書評も素晴らしい。特に臼井吉見の『安曇野』を通じて、相馬愛蔵、相馬国光の存在を知った。晴耕雨読の毎日で、老後は著者のような生活が出来たらと、毎年のようにお宅を訪問し、歓談する機会があった。
大正6年の生まれで、もうすぐ百歳である。春になったらお邪魔しようと思っていたが、最近友人を通じて亡くなられたことを知った。大往生というしかない。改めて著書に触れ、故人を偲びたい。ご冥福を祈るばかりである。
  

Posted by okina-ogi at 11:23Comments(0)書評

2016年12月06日

映画「聖(さとし)の青春」



テレビ等で、上映の予告が多くされているので関心を持った。主人公が将棋の棋士だったこともその関心を増幅させた。モデルになったのは、村山聖という若手棋士である。病気で亡くならなければ名人になったかも知れない俊英であった。ほっぺが膨らんだ、独得の風貌を良く覚えている。
映画にも出てきたが、現在でも棋界の第一人者である羽生善治がライバルで、対戦成績も互角であった。NHK将棋トーナメントの決勝で、秒読みに追われた場面はうっすらと記憶がある。15年以上前の出来事だが、それから数年後亡くなっている。
村山聖を演じたのは、松山ケンイチ。本来細身の体型を村山聖に似せてあえて太らせた役者根性は見上げたものだが、健康にはいかがなものかと心配になった。村山聖も病気を抱えながら、徹夜麻雀や飲酒することもあったらしい。死への不安と恐怖を紛らすこともあり、節制できなかったことは理解できる。それにも優る限られた生の時間を、将棋にかけた気力が全てを覆っている感じがした。健康な人間も、いつかは病気になり、衰え死ぬことが分かっているが、何かに自分の人生を燃やすような生き方が出来ないものである。
それにして、羽生善治役になった東出昌大の仕草は、当人にそっくりである。よほど観察したのであろう。二人とも、将棋を指す手つきは見事である。将棋を趣味にしている人間には、その点だけでもだめなら役者の価値がないと言うことができる。
  

Posted by okina-ogi at 17:45Comments(0)日常・雑感

2016年11月26日

『守城の人』 村上兵衛著 光人社NF文庫



柴五郎。この人のことは、『北京籠城』、『ある明治人の記録』を読んで知っている。著者、村上兵衛は、陸軍幼年学校から軍人となり、作家になった人である。阿川弘之が海軍軍人を描いたように、陸軍軍人を描いている。この本の副題は、「明治人柴五郎大将の生涯」となっている。
この本は、友人から借りた推薦図書なのだが、文庫本ながらページ数は800に近い。柴五郎は、会津人である。戊辰戦争の悲劇は、少年柴五郎の心に深く刻まれた。五郎の兄弟は、多かったが、妹や姉は、祖母や母親とともに自害している。柴家は、会津藩の上士であったが、会津戦争に敗れ、貧困の中に生きなければならなかった。肥沃な盆地から下北半島の寒冷で痩せた土地に明治政府によって与えられ、斗南藩という牢獄のようなと表現しても良いような藩に移封されている。その逆境から、大将にまでなった柴五郎の精進は、並大抵のものではなかった。しかし、北京籠城に見られるようにその人格は、欧米の人々からも賞賛されるほど高潔なものであった。
改めて思うことは、戦争がもたらす悲惨さと、人間の醜い面である。ただ、その中にあって、人の支え合う美しさもある。柴五郎も、会津藩士同士の助けも受けている。大坂に陸軍少尉として赴任する途中で山本覚馬の家に泊るということもあった。柴五郎は、88歳で亡くなるのだが、昭和20年8月15日の敗戦から間もなく、切腹して死のうとした。それは果たされなかったのだが、その傷がもとでその年の12月に亡くなっている。
  

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2016年11月19日

海は甦える』第一部 江藤淳 文春文庫



日本帝国海軍を近代化した人物と言われる山本権兵衛を描いた小説である。文春文庫で5部構成になっているが、絶版となっており、古書としても手に入れにくくなっている。評論家として著名な江藤淳が、こうした小説を書いていたことは驚きでもある。しかも、かなり若いときの作品である。江藤淳の祖父や、母親の父親は、海軍の将官であったことから日本海軍の歴史に関心を持ったのが理由だとされている。
山本権兵衛は、軍人であり、政治家でもあり、伯爵、海軍大将、内閣総理大臣という肩書きがあるにも関わらず、意外と後世の人に知られていない。実務家と言ってもおかしくない地味な働きをしているからなのであろうか。しかし、実行に移した内容をみると、常人にはできない改革者である。一つは、幕末から維新にかけて功績のあった軍人を予備役にして、近代海軍の技術と知識を学んだ有能な人材を登用し、帝国海軍の体質を変えた。近代海軍の父と言われる所以である。
司馬遼太郎の『坂の上の雲』で読んだのだと思うが、日本海海戦で大勝利に導いた東郷平八郎を連合艦隊司令長官に抜擢したのも山本権兵衛であった。年功序列で考えればありえない人選であったが、決断した根拠があった。人選から外れた日高荘之丞は、同郷であり海軍兵学校の同期であったにもかかわらず。明治天皇も気になって、理由を求めると、「東郷は運の良い男だから」と答えたという。独断専行する資質を、日高の気質に見ていたとされる。
書き出しは、長崎から始まっている。出島に行ったことがあるが、周囲が埋め立てられて陸地にあった。この近くに、海軍伝習所もあった。ここから、日本海軍が始まったと言ってよい。周囲を海に囲まれた日本は、イギリスのように海洋国家ではなかった。鎖国のためである。海外に乗り出し、通商を求めることはなかった。唯一出島が海外と接触の窓口になっていたが、受身な存在であった。国の防衛に、ペリー来航より、海軍の創設が急務となった。幕府側ではあったが、勝海舟はいち早くその必要を感じ行動している。主人公山本権兵衛は、西郷隆盛に紹介され、勝海舟の食客になっている。理詰めであるが豪胆な人物に描かれている。
  

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2016年11月15日

聖徳記念絵画館



神宮外苑に、国会議事堂に似た建物がある。大正15年に完成し、現在は重要文化財に指定されている。日本史の教科書に使われる絵画が展示されている。例えば、「大政奉還」、「江戸城開城談判」、「岩倉大使欧米派遣」などは、記憶に残る絵である。いつの頃のことか定かではないが、昭和50年代に来館したことがある。30年以上も前のことだが、建物は変わっていない。
数日前に、天皇皇后両陛下がご訪問されたというニュースを見て、足を運ぶ気になった。天気も良さそうだし、友人を誘うことにした。幕末から明治の歴史には関心を持っている人で、「行きましょう」ということになった。JR信濃町の駅から歩いて数分の距離である。石造建築は、青空を背景に重厚感がある。銀杏並木が有名だが、紅葉には少し早い。入館料はないが、寄付金と言う形で500円を入り口で払う。宗教法人明治神宮が管理している。
建物はシンメトリーになっていて、入り口右手が日本画、左手が洋画で、それぞれ40点が展示されている。絵の大きさは統一されている。かなりの大きさである。『海舟余波』を読んだ後なので、「大政奉還」、「王政復古」、「鳥羽伏見戦」、「五箇条御誓文」、「江戸城開城談判」をじっくり鑑賞した。主な登場人物の説明版が手前にあり、見比べながらみることになる。御簾におられる明治天皇の前で、山内容堂と岩倉具視の激論の場面は、コミカルな感じがした。勝海舟と西郷隆盛の薩摩藩邸での会談は、威儀を正して品がある。いずれの絵も日本画である。
洋画の方は、明治中期以降を題材にしているものが多い。奉納した人や団体と、作者の名前が書いてあって、興味を惹かれた。「帝国議会開院臨御」は、小杉未醒、「日露役日本海海戦」は、中村不折、「帝国大学行幸」は、藤島武二である。新島襄の肖像画を書いた湯浅一郎の絵があった。彼の絵は群馬県立美術館にあって、郷土の作家としての親近感がある。
中央はドームになっていて、西洋建築の荘厳さがある。その奥に名馬、金華山の剥製がある。久しぶりに会った。やはり脚が短い。明治天皇が騎乗している姿は、展示されている絵の中に描かれている。
聖徳記念絵画館の石段を降りたところで
「小学生の頃、母親と弟と一緒に来たことを思い出したよ。あの時の弁当の美味かった方が相当思い出になっているけどね」
昭和30年代の頃の話である。彼を誘ったのも無駄にはならなかったと思った。
  

Posted by okina-ogi at 13:07Comments(0)旅行記

2016年11月11日

海舟、鉄舟、南州



幕末、江戸の町を戦火に焼かれるのを防いだ立役者である。海舟は、勝海舟。鉄舟は山岡鉄舟、南州は、西郷隆盛である。大政奉還から幕末の政局は、めまぐるしく変わっていく。鳥羽伏見で幕軍と薩長軍との間に戦いが起こり、幕軍が敗走する。大坂城にいた、徳川慶喜は、戦う意思がなく、夜、わずかな側近と幕府軍艦で江戸に帰り、謹慎を表明。朝廷軍との交渉の全てを委任されたのが勝海舟である。
このあたりの経緯は、多くの本に書かれているが、改めて調べてみることにした。参考図書にしたのが、江藤淳の『海舟余波』である。江藤淳は亡くなって久しいが、晩年には、『南州残影』を書いている。後者も合わせて再読した。世の中の体制が大きく変わろうとする時、国を滅ぼすほどの戦いをせず、明治維新の道を開いたのは、表題にある3者の功績が大きいと言ってよい。この3人の人物に共通しているのは、「私」がなく「公」が先にあるということである。「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と西郷隆盛が言ったのは、西郷自身のことではなく、山岡鉄舟を評して言った言葉なのである。
勝海舟は、江戸城無血開城の立役者であるが、周到な準備を持って西郷との会談に臨んだことが、『海舟余波』には多くの文献の引用もしながら書かれている。そして、勝海舟の周囲は同調するものがなく敵ばかりと書かれている。その中で、交渉をやり抜いたのは、政治家の資質があったからだというのが江藤淳の結論である。「百万人と言えども我行かん」という精神にも似ているが、根回し、布石をしながら、将来向かうであろう「公」のビジョンも勝海舟の孤独を支えていた。福沢諭吉に非難された時、批評家に何がわかるものかと、本気になって相手をしなかった気持ちもよくわかった。

  

Posted by okina-ogi at 11:36Comments(0)日常・雑感

2016年11月04日

『新しい道徳』 北野武 幻冬舎 1000円(税別)

コメディアンから出発した著者は、俳優、映画監督としても知られるようになり、最近では作家としても認められ、マルチぶりを発揮している。この本も古本市で購入したのだが、出版は昨年で、新刊書に近い。新刊書として書店に並べられていたならば購入しなかったかもしれない。
 10月31日(日)、友人と軽井沢のしがくの宿「しずかる荘」に泊った時、ロビーに、『ほしのはなし』という絵本が置いてあった。作者は北野武となっている。さらっと読んだが、なかなか含蓄のある内容と展開である。北野武にもこんな一面があるのかと思った。そして、数日後古本市の本を整理していたらこの本を見かけた。
読み始めると、思いつきで書いていないことがわかる。綴り方は、北野武らしいが、内容は真摯で、不真面目ではない。受けを狙って書いてはいない。多くの人から見れば、型破りの人生を送っている人物のようにみられるが、根は優しい人柄に感じられる。
道徳的なものは、時代によって変わるもので、社会秩序を保つ方便という指摘には共感するし、戒律的なことは少ないほうが良いというのも同意見である。また、自ら自覚することが本質とも言っている。芥川龍之介の『侏儒の言葉』からの引用があったり、群れで生きる人間という指摘も鋭い。結構深いところで考えている。
  

Posted by okina-ogi at 16:03Comments(0)書評