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2012年09月30日

法律門外漢のたわごと(雇用保険法④

 〝法律門外漢のたわごと〟というわりには、話が真面目になっていますが、このあたりのことは無責任な言い方は慎まなければと思っています。前にも申し上げたように、働きながら生活することが健康的に暮らせると考えらからです。生涯現役というのが理想ですが、誰もができることではないし、世代交代も大事です。身動きの鈍い、古狸のような人がいつまでも残っているというのも好ましくありません。65歳くらいは、健康的で、仕事の能力も低下しない年齢で、就業分水嶺にあたると考えて良いと思っています。
 前置きが長くなりました。本題の「高年齢雇用継続給付」についてですが、60歳到達時の給与の75パーセント未満に低下した時に、最大15パーセント支給されるというものです。この給付金は、給料ではないので非課税です。会社からの給料が少なくなっても、雇用保険の給付を受けた方が、手取りが多くなるという場合もあるようです。ただ、場合によっては年金も受給している人は、年金が減額されるので、退職後の契約する時によく相談した方が良いと思います。60歳から65歳までは、会社や同僚への恩返しと、良い技術や仕事上のノウハウを後輩に引き継ぐ期間と考えたいですね。
  

Posted by okina-ogi at 17:30Comments(0)日常・雑感

2012年09月29日

法律門外漢のたわごと(雇用保険法③)

厚生年金のところでお話ししましたように、老齢厚生年金の受給はやがて65歳からということになります。そうかと言って、企業も65歳を定年退職にするという思い切った決断もできません。60歳でいったん退職して、給与も下げながら雇用を継続するという場合が多いようです。経営者からすれば、長年の働きぶりを見ていてやめてもらった方が良い人もあるかもしれません。ただ、この人は口うるさい人、仕事ができるが協調性がないなどと、経営者から嫌われているというような理由で、本人が希望しても務められないというのは問題です。客観的に見れば、誰よりも会社のことを考えているかもしれません。
「高年齢者雇用安定法」では、労使協定を結び、本人が希望しても引き続き雇用しなくても良いとされています。その理由になるのは、不健康で仕事が充分にできない人、仕事を休みがちで欠勤扱いになることが多い人というのが大雑把な基準になっているようです。企業は、定年退職者の継続勤務の有無を確認し、新採用の募集計画を立てるものです。有能な新人を多く採用し過ぎたのでという理由で、退職直前になって、継続雇用ができませんというのは困ります。そうしたようなケースでトラブルになることもあるかもしれませんが、長年働いた職場に嫌な思い出を残すことになってしまいます。
企業は、人材を求めています。給料が安くて、優秀だったらこれほど経営者にとって良い条件はありません。定年退職後の人が全て優秀であるわけはありませんが、給料は安くなっても仕方がないことです。子供も成人し、最低夫婦で生活ができる給料で十分でしょう。そこで、雇用保険では「高年齢雇用継続給付」という制度があって、退職後減額された給料を補うように側面援助をしています。この制度については、次回に続けて概要を説明したいと思います。
  

Posted by okina-ogi at 07:30Comments(0)日常・雑感

2012年09月28日

高杉晋作辞世の歌

心に浮かぶ歌・句・そして詩27
幕末の志士で、30にも満たない破天荒な人生を送った人物がいる。高杉晋作である。長州藩の上級武士の家に生まれたが、時は激動の時代。吉田松陰という、まれにみる純粋思想家、活動家、教育者に出会って革命児になった。
幕末、明治維新の先鋒となった藩の一つが長州藩である。下関市街地の隣が長府で、ここに江戸時代、長州藩の支藩である長府藩庁があった。下関は、長府藩に属していた。商港として栄え、この町が産んだ富が倒幕を支えたであろうことは想像に易い。
真っ先に訪ねてみたいところがあった。功山寺である。昭和五十二年にNHK大河ドラマ「花神」(司馬遼太郎原作)を見て以来、雪の功山寺を馬に乗って、一人明治維新の義挙ともいうべき行動を起こした高杉晋作のことが忘れられなかったからである。都落ちしていた三条実美らの公家にその意思を告げるためだったというが、彼は、その時「長州男児の心意気をお見せしましょう」と言ったという。九月、山門に至るモミジは緑を失っていなかったが、門をくぐると晋作の騎馬像が右手にあった。識見あり、詩才あり、行動力あり、その発想も破天荒で革命児にふさわしい。三十年に満たない人生を思い切り駆け抜けたという感じである。自分にないものを持つ人には憧れを持つものである。
高杉晋作は、最後は、結核となり病床の内に亡くなる。辞世の歌が残っている。

おもしろきこともなき世をおもしろく  棲みなすものは心なりけり
 
下の句は、勤皇歌人、野村望東尼がつけた。高杉晋作は、満足するかのように息を引き取ったという。二人の合作ということだが、

西に行く人を慕いて東行く わが心をば神ぞ知るらん

西に行く人は西行、彼は東行と称した。これは、彼の歌である。
  

Posted by okina-ogi at 19:01Comments(0)日常・雑感

2012年09月27日

茶聖千利休

茶聖千利休
 平成十六年三月七日、裏千家の十六代坐忘斎千宗室家元が群馬県榛名町にある天台宗光明寺に訪れた。梅の花は少し開き、晴れてはいたが、風の強い寒い日であった。この寺に眠る祖先に十六代目を襲名した報告と献茶を行うためである。
光明寺の開基は古く、鎌倉時代以前である。寺には、最澄(伝教大師)の像があって、除幕式には当時の天台坐主山田恵諦も立ち会っている。全国数多い天台宗の寺の中でこの寺が由緒ある寺であることを、像の建立が物語っている。
参道の突き当たりの門をくぐると、直ぐ右側の一画に、「茶聖利休居士太祖之塋域」と書かれた石碑があって、塋域には供養塔が置かれている。利休居士の太祖とは、里見義俊のことである。その兄は新田義兼でその末裔に鎌倉幕府の執権であった北条氏を滅ぼした新田義貞がいる。新田氏の三代前が源義家(八幡太郎)であるから利休の遠祖ということになる。さらに源義家は、清和源氏であるから、千家は天皇家にまで繋がる。里見義俊は、光明寺一帯の土地の地頭であり、一一七〇年に光明寺に埋葬されたことがわかっている。義俊の子の義清が田中氏を名のり、その末が利休だと言われているのである。利休は、泉州堺に生まれたが初めの姓は田中であった。名は与四郎である。
利休の前に千家についてふれてみたい。初祖千宗易(利休)の死後、茶道とともに千家の二代目となったのは利休の娘婿であった。少庵の子、つまり、利休の孫にあたる千宗旦は晩年、隠居所として今日庵を建てた。それを受け継いでいるのが裏千家である。
表千家は宗旦の隠居前の庵、不審菴をその子宗左が引き継ぎ、現在、十四代千宗左が家元である。両家は上京区にあり、史蹟名勝となっている。
武者小路千家は、宗旦の子宗守が興した。現在の当主も、十四代である。三五〇年の長き間、三家は家の継承に助け合うことがあった。徳川御三家は、紀州、尾張、水戸だが、分家は、宗家を絶やさないための知恵である。
裏千家十四代の淡々斎宗室は、同志社大学を卒業している。千家は、利休以来、大徳寺に禅の道を学び心の修行の場としてきた。茶と禅宗は中国宋の時代から古く深い関係がある。岡倉天心の「茶の本」にも書かれている。
同志社は、キリスト教を建学の基礎にして新島襄が創設した大学である。キリスト教と茶道、この組み合わせも明治という時代がもたらした流れかもしれない。裏千家茶道愛好者のための淡交会は、淡々斎宗室が始めたもので、今日では海外にも支部がある。その後、十五代鵬雲斎宗室も同志社大学に学び、現、家元坐忘斎宗室も同志社大学を卒業している。三代が続けて同志社に学んだ。
十六代は、同志社大学文学部文化学科心理学専攻で、一九七五年度に入学している。私事になるが、約二十年前、同窓会報を編集されていた恩師橋本宰先生から原稿依頼があり、送られてきた原稿が千宗之となっていた。肩書きには裏千家若宗匠とあった。現、家元が四年後輩だということを知った。「悲願と感受」というタイトルで原稿を出したことを覚えている。
 無論、家元とは面識があるわけではない。けれども、その人物が、我が家の菩提寺である光明寺を訪れるという二重の縁(えにし)に心ときめくものを感じた。一期一会というのは茶の世界に通じるものがある。手紙を書いたら、淡交会本部の関根さんという専務理事の方から達筆な封書に丁寧な返書が送られてきた。献茶会にご案内致しますというのがその内容である。
 群馬県の淡交会に所属する茶道の先生に便宜を計らっていただき、献茶会に出席することは出来たが、直接家元には会うことはできなかった。心にときめきを感じながら会えないということもある。
 午前九時半、定刻の時間に裏千家家元は光明寺に到着。黒塗りの高級車に乗って境内に入る。後部座席のドアが開き、出迎えの群馬淡交会の重鎮らしき人物と挨拶を交わし、本堂に向う家元の姿が目に入る。その身のこなしに高貴な印象は持った。翌日の新聞の地方紙に、「茶聖利休居士太祖之塋域」に合掌する家元の姿を見た。
 献茶会は、寺に増築された真新しい茶室で行われた。家元が茶を点てたのは限られた人達である。けれども、家元が寺を後にしてから、同じ茶室で茶を飲むことが出来た。茶席には、約四〇人程の人がいた。めぐり合わせか、正客の席に坐る人がいない。男性は数人。茶道の心得のない者が茶釜に最も近い席に坐らせられてしまった。
 何か役割があるとは知りながら、「特別な役割はありませんよね」と言って席に着いた。
大変な緊張感である。和菓子を頂き、黒塗りの茶碗でお茶を頂く。目の前で茶を点ててもらったのは正客の特権である。家元には茶をいただけなかったが、自分から望んだわけではなくその席に着いたことが、何かのめぐり合わせだったのかと今にして思うのである。
 掛軸があって、そこには
「真佛坐屋裏」と書かれている。茶席にいる人の中から、その意味を尋ねる人がいた。それこそ、正客の役割ではないか。
 振り返ってその掛軸を見たとき、今日の献茶式に相応しいものだと思った。意味は、「尊い仏様は、家の奥あってただ坐っていらっしゃる」
裏千家の「裏」、坐忘斎の「坐」、光明寺の「佛」が五文字の中に入っている。退席する時に気づいたのだが、家元の母君と、弟君の写真が飾られていた。伊住宗晃宗匠が他界されていたことは知らなかった。
 現家元の母、鵬雲斎宗室夫人のことは、『母の居た場所』中央公論社、千宗之著で知った。近江商人の出で、五個荘が先祖の地である。
 若竹の伸びや日の恩土の恩
という吉川英治の句があるが、現家元の両親の結婚式の仲人が吉川英治で、この句が鵬雲斎宗室夫人に贈られたことを始めて知った。鵬雲斎宗室は、水戸黄門を演じた、俳優西村晃と親しかった。特攻隊員だった縁らしい。裏千家の若宗匠が特攻隊員であったというのも凄い話である。
 『本覚坊遺文』という井上靖の小説がある。熊井啓監督により映画にもなった。利休がなぜ秀吉から死を命ぜられたのかを、三井寺の僧、利休の弟子本覚坊の追想のようにして語らせている。
 利休は一五二二年に生まれている。茶は、武野紹鷗に学び、侘び、寂びという独自の世界を確立し、茶の道を大成させた。宗祇らの俳諧を、蕉風という独自な芸術性を俳句に確立した松尾芭蕉との関係に似ている。
 利休は、織田信長、豊臣秀吉という権力者に仕えた。千姓は信長から与えられた。信長は、天下統一を目前にして本能寺で死ぬが、前日には茶会が開かれていた。戦国武士の間では、生死が背中合わせの日々に、利休が点てる茶に心を癒すことができたのであろう。古田織部、蒲生氏郷、細川三斎、キリシタン大名で知られる高山右近などの武士が、利休の門を叩いたのである。
 出陣の前に茶を点てることもあった。十五代鵬雲斎宗室も特攻隊員にヤカンで湯を沸かし茶を点てたという。秀吉から利休が死を賜ったとき、利休は申し開きをしなかったという。それは、自分の茶が多くの人々を死地に向わせたことへの、自戒の念もあったのではないかと言われている。
 秀吉は、信長の悲願を引き継ぎ天下統一を成し遂げた。下層農民から、実質的な日本の支配者になった、秀吉の政治的資質は、天運もあったであろうが、稀有なものであった。その秀吉が最後まで支配できなかったのが利休の心ではなかったかと思うのである。
 利休の造った茶室は、にじり口から身を屈めて入らなければならない。天下人、貴人も同じである。そして、数畳の狭い部屋で宗匠の点てるお茶を静かに飲むのである。
利休は、その茶室の周りに朝顔を弟子に植えさせ綺麗に咲かせた。それを知った秀吉が茶室を早朝訪ねると、あるべき朝顔は、全て刈り取られていた。そして、いつものようににじり口から茶室に入ると、利休がいて床の間にはただ一輪の朝顔が生けられていた。
金の茶室と質素な茶室に一輪の朝顔。これが秀吉と利休の茶を通した心の世界の違いとみることができる。京都北野での大茶会も秀吉らしい。ただ身分の差なく誰もが参加しても良いというところは、当時からすれば革新的な発想ではある。
 禅の言葉に「名利共休」というのがある。名誉もお金も求めない。そのかわりに自分の心が喜ぶことになる。「みょうりともにきゅうす」、千利休の名の由来である。
 権力者秀吉は、利休を恐れていたのではないだろうか。それは、表向き従順に茶人として振舞う利休ではあったが、どうしても支配できない利休の心の世界を感じていたからである。
 利休は、罪を犯して切腹したわけではない。人類の罪を一身に受けて十字架上に死んだキリストの死とも違う。
 小説『本覚坊遺文』の中に、不思議な場面がある。
掛軸に、ただ「死」という文字が書かれている。茶室にいるのは三人。ただもう日は暮れていて利休の他二人が誰なのか、控えの間にいた本覚坊の記憶には定かではない。利休ではない一人が言う
「無では無くならない、死では無くなる」
「無」という文字を掛軸にしたのではこの場の三人の心には相応しくないというのである。声の主は、山上宗二であり、彼は秀吉に茶を点て、その場で茶の心は秀吉の考えているようなものではないと言って殺されたと言われている。その時、耳や鼻を削がれたと言うから恐ろしい。もう一人は古田織部であるが、後年、家康に死を命ぜられている。豊臣方に通じたと言うのが理由だが、利休同様申し開きはしなかった。
 秀吉の暗殺を企てたという石川五右衛門の釜茹での刑は、てっきり水だと思っていたら油だったという話も聞いたことがある。秀吉が残酷だということを言っているのではない。権力という魔力が、人をしてこうした非人道的行為を生む可能性があるのである。
 利休が、秀吉により「死ね」ということになった理由は何であろうか。岡倉天心の『茶の本』には、利休が秀吉の飲む茶碗に毒薬を塗り、毒殺しようとしたからだと書いてあった。秀吉に告げた者があるらしい。利休の心の世界を支配できなかった秀吉でも、利休を殺したいというほどの憎悪は自ら起こすことはなかったと思う。権力者であったからの悲劇であったと言っても良い。井上靖の見解もそのように感じられる。
 利休と秀吉の最後の点前に
「死ななくとも良い」
と秀吉が言うと
「そうはまいりません、上様は利休に刀を抜きなされました」
と言う
「そう、強情を言うべきではない」
と秀吉は、利休が命乞いをして、自分に服従することを期待するが、茶室の床の間には、竹に短刀が刺さっている置物があり、利休の決意を表わしている。映画『本覚坊遺文』では、利休が三船敏郎、秀吉は芦田伸介である。
 死よりも心の自由が欲しいという人も中にはいるのである。こういう人は、一〇〇人に一人はいない。この時、利休が秀吉に
「お許しください」
と言っていたら今日の千家の隆盛はない。
利休は、弟子たちと別れの茶式に臨む。形見にと色々な品を贈るが、茶碗だけは譲らず「不幸の人のくちびるによって不浄になった器は決して再び人間には使用させない」と言ってなげうって割る。七十年の生涯であった。
 大徳寺の山門に自分の像を作って置いた、そのため天下人である秀吉がその下をくぐることになる。また、名声をよきことに茶器の値段を上げて利益を得たとか、秀吉の怒りに触れた理由は後世いろいろ言われているが、朝鮮出兵に苦言を呈したと言うのが、信憑性があるような気がする。徳川家康ら多くの有力大名ですら、秀吉に反論できなかった。茶とは心の平和をめざす道。利休なら言いかねない。
北原白秋が作詞した「城ヶ島の雨」という歌がある。
雨は降る降る、城ヶ島の雨
利休鼠の雨が降る
利休鼠とはどんな色なのか、茶聖利休の好んだこの色を一度見てみたいものである。
  

Posted by okina-ogi at 21:02Comments(0)日常・雑感

2012年09月27日

岡潔博士との一期一会

心に浮かぶ歌・句・そして詩26
月ぞしるべ こなたにいらせ旅の宿
             芭蕉
芭蕉が20歳頃の作品とされているこの句は、俳句を嗜む人にもさほど知られてはいないだろうと思う。しかし、この句は私にとって忘れられない句になった。25歳の冬、著名な数学者であった、岡潔博士を自宅に訪問し、お話を伺う幸運があった。お話というより、講義に近かった。このことが、我が人生行路の導きとなった。次の一文は、岡先生との対面した場面を綴ったものである。

 懐かしさということ
 下関の赤間神宮に岡潔先生揮毫の俳句二句が掛軸になって奉納されている。当社の神官をされている青田兄が、春雨忌に持参されるので暗誦することができる。その句は
  青畳 翁の頃の 月の色
  めぐり来て 梅懐かしき 匂いかな
 岡先生に教えられたことの一つに、過去が懐かしいというのはどういうことなのか、ということをあらためて考えるようになったことである。
 昭和五十二年二月十二日に、友人にたまたま連れられて、岡先生にお会いすることができたのだが、考えれば、先生が他界された約一年後、群馬県伊勢崎市在住の黒田兄をお訪ねしたときに
 「先生は、あなたをお呼びになったのですよ」
と言われ、とても不思議な気持ちとなり、何ともいいしれない緊張感を感じたのを覚えている。造化の存在をほのかに意識した人生の出発点になったからである。
 岡先生にお会いしたときの思い出というか、雰囲気、何か品のある香りのような気がしているのだが、私にとって忘れることのできない印象として残っている。どうしてなのか説明できるものではないが、目を瞑ると、いつでもあのときの情景が鮮明に浮かんでくるのである。それは、一言で言うと、ただ懐かしいというしかない。先生のお話の内容は、私にはわかりにくいものであったが、見知らぬ青年に、あれほど真剣に、誠実に高齢のお身体も忘れて語ってくださったお姿に先生の真心を感じざるを得なかった。それが懐かしさの源となっている。私は、それまでの人生の中でこのような方にはお会いしたことはなかった。
 過去の情景が鮮明で懐かしいその場面に少し立ち戻ってみたい。面会を頼んだ友人が、私を上座につかせたために、先生と直接対面することになってしまった。今から考えると、幸運だったのかもしれない。人は、対座して会うべきである。先生は時おり目をつぶり、やや上方をみるように、心の流れるままに語られ、質問の余地はなかった。実際、友人が質問すると叱られた。先生のお話は、知識を教えているのではないことを、二十五歳の青年だった私でも、正面で聴いていて直感的にわかったから友人の質問がもどかしかった。
 私の質問は二つ。お話の流れは切らないように配慮したつもりではあった。仏教のことに触れられ
 「心を説明するのに仕方なく仏教の言葉を借りているが、〝ショカク〟ということが大事です」
とおっしゃったので、私が
 「〝ショカク〟と言う字は、どのような字ですか」
と尋ねると
 「初覚です。悟という字は私は好まない」
 二番目の質問は、先生のお話があまりにも断定的で、叱られた友人への同情もあって
 「・・・かもしれない」
とおっしゃったので
「先生にもおわかりにならないことがおありでしょうか?」
と言うと
 「見るもの全てわかります」
と強く答えられたが、不思議と叱られた感じがしなかった。若気の至りというか、ずいぶん傲慢な質問をしたものだと思う。その後、先生の口調は優しい響きとなり
 「川は明日も同じところを流れ、道もまたそのようであり、自然には法則があって安定している。全ては造化(大自然の善意)によって生かされている。心のないものはなく石にも心があります。自分が生きているなんて思わないこと。謙虚におなりなさい。でもあなたは、わかっているかもしれないな」
当時、職にも就かず、如何に生くべきか深刻に悩んでいたときで、自分の心をわかってくださる方がいるような気持ちになり、しかも心を洗われるような気分となり、涙がとめどもなく流れ、廊下に失礼させていただいた。その後、さわやかな気持ちが何日も続いた。一方、岡先生のお心を理解する人は、この世に少ないだろうと、孤高な先生の心境を想わざるを得なかった。別れぎわ、玄関までご不自由な体ながら見送ってくださったときの言葉も忘れられない。
 ひざを組んで座られながら
 「ここ(首)から下は、だめだけど頭は大丈夫、タクシーよびましょうか」
という言葉が、私にとって先生の肉声の最後となった。
 「見たいところがありますので、歩いて帰ります。先生お体大切になさってください。ありがとうございました」
奈良公園界隈の景色がなんともいえない深遠さを持って見えたのを覚えている。あのときからはや二十一年の歳月が流れている。
 私にとって懐かしさは、先生の言葉を借りれば、日本民族の心のいろどり、青田兄が編集されている「真情」に源を発しているのだと思う。先生にお会いする機会のあった人は数多くいると思うが、〝春雨忌〟に集う方々に接して感じることは〝共通した懐かしめる過去〟を持っていることである。今、先生の「真情」を一番良く体現されているのは、お嬢様である松原さおりさんだと思うが、いつも遠方にあって、お心遣いに感謝している。
            (平成十年「真情会」発行、岡潔先生二十年祭記念号掲載)
  

Posted by okina-ogi at 19:00Comments(0)日常・雑感

2012年09月26日

フェルメールの作品

9月8日(土)、鹿児島の友人が上京し、再会を約して東京に出掛けることにした。上野の国立西洋美術館と東京都美術館で、オランダの黄金時代の画家であるフェルメールの作品が展示されている。ここ10年間、絵画を始め、芸術作品を鑑賞する趣味ができ、国立東京博物館のパスポート会員になっている。このパスポートは、全国の国立博物館でも使用できるので、旅行の友でもある。今回は、会場が違うので、有料になったが国立西洋美術館で「真珠の首飾りの女」を見た。ベルリン国立美術館からの出品だが、それほど大きな絵ではない。たった1枚の絵に人だかりがして良く見られなかったが、魅力的な絵である。一方、東京都美術館では「真珠の耳飾りの少女(青いターバンの少女)が展示されている。友人との待ち合わせ時間もあるので「真珠の首飾りの女」に会う事にしたのであるが、フェルメールの作品は、世界の多くの美術館に点在しているので、上野の森で両方見ることができるというのは千載一遇の機会であった。
フェルメールが良いという日本人が多くなって、近年この画家の絵を日本で見られる機会が多くなった。レンブラントもフェルメールと同時代のオランダの画家である。時代は、違うがゴッホもそうである。絵の質は、異なるが3人に共通しているのは、光の存在である。暗闇を照らして浮き上がる人物は、レンブラントの絵の特徴であり、ゴッホは、南仏に光を求め、絵が明るくなった。フェルメールは、窓辺から注ぐ光で人物を描いている。オランダという風土と無関係ではないと思う。
  

Posted by okina-ogi at 20:30Comments(0)日常・雑感

2012年09月25日

心に浮かぶ歌・句・そして詩25


大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鷗立ち立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は

万葉集に出てくる、舒明天皇の国見の歌である。奈良三山(香具山、耳成山、畝傍山)には、いまだかつて登ったことがない。舒明天皇は、女帝であった推古天皇の後継として即位された。天智天皇、天武天皇の父である。川原寺跡や石舞台あたりを若い時散策をしたが、今度は、山から眺めてみたいと思う。駄句ではあるが

石舞台 あたり昭和の緑濃き

 昭和と言っているから、四半世紀以上前の句で、20代の後半だったかもしれない。

  

Posted by okina-ogi at 19:46Comments(0)日常・雑感

2012年09月25日

心に浮かぶ歌・句・そして詩24

おおいなるこの静けさや天地の
          時誤またず雀鳴く
群馬武尊山の麓川場村の歌人江口きちの辞世の歌である。便箋に綺麗に書かれた直筆のこの歌を先年、川場村歴史民俗資料館で見たが、カルモチン服毒後の朝、薄れ行くであろう意識の中で詠んだとは思われなかった。大自然の営みをこれほどに感じるのであれば、何故に自ら死を選ぶことがあろうかと強い哀惜の念を持った。

  

Posted by okina-ogi at 07:24Comments(0)日常・雑感

2012年09月24日

法律門外漢のたわごと(雇用保険法②)

失業した時の、一番のセーフティネットは、雇用保険ではなく、家族だと言ったら言い過ぎでしょうか。兄弟は、他人の始まりといいますから、セーフティネットの範囲には入れられないかもかもしれませんが、雇用保険のない時代は、親戚の間で助け合って生きてきたと思います。貧困に苦しんだ啄木などは、友人にも頼ったようですが、友人間の金銭のやりとりは、友情を失う可能性もあり、額の大きい貸借はしない方が良いと思います。
できたら一生雇用保険(失業給付の部分)を受けないようにしたいなどと、保険を「管掌」している政府が聞いたら喜ばれそうな人も中にはいると思いますが、こうした人には政府から報奨金のようなものを出してもらってもいいのではないかと思います。
報奨金とは、言っていませんが「高年齢者給付金」という制度があります。「高年齢継続被保険者」(65歳以上)が、退職した時に、申請すれば一時金で支給されます。「基本手当日額」の30日または50日分を受け取ることができます。お孫さんのいる人なら、入学祝にランドセルを買っても、温泉旅行に奥さんを連れて行けるくらいのおつりがくるでしょう。しかし、「高年齢者給付金」も失業給付が目的になっていますから、失業認定の時に、失業して困っているからお願いしますという建前でいただいてください。
  

Posted by okina-ogi at 07:42Comments(0)日常・雑感

2012年09月23日

法律門外漢のたわごと(雇用保険法①)

 仕事がなくなると、当然収入がなくなり生活に困ってしまいます。雇用保険は、失業保険とも言われるくらい、失業対策を中心にしていますが、失業していなくても給付される制度があります。
 「教育訓練給付金」というのがそれです。どのような人がどのような場合に給付されるかということです。細かいことは、御自分で調べてください。こういう制度があるので、活用してはいかがですかということにとどめておきます。雇用保険に3年以上加入している人(初回は1年以上の加入)であれば資格があります。上限額は、10万円で、その2割が支給されます。かつては、上限30万円、8割支給などという黄金時代があったのですが、2割負担してくれるというのもありがたい話です。私などは恥ずかしながら、2回もお世話になっています。恥ずかしながらというのは、同じ社会保険労務士試験のための通信講座で申請したからで、何度か試験を受けて落ちたということですから。
 「教育訓練給付金」支給対象の資格取得プログラムはたくさんありますが、厚生労働省の指定を受けているものに限られます。修了証も必要ですから、途中で投げ出してしまった場合はだめです。不況でいつリストラに会うかわからない時代ですから、仕事をしている間にも、生涯学習として自分に合った知識を身につけておきたいものです。私のように、職場の同僚に、いつまで経っても資格が取れないので「求道者のようですね」とからかわれても我が道を行くということです。
  

Posted by okina-ogi at 09:27Comments(0)日常・雑感

2012年09月22日

心に浮かぶ歌・句・そして詩23


八雲立つ出雲八重垣妻ごみに
         八重垣作るその八重垣を  
                       スサノオノミコト
古事記に登場する我が国最初の歌といわれるこの歌は、結婚を祝す歌である。相手はクシナダ姫である。壮大な歌である。古来から神道は、男女二神である。素朴といえば素朴であるが真実であろうと思う。愛しき者は、男からすれば女、女からすれば男、真に愛しくあるかが問題である。
  

Posted by okina-ogi at 08:32Comments(0)日常・雑感

2012年09月20日

韓国にも故郷の歌がある

心に浮かぶ歌・句・そして詩22
韓国にも故郷の歌がある。「故郷の春」というタイトルになっていて、韓国の人は小学校で習うらしい。この歌を、辛淑玉(シンスゴ)さんから聞いた。もう10年以上前のことになるが、彼女が榛名を訪ね、しばらく滞在したことがあった。街の「おじさんたち」としばしの交流があった。辛淑玉さんは、反日運動家のようなレッテルが張られた、テレビ出演でも知られるタレントだが、なかなかおくゆかしい感じのする女性だった。宴会の席では「この町の人は皆セクハラ人間だわ」と笑っていたが、田舎の人情深い触れあいが気に入ったようだった。彼女のファンである永六輔が彼女の滞在中、飛び入りで講演に来たこともあった。
その後、お礼のCDなど頂いたが、年賀状に「あなたの批判する日本を良くしたい」
と書いたら、それきり手紙は来なくなった。やはり、反日や差別という問題にこだわるところがあるのかと思った。しかし、この歌を教えてくれた恩は忘れないようにしよう。今は竹島問題で日韓の間がぎくしゃくしているが、この歌の心情を理解できれば、友好の扉は開けるかもしれないと思う。
「故郷の春」
ふるさとはやまあいの花の里
桃の花杏の花かわいいつつじ
やまいちめんの花屏風
とびはねたあのころがなつかしい
  

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2012年09月20日

心に浮かぶ歌・句・そして詩21

倭は 国のまほろば
  たたなづく 青垣
  山籠れる 倭しうるわし
国偲びの歌は、奈良を訪ねる旅に脳裏に浮かぶ。明日香あたりに行くとその感を強くする。この歌から、古代の悲劇の英雄、日本武尊のことを想起する。以前、友人たちと、鎌倉、江の島、三浦半島を旅行したことがあった。日本武尊について触れている。

  三浦半島、鎌倉へ(一部抜粋)
旅の初日の訪問地に観音崎を選んだのは、春雨塾の人達らしい。ここには、日本最初の洋式灯台があるが、現在のものは三代目である。初灯は明治二年と入場券に書いてある。灯台からの浦賀水道の眺めも素晴らしいが、近くに走水という古い地名があって、日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征の折、対岸の上総の国(千葉県)へ船を漕ぎ出したのが走水である。古事記と日本書紀に、表現は少し違っているが、荒れた海の中に、海神の怒りを鎮めるために夫人の弟橘媛(おとたちばなひめ)が身を投じたとされる話が載っている。遠い昔の出来事に想いを馳せるのも良い。
 一九九八年、皇后陛下が、インドのニューデリーで「子供の本を通しての平和―子供時代の読書の思い出―」と題して講演された。先年、出雲大社に参拝したとき、皇后陛下のご講演の内容が小冊子になって無料配布されていた。その中に弟橘媛の話が載っている。少し長いのだが、実に深い印象を、子供の頃の皇后陛下の心に落とした物語として語られている。

「父のくれた古代の物語の中で、一つ忘れられない話がありました。
 年代の確定できない、六世紀以前の一人の皇子の物語です。倭建御子(やまとたけるのみこ)と呼ばれるこの皇子は、父天皇の命を受け、遠隔の反乱の地に赴いては、これを平定して凱旋するのですが、あたかも皇子の力を恐れているかのように、天皇は新たな任務を命じ、皇子に平穏な休息を与えません。悲しい心を抱き、皇子は結局これが最後となる遠征に出かけます。途中、海が荒れ、皇子の船は航路を閉ざされます。この時、付き添っていた后、弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)は、自分が海に入り海神の怒りを鎮めるので、皇子はその使命を遂行して覆奏してほしい、と言い入水し、皇子の船を目的地に向かわせます。この時、弟橘は、美しい別れの歌を歌います。
 さねさし相武の小野に燃ゆる火の火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも
 このしばらく前、建(たける)弟橘とは、広い枯れ野を通っていた時に、敵の謀にあって草に火を放たれ、燃える火に追われて逃げまどい、九死に一生を得たのでした。弟橘の歌は、『あの時、燃えさかる火の中で、私の安否を気遣ってくださった君よ』という、危急の折に皇子の示した、優しい庇護の気遣いに対する感謝の気持ちを歌ったものです。
 悲しい『いけにえ』の物語は、それまでも幾つかは知っていました。しかしこの物語の犠牲は、少し違っていました。弟橘の言動には、何と表現したらよいか、建と任務を分かち合うような、どこか意志的なものが感じられ、弟橘の歌はー私は今、それが子供向けに現代語に直されていたのか、原文のまま解説が付されていたのか思い出すことが出来ないのですがーあまりにも美しいものに思われました。
『いけにえ』という酷い運命を、進んで自らに受け入れながら、恐らくはこれまでの人生で、最も愛と感謝に満たされた瞬間の思い出を歌っていることに、感銘という以上に、強い衝撃を受けました。はっきりした言葉にならないまでも、愛と犠牲という二つのものが、私の中で最も近いものとして、むしろ一つのものとして感じられた、不思議な経験であったと思います。
 この物語は、その美しさ故に私を深くひきつけましたが、同時に、説明のつかない不安感で威圧するものでありました。
 古代ではない現代に、海を静めるためや、洪水を防ぐために、一人の人間の生命が求められるとは、まず考えられないことです。ですから、人身御供というそのことを、私が恐れるはずはありません。しかし、弟橘の物語には、何かもっと現代に通じる象徴性があるように感じられ、そのことが私を息苦しくさせていました。今思うと、それは愛というものが、時として過酷な形をとるものなのかもしれないという、やはり先に述べた愛と犠牲の不可分性への、恐れであり、畏怖であったように思います。
 まだ、子供であったため、その頃は、全てをぼんやりと感じただけなのですが、こうしたよく分からない息苦しさが、物語の中の水に沈むというイメージと共に押し寄せて、しばらくの間、私はこの物語にずい分悩まされたのを覚えています」

愛は犠牲である。けれども死をもって示す愛があるのかということが少女として理解の範囲を超え、息苦しさという表現で語られたのだと思う。
夫の日本武尊は、齢三十の生涯であったと伝えられている。
  

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2012年09月19日

椰子の実    島崎藤村

心に浮かぶ歌・句・そして詩20

椰子の実    島崎藤村

名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 椰子の実一つ

故郷(ふるさと)の岸を 離れて
汝(なれ)はそも 波に幾月(いくつき)

旧(もと)の木は 生(お)いや茂れる
枝はなお 影をやなせる

われもまた 渚(なぎさ)を枕
孤身(ひとりみ)の 浮寝(うきね)の旅ぞ

実をとりて 胸にあつれば
新(あらた)なり 流離(りゅうり)の憂(うれい)

海の日の 沈むを見れば
激(たぎ)り落つ 異郷(いきょう)の涙

思いやる 八重(やえ)の汐々(しおじお)
いずれの日にか 国に帰らん

この詩は、曲になっているが、この詩の発想を得たのは、民俗学者で知られる柳田國男の話を聞いたことによる。柳田國男が東京帝国大学の学生だった頃、伊良湖崎に療養していたことがあった。浜辺に打ち上げられた椰子の実が南の海から遠い旅をしたことに、いたく感激したことを藤村に話すと、それを詩にしてしまったのだ。柳田の了解はとったが、後に彼が著述しなければ、藤村の創作で通ってしまったかもしれない。柳田國男は、若い頃から詩を作り、島崎藤村とも交流があった。
  

Posted by okina-ogi at 20:59Comments(0)日常・雑感

2012年09月19日

柳田國男と島崎藤村の詩の世界の対比

柳田國男と島崎藤村の詩の世界の対比

明治30年、柳田國男は、学生ながら将来詩人としても大成してもおかしくない文学青年であった。この年島崎藤村は、「若菜集」を発表し、一躍脚光を浴びた。かの有名な「初恋」もこの詩集に載っている。
   「初恋」
まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり


やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅の秋の実に
人こひ初めしはじめなり


わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃を
君が情に酌みしかな


林檎畑の樹の下に
おのづからなる細道は
誰が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ
柳田國男は、この頃松岡國男といった。彼の詩を紹介する。『哀調の旋律』―柳田國男の世界(亀澤克憲)からの引用になる。
「春の夜」
をぎつねきつね 春の夜を
せめてはなくな 故さとの
わら家の鳩が たまさかに
むかしの我を 思い出でて
夢に見にこん おぼろ夜に

一方、若菜集に載った藤村の詩は
「狐のわざ」
庭にかくるる小狐の
人なきときに 夜いでて
秋の葡萄の 樹の影に
しのびてぬすむ つゆのふさ

恋は狐に あらねども
君は葡萄に あらねども
人しれずこそ 忍びいで
君をぬすめる 吾心

この二人の詩をどのように比較して読むか。藤村の狐には化かされそうである。
  

Posted by okina-ogi at 07:29Comments(0)書評

2012年09月18日

『哀調の旋律』―柳田國男の世界

哀調の旋律』―柳田國男の世界  
亀澤克憲 本田企画 定価2000円+税

亀澤克憲さんのことは、フェースブックを通じて知った。私の友人の友人ということで、この本の存在を知ったのである。面識もなく、大変失礼とは思ったが、亀澤さんに「本を読ませていただきたい」とお願いしたら、数日後、自宅に著書が届けられた。直筆で「謹呈」と名前入りの栞が入っていた。早速お礼の手紙を書き、最近書いた拙著紀行『白萩』・『侘助』(いずれも非売品)をお送りした。
連休16日、17日に読ませていただいた。柳田國男については、『遠野物語』の著者で民俗学者だという程の知識しかなかったので、実に新鮮な内容であった。亀澤さんは、若い時から民俗学をやられていたことも知ったが、詩集も出されている。詩人は、言葉を大切にするだけでなく、言霊に触れる感性を持っている。思索の内容が深く、私のような散文的な人間には、読み進むのに苦労がいる。新鮮な内容と言ったのは、柳田國男が紀行文を多く書いていた事実である。もう一つは、一高、東京帝大、農商務省、貴族議員書記官長というエリート官僚と進みながら、40代で官を辞し、民俗学研究に進み、その手段が取材旅行の形をとり、江戸時代に生きた菅江真澄を手本としたこと。官僚になる前に、文学、とりわけ新体詩の創作により、島崎藤村や、田山花袋との交流があったことである。読み進んでいくと、タイトルの「哀調の旋律」という表現の意味が分かってくる。柳田國男は、日本の民衆の生活の歴史の中に、日本人の素質を見ようとした。そのまなざしと態度が哀調の旋律と無関係ではない。彼の職歴とは、対象的に生き方は俗世的ではない。島崎藤村と絶縁したことの背景にもそのあたりの事情がある。この本は、亀澤克憲さんのライフワークと言っても良く、長年の柳田國男への想いと、研究の積み重ねによって生まれた。
  

Posted by okina-ogi at 06:28Comments(0)書評

2012年09月17日

心に浮かぶ歌・句・そして詩⑲

名優、森繁久彌は詩の才能もあった。今では、加藤登紀子の持ち歌になったような感がある「知床旅情」は、彼の作品である。作曲も森繁久彌である。国民の多くに支持され歌われているので一番の歌詞だけ記す。

知床(しれとこ)の岬に はまなすの咲くころ
思い出しておくれ 俺たちのことを
飲んで騒いで 丘にのぼれば
遥(はる)か国後(くなしり)に 白夜(びゃくや)は明ける

2番、3番で加藤登紀子が、歌詞を微妙に変えたとして、森繁先生にお叱りを受けたというが、それほど角を立てなくてもと思うが、原作で歌うべきだろう。かの有名な、「荒城の月」の滝廉太郎の原曲をほんの一部半音、山田耕作が変えたという前例もある。

山口県の瀬戸内海の島に、帝国海軍の回天の特攻基地があった。その場所にできた記念館を訪ねたことがある。そこに、森繁久彌の詩があった。

浮きつ島鼓海を訪ふ
                  森繁久彌
天を回せよ
今は嗚呼
鼓海の波は静かなり
その勲(いさお)しの
あとや 哀し
大津島に鎮もれる
魂々よ
静かに思ふ
人生に無駄なものが
あらふか
眠れ友よ
碧き 海に
  

Posted by okina-ogi at 18:22Comments(0)日常・雑感

2012年09月16日

心に浮かぶ歌・句・そして詩⑱

作家、井伏鱒二は、漢詩の名訳者としても知られている。太宰治の師匠のようにして、公私にわたり、無頼の太宰の面倒をみた。次の詩は、人生の機微を味わい深く表現して、時々酒席などで唸ってみたくなる。この詩を始めて教えてくれたのは、彫刻家の友人である。30代であった頃、三笠山の見える奈良公園あたりを歩いていた時だったであろうか。

「勸酒」(干武陵)
柳川は、水郷の町でもあり、文学の香りのする街である。北原白秋の存在が大きい。『火宅の人』を書いた壇一雄の墓所がある。女優壇ふみの父親である。無頼派と言われ、太宰治らとも親しかった。読売新聞に書いていた壇ふみの父親評が面白かった。作家として世に認められた父ではあったが、酒と愛人に明け暮れた人生に翻弄された「火宅」の一員である娘は、
「あれだけ生きたいように生きられた人には、もう『おめでとう』と言うしかありません」
と達観し、そして
「人は一人で生まれてきて一人で死んでゆく。でも、人を愛せずにはいられない。そのテーマで人生を文学にしたのが父だと思います」
娘も人生を深く見つめる歳になった。
酒と言えば、太宰治ら弟子にもてはやされた、井伏鱒二の漢詩「勸酒」(干武陵)の名訳を思い浮かべたくなる。壇一雄もその詩を口ずさみながら文人仲間で文学論、人生論を談じた光景をふと柳川に来て想像した。
原作は、五言絶句で
勸君金屈巵  満酌不須辞  花発多風雨
人生足別離
〈この酒づきを受けてくれ
 どうぞなみなみつがしておくれ
 花に嵐の喩えもあるぞ
 「サヨナラ」だけが人生だ〉
平易な訳に見えるが、なかなか奥行きと味わいがある。最後の「サヨナラだけが人生だ」のところの余韻に魅せられて、太宰などは本当に自らの人生を絶ってしまった。壇一雄だったら「(人間なんて欲望さ)サヨナラだけが人生だ」と付け加えたに違いない。娘壇ふみが言うように自分という存在を知ってほしいという愛の尽きることのない希求者には、キリスト的愛を語ったり、行為したりするのは、うっすらと感じていても気恥ずかしかったのではないだろうか。京都清水寺管主として百歳を越える長寿であった大西良慶は、人間の欲望を薦めてはいないが否定はしなかった。人生一筋縄ではいかない。
  

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2012年09月15日

時代祭そして明恵上人

十月二十二日は、京都の三大祭のひとつ「時代祭」が行なわれる。今年で一〇二回となる。明治二十八年に第一回が開催されたのだが、この年は、桓武天皇が京都に都を移した年(平安遷都七九四年)から一一〇〇年に当り、平安神宮が創建された年でもある。第二次世界大戦などがあって中断されたこともあったが、平安講社を中心にして京都市民によって今日まで毎年開催続けられているのである。平安神宮に祀られているのは桓武天皇と孝明天皇であり、行列は、明治維新から平安時代へと時代を遡るようにして続く。出発地は、京都御所。到着地は、平安神宮である。コースは、時代によって異なるが、現在の交通事情も配慮して、烏丸通から御池通、河原町通から三条通と進むのである。
この日、とんだ勘違いで隊列が出発する時間を午後二時だと思い込んで、御所をバックに写真を撮る目的が果たせなかった。旅の同行者である友人に携帯電話で連絡したから気づいたのであるが、三条大橋までタクシーを飛ばし、先頭を歩く幕末の志士の列を見ることができた。彼は、思い通りのロケーションで撮影ができたらしい。ホテルから先発した方は、京都国立博物館で美術観賞したり、近くにある豊臣秀頼が、徳川家康に言いがかりをつけられた方広寺の鐘などのんびり眺め感傷に耽っていたのが悪かった。鐘に刻まれた、「国家安康」「君臣豊楽」だったか、家康の家と康を離し、豊臣の繁栄を願った文が家康を侮辱したというのである。天海という政治僧の知恵だというが、悪知恵を働かす人間はいつの時代にもいるものである。方広寺には、大仏もあったというが、当時の面影は少しばかり残った石垣だけになっている。友人に電話したのはこの後すぐだったのである。
京都国立博物館は、今回の京都旅行のメインにした高山寺の鳥獣戯画など所蔵しているのだが、常設展に展示されていなかった。雪舟の天の橋立図、頼朝の人物像も見られなかった。収穫と言えば、坂本龍馬の手紙を小冊子に特集してあったので買うことができたことくらいである。仕方ないので、お土産に買ったポストカードを眺めて我慢することにした。この日は、暑いくらいの秋晴れで、青空の下、一九八七年に片山東熊が設計し、竣工したレンガ造りの旧館の全容を初めて見ることができた。ロダンの考える人の彫刻と実によく調和している。入場門も同じ設計者のもので、門をいれて建物を写したら満足のいく写真になった。
三条大橋は人出で溢れている。車道は行列が進むので観光客は入れない。橋を渡りきるのに一〇分近くかかってしまった。立錐の余地がないとはまさにこのようなことを言うのだろう。
撮影場所を決めたいと思うが、車道の脇には先着の観光客が坐っている。どこにしようかと探しているうちに池田屋事件のあった場所の向かいに来てしまった。先頭が維新ゆかりの行列ならば、近代ビルの店が並んだ場所でも池田屋騒動之跡地の石碑がある場所でも良いと思った。
池田屋事件というのは、尊王攘夷思想の志士が密会している場所を新撰組に探知され、肥後藩の宮部鼎蔵や長州藩の吉田稔麿などが闘死した事件で、この事件が元で長州藩は、蛤御門の変(禁門の変)を起こすのである。御所を守る薩摩藩と会津藩を主力した公武合体派に破れ、久坂玄瑞は自刃した。彼は吉田松陰の松下村塾にあって、高杉晋作と共に双璧とうたわれた人物である。二十五歳の若さであった。吉田松陰は妹を久坂玄瑞の妻とする程その才覚を高く評価していた。その久坂玄瑞は、「七卿落」のメンバーの一人となって行列に登場している。ただし、昭和四十一年からの出場である。時代祭も、戦後になって婦人列が加わったりしてその内容は、少しずつ変わって来ている。中学生くらいの子供達が横笛を吹きながら進む勤王隊は圧巻であった。錦の御旗も隊列に加わっている。
隊列は、江戸時代、安土・桃山時代、吉野時代、鎌倉・室町時代、藤原時代、延暦時代と続くのであるが、この時代区分は、時代祭特有のものであって、隊列の先頭に立つ旗に書かれている。その流れに沿って主なものを揚げる。解説をつけると長くなるので列のタイトルだけにする。江戸時代婦人列。和宮、出雲阿国などが登場する。豊公参朝列。織田公上洛列。楠公上洛列。中世婦人列。大原女、桂女、淀君、静御前が登場する。城南流鏑馬列。藤原公卿参朝列。平安時代婦人列。巴御前、常盤御前、紫式部、清少納言、小野小町等が登場する。延暦武官行進列・文官参朝列。そして最後は、神幸列である。最後だけは説明したい。平安神宮が桓武天皇と孝明天皇をお祀りしていると言ったが、両天皇の御鳳輦(ごほうれん)に神職が前後に付き従って進むのである。神輿の屋根には鳳凰が乗っている。その後に、弓箭組列が続くのであるが、桓武天皇平安遷都の際、その警護にあたった人々である。
長時間立ってカメラを構えていたら、腰が痛くなった。一一〇〇年の歴史を三時間に短縮して見せてくれるのだから文句は言うまい。ただ、時代祭は、京都から見た歴史風景であり、さらに言えば京都朝廷から見た歴史である。都というのは天皇のいる場所なのだから当然ではある。しかし、東京に遷都されてから京都市民が〝天皇さん〟と親しみを持ち、畏敬の念も抱きつつ、一〇〇年以上も毎年多くの観光客を引き付け、時代祭を続けていることは、賞賛に値する。
旅の余話になるのだが、時代祭の前夜、知恩院の三門でオーケストラと中国の二胡と日本の琴、横笛奏者を加えたコンサートがあった。三門は道路側からライトアップされ、境内の三門側が石舞台になって、照明に浮かび上がる。実に幻想的な雰囲気になっている。夜空に星も見え、聴衆は三門から真直ぐにのびた石段に腰掛けて演奏を聞くという設定である。文化庁舞台芸術国際フェスティバルの一環としての「アジア・スーパー・クラシック@知恩院」と名をうった公演で、開場が午後六時半からの第三部「トワイライト・コンサート」を聞いたのである。日中韓の近年の名作映画に使われた音楽が演奏されたのだが、坂本龍一が作曲した「ラスト・エンペラー」のテーマ曲、武満徹の「他人の顔」のワルツ、プッチーニの歌劇トゥーランドット(トリノオリンピックのフィギュアスケートで金メダリストになった荒川選手の〝イナバウアー〟の演技に使われた曲)が印象に残った。二胡の演奏者は、姜 建華(ジャン・ジェンホワ)で世界的指揮者である小澤征爾を感動させた女性奏者である。
知恩院は、法然上人開基の寺である。明恵上人の寺を訪ねる前に、親鸞上人ほどではないが少なからず影響を与えたであろう人の寺でコンサートを聞くことになったのも何かの巡り合わせかも知れないが、旅の同行者瀧澤さんの配慮だと感謝したい。入場料は無料なのだが、事前申し込みによる整理券が必要だったのであるが、瀧澤さんのおかげで招待席に坐ることができたからである。彼は、音楽のプロデューサーを長年していて、全国にその関係者が多くいる。この企画に彼の友人が関わっていた。
演奏中、〝知恩院の七不思議〟の一つである三門の傘がどこにあるかという考えが浮かんできた。池田弥三郎の『京都故事物語』で読んだために知っているのだが、実物を確認したことがない。やはり、夜では無理なのか、ふと意識に上っただけではあった。
「小野小町と知恩院の傘は濡れずささず骨となる」
くだらないざれ歌だけは覚えているのだが、高山寺に行ったら明恵上人に邪念を洗ってもらわなくてはならない。

旅の最終日は、昨日までとうって変わって曇り空になった。降水確率も高い。栂尾の高山寺行きは、単独行動になった。恋に疲れているわけではないが、男一人である。京都駅から高山寺までは、JRのバスが出ている。片道五十分、都の西北にある立命館大学の衣笠校舎、仁和寺などを経由して行くが、市街地からそれほど遠くはない。しかし、山間に少し入ると道路の両側に山が迫り、明恵上人の時代でなくても、俗世から離れて修行する場所にふさわしく感じられる。清滝川が流れ、楓が多くあって、紅葉のシーズンは車が渋滞する程の人手となる。この日は、月曜日であり、紅葉には早く雨の予報が出ていることもあり訪れる人もまばらである。
高山寺の名の由来は、後鳥羽上皇の勅額「日出先照高山之寺」による。国宝石水院に掛けられている。寺は、奈良時代の末に開創されていたが、明恵上人により復興されたのである。上人の教えに帰依した人々は上級公家が多かった。近衛家、鷹司家、西園寺家がそうであった。藤原氏一門にとっては、氏神鎮守春日明神と同じくらい氏寺のごとく保護された寺である。
高山寺に多くの国宝、重要文化財があるのだが、本物は京都国立博物館が所蔵保管している。石水院に置かれているのは、レプリカで、知らない人には本物だと言っても疑いを持たないかもしれないが、ごく自然に院内に置かれているからやはりコピーと思うだろうか。
「仏眼仏母像」(国宝)と「明恵上人樹上座禅像」が掛けられてあって、その近くには、明恵上人が手元に置いていた運慶作と伝えられる木彫の小犬がケースに収まっている。入場者も数人で出入りする人もほとんどなく、長く上人の像の前に坐り続け、久しく像を見つめ、時に目を瞑り、想像できる限りの明恵上人を想った。
明恵上人を最初に意識したのは、二十代半ばの頃で、三十年も前になる。〝紹介者〟は、数学者岡潔氏のエッセイのどかにあった明恵上人の歌の解説であったような記憶があるが定かではない。ご縁があって、岡先生の没後、墓参と追悼の集いになった春雨忌に出席した時に、出席者の口から岡先生が語ったことして聞いたのかもしれない。
京都から帰ったらポストに赤間神宮の青田國男さんが編集する『真情』第六十四号が届いていて、ページをくくると、いつものように京都産業大学での岡先生の講義録が載っていて、明恵上人の歌に触れていてその評がある。
隈もなく照れる心の輝けば 
わが光かと月思うらむ
雲を出てわれに伴ふ冬の月 
風や身に沁む雪やつめたき
山の端にわれも入りなむ月も入れ 
夜な夜な毎にまた友とせむ
いずれの歌にも心に濁りがないという。そして仏教では真我というが、岡先生の直接の表現ではないが、私心がきわめて少ない人であると言っている。明恵上人という人は自分という存在をなるべく小さくしながら、仏の導く道を追究してやまなかった人のように思う。
 今年の七月に、北茨城の五浦に岡倉天心の六角堂を訪ねた時、岡倉天心がインドに惹かれていったと同じようにインド(天竺)に本気で渡ろうとした僧の存在を知った。上恵上人その人だった。仏教の教えというよりは、釈迦その人を慕う純粋な気持から天竺に渡ろうとしたというのである。そのことがあって、人なりを詳しく知りたいと思うようになった。白州正子の『明恵上人』、文化庁長官で心理学者の河合隼雄の『明恵 夢を生きる』はとても参考になった。河合先生は、ユングの研究者で、大学時代京都にいたので、箱庭療法などを通じて勉強させていただいたことを覚えている。最近脳梗塞で入院したという記事を見たが、お元気なのであろうか。
 明恵上人は、一一七二年に生まれ六十歳まで生きた。鎌倉時代初期の宗教家である。紀州和歌山の生まれで、父親は平重国という平家の武士であった。母親は、紀州の豪族であった湯浅氏の娘である。明恵は、若くして相次いで両親を亡くす。母親は、八歳の時に死に、父親は、九歳の時に、頼朝挙兵の中で戦死した。叔父にあたる上覚に頼って高雄に入山する。上覚は文覚の弟子であった。文覚は、荒法師として知られているが、東寺や神護寺の再興に貢献している。周旋家というか、政治に首を突っ込み過ぎ、島流しになったりしている。僧になる前は武士で、友人の妻を切り殺すという履歴の持ち主である。明恵とは対照的な血の気の多い人物と後世に伝えられている。明治の彫刻家、荻原碌山は、文覚像を製作しているが凄みのある表情と腕組していかにも厳めしい人物像が表現されている。
 明恵上人は、エピソードが数々あり、それをつなぎ合わせていくとその人なりが浮かび上がってくる。ひとつは、美男子であって女性にもてては仏教の修行に妨げになると思い、あるいは将来出世して地位を得るようなことがあると困ると思い、自分の身体を傷つけることを考えた人で、その窮極は仏画の前で右の耳を切ってしまった。ゴッホと比較しては悪いのだが、明恵の場合は覚悟の上の行為であった。明恵上人樹上座禅像は左向きに書かれているから耳がある。描いた忍性の配慮なのであろう。
 十三歳の時には「既に老いたり」という自覚を持ち、肉体の存在が煩悩や苦悩を生むと考え、墓場に夜出かけていき、野犬に身を食わせようとしたことがあったらしい。野犬は臭いを嗅ぐだけで去ったが、さすがに恐くなって、二度とはそのような行動には走らなかった。後年、明恵上人が笑い話として語った話である。
 白州正子がエッセイ『明恵上人』の書き出しで春日竜神という能の話を書いているのだが、明恵上人が天竺行きのため暇乞いに春日神社をお参りすると、「上人は日本に残って、上人を慕う人々を救うべきだ」と引き止める翁が登場して、最後は天竺行きをあきらめるという内容になっている。釈迦の教えは釈迦の生れたところに行かないとわからないというのは、正しい考えだと思う。高山寺に来なければ、明恵上人のことがわからなかったこともあるのだから。しかし、鎌倉時代にあっては天竺まではあまりにも遠く、移動の方法も不可能に近かった。
 なんと言っても明恵上人を名高くしているのは(本人が望んだ結果ではない)『夢記』に若い時からの夢を日記のように書き続け、それを分析し思索をしたことであろう。河合隼雄が心理学者として着目した点である。一点に関心を持ち続けると数日も眠らず考え続けた岡潔と似ている。天才と呼ばれる条件の一つの資質が確実に明恵上人にはある。
 鎌倉時代は、多くの新しい仏教が生れた。法然、親鸞の浄土宗は大衆の宗教になった。栄西、道元の禅宗は武士に広がった。しかし、明恵上人の宗教が宗派を作っているという話は聞かない。ただ、明恵上人のファンはいるということはわかる。山深い、栂尾まで男一人で来る人間がいるということである。
 世俗とは無縁に見える明恵上人でも、鎌倉幕府の三代執権である北条泰時に精神的な影響を強く与えたことは、武士の規範の原点になった、御成敗式目を作らせたことに繋がっているし、日本の最初の茶畑を作り茶の効用を広めたのは、明恵上人で、今も杉木立の中、日が差しこみ明るくなっている場所に茶畑が残されている。
 明恵上人の辿りついた言葉は七文字の中にあるのだというのが白州正子がエッセイで言きたかったことらしい。それは、漢字を充てているが、
 「阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)」
というのであるが、あるがま、自然が良いのだと理解したいが大雑把に過ぎるだろうか。明恵と同時代の聖人、アッシジのフランシスコという人はあまりにも似ている。高山寺とアッシジの聖フランシスコ」教会は兄弟教会の約束が結ばれているという。

        拙著 『翁草』より
  

Posted by okina-ogi at 06:21Comments(0)旅行記

2012年09月14日

心に浮かぶ歌・句・そして詩⑰

曹洞宗を開いた道元禅師の次の短歌は、ノーベル文学賞を受賞した川端康成のスピーチで一躍有名になった。

 

春は花夏ほととぎす秋は月冬雪冴えて冷(すず)しかりけり

 

川端康成は、なぜこの歌を講演の中で引用したのだろうか。講演のタイトルが「美しい日本の私」ということからも想像がつくが、仏教関係の僧侶の歌が多い。

 

雲を出でて我にともなう冬の月風や身にしむ雪や冷めたき (明恵上人)

 

形見とて何か残さん春は花夏ほととぎす秋はもみじぢ葉 (良寛)

 

道元禅師、明恵上人、良寛禅師は、拙著に紀行文がある。

  

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