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2013年03月31日

心に浮かぶ歌・句・そして詩109

朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに あらはれわたる瀬々の網代木
藤原定頼
もののふの八十宇治川の網代木に いざよふ浪のゆくえ知らずも 
                         柿本人麻呂

百人一首にある前者の歌と、万葉集にある後者の歌を並べてみた。宇治川の網代木のある風景を詠んでいる。前者は、平安貴族。どことなく女性的で、響きが弱く柔らかい感じ。後者は、ダイナミックである。後世、多くの歌人や俳人が万葉の調べに魅せられたのは、こんなところにあるのかもしれない。網代木は、ヤナを支える杭のこと。
  

Posted by okina-ogi at 08:39Comments(0)日常・雑感

2013年03月30日

心に浮かぶ歌・句・そして詩108

あらざらむこの世のほかの思ひ出に いまひとたびの逢ふこともがな
                          和泉式部

恋多き女性。多情の人。歌の才能は豊であったが、素行に問題ありと紫式部からも言われた女性。百人一首のこの歌以外にもよく知られる歌がある。
冥(くら)きより冥き途(みち)にぞ入りぬべき
                   はるかに照らせ山の端の月 
という歌を残している。救い難い業の深い自分に憐れみを乞うているのである。
  

Posted by okina-ogi at 18:22Comments(0)日常・雑感

2013年03月29日

心に浮かぶ歌・句・そして詩107

夜をこめて鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関は許さじ
                           清少納言

『枕草子』の作者である。賢い女性だったのであろう。なんとなく理屈ぽく、屈折した感じの歌である。しかし、彼女が書いた文章はすっきりした自然描写が心地よい。
「春はあけぼの、やうやう白くなりゆく山際、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」
この出だしの文章は、今でも暗記している。
  

Posted by okina-ogi at 12:50Comments(0)日常・雑感

2013年03月28日

心に浮かぶ歌・句・そして詩106

めぐり逢ひて見しやそれとも分かぬ間に 雲隠れにし夜半の月影
                          紫式部

 『源氏物語』の作者である紫式部の歌。夜半の月影は、女友達。才女である彼女の友達なら一晩中語り会っても、またたくまに時が過ぎ、気がつけば夜が明けていたということになったかもしれない。
滋賀県の琵琶湖から流れ出す、瀬田川の近くに石山寺がある。紫式部が『源氏物語』の構想を練ったと伝えられる寺である。先年、友人の案内でこの寺を訪ねたことがある。近くに芭蕉が住んだ幻住庵があり、そこにも案内していただいた。
  

Posted by okina-ogi at 17:39Comments(0)日常・雑感

2013年03月27日

心に浮かぶ歌・句・そして詩105

瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ
                          崇徳院

 75代天皇。平安時代末期の政争により、讃岐に配流になった。都に帰ることもなく、その地で崩御した悲劇の天皇。天皇の配流は、鎌倉時代に82代後鳥羽天皇、83代土御門天皇、84代順徳天皇、96代後醍醐天皇がいる。順徳天皇は、佐渡に配流となりその地で崩御された。数年前の夏、御在所の跡を訪ねたことがある。
  

Posted by okina-ogi at 17:35Comments(0)日常・雑感

2013年03月26日

心に浮かぶ歌・句・そして詩104

天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも
                      阿倍仲麻呂
 
 現総理大臣が安倍さんだから連想したわけではないが、百人一首に載っているこの阿倍仲麻呂の心情には、中学生の時から惹かれるところがあった。この三笠の山は、奈良春日神社の近くにある御蓋山のことで、岡潔先生の春雨忌に奈良を訪ねるたびに目にすることになった。ここ数年は、志賀直哉旧居の近くにある旅館で会食しているが、名前は三笠荘という。
  

Posted by okina-ogi at 17:32Comments(0)日常・雑感

2013年03月25日

花の寺

心に浮かぶ歌・句・そして詩103
願わくば花の下にて春死なん その望月の如月の頃

西行の歌である。この歌は、50代の作だと考えられている。73歳で亡くなった日は、望月の如月の頃だった。願いは叶ったということができるが、「花」は、梅ではないかという人がいる。西行と言えば、桜。京都に勝持寺がある。花の寺と呼ばれ、西行ゆかりの寺である。花の時季に一度訪ねたことがある。
  

Posted by okina-ogi at 17:28Comments(0)日常・雑感

2013年03月23日

梅の名句

心に浮かぶ歌・句・そして詩102
 高崎市榛名地区は、梅の花が山の斜面や畑地に咲き誇っている。開花してから最盛期は過ぎているが、馥郁(ふくいく)として梅の香が漂ってくる。太宰府を訪ね、梅と菅原道真に影響されて、梅の名句はないかと、インターネットで調べてみると、次の句が目にとまった。
梅が香にのっと日の出る山路かな   芭蕉
今日来ずば明日は散りなむ梅の花   良寛
そのままに君紅梅の下に立て     虚子
勇気こそ地の塩なれや梅真白     草田男
白梅や過去世の光箒星        優海
こう書き終えると嘘になる。優海は、私の俳号。巨匠の句と並べてみたかったのであるが、そういうウメー話にはならない。
  

Posted by okina-ogi at 12:49Comments(0)日常・雑感

2013年03月22日

四万温泉郷(2013年3月)

 「世のちり洗う四万温泉」。群馬県の子供達が長く親しんでいる「上毛カルタ」にそう詠まれている四万温泉に初めて行ってみた。〝灯台もと暗し〟で、県内の温泉宿泊も良い。四万温泉の位置は、群馬県北部の山間の地にあり、狭い渓谷に四万川が流れ、その川に沿って温泉街が立ち並んでいる。行政区は、平成の合併でも変わらず、中之条町である。小渕恵三元総理の出身地である、庁舎のある中之条の中心部からは、国道三五三号線でかなりの距離がある。
 三月二〇日の春分の日を前後して出掛けたのだが、友人からの提案があったからである。大学で財政学を専門分野とする教授で、彼の方は、出版を終えて骨休みをしたいこともあった。友人も誘いたいという。詳しい説明はなかったが、民法が専門の大学教授だという。学者さん二人と同宿では、肩も凝るということにはならないかと少しは考えたが、人生はご縁である。こちらは、三月の末で定年退職になる。今後の身の振り方を、温泉に浸かってゆっくり考えたいとも思った。それに、二人は県外から来るので、交通の便が悪い。長野新幹線の安中榛名駅に迎えに行き車で案内することにした。
 宿の手配は友人がした。旅館の主が囲碁好きで、囲碁と将棋ができる会所となっていて、希望すれば地元の強豪と囲碁将棋ができるという。友人との共通の趣味は将棋である。同行する彼の友人も将棋が好きらしい。古い旅館らしいが、そんなことは問題ではない。
 

 宿の名前は唐澤屋旅館という。老夫婦が経営している。他に従業員はいないようだ。連泊をすることになっていたが、我々三人の他は、客はいないようである。将棋愛好家との対局はできなくなった。そのかわり、一人一室ということになった。旅館で、個室というのも初めての体験である。
 一階が広間になっていて、囲碁や将棋盤が置いてある。客室にもあるので相当な数である。しかも、盤も本格的なもので、駒は黄楊のもので一目高価なものとわかる。駒台まであり、主の力の入れようが伝わってくる。広間には、有名棋士の色紙があり、囲碁の藤沢秀行の書も飾られていた。
 「囲碁は強弱に依らず形で現わす」
さすが秀行先生の言葉である。『野たれ死に』という本は、破天荒な生き方ながら人間味のある藤沢秀行を伝えている。晩年は、癌と戦ったがなかなか投了しなかった。
 藤沢秀行という囲碁棋士は、数々のタイトルを手にしているが、棋聖戦だけには執念を燃やし、六連覇したことがある。賞金額が高かったからである。アルコール依存症であったが、棋聖戦がある時は断酒した。ギャンブル好きで借金も多かった。女性関係も派手で、三年も家に帰らなかったことがあり、自分の家がわからなくなり、妻に電話したというエピソードがある。夫婦関係は切れず、妻は彼の最後を看とっている。遺骨は、瀬戸内海に散骨された。藤沢秀行の遺言だったのである。
碁は、主に一局お願いした。アマチュア四段というので、五目を置いて打たせていただいたが、七目勝ちになった。お客さんということで手を緩めてくださったのかもしれない。対局の途中
「その手は、なかなかのものです」
などと褒めたり、友人二人が観戦しているので気恥ずかしい気持ちもした。最後には
「初段の実力はあります」
これには驚いた。四―三、つまり相手が四段であれば、三目の置き碁で勝たなければならないと思っていたからである。四―五ではマイナス一である。良いところ三級もあればというところであろう。
 将棋は、友人と一局戦い熱戦だったが敗北した。彼もインターネットでこの日に備えて実戦経験を積み準備してきたようだ。時間をかけて丁寧に指したので、一局だけで充分である。将棋の奥深さを味わうことができた。それよりも、相手の志向を知ることができる楽しさ。簡単に言えば将棋を通じた会話である。
 食事は、広間でしたのであるが、宿泊したプロ棋士の詰め将棋の色紙があり、その場で解こうとしたが解けない。帰る日の朝食の後眺めていたら一瞬で詰んだ。春、草の芽が地上に出たという感じである。最後の砂が重く苦労したという感じでもある。
 連泊中の昼食は、宿では出ない。民法の先生が、車に載せていただいたお礼ということでごちそうしてくれるという。四万温泉には、奥様と一度来ているらしく、その時に泊まった宿の食堂のうなぎがおいしいという。俳優の児玉清が疎開していた思い出をたどり、取材した旅館らしい。うなぎは遠慮し、そのかわり、日本酒とヤマメの塩焼き、雑炊をいただいた。気さくな人で温泉が大好きだという。来年もこの宿を拠点にして、近くにある沢渡温泉や草津温泉を案内してあげても良いと思った。家族に、大量にお土産を買っていた。この日、友人が群馬県の産業経済部長に就任するという記事を見てこの店からお祝いの電話を入れたが、彼に会ったら今回のことを話そうと思う。
  

Posted by okina-ogi at 07:16Comments(0)旅行記

2013年03月21日

心に浮かぶ歌・句・そして詩101

四方(よも)の海みな同胞(はらから)と思う世に 
など波風の立ち騒ぐらん
 
明治天皇御製
 昭和天皇は、この明治天皇の歌を持って暗に、開戦に反対の意を示したが、かなわなかった。皇室は、平和への思想が強い。明治天皇が、軍服を着たことが、不幸な歴史を生んだ。征夷大将軍を皇室から出すような時、国難が生まれるような気がする。
  

Posted by okina-ogi at 15:57Comments(1)日常・雑感

2013年03月19日

一休さんのお寺

心に浮かぶ歌・句・そして詩100
諸悪莫作
衆善奉行
たったこれだけのことが難しいのが我々衆生。
京田辺市の郊外に一休さんこと、一休宗純のゆかりの寺がある。酬恩庵という。寺の門をくぐった所にこの八文字が書かれた石碑があった。

  

Posted by okina-ogi at 07:33Comments(0)日常・雑感

2013年03月18日

二つの天満宮(2013年3月)

 赤間神宮で開催された、三月一日夕刻からの岡潔三五年祭の翌日とその翌日と二つの天満宮を訪ねることになった。二つの天満宮とは、防府天満宮と太宰府天満宮である。この二つの天満宮に京都の北野天満宮を加え、三大天満宮と言っている。末社は、全国に一万二千あると言われている。菅原道真を祭っていることは、説明を要しないが、その前に、下関にある赤間神宮について触れたいと思う。
 赤間神宮は、安徳天皇、平家の武者ゆかりの神社である。神社の目の前が壇ノ浦である。明治以前、阿弥陀寺であったが、赤間宮という神社になった。その二代目の宮司が、白石正一郎である。幕末の下関の商人であったが、国学を学び、勤王思想の人で、多くの幕末の志士を援助した。最たるものは、高杉晋作の創設した奇兵隊への資金援助である。築きあげてきた財産のほとんど公に費やし、自身は明治政府に出仕することもなく、政商ともならずこの神社の宮司として六九歳の人生を終えている。明治一三年のことである。時が経つうちに名前も忘れられていたが、白石正一郎を顕彰する気運が起こり、その人となりを世に広めたのは、司馬遼太郎である。かつては、白石邸までは、船で出入りができたというが、今日では幹線道路が走り、屋敷跡に碑が残っているだけである。
防府天満宮に案内してくれたのは、昨夜の岡潔の三五年祭を主宰した青田禰宜で、赤間神宮に奉職したことのある一木さんが出迎え約二時間近く案内してくださった。防府天満宮には、一度訪ねたことがあったが、拝殿をお参りしただけだった。
春風楼という建物があって、防府市街を一望できる。この場所に五重の塔を建てる計画があったが、資金が集まらず竣工には至らなかった。基礎は、五重の塔の物になっている。拝殿の後ろには天神山があり、その麓には多くの梅が植えられ、白梅、紅梅、さまざまな色の花をつけていた。天満宮には梅がふさわしい。
「東風吹かば匂いおこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」
最後は、広々とした和室でお茶をいただき、防府天満宮の祭事のアルバムを見せていただき説明を受けた。とりわけ、十一月に開催される裸坊祭は勇壮で、重い御綱代(あおじろ)をかつぎ、階段を上り降りするので、怪我人が絶えないという。
防府天満宮の創建は九〇四年とされる。最も古い天神様である。そのあたりのことを一木さんが話してくれた。道真は、大宰府に流される途中、この地に立ち寄っている。親せき筋にあたる土師氏が所領だったからである。道真はこの地から離れたくなかったが、九州が左遷として決められていた。防府は、京の都と陸続きであり、九州に渡ってしまえば、二度と都には帰れないと思った。死んだら霊となってこの地に戻ってくると言い残してこの地を去ったという。
 防府天満宮には、松崎天神縁起絵巻が保存されており、第六巻に菅原道真の霊験が描かれている。重要文化財である。防府天満宮は、松崎天満宮とも言った。宮内にある歴史館には、幕末の長州藩士が紹介されているが、楫取素彦の名を目にした。初代の群馬県知事である。吉田松陰の妹と結婚し、幕末の政争を生き抜き、今も群馬県民から慕われる人物で、男爵ともなり明治天皇の信任も厚かった。防府の人だったのである。八六歳の長命であった。
 
もうひとりの人物は、長州藩士ではないが、野村望東尼である。歌人であり、高杉晋作の看とりをした人である。彼女の終焉の地は防府だったのである。夫を亡くし、剃髪して尼となっても、維新の思想を捨てなかった女性である。天満宮の敷地内に、像と歌碑があった。福岡の人で、望東尼が庵としていた平尾山荘を訪ねたことがあった。
 あずさゆみ引く数ならぬ身ながらも
         思いいる矢はただに一筋
 太宰府訪問はこれで何度目になるのだろうか。三月三日は、日曜日となった。この日の福岡は、人人という感じである。福岡ヤフードームではWBC(ワールド・ベイスボール・クラシック)の試合があり、そのためか、市内に宿がとれなかった。朝、下関を経ち、博多駅に着くと、行列ができている。野球の当日券を求めて並んでいるのかと思ったら、宝くじの売り出しのようだ。
西鉄の天神駅で友人と待ち合わせして、太宰府に向かう。天神駅といい、昨日は、防府天満宮を訪ね、これから、太宰府天満宮を訪ねるとなれば、まるで菅原道真のおっかけである。十一時から「曲水の宴」の受付に間に合うようにと思っていたが、隣接する九州国立博物館で「ボストン美術展」が開催されており、そちらを優先することにした。「曲水の宴」は、王義之の蘭亭の宴の余韻もあり、今回は見てみたいと思っていたのだが、東京開催を見逃してしまった「ボストン美術展」をじっくり見ようということになった。友人の希望も一致している。
幕末から明治と移る中、廃仏毀釈という不幸な歴史があって、多くの仏像、仏画、日本画、絵巻などが海外に流失した。フェノロサ、岡倉天心が価値ある物を、ボストン美術館に所蔵させたことは、日本人にとって感謝すべきことと考えて良い。一部の蒐集家により、所有されれば、今回のように里がえりして、平成の日本人に鑑賞する機会ができなかった。
この企画展の中でメインとなっている作品は、どれも一級品であり人それぞれ違っていて良いのだが、曽我蕭白の作品群としたい。江戸時代の画家であるが、個性的で日本でしばらく見られないと思えば、多くの鑑賞の時間を彼の絵に割かざるを得なかった。
九州国立博物館からエスカレータで太宰府天満宮に降り立つことができる。近代と古代を結ぶトンネルのようで、発想が良い。梅が満開である。防府よりこちらの方が一足早い春という感じである。「曲水の宴」を横目に見て天満宮は通り過ぎるだけになった。
蘭亭序 小川は清く 梅の花
理屈っぽい句になった。曲水の宴を詠んだつもりである。
 天神様は、まだまだ日本人に愛されていると思った。日本人は悲運な人への同情心が強い。遠いご先祖を担当するのが神道、近いご先祖を担当するのが仏教と言った僧侶がいた。日本の神々は言葉で表現しにくいが、社殿の前では身を清め、ぬかずく気持ちで参拝したい。拝礼は問題ないが、柏手が上手くいかない。今回は直接、友人の神主さんから御教示いただき、様になる音が出るようになった。
  

Posted by okina-ogi at 07:38Comments(0)旅行記

2013年03月17日

本居長世と奏楽堂

 東京音楽学校奏楽堂は、明治二十三年に落成し、昭和六十二年に移築され、重要文化財となっている。音楽ホールとして、我が国最古の洋風木造建築である。平成二十五年の四月からは、改修のためにしばらく閉館になる。
 
 
 二階が音楽ホールになっているが、パイプオルガンが備え付けられている。この日も演奏会が開かれていて、その音色を聴くことができた。三月の閉館まで、さまざまなコンサート企画されている。クラッシックが主で、しばしのお別れコンサートという内容である。
 一階が事務室と展示室になっている。東京音楽学校から東京芸術大学と移る中、多くの音楽家を輩出し、その人々の紹介と日本の西洋音楽の歴史がわかるようになっている。
本居長世を紹介する展示室があって、特別企画の展示かと思ったら、常設展示となっている。本居長世は、国学者本居宣長の末裔である。祖父も国学者であった。
 一九八五年(明治一八年)に東京で生まれたが、母親とは一歳の時死別し、養子だった父親も家を去り、祖父に育てられるという幼児期を過ごしている。国学ではなく、音楽の道に進む。東京音楽学校の本科を首席で卒業し、同期には山田耕作がいる。中山晋平、弘田龍太郎は教え子になる。鈴木三重吉の『赤い鳥』に触発された斉藤佐次郎の『金の船』に童謡を作曲し掲載するようになる。名作「赤い靴」、「七つの子」、「青い目の人形」、一五夜お月さん」が野口雨情とのコンビで生まれる。
大正時代、ラジオはなく、本居長世は、得意のピアノを演奏し、長女のみどりと全国を演奏旅行した。やがて、次女も三女も加わり、多くの人に彼の童謡が歌われるようになった。長女のみどりは、童謡歌手の第一号となり、レコード吹き込みも行った。その曲が「十五夜お月さん」であった。
十五年戦争と言われる時代、軍歌を作曲することはなく、本居長世の名前は忘れ去られていくが、東京音楽学校の後輩であった藤山一郎は、本居長世に師事するところがあった。昭和十六年に長女のみどりが亡くなり、長世も体調を崩すようになる。明治天皇の御製に曲をつけるという企画を持ち込まれ、最後は自費で完成させることとなり、経済的にも困窮し、晩年は恵まれなかった。死の直前
「死んでから生きるよ」
と不思議な言葉を繰り返し語り終戦の年に亡くなった。谷中墓地に眠っている。

  

Posted by okina-ogi at 08:30Comments(0)日常・雑感

2013年03月15日

凄い経営者本田宗一郎

 本田技研工業株式会社と言えば、世界有数の自動車会社であるが、自動二輪車の会社からスタートしている。戦後、小さな町工場から、本田宗一郎と何人かの仲間で創業し、今日の大企業に成長した。
天下の豊田自動車でも、リーマンショックの後赤字になったが、本田は、黒字であった。そのことが凄いというのではない。この会社は、伝統的に物作りで徹底していると言われる。創業者の考えが、会社に浸透しているのだろう。
私にブログの指南をしてくれた人のブログを見たら凄い話が書いてあった。どこからの引用かはわからないが、その一部を借用する。
『製品に対してあくまで親切であれ』
「お客さんに迷惑になるようなものを作るな」
モノを作る時には、それと一番長く付き合わなければならない人のことを考えろと。
一番長いのは、お客さんだろ。
その次は売った店の修理工だろ。
その次がウチの工場の人間だ。
つくった本人のくせに、一番短いのは設計者だ。
ずっと使う人の身になって考えたら、不親切なモノなぞ設計できねえはずだ!

さらに、本田の資本金が600万円の時代に、4億円の機械を外国から買った。すごい度胸である。本田の事業が失敗しても日本に残る。国のためになる。その機械を、従業員が壊してしまった。そのことを恐る恐る告げると「ケガはなかったか」という返答が返ってきた。従業員は耳を疑った。こういうリーダーであれば、必死になって働きたくなる。
自分の思い通りに部下を使いたいということは簡単ではない。規則で縛ったり、威圧しても服従することはあっても、会社のため、社長のためと思って働くことはない。本田宗一郎という人は現場からのたたき上げ、しかもモノづくりが好きだったのだ。会社は公器だと考え、子供を後継ぎにしなかった。
  

Posted by okina-ogi at 20:17Comments(0)日常・雑感

2013年03月15日

心に浮かぶ歌・句・そして詩99

馬上少年過(馬上少年過ぐ)
世平白髪多(世平らかにして白髪多し)
残躯天所赦(残躯天の赦す所)
不楽是如何(楽しまずんば是如何)

 戦国の北の雄、伊達正宗の漢詩。98歳で亡くなった私の大叔父は、戦後60年を回顧し、冒頭にこの詩を書いた。まさに、そうした心境であったし、長い老後を過ごした。20代のほとんどを、戦地で暮らし兵隊から少佐まで経験した人でもあった。多くの戦友を失い、戦争の非を書き綴り、平和の大切さを訴えている。棺には、般若心経を写経したものが百枚以上息子の手で入れられた。
  

Posted by okina-ogi at 08:06Comments(0)日常・雑感

2013年03月14日

心に浮かぶ歌・句・そして詩98

春望 杜甫

國破山河在 国破れて山河在り、
城春草木深 城春にして草木深し
感時花濺涙 時に感じては花にも涙を濺ぎ
恨別鳥驚心 別れを恨みては鳥にも心を驚かす
烽火連三月 烽火 三月に連なり
家書抵萬金 家書 万金に抵る
白頭掻更短 白頭掻けば更に短く
渾欲不勝簪 渾て簪に勝えざらんと欲す
芭蕉が紀行『奥の細道』で引用した有名な杜甫の詩である。源頼朝の軍勢に滅ぼされた奥州藤原氏の終焉と義経の死に思いを寄せている。杜甫が詠んだのは、安禄山の乱の跡である。「国破れて山河あり、城春にして草木深し」とは良く言ったものである。近いところでは、第二次世界大戦後の日本が浮かぶ。しかし、肉眼で見たわけではない。終戦の記憶は薄れてしまったが、戦災ではないが、東日本大震災の記憶は新しい。
  

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2013年03月13日

湯田温泉の春雨(2013年3月)

 旅の途中、湯田温泉にある「中原中也記念館」に立ち寄った。中原中也のことは、詩に触れたこともなく、どのような詩人であるかも知らないのであるが、他界した父が、「月夜の晩に、ボタンがひとつ波打ち際に落ちていた」という彼の詩の一節を、幾度となく呟いていた記憶が残っているだけである。しかし、そこから、なんとも言えない情感が漂ってきて、気になる詩人ではあった。
記念館は、生家に建てられていて、湯田温泉街にある。そこで、「内海誓一郎」名を目にした。既に故人になられているが、この方を二二年前に取材し、記事を書いたことがある。温厚な紳士で当時八九歳であった
音楽はなぐさめ       内海(うつみ)誓一郎さん(平成三年・春号)
 一九八九年『群像』(講談社発行)二月号に「中原中也と音楽」というタイトルで内海さんの論文が載っている。音楽と作曲に若い時から惹かれていた内海さんは、諸井三郎の主宰する作曲運動の同人団「スルヤ」を通じて中原中也を知ることになった。昭和三年の頃で、中原中也は無名の新人であったが、あるときぶっきらぼうに、 「お前も俺の詩に作曲しろよ」と言って下宿に連れて行かれ、手渡された多くの詩稿の中から『帰郷』という詩に曲をつけることになった。内海さんは作曲するにあたって、その詩の一部の表現を変えた。自分の主張を通す中也は、スンナリ内海さんの考えを認めて曲は完成した。八十六歳の時、こうしたいきさつを『群像』に発表したのである。中原中也を深く調べていた作家の大岡昇平は、内海さんのこの歴史的証言に添え書きを寄せて、自身の研究の正しさが確認されたと述べている。
 内海さんは、第一高等学校から東京帝国大学に進み、理学部で化学を専攻した。化学と音楽という組み合わせがあまりにも対照的なので、お尋ねすると、
 「父が早く他界し、女手一つで育ててくれた母親を心配させないためにも、就職しやすい道を選びました」という答えが返ってきた。当時音楽で生計を立てるなどという発想は、あまりにも冒険的で、肉親の反対は目に見えていた。しかも、戦争へと向う時代背景もあった。
 「私は信仰をもっておりませんが、人を深く感動させる音楽は、神に通ずるものと確信しています。私にとって、音楽は〝なぐさめ〟で多くの人が思うような〝なぐさみ〟ではありません」
内海さんは、バッハの曲にそれを感じるという。とりわけ、『マタイ受難曲』は、神に祈るようにして作られ、それはまた、神から贈られた作品だと、バッハは、作曲に際し涙して筆を進めたことを容易に想像できるという。

 中原中也の生誕の年を見ると一九〇七年である。内海さんの方が年上になる。記念館にあった、昭和三年のスルヤの発表会の記念写真を見ると、盛装した内海さんは成人した紳士のように写り、右端にいる中也は学生のようである。
 帰郷という詩はどのようなものなのか。館内で見ることができた。内海さんに再会したような気がした。
   「帰郷」                           中原中也
柱も庭も乾いてゐる
今日は好い天気だ
    縁〈(えん)〉の下では蜘蛛の巣が
    心細さうに揺れてゐる

山では枯木も息を吐〈(つ)〉く
あゝ今日は好い天気だ
    路〈(みち)〉傍〈ばた〉の草影が
    あどけない愁〈(かなし)〉みをする

これが私の故里〈ふるさと〉だ
さやかに風も吹いてゐる
    心置なく泣かれよと
    年増婦〈としま〉の低い声もする

あゝ おまへはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云ふ

 内海誓一郎作曲の楽譜もあったが、メロディーは、脳裏で奏でることはできなかった。後日、楽譜を手に入れ、旋律だけでも、ギターで弾いてみたいと思った。
 今日、三〇歳という若さで死んだ、当時無名であった中原中也が、有名詩人になった理由が、記念館を訪ねるとわかったような気がする。交友関係に一流の人物が多い。小林秀雄、河上徹太郎、大岡昇平・・・・。とりわけ小林秀雄は、恋敵のような関係にもなったが、中也の詩の魂を理解していた。同県の出身である河上徹太郎は、音楽家諸井三郎との縁を作った。大岡昇平は、中原中也を良く調べ世に広く紹介した。
 有名にした理由は、啄木と同様夭逝したこと。そして、生まれた子供も幼児のうちに死んでしまったこと。それと、今流の言葉でいうイケメンだったということ。ハットをかぶった有名な写真があるが、館内にあるハットの色は葡萄色だった。ただ、素行は、決して良いとは言えなかった。酒を飲むと相手にからむところがあった。あの太宰治さえ辟易したという話が残っている。しかし、自分の才能を他人に認めてもらいたいという願望は人一倍強く、この点は、石川啄木に似ている。
 中原中也記念館の近くにかめ福という旅館があって、食事つきで日帰り温泉のプランがあった。ビールが一本ついて二四〇〇円と手ごろな値段である。湯田温泉街は、春雨が降り続き、山波は煙っている。そうした風景の中温泉につかることができた。新幹線と在来線を乗り継いで、山口市に来たが、夕方五時半までには、下関に辿りつかなければならない。赤間神宮で数学者岡潔の三五年祭が行われる。
 芭蕉の句で
  春雨や蓬を濡らす草の道
というのがある。岡潔は、この句が好きだった。毎年、奈良で墓参会が続けられているが、「春雨忌」という名がついている。中原中也と親しかった小林秀雄は、晩年、岡潔と対談している。『人間の建設』という本になっている。碩学同士の語らいは、深い洞察力がどういうものか教えてくれている。
  

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2013年03月12日

上野界隈(2013年3月)

 五〇代になって、旅を意識してするようになった。どうした心境でそうなったかと言えば、芭蕉のせいかも知れない。芭蕉は、五〇で人生を終えたが、彼に変わって平成の旅をしてみようというのは言いすぎかも知れないが。
 もう一つの理由は、家族は別だが、日常性というしがらみから、一瞬でも離れてみたいという願望があった。逆に、過去であった友人知己を訪ね、その日常性に触れてみたかったこともある。そのためには、空間を越えなければければならない。芭蕉の時代と違って移動の手段は、格段の進歩があり、時間を大幅に短縮することができる。飛行機であったり、列車であったり、便利を享受するために随分費用もかかっている。もちろん後悔はしていない。
 さらに言うと、時間を越えることもできたのではないかと思っている。歴史を訪ねる旅であったからである。歴史上の人物でも、誰でもよいというわけにはいかない。惹かれない人のところには行かないもので、この点では筋が通っている。これまでに書き綴った紀行などを読み直してみるとそう感じる。そこから、懐かしさの感情も生まれてくるような気もする。
 これからは、六〇代の旅になる。脚力も弱くなり、財力も少なくなるわけだから、近距離の旅を多くしてみようと考えている。手頃な場所があるではないか。東京である。江戸時代の名残をとどめている場所も少なくないだろうし、明治、大正から昭和初期にかけての歴史的建物も、戦災を免れて残っているものもある。遠距離の旅であれば、多くの友人と一緒というわけにはいかないが、東京ならグループで行ける。その道先案内人くらいは務まるかもしれない。職場に、ハイキング同好会のようなものがあって、山登りやら、旧跡めぐりなどしている。いつもは、運転手役である。
 その手始めに提案したのが、上野界隈の散策である。亡くなった俳優の地井武男の「ちい散歩」にあやかって「おぎ散歩」になれば良い。カメラを気にしなくて良いわけだから気楽な散策ができるに違いない。第一回は、上野周辺を選んだ。
 山手線の日暮里駅で降りて、谷中墓地を通り、上野の森へ。東京芸大のキャンパスと奏楽堂に立ち寄り、西洋美術館で「ラファイエロ展」を鑑賞。昼食は、上野精養軒。極めてラフな行程であるが、変更も自由である。列車以外は、なるべく長い距離を歩くことに意味がある。ハイキングなのだから。
今回の企画には、下調べがしてあって、一度このコースを一人で歩いてみたことがある。やはり三月でお彼岸の頃だった記憶がある。谷中墓地の墓調べもしてある。会の皆さんを最初にご案内したのは、五重の塔の跡地。炎上する塔の写真が今回も掲示されていた。
「この塔は、戦災で焼けたのではなく、放火だったのですよ。しかも心中事件のために。あの幸田露伴の『五重塔』の名作のモデルになった塔です」
と、道先案内人の役を果たしたつもり。次にご案内したのが、徳川最後の将軍徳川慶喜公のお墓。前と同じように厳重に囲いがしてある。大河ドラマ「八重の桜」の放映中ということもあり、幕末の歴史について語ろうかと思ったら、墓の解説者がいた。
 解説料を請求されたわけではないからボランティアの人だったのだろう。それにしても詳しい。毎日とは言わないが、天気の良い日にはこの場所に来て訪れる人に説明しているのだろうと想像した。それにしても徳川慶喜びいきの話の内容であった。勝海舟の評価も高い。下手に会津の松平容保を擁護しようものなら険悪なムードになると思い、素直に聴いた。
 「墓の形を不思議と思いませんか。石塔ではありませんよね。皇室と同じ神道の形をとっているのです。代々の将軍は、皆仏教によって埋葬されています。ここに慶喜公の遺言とも言うべき意思があるのです」
なるほど、水戸家は徳川光圀以来勤皇思想が強い。錦の御旗には手向かうわけにはいかなかったのだ。徳川慶喜の恭順の態度がなければ江戸の町は戦火を免れることはできなかった。無血開城をやってのけた勝海舟の手柄もなかったわけだ。
 「この墓地には、奥様(正室)だけでなく、側室の墓もあります。一人ではありません」
 ハイキング仲間から
 「へえ」


 という声が上がる。しかも一二人の子供を産んだというのである。四〇歳になると、側室としての役割は解任になる。女性のハイキング仲間もいるので、これにはビックリしたらしい。政権が終わるのに世継ぎの必要もあるとは思えないのだが。政欲より性欲があった人なのか。徳川慶喜という人は評価が分かれる人だと思った。当時の慣習なのか知らないが、勝海舟にも本妻以外に四人の女性がいて、子供までなしている。この女性を側室とは呼べないが、勝海舟の娘は慶喜の子を養子にし、その墓は慶喜の墓地の近くにある。墓の形も同じである。
 東京芸術大学は、入学試験のために一般の人は身分証明をしないと構内には入れてくれないらしい。岡倉天心像を見てもらいたいと思ったがとりやめにして奏楽堂に向かう。時計は一二時を回っている。
 「三時からパイプオルガンの演奏があります。入場料無料」
先に、昼食をしようということになり、上野精養軒に向かう。すると砂塵が舞い、天侯が急変し帽子も飛ばされそうになる。桜並木に提灯はあるが桜はまだである。ランチにありつけると思ったら、レストラン入口には行列ができている。あきらめて不忍池を渡り東天紅はどうかということになった。
この日は、日曜日とあってランチも高い。グルメが目的ではないので、岩崎邸を見ようということになった。東京散歩の良いところである。企画者として、参加者の希望を良く聞いていなかったという反省がある。同行者の人の娘さんが、この近くに住んでいたことがあったのである。岩崎邸も娘さんを訪ねた時に見たのであろう。岩崎邸も訪問の場所に加えたいと言っていたのを失念していたのである。
 

 上野の国立博物館に何度も行く機会があって、岩崎邸の存在は知っていても足が向くことはなかった。岩崎邸は、三菱財閥の基礎を作った岩崎弥太郎が土地を購入し、息子の岩崎久弥が、著名な建築家コンドルの設計により完成させた洋館である。この建物の印象を書こうとは思はない。事業に成功し、資本家になることは否定しない。しかし、これほどの富が個人と、その末裔にもたされるということには、否定的にならざるを得ない。この館を訪ねなかったのは、無意識の中に岩崎弥太郎という人物の私的欲望を感じていたからだと思う。坂本竜馬とは、どこか違うのである。竜馬が刺客に倒れていなかったならば、岩崎弥太郎を凌ぐ資本家になったとは想像できない。商才があるとないのとの違いではない。
 建物を出ると、岩崎邸の木々が暴風に揺れて、吹雪とはならないでも冬に逆戻りした寒さになった。徳川慶喜、岩崎弥太郎のゆかりの地を訪ね、明治維新を実感したような気がした。時には、自分好みの旅ではなく、同行の人の動機に合わせた旅も良いと思った。岩崎邸の近くに無縁坂と呼ばれる坂がある。この人によって無縁坂も自分にとって無縁ではなくなる。歌になっていても、その意味が解ることが大事である。奏楽堂に戻りパイプオルガンの音色を聴くことができたが、奏楽堂の訪問の印象は、この章とは別にして書きたいと思っている。
  

Posted by okina-ogi at 17:23Comments(0)旅行記

2013年03月11日

「早春賦」

心に浮かぶ歌・句・そして詩97
 3月10日(日)、職場のハイキング同好会の皆さんと東京に行きました。日暮里で下車し、谷中墓地を通って、東京芸術大学の奏楽堂を見学。4月からは見学できなくなるのでコースに入れました。2階がホールになっていて、パイプオルガンの演奏会がありました。1階は展示室になっており、本居長世の特別展示と芸大出身の作曲家の常設展示を見ることができました。
 この日は、急に突風が吹き、急激に温度が下がり、春から冬に戻った感じでした。中田昌作曲の「早春賦」が思い出されました。安曇野に碑があります。作詞者の吉丸一昌が安曇野の早春を詞にしたと言われています。
「早春賦」
春は名のみの 風の寒さや
谷の鶯 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず
時にあらずと 声も立てず

氷融け去り 葦は角ぐむ
さては時ぞと 思うあやにく
今日も昨日も 雪の空
今日も昨日も 雪の空

春と聞かねば 知らでありしを
聞けば急かるる 胸の思いを
いかにせよとの この頃か
いかにせよとの この頃か

  

Posted by okina-ogi at 13:16Comments(0)日常・雑感

2013年03月11日

心に浮かぶ歌・句・そして詩96

「七歩の詩」曹植
煮豆持作羹  漉豉以為汁
萁在釜下燃  豆在釜中泣
本是同根生  相煎何太急
「豆を煮て持って羹(あつもの)と作(な)し
豉(し)を漉して以って汁と為す
萁(まめがら)は釜の下に在りて燃え
豆は釜の中に在りて泣く
本(もと)は是れ根を同じく生じたるに
相(あい)煎ること何ぞ太(はなは)だしく急なるや

三国志の英雄、曹操には、3人の息子がいた。長男である曹丕は次男を毒殺し、三男である曹植を亡きものにしようと考えた。七歩のうちに詩が作れなければ、死刑にするという過酷な条件を与えたが、文才のある曹植は、この詩を持って兄に訴える。兄は苦々しく思い、死刑にすることはなかったが、曹植は、苦渋の人生を送ることとなり、41歳で亡くなる。中国にも半官びいきのような心情があるのか、後世の詩人の同情と詩才を評価されることになる。
  

Posted by okina-ogi at 09:43Comments(0)日常・雑感