2013年09月12日
『翁草』(拙著)幻の幻住庵記
幻の幻住庵記
まえがき
紀行『翁草』に「芭蕉生誕の地伊賀上野へ」を書いた。今から四年前の二〇〇五年春の小旅行記である。『翁草』の校正中に気づいたのだが、後半部分の数ページが抜け落ちていた。パソコンソフトに記述が残っていない。一度印刷して目を通した記憶があるが、その印刷物も見当たらない。仕方ないので、そのまま発行することにした。そこには、芭蕉が、晩年近くのひとときを過ごした幻住庵のことが書いてあった。改めて書いてみる気も起らなかったので、幻住庵記はまさに幻になってしまっていた。我が子を夭逝させてしまった、親の心理に近い無念さのようなものが残った。
この秋、岡潔先生ゆかりの方々と由布院で御一緒できる機会があった。この旅の幹事役を務めてくださったのが、松尾さんであった。奈良で毎年開催される「春雨忌」でいつもお世話になっている。旅から帰り、何気なく本棚を見ていたら、「幻の原稿」を発見した。幻住庵に案内してくれたのも松尾さんだったことを考えると不思議な気持ちになった。以前、『翁草』を差し上げた諸氏におかれては「芭蕉生誕の地伊賀上野へ」の続きとして読んでいただければと思う。
『野ざらし紀行』は、『甲子吟行』が正式な文集の名前である。この旅の中に生まれた芭蕉の句に好きな句が多い。
春なれや 名もなき山の薄霞
このような春の景色にたびたび出会っているが、既に芭蕉にこの句ありなのである。「春なれや」に加え「名もなき」という表現の響きが心地よい。春には、数学者岡潔先生の墓参に、毎年と言って良いくらい参加しているが、先生のお墓は牡丹の寺で知られる百豪寺の近くにあって、高円山の原生林に霞がかかっている風景によく出合うことがある。
春なれや 石の上にも春の風 石風
石風は、岡先生の号である。墓石にはこの句が刻まれている。
山路来て 何やらゆかしすみれ草
万葉集以来、作歌の心得として、菫は山にあって詠むものではないという決まりのようなものがあった。万葉集を深く読み込んでいた芭蕉は承知の上でのことだと思う。野の菫よりも山の菫の方がなんとなく淡いような気がする。もちろん種類の違いもあるであろうが。「何やらゆかし」という感じ方が芭蕉なのである。
この二句は、春の風景の描写であるが、芭蕉という人の優しさが感じられて好きな句になっている。
伊賀上野から、岡先生の墓参のために奈良へ向かう。山間を列車は走る。車両の数は少ない。京都府の木津で分岐して奈良駅に着く。奈良は小雨が降っていた。
菊の香や 奈良には古き仏達
しかし、今は秋ではない。約束の午前十時半には間に合わないので、宿から
「少し遅刻しますが、先に始めてください」
と岡先生のお孫さんの松原始さんに電話を入れておいた。岡先生の京都産業大学での講義の一部を拝聴するという予定があったのである。途中からではあったが、今から三十年前の録音テープから流れてくる声はただ懐かしい。
岡先生の好きな音楽に、ベートーベンの「スプリング・ソナタ」があることは知っていた。その理由を「秋冬を経た後の春に向かう心臓の鼓動」という意味の表現で講義の中で語られていた。講義の後に、「スプリング・ソナタ」を実際に参加者で聴いてみたのだが、いつもとは違って聞こえてきたのは不思議である。
岡先生は、四季それぞれよいと言っていたが、春が好きで、とりわけ芭蕉の
春雨や 蓬をのばす草の道
を高く評価していた。岡先生の墓参会が春雨忌となったのも、芭蕉のこの句に由来する。毎年、春雨忌の幹事役を引き受けている大阪枚方市在住の松尾さんは、大変親切な方で、宴席やご供養の世話だけでなく、遠方から訪ねてきた人たち(春雨村塾の塾生)に車で名所旧跡を案内してくださっている。法隆寺、四条畷、宇治、天理等々。それぞれ皆懐かしい思い出の場所になっている。

今回、春雨忌の集まりで、芭蕉の生誕地を訪ねた話をしたら
「帰りの日は、私の車で〝ゲンジュウアン〟を案内しましょう」
と松尾さん。本当に相手の気持ちや、心情に心を傾けてくださるのでいつもその御好意に恐縮している。ただ、恥ずかしながら「ゲンジュウアン」と言われて何のことかわからなかった。
幻住庵は、琵琶湖に近く、紫式部が『源氏物語』を執筆したことで知られている石山寺の近くにあり、『奥の細道』後、四か月程過ごした庵である。芭蕉が自炊のために使用したと伝えられている「とくとくの清水」も健在であった。平成三年に復元された幻住庵は、藁葺の建物で、ひっそりとして、〝神さびた〟感じがある環境に建てられている。四七歳の芭蕉は、この庵で『幻住庵記』を書いた。
芭蕉は、自分の墓を義仲寺に定めたばかりでなく、近江の地が気に入っていった。
行く春を近江の人と惜しみける
は、あまりにも有名である。四か月のこの庵で過ごした時間は、来し方を振り返るのに充分な時間であったであろう。
「倩(うつろい)年月の移(うつり)こし拙き身の科(とが)をおもふに、ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは仏籬祖室の扉に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労して、暫く生涯のはかり事とさへなれば、終に無能無才にして此一筋につながる。楽天は五臓の神をやぶり、老杜(ろうと)は痩たり。賢愚文質のひとしからざるも、いづれか幻の隅か栖(すみか)ならずやと、おもい捨てふしぬ。
先(まづ)たのむ 椎の木も有(あり)夏木立」
良きか悪しきか、自分の人生はこれ以上でもこれ以下でもないという心境がある。「不易流行」もこの頃の芭蕉の境地であった。
まえがき
紀行『翁草』に「芭蕉生誕の地伊賀上野へ」を書いた。今から四年前の二〇〇五年春の小旅行記である。『翁草』の校正中に気づいたのだが、後半部分の数ページが抜け落ちていた。パソコンソフトに記述が残っていない。一度印刷して目を通した記憶があるが、その印刷物も見当たらない。仕方ないので、そのまま発行することにした。そこには、芭蕉が、晩年近くのひとときを過ごした幻住庵のことが書いてあった。改めて書いてみる気も起らなかったので、幻住庵記はまさに幻になってしまっていた。我が子を夭逝させてしまった、親の心理に近い無念さのようなものが残った。
この秋、岡潔先生ゆかりの方々と由布院で御一緒できる機会があった。この旅の幹事役を務めてくださったのが、松尾さんであった。奈良で毎年開催される「春雨忌」でいつもお世話になっている。旅から帰り、何気なく本棚を見ていたら、「幻の原稿」を発見した。幻住庵に案内してくれたのも松尾さんだったことを考えると不思議な気持ちになった。以前、『翁草』を差し上げた諸氏におかれては「芭蕉生誕の地伊賀上野へ」の続きとして読んでいただければと思う。
『野ざらし紀行』は、『甲子吟行』が正式な文集の名前である。この旅の中に生まれた芭蕉の句に好きな句が多い。
春なれや 名もなき山の薄霞
このような春の景色にたびたび出会っているが、既に芭蕉にこの句ありなのである。「春なれや」に加え「名もなき」という表現の響きが心地よい。春には、数学者岡潔先生の墓参に、毎年と言って良いくらい参加しているが、先生のお墓は牡丹の寺で知られる百豪寺の近くにあって、高円山の原生林に霞がかかっている風景によく出合うことがある。
春なれや 石の上にも春の風 石風
石風は、岡先生の号である。墓石にはこの句が刻まれている。
山路来て 何やらゆかしすみれ草
万葉集以来、作歌の心得として、菫は山にあって詠むものではないという決まりのようなものがあった。万葉集を深く読み込んでいた芭蕉は承知の上でのことだと思う。野の菫よりも山の菫の方がなんとなく淡いような気がする。もちろん種類の違いもあるであろうが。「何やらゆかし」という感じ方が芭蕉なのである。
この二句は、春の風景の描写であるが、芭蕉という人の優しさが感じられて好きな句になっている。
伊賀上野から、岡先生の墓参のために奈良へ向かう。山間を列車は走る。車両の数は少ない。京都府の木津で分岐して奈良駅に着く。奈良は小雨が降っていた。
菊の香や 奈良には古き仏達
しかし、今は秋ではない。約束の午前十時半には間に合わないので、宿から
「少し遅刻しますが、先に始めてください」
と岡先生のお孫さんの松原始さんに電話を入れておいた。岡先生の京都産業大学での講義の一部を拝聴するという予定があったのである。途中からではあったが、今から三十年前の録音テープから流れてくる声はただ懐かしい。
岡先生の好きな音楽に、ベートーベンの「スプリング・ソナタ」があることは知っていた。その理由を「秋冬を経た後の春に向かう心臓の鼓動」という意味の表現で講義の中で語られていた。講義の後に、「スプリング・ソナタ」を実際に参加者で聴いてみたのだが、いつもとは違って聞こえてきたのは不思議である。
岡先生は、四季それぞれよいと言っていたが、春が好きで、とりわけ芭蕉の
春雨や 蓬をのばす草の道
を高く評価していた。岡先生の墓参会が春雨忌となったのも、芭蕉のこの句に由来する。毎年、春雨忌の幹事役を引き受けている大阪枚方市在住の松尾さんは、大変親切な方で、宴席やご供養の世話だけでなく、遠方から訪ねてきた人たち(春雨村塾の塾生)に車で名所旧跡を案内してくださっている。法隆寺、四条畷、宇治、天理等々。それぞれ皆懐かしい思い出の場所になっている。

今回、春雨忌の集まりで、芭蕉の生誕地を訪ねた話をしたら
「帰りの日は、私の車で〝ゲンジュウアン〟を案内しましょう」
と松尾さん。本当に相手の気持ちや、心情に心を傾けてくださるのでいつもその御好意に恐縮している。ただ、恥ずかしながら「ゲンジュウアン」と言われて何のことかわからなかった。
幻住庵は、琵琶湖に近く、紫式部が『源氏物語』を執筆したことで知られている石山寺の近くにあり、『奥の細道』後、四か月程過ごした庵である。芭蕉が自炊のために使用したと伝えられている「とくとくの清水」も健在であった。平成三年に復元された幻住庵は、藁葺の建物で、ひっそりとして、〝神さびた〟感じがある環境に建てられている。四七歳の芭蕉は、この庵で『幻住庵記』を書いた。
芭蕉は、自分の墓を義仲寺に定めたばかりでなく、近江の地が気に入っていった。
行く春を近江の人と惜しみける
は、あまりにも有名である。四か月のこの庵で過ごした時間は、来し方を振り返るのに充分な時間であったであろう。
「倩(うつろい)年月の移(うつり)こし拙き身の科(とが)をおもふに、ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは仏籬祖室の扉に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労して、暫く生涯のはかり事とさへなれば、終に無能無才にして此一筋につながる。楽天は五臓の神をやぶり、老杜(ろうと)は痩たり。賢愚文質のひとしからざるも、いづれか幻の隅か栖(すみか)ならずやと、おもい捨てふしぬ。
先(まづ)たのむ 椎の木も有(あり)夏木立」
良きか悪しきか、自分の人生はこれ以上でもこれ以下でもないという心境がある。「不易流行」もこの頃の芭蕉の境地であった。
Posted by okina-ogi at 12:01│Comments(0)
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