2012年10月04日
日野原重明先生101歳誕生日おめでとうございます!
平成24年10月4日は、日野原重明先生の101歳の誕生日です。ある方から「生き方上手」手帳をいただき、友人に電話しようと手帳を取り出し気付きました。医者で長寿。天寿ということもありましょうが、有言実行ということも言えます。2年前、群馬県桐生市で講演会を聴きました。
白寿のクレッシェンド
生涯現役がまさに当てはまる人物が日野原重明である。明治四四年(一九一一年)の十月生まれというから、今年(二〇一一年)の十月で百歳になる。睡眠時間は、一日四・
五時間で、数年先まで仕事のスケジュールで埋まっているという超多忙な生活を送っている。健康に恵まれなければ、できない生き方であることはもちろん、知的能力や人間性においても衰えを知らない。著書も多数あり、『生き方上手』は、ベストセラーになった。九〇歳の時の著作だから驚かされる。更には、童話『葉っぱのフレディ』をミュージカルにして公演したりするマルチぶりである。ピアノは若い時、音楽家を志望したこともあり、音楽に造詣が深くピアノを趣味にしている。
数多い役職を持ち、医師としても緩和ケア病棟で癌患者を診ている。中でも、情熱を注いでいるのが、「新老人の会」の活動である。その群馬支部のフォーラムが、一月一四日、桐生市の市民文化会館で開催された。車で会館には、開演一〇分前に着いたが、駐車場は、既に満車で、臨時駐車場に案内されたが、駐車できるスペースを探すのに苦労するほどの人気である。ホールの席は、ほとんど埋まっていて後方で立ったままの聴講となった。
日野原重明は、長く聖路加病院に勤務した。院長や理事長になってから、聖路加病院の近代化に経営手腕を発揮したが、二つの大きな社会的事件に遭遇している。一つは、一九七〇年に起きた「よど号ハイジャック事件」である。その時、日野原は、福岡で開催される日本内科学会に出席するために同機に搭乗していた。無事解放されたが、生かされた命を強く意識し、その後の人生観を支配した。もう一つは、一九九五年に起きた「地下鉄サリン事件」である。近くにある、地下鉄築地駅から多くの被害者が移送され、病院に収容し、適切な医療処置により多くの命を救った。病院を新改築するにあたって、震災などの大災害を想定し、非常時のために、礼拝堂や廊下も医療に対応できるように建築してあったことが、こうした対応を可能にしたのである。日野原の先見性でもあるが、命の重さを人生の最大のテーマとしていた日野原だから決断できたことである。この事件では、日野原は陣頭指揮にあたっている。
この事件から数年後の一九九八年に、私が勤務する法人の機関紙の巻頭言に原稿依頼をしたことがあった。「プライバシーと交わり」というタイトルで、自筆原稿をいただいた。内容は、老人施設の個室化に賛同する内容で、日野原自身も、日本財団の助成を受けて、全室個室の老人施設を実現している。日野原重明は、著名な医療界の重鎮ではあるが、各界の著名人との人脈もあり、聖路加病院の事業ばかりではなく、社会的に求められる事業の企画に募金を呼び掛け実現している。富士山の見える、ゴルフ場の一角に癌の末期患者のホスピスを開設したことは良く知られている。総額十五億円というから、大事業である。寄付集めの名人といったら失礼な言い方だが、この人が寄付を呼び掛けるなら協力しようという雰囲気が日野原にはある。この日の講演会は、寄付を目的にした講演会ではないが、講演料や自著の売り上げは、自ら「新老人の会」に寄付するのだろうと思った。聖路加病院の理事長は無報酬だったと聞く。人は、社会のために、そして自らが率先して範を示すのでなければ、簡単に寄付などには応じないものである。
日野原の講演は、一時間以上に渡ったが、椅子に腰掛ける(椅子は用意されていない)こともなく立ったままのものであった。マイクはもちろん使用しているが、ハリのある声である。内容も、老年期の生き方、命といった深いテーマ語っているが、自然体で難しい表現もない。時たまユーモアも交えるので、会場から笑いが絶えない。日野原語録はたくさんあったが
「僕のこれからはクレッシェンドです」
という言葉が印象に残った。
楽譜の記号で、この先、音が大きくなるようにするという意味である。
死というものは、必ず訪れる。その死を憂いて保守的になるのが、多くの人の老後の生き方なっているように思う。日野原の生き方は、常に新しい環境に身を置き、チャレンジしている。そのために、健康にも気を使っている。医者の不養生という言葉は、この人には当てはまらない。食事は、少食で、朝と昼は軽く、昼食は牛乳とビスケット二枚で空腹にならないという。夕食は多めに摂ると言ってもそれほどの量ではない。まるで仙人のようであるが、医学的裏付けがあってのことである。どうして、このような超人的な高齢者としての生き方ができるのであろうか。日野原が著書で述べていることから推測すると、若い時に結核などの大病を経験したことや、信仰によるのであろう。父親は、牧師であったこともあり、日野原は、日本キリスト教団に所属する信者である。人は生かされ、命は神が取り去り給うものだということが、確信になっているのだろう。文化勲章も受章しているが、日野原のような人生をなかなか誰もができるものではない。この人は、歴史に名を残す存在だと思った。本を一冊購入したのだが、講演後サインをしてくれた。握手の手は柔らかく温かかった。日野原の人柄そのもののように感じた。
白寿のクレッシェンド
生涯現役がまさに当てはまる人物が日野原重明である。明治四四年(一九一一年)の十月生まれというから、今年(二〇一一年)の十月で百歳になる。睡眠時間は、一日四・
五時間で、数年先まで仕事のスケジュールで埋まっているという超多忙な生活を送っている。健康に恵まれなければ、できない生き方であることはもちろん、知的能力や人間性においても衰えを知らない。著書も多数あり、『生き方上手』は、ベストセラーになった。九〇歳の時の著作だから驚かされる。更には、童話『葉っぱのフレディ』をミュージカルにして公演したりするマルチぶりである。ピアノは若い時、音楽家を志望したこともあり、音楽に造詣が深くピアノを趣味にしている。
数多い役職を持ち、医師としても緩和ケア病棟で癌患者を診ている。中でも、情熱を注いでいるのが、「新老人の会」の活動である。その群馬支部のフォーラムが、一月一四日、桐生市の市民文化会館で開催された。車で会館には、開演一〇分前に着いたが、駐車場は、既に満車で、臨時駐車場に案内されたが、駐車できるスペースを探すのに苦労するほどの人気である。ホールの席は、ほとんど埋まっていて後方で立ったままの聴講となった。
日野原重明は、長く聖路加病院に勤務した。院長や理事長になってから、聖路加病院の近代化に経営手腕を発揮したが、二つの大きな社会的事件に遭遇している。一つは、一九七〇年に起きた「よど号ハイジャック事件」である。その時、日野原は、福岡で開催される日本内科学会に出席するために同機に搭乗していた。無事解放されたが、生かされた命を強く意識し、その後の人生観を支配した。もう一つは、一九九五年に起きた「地下鉄サリン事件」である。近くにある、地下鉄築地駅から多くの被害者が移送され、病院に収容し、適切な医療処置により多くの命を救った。病院を新改築するにあたって、震災などの大災害を想定し、非常時のために、礼拝堂や廊下も医療に対応できるように建築してあったことが、こうした対応を可能にしたのである。日野原の先見性でもあるが、命の重さを人生の最大のテーマとしていた日野原だから決断できたことである。この事件では、日野原は陣頭指揮にあたっている。
この事件から数年後の一九九八年に、私が勤務する法人の機関紙の巻頭言に原稿依頼をしたことがあった。「プライバシーと交わり」というタイトルで、自筆原稿をいただいた。内容は、老人施設の個室化に賛同する内容で、日野原自身も、日本財団の助成を受けて、全室個室の老人施設を実現している。日野原重明は、著名な医療界の重鎮ではあるが、各界の著名人との人脈もあり、聖路加病院の事業ばかりではなく、社会的に求められる事業の企画に募金を呼び掛け実現している。富士山の見える、ゴルフ場の一角に癌の末期患者のホスピスを開設したことは良く知られている。総額十五億円というから、大事業である。寄付集めの名人といったら失礼な言い方だが、この人が寄付を呼び掛けるなら協力しようという雰囲気が日野原にはある。この日の講演会は、寄付を目的にした講演会ではないが、講演料や自著の売り上げは、自ら「新老人の会」に寄付するのだろうと思った。聖路加病院の理事長は無報酬だったと聞く。人は、社会のために、そして自らが率先して範を示すのでなければ、簡単に寄付などには応じないものである。
日野原の講演は、一時間以上に渡ったが、椅子に腰掛ける(椅子は用意されていない)こともなく立ったままのものであった。マイクはもちろん使用しているが、ハリのある声である。内容も、老年期の生き方、命といった深いテーマ語っているが、自然体で難しい表現もない。時たまユーモアも交えるので、会場から笑いが絶えない。日野原語録はたくさんあったが
「僕のこれからはクレッシェンドです」
という言葉が印象に残った。
楽譜の記号で、この先、音が大きくなるようにするという意味である。
死というものは、必ず訪れる。その死を憂いて保守的になるのが、多くの人の老後の生き方なっているように思う。日野原の生き方は、常に新しい環境に身を置き、チャレンジしている。そのために、健康にも気を使っている。医者の不養生という言葉は、この人には当てはまらない。食事は、少食で、朝と昼は軽く、昼食は牛乳とビスケット二枚で空腹にならないという。夕食は多めに摂ると言ってもそれほどの量ではない。まるで仙人のようであるが、医学的裏付けがあってのことである。どうして、このような超人的な高齢者としての生き方ができるのであろうか。日野原が著書で述べていることから推測すると、若い時に結核などの大病を経験したことや、信仰によるのであろう。父親は、牧師であったこともあり、日野原は、日本キリスト教団に所属する信者である。人は生かされ、命は神が取り去り給うものだということが、確信になっているのだろう。文化勲章も受章しているが、日野原のような人生をなかなか誰もができるものではない。この人は、歴史に名を残す存在だと思った。本を一冊購入したのだが、講演後サインをしてくれた。握手の手は柔らかく温かかった。日野原の人柄そのもののように感じた。
Posted by okina-ogi at 20:59│Comments(0)
│日常・雑感