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2013年11月03日

『白萩』(拙著)吟行

吟行
 友人と別れ、記念写真と手紙を送ると、数日後に返信があった。いつものとおり、ワープロの文字で、言葉短く、俳句も添えられている。長々と書くのは、女々しいという主義の人だから、俳句が性に合っているのかも知れない。
 「先般の上州旅行の際は、諸処案内頂くと共に散財をおかけし申し訳なく思っています。草津の別荘では何句かご所望されたのですが、あの時は酒に魅入られ、風流を愉しむ余裕もない体たらく。帰津(津山市に帰るの意)後、反省の意味も込めて句作を試みてみましたが、如何せん錆付いた感性が戻るべくもなく、『駄句一覧』の有様に終始した次第です」
挨拶文の後に俳句が十句あった。一緒に旅をしているので、時系列で六句拝借する。下手な解説はしないが、句の背景だけは書くことにする。

○雨激し 今宵花火の湖国かな
八月一日は、榛名湖で恒例の花火大会があった。そのため、湖畔に宿がとれなかったことを彼に説明してあった。伊香保の宿で夕食をとっていた時、集中豪雨のような雨音を聞いたのである。湖国という言葉は彼の好きな言葉である。琵琶湖ならわかるが榛名湖ほどの小さな湖の周辺も湖国に値する規模なのか後ろめたい気持ちはするが、花火大会を楽しみにきた人々のことに心を寄せているのである。
○鑑三の 金釘流や冷奴
「鑑三」とは、内村鑑三のことである。伊香保にある、徳富蘆花の記念館で内村鑑三の直筆の手紙が展示されていた。その文字が、金釘流と彼の眼には映った。冷奴は、彼の感性である。
○周平も 市井の人か蝉しぐれ
「周平」は、藤沢周平のことである。こちらは私の句である。
浅間の麓、嬬恋村鎌原の資料館、観音堂を見学して
○傾ける 観音堂や青芒   烈
○浅間焼け 石段暗く夏木立 優海
「烈」は、友人、「優海」は私の俳号である。
草津の別荘での友人の句は
○昼酒の 吾を叱るかほととぎす
○羊羹の ごとく晩夏の湯に沈み
 別荘に着いたのは、昼過ぎだったが、昼食は店ではとらず、総菜と刺身を摘みに昼酒になった。それほどの酒量ではないが、旅の疲れもあり小一時間彼は寝入ってしまう。その間、もてなす側はこまめにしばらく使っていない別荘の周囲の雑草を刈ったり、枝打ちをし、ベランダに溜まった枯れ枝、枯葉を掃いたりする。友人が起きたら湯に入れるように温泉の湯量も調節する。一仕事終わってもまだ心地良さそうに高鼾をかいているので、昨夜、伊香保の宿で弾いた童謡ではない、楽譜によるギター演奏をBJMとして流してあげる。その効果があったと見えてようやく目を覚ましてくれた。
○山百合や 友別荘の客となる 優海
○枝打ちし 手で山百合に触れてみん 烈
 若山牧水は歌人であったが、旅先で昼間から酒を飲むのは同じである。「幾山河越え去り行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」の有名な歌が広島と岡山の県境の峠で作られたことを彼に話し、牧水ゆかりの暮坂峠を案内しよう思っていたが、彼に希望なく、実現しなかった。来訪の二週間前に、野反湖からのハイキングの帰りに下見をして
○牧水像 木陰に涼をとり給え
も彼からは、あまり御褒めの言葉は頂戴できなかった。
  

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2013年11月02日

『白萩』(拙著)浅間焼け

浅間焼け
 〝朋有り遠方より来る、また楽しからずや〟
 八月一日、学生時代の友人が、岡山県の津山市から上州を訪ねてきた。友人の訪問は、二度目になるが、一回目は、大げさな言い方ではあるが、四半世紀も前の事である。こちらかは、四回ほど岡山県を訪ねて会っているが、普段は年賀状のやりとりだけである。
孔子の弟子たちのように、再会し、学問を語り、深めようというわけではない。温泉に入り、酒を飲みながらの来し方行く末思いつくままの四方山話と避暑が目的である。
 
 彼との共通の趣味は、将棋と俳句である。俳句の優劣をつけるのはどうかと思うが、今も昔も将棋は友人の方が高段者である。ともに全盛期の実力はないが、県大会の上位に顔を出したこともあるらしい。なにしろ、岡山県と言えば、倉敷市出身の大山康晴名人を輩出した、将棋の盛んな県である。県代表クラスは強豪ぞろいである。群馬の観光案内は足早に済ませ、日の高い内に宿に入る。折りたたみ式の将棋盤と、昔ちょっとした大会で賞品としてせしめた将棋の駒を持参している。将棋の駒は、箱に五十歳で名人になった米長邦雄の直筆の名が入っている。駒は柘植の彫り駒で、我が家の隠れたお宝である。二十数年前に、前橋市に米長邦雄の講演会と彼が名誉審判長をとなった将棋大会に出場したことがあった。決勝戦で敗れ、その時の賞品が今回持参している将棋の駒で、高段者である友人に失礼のないようにとの配慮のつもりである。余談だが、このときの優勝者には、米長邦雄との指導対局がセットされ、確か二枚落ち(飛車と角行を最初から抜いてハンデを与える対局)で、プロの米長邦雄(当時九段)が勝った。さすが、プロの将棋は強いと傍から見て感心したが、もし自分が勝っていたら、対局者となり米長さんに勝てたかも知れないという残念な思い出が残っている。大学の将棋研究会でアマチュア二段推薦の免状をもらったこともあり、二枚落ちならプロの九段でも勝てる道理だったからである。
 来訪初日の宿は伊香保温泉にした。インターネットで探していたら、野口雨情が定宿にしたという森秋旅館の名前が目にとまり、予約した。伊香保でも古い旅館で、原泉かけ流しが自慢である。期待に反せず、温泉には満足した。湯の温度は比較的ぬるく、長湯ができた。朝は、露天風呂で、伊香保の街と山の緑を眺めながら、ゆっくり湯に浸かることができた。野口雨情が宿泊した時は、木造であったが、改築されて鉄筋構造の建物になっているが、廊下やロビーに書家によって書かれた野口雨情の童謡や、写真が飾られている。静かに館内に童謡が流れ、雨情を看板にしている宿らしい雰囲気作りを感じさせてくれる。
 夕食までに、二時間以上もあるので将棋を指そうということになった。碁は打つというが、将棋は指すという。将棋盤に駒を置くときの手つきが指すという感じなのだろうが、友人の手つきは打つという雰囲気がある。読みに自信があるときはなおさらそんな感じがする。力強くパチッと駒を置くのである。そんな瞬間が何回かあった。冷えたビールを飲みながら、指し手を進める序盤戦は、無駄話をしながら気軽なものである。昔覚えた、定跡まがいの進行はお互い暗黙の了解であるかのように時間をかけない。しかし、中盤戦になるとハタと手がとまる場面が出てくる。そんな時は、ビールではものたらず、持参の吟醸酒に切り替えることになる。そうでもしないと決断できないような複雑な局面になっている。戦に酒はつきものというが、ただ決断を早めるだけの呼び水のようなものである。夕食を挟んで二局指したが、結果は友人の二連勝。序盤、中盤はどちらかというとこちらが優勢になる。二局目などは、大差で勝ちと思っていたのが、自陣の詰みをうっかり読み切れず惜敗した。終盤の寄せは、友人の方が格段と鋭い。このあたりに実力の差があるのだろう。
 
 「幸田露伴という人が〝惜福〟ということが大事だと言ってる。将棋の米長さんは、いたくこの言葉に魅せられて、〝勝利の女神〟の研究では〝惜福〟を御本尊のようにしていて、〝惜福〟ができる人に勝利の女神は微笑むのだそうだ。群馬の館林には茂林寺という狸寺があって、分福茶釜が奉納されている。分福も惜福も意味にさほど違いはない。要は、幸せは独り占めしては、いけないんだ。年賀状に書いた『木守柿 惜福の二字浮かびけり』のあなたの感想は、理屈っぽいとの評だったが、〝惜福〟の精神を大事にしましょうや」
と長々と敗戦の弁を述べ、暗に一局くらいは手を緩めなさいよと言った効果が出たのか、翌日の草津の別荘での対局で何とか片目をあけることができた。しばらくぶりの将棋だったが、無言の対話のようで実にその内容は楽しかった。彼も同じ感想を持ったようである。
 彼は、若い時童話を書いていた。原稿を見せてもらったが引きつかれるものがあった。「薄とセイタカアワダチソウ」の話などは、着眼が面白いと思った。三五年前の当時とでは、すっかり外来種のセイタカアワダチソウの勢いは影を潜めている。今は、童話は書かないが、短編だが小説を書いている。本を読んだり、文を書くことではもうひとつ共通の趣味を加えることができるかもしれない。
 将棋対局が終わり、ひと風呂浴びて酒を飲みながらの話になった。彼に問う。
「以前、藤沢周平の小説を絶賛していたのを覚えているが、最近はどうなの」
やはり、藤沢周平だという。亡くなって久しくなるが、何度読みなおしても面白いのだという。文体もあるが、内容なのだろうが、こちらは一度も読んだことがないので頷くばかりである。
「藤沢周平と司馬遼太郎を比較し、佐高信という評論家が、『司馬遼太郎は有名人を題材にするが藤沢周平は市井の人を描いている』と暗に司馬遼太郎を批判的に書いていた。藤沢周平も佐高信も出身は、山形鶴岡市で同郷らしいね」
と言うと
「市井は、『いちい』ではなく『しせい』と読むんじゃ」
と岡山弁の意外な答えが返ってきた。
「いちいは一位、市井の人は、要は偉い人なんだ」
と変な言い訳をしたら、大笑いしている。
 藤沢周平の彼の推薦する作品は、数多くあったが、その後本屋で『小説の周辺』というエッセイを見つけた。その本で知ったのだが『白き瓶』という小説を書いている。長塚節のことを書いているらしい。アララギ派の歌人でもある。正岡子規、伊藤左千夫、土屋文明のことを以前紀行文に書いたことがあるが、斉藤茂吉、長塚節、島木赤彦などのアララギ派の歌人のことを詳しく知りたいという気が最近してきている。読み方を間違った「いちい」は、アララギ(木)の意味もある。
 朝早く起きて、自家用車と飛行機、新幹線を乗り継いできたためか、友人は睡魔に襲われている。それに輪をかけて、将棋と同様に持ち込んだギターで、野口雨情の童謡などを弾き始めたものだから、眠気は加速してしまったらしい。彼には、ギターの趣味はない。その報復だったのか、高いびきの逆襲があり、夜明け前に目が醒めてしまった。
 伊香保から榛名湖を経由して、吾妻渓谷を通って草津の別荘に向かう。亡くなった叔父が所有していた別荘で、ここ数年避暑のために叔母にお願いして数日使わせてもらっている。冷房にない爽やかな涼しさがある。温泉も引かれていていつでも入ることができる。食材は、町中に「もくべい」というスーパーがあって買うことができる。向かいには酒屋さんもある。別荘を持つくらいなら、旅館やホテルに泊まったほうが余程経済的には違いないが、気ままにくつろげる良さが別荘にはある。
 
 文学に関心がある、友人のためのサービスと思って若山牧水ゆかりの暮坂峠を案内しようと考えていたが、「鬼押し出し」が見たいという。今回の訪問の観光地見学では友人の口から発した唯一のリクエストである。浅間山を目指し、軽井沢方面に向かう。
 今から二〇〇年以上前、正確には一七八三年八月五日(新暦)に浅間山は大爆発を起こした。溶岩が流れ出し、今日観光名所になった「鬼押し出し」の奇岩を残した。火山弾、火山灰が広域に降り、死者を出したり、作物に被害を与えたばかりでなく、火砕流が発生し、麓の部落に壊滅的な被害を与えた。火砕流は、鎌原村を直撃し、四七七名の命を一瞬にして奪った。高台の観音堂に避難した者や、村を離れた人だけが助かった。その数は九三名だった。昭和になって、観音堂の階段の下を掘り下げていったら、二人の女性の人骨が発見された。五〇段ある階段を必死になって駆け上がってきた女性がどういう関係なのかはわからない。もう数段上がれば助かっていたかも知れない。友人の記憶の中にこのニュースが残っていたのである。
 「今回、一番よいもの見させてもらった」
観音堂の近くにある資料館を見て友人が呟いた。近くに石田波郷の句碑があった
葛咲くや 嬬恋村の字いくつ
「いい句じゃなあ」
彼の句評は短い。いや感慨のようなものである。でもそれで十分わかっている。
復興した鎌原村は嬬恋村になり、時を経て復興した村には葛の花が咲いていた。葛のような生命力の強さと、村人の支え合いで今日に至っている。
友人はまた一言
「嬬恋(つまごい)という響きがいい」

残された九三人は、身分の差富裕の差を越えて三〇組の夫婦、家族を形成し再出発したのである。浅間の大爆発は「天明の浅間焼け」と言われた。この爆発が影響して数年後には天明の飢饉が起こったとされる。
 八月六日は、広島に原爆が落とされた日である。このときの死者は十万人以上であるが、天明の浅間焼けの死者は千数百人である。自然災害は防ぎきれないが、戦争という人為的な行為の愚かさと恐ろしさを感じさせられる。
 別荘では、ゆっくり過ごし翌日高崎に送り、再会を約して別れた。
「城崎あたりで海の幸をいだだき、ゆっくりまたやりましょうや」
志賀直哉の文学論議などできるかもしれないが、それよりも酒と温泉である。
  

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2013年11月01日

『白萩』(拙著)根岸の里の侘び住まいⅡ

 子規の句で
 柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺
があまりにも有名だが、病床の句ではないことは確かである。「柿食えば」という俗ともいえる表現と法隆寺の鐘という組み合わせが、新鮮な情景を生んでいるのかもしれない。
 心よき青葉の風や旅姿
 若鮎の二手になりて上りけり
 島々に灯をともしけり春の海
 雪残る頂き一つ国境
 赤蜻蛉筑波に雲のなかりけり
 菜の花や小学校の昼け時
などは、行動の自由が奪われていない時代の好奇心旺盛な子規の感性が表現されている句である。
 ねころんで書よむ人の春の草
などは、自分の句で
 ねころんでそっと寄り添う花菫
を思い出させてくれた。子規の句が知識にあって作った句では決してないが、同じような場面を子規も詠っているのだなあという感慨が湧いてくる。こちらの方がロマンチックな感性があって味わい深いなどと自慢すれば、大家である子規の痛烈な批判が返ってきそうである。 
 短歌のことは解らないが、子規の俳句に対する考え方に主義主張が強すぎるとも感じる。秀句、名句はあると思うが、名もない人に素晴らしい句はある。それぞれの人のアルバムに張られた写真のように。感情を抑制したものほど、切なくも情感が伝わってくる。子規の句で
 
 いくたびか雪の深さを尋ねけり
などは、病状に伏せ、何度も何度も枕辺の人に、庭に積る雪への愛着といとおしむ子規の心が伝わってくるではないか。写生の句に拘ることもない。
 五月雨や上野の山も見飽きたり
よく調べて書いているわけではないが、病床にいる人でなければ、作れない句であり、正直な人の句でもある。子規の家から上野の山が見えることは、子規庵を訪ねたからよくわかる。窓越しに見える遠景はいつも同じである。
 五月雨と言えば、芭蕉の
 五月雨をあつめて早し最上川」
と蕪村の
五月雨や大河を前に家二軒
を比較し、蕪村に軍配を上げている。優劣をつけるのも子規らしいが、蕪村を世の人に再認識させたのは子規の功績であろう。蕪村は画家でもあった。子規も絵を描くことを好んだ。蕪村とは肌があったのであろう。
 子規は、明治三四年の一月から、亡くなる二日前まで病床録を書き、また口述させた。順番に、『墨汁一滴』、『仰臥漫録』、『病牀六尺』となるのだが、『病牀六尺』は昔読んでいたらしく、岩波文庫の薄い紙のカバーが焦げ茶けて、脊文字が見えないほどになっていた。ようやく、本棚から見つけ出して、『墨汁一滴』、『仰臥漫録』を購入して読んでみた。身動きが取れず、痛みに苦しみながら必死に持論と心境を書き続ける子規の壮絶な日々が描写されているのに、ついつい時を忘れ、子規庵の子規の闘病生活を思い浮かべながら読みふけってしまった。
 
 子規の肺は、ほとんど空洞に近く、結核菌で脊髄までも侵され、床ずれもでき生きていること自体が不思議な状況であった。彼は、生きるために必死になって食べる。その食欲というか、食べる執念が尋常ではない。『仰臥漫録』には、毎日のように食べた物が記述されている。書き始めのところの内容は
朝 粥四椀、はぜの佃煮、梅干し(砂糖つけ)
昼 粥四椀、鰹のさしみ一人前、南瓜一皿、佃煮
夕 奈良茶飯四椀、なまり節(煮て少し生にても)茄子一皿
 この頃食ひ過ぎて食後いつも吐きかへす
  二時過牛乳一合ココア交て
    煎餅菓子パンなど十個ばかり
   昼飯後梨二つ
   夕食後梨一つ
といった具合である。まさに食べることが業のようである。日々の食事を見ていくと毎日のようにさしみを食べている。鮪のさしみもある。当時海に近い東京という都会ではさしみが食べられたというのは想像できたが、鮮度を保つには、冷蔵庫のない時代だから至難であったに違いない。高価でもあったであろう。子規は、このような状況にあって、月給を五〇円もらっていた。新聞社の四〇円と、高浜虚子の主宰する雑誌ホトトギスからの一〇円である。明治三四年の五〇円は、今日の価値でいくらになのかは分からないが、かなりゆとりのある生活ができたのであろう。
子規の世話をしたのは、母親と妹の律であった。食事の世話から、看病、排泄の世話など大変だったであろう。子規は、肉親の世話に心の中では感謝していたと思うが、体の痛みと、思うにならない毎日に二人に不満をぶつけている。特に、妹の律には、強情で、気が利かない、しかも病者の心を傷つけるような言動に殺してやりたいと思うことがあるなどと書いている。
 
 ある日、子規が寝床の中で苦しみ、大声で訴えているのにもかかわらず、庭で二人が立ち話を続けているのに癇癪を起している。肉親だから罵声で怒りを表すことになったのだろうが、原稿にまで肉親のことを辛辣に書いている子規にも驚かされる。二人が家を空けた時に、自殺を考えたことがあった。鋭利なキリで胸を刺そうとして、思い留まるのだが、その道具をスケッチしている。修羅場である。
秋の蠅叩き殺せと命じけり
という句があるが、殺せと命じた相手は、母親か妹であったに違いない。
 殺してやりたいとか、殺せなどと口に出したりすることはひどく不遜で他人の心を傷つけることになるが、子規は、天職ともいうべき俳句の中に殺せという言葉を表現している。今は、このことを持って子規の人間性を云々したくはないが、キリスト教が人は罪人だというのも分からなくはない。
 子規の時世となった句が三句ある。いずれも糸瓜の句である。
 糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
 痰一斗糸瓜の水も間に合わず
 をととひの糸瓜の水も取らざりき
満三五歳の直前となる、明治三五年の九月一九日の午前一時頃永眠した。明治一年が一歳になるので、明治の年の歩みと子規の歳は一致している。子規庵には、同郷の高浜虚子や河東碧梧桐といった俳人や、伊藤左千夫や長塚節などが足繁く訪れている。子規は親分肌のところがあった。若い時は、政治家になろうとしたことがあったらしいが、その素質は十分にあった。病床から短歌、俳句の後継者に影響を及ぼす子規のカリスマ性は、驚嘆に値する。
 
 子規への案内役になった中村不折だが、子規と知りあったのは子規が二七歳の時であった。不折の方が一つ年上だが、二人の友情は終生変わらなかった。『墨汁一滴』の中で、子規は、中村不折の画に対する真摯な態度と、熱心さ、研究の深さに賞賛の言葉を述べている。他人の評には辛い子規も、中村不折には違っていた。ただ、西洋画に関心が向き、渡欧したことには不満を述べている。日本画で不折は充分大成できると子規は考えていた。身近にあって、一緒に仕事ができる話し相手が欲しかったのであろう。不折は、新聞の挿絵から、本の装丁まで手掛ける器用さがあった。夏目漱石の『吾輩は猫である』の初版は彼の手によった。
 子規と中国大陸に渡ったことから、書にも関心を示し、この道でも大家になっている。財産を、書に関する古い石碑や資料を収集に使い、晩年に書道博物館を開館させ、今日公に移管して多くの人々に観る機会を与えてくれている。子規とは対照的に、七七歳まで生きた。借金はしない人生が彼の哲学であり、信州人独特の頑固さもあった。
 「薬師寺展」も見たのであるが、寺に安置されている時にある光背がなく、日光菩薩、月光菩薩の後ろ姿を見ることができた。月の裏側を見たような気持になったが、見事に全面と同じに像は造られていた。見えない場所にも手抜きがない。不折の芸術に対する態度のようでもあり、近くに住んでいた子規にも見せてあげたいとも思った。
 『病牀六尺』の書き出しは
「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。:::」
それは、満足した空間として、病床六尺の世界を認めているのではない。自分で、この狭い空間から移動する術がないのである。『墨汁一滴』の中に、既に失われた自由がないことを嘆いている。子規の文章を抜粋すると
「散歩の楽しみ、旅行の楽しみ、寄席に行く楽しみ、展覧会を見る楽しみ、妻と一緒に温泉に行く楽しみ。歩行の自由、寝返りの自由、足を伸ばす自由、トイレに行く自由。全ての楽しみ、全ての自由は、自分から奪い去られ、残ったのは飲食の楽しみと執筆の自由である。クリスチャンが枕辺で、この世は短い、次の世は永いから、キリストのよみがえりを信じれば幸福だとなぐさめてくれるが、それはそれで感謝するが、まずは神に、自分に二四時間の自由を与え、たくさん食べられるようにしてもらい、その後に、ゆっくり永遠の幸福を考えてみたい」と言い、そして、次の言は哲学的な深さがある。
「悟りというのは、いかなる場合にも平気で死ねることかと思ったが、悟りとは、いかなる場合にも、平気で生きていることであった」
  

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