☆☆☆荻原悦雄のフェイスブックはこちらをクリック。旅行記、書評を書き綴っています。☆☆☆

2012年12月31日

 山本覚馬のこと

 
 

 山本覚馬は、新島襄の夫人となった新島八重の兄である。同志社の創立と深く関わった人物として知っていたが、その詳細に立ち入って調べたことはなかった。いつ購入したのか記憶がないのだが、書棚を見ていたら、『山本覚馬傳』という本が目に入った。京都ライトハウス刊となっており、校閲は、私が学生時代の同志社大学の総長だった住谷悦治である。昭和五一年に発行されており、買い求めたがそのまま本棚に眠っていた可能性がある。著者は、青山霞村となっており、初版は昭和三年とある。改定増補と書かれているので再編集した復刻本である。青山は、同志社交友となっている。
 NHKで、新島八重の物語が、来年放映されることになり、にわかに書店に新島八重関連図書が並ぶようになった。そのため、八重の兄であり、同志社創立に関与した山本覚馬の人物像が語られている。その何冊かに目を通し、気づいたのは、この本からの引用がほとんどだと気づいた。同時に、山本覚馬という人が、世間に知られていないが、新島襄にも匹敵するように感じられてきた。ドラマで、どれほど紹介されるかは、分からないが、その人物像の概要を追ってみたい。
 山本覚馬は、会津藩の上士、砲術師範の家に一八二八年に生まれている。長男であり、弟は、鳥羽伏見の戦いの傷がもとで死に、妹の八重は末子で、覚馬との間の年の差は一七もあった。ちなみに八重の夫である新島襄とは一五の年の差である。他に兄弟が二人あったが夭逝している。
 会津には藩校である日新館もあり、幼い時から勉学に励み、成績も良かった。母親が賢い人でその影響が大きかった。成人してからは、砲術の勉強のために、佐久間象山や勝海舟に学び、生涯にわたり影響を受けることになる。高島秋帆や江川太郎左衛門にも間接的に学ぶところがあり、西洋砲術の優秀さを知った。洋式化を図ろうとしたが、藩の要職にあった人達に理解されず、一時、お役御免になったこともあった。
 薩長の攘夷による馬関戦争や薩英戦争で、日本の海防の守りの欠陥と、大砲の能力があまりにも非力だということがわかると、山本覚馬が再び登用されることになり、藩主が京都守護職になると、銃砲隊とともに都の治安の任務に就くことになる。禁門の変では、長州藩を破る活躍を見せたが、その戦いで眼を負傷し、それが原因で失明に至り、脊椎損傷も併発し、眼の見えない歩行困難な身体障害者になってしまう。鳥羽伏見の戦いには加われず、京都に残り薩摩藩により捕縛されてしまい、幽閉生活を送ることになるが、破格の待遇だったという。
 光を失い、行動の自由が奪われてしまう身になってから六五歳で亡くなる二〇数年間が、山本覚馬の真骨頂である。明治政府に罪を許された後、京都府の政治顧問となり、府政に関わっていく。その見識がどこから生まれたかというと、先にも述べたように、佐久間象山や勝海舟に加え横井小楠との親交があったこと。西洋留学から帰った西周(あまね)との交流による西洋知識の吸収であった。西を知ったのは勝海舟からの紹介だったらしいが、山本覚馬が西洋文明に関心をもっていた証拠である。西周は、津和野藩の出身で、森鴎外とも縁戚で、福澤諭吉のように西洋文明を日本に啓蒙した人物として知られている。
 人間の素質というものを考える時、志と人格の深化というものを抜きにはできない。山本覚馬は、薩摩藩邸に幽閉中、口述筆記によって「管見(かんけん)」という意見書を残している。筒の先の狭い穴から世の中を見るという謙った書名にしているが、その内容は、これからの日本の在り方を先駆けて見透している。また、失明の寸前で、その意味も含まれているのかも知れない。吉田松陰は、斬首を待つ前に、『留魂録』を残した。坂本龍馬は、「船中八策」を残し刺客の刃に倒れた。いずれも、公を思う気持ちがあったからである。これが、志という側面である。人格の深化とは何か。盲目になっても耳学問ということがあるように、知識は吸収できる。かえって、本質的な情報を選択するようになるかもしれない。新島襄に会う前に、山本覚馬は、キリスト教への理解を示し、後年受洗することになる。
 「管見」には、どのようことが書かれていたかというと、『山本覚馬傳』に掲載されている。慶応四年戊辰五月となっており、二二項目からなっている。項目だけを揚げる。
「政体」・「議事院」・「学校」・「変制」・「国体」・「建国術」・「製鉄法」・「貨幣」・「衣食」・「女学」・「平均法」・「醸酒法」・「条約」・「軍艦国律」・「港制」・「救民」・「髪制」・「変沸法」・「商律」・「時法」・「歴法」・「官医」。項目だけ見ても多岐に亘っている。
 こうした新しい時代の政治を京都で実践したのである。政治には、権力とお金、人々の賛同が必要になる。まず、政治力ということから言うと、政治顧問という立場である。今日で言えば、政策ブレーンというところであろうか。西周の推薦だったが、後に長く京都府政に関わる槇村正直との蜜月時代に開明的な事業が、京都に生まれる。日本で最初の小学校、中学校、「女紅場」の名で知られる女学校の開設は、日本で最初となった。
府立病院と医学校の創立。集書院(図書館)の開設。活版印刷による新聞の発行。工業、商業、農業の振興。博覧会の開催により、外国人の関心を向けるようにするなど、天皇が去った旧都の復興に奮闘している。
槇村正直は、京都府知事から貴族院議員となり、男爵となり栄達した明治維新の典型的な立身出世した人物だが、見識の上では、山本覚馬に及ばない。最後は、意見の相違を見るが、小野組転籍事件の時は、訴えられ拘束された槇村を救出するために、不自由な体で東京に行き奔走する。その時に同行し介添えしたのが新島八重だった。
また、西南戦争が勃発した時、西郷軍の敗北を予言したが、西郷隆盛は、国家にとって有為な存在であるとの信念から、助命のため自分を折衝にあたらせてほしいと願い出たこともあった。風雲渦巻く時代、国家の行く末に熱き思いを持って、時には意見、立場を異にする者に対し、硝煙の中を生き抜いてきた者だけが知る情の発露が、義侠の心で行動をかきたてることがあった。
新島襄、山本覚馬という、志と深化した人格の持ち主が、出会い同志社は創立されたと思う。神の摂理というならそうなのだろう。山本覚馬は、歴史的人物として、今日以上に評価されて良い。妹八重のドラマを通じて、そうなればと願う。
  

Posted by okina-ogi at 07:54Comments(0)日常・雑感

2012年12月30日

『新美南吉童話集』  

『新美南吉童話集』   千葉俊二編    岩波文庫   735円(税込)

新美南吉の生れたのは、大正二年である。西暦に直せば一九一三年だから、生きていれば来年で100歳になる。本名は、渡辺正八といった。兄が夭折し、その名前を受け継いだ。母親は病弱で、新美南吉が四歳の時に死んだ。奇しくも亡くなった時の年齢は、新美南吉と同じである。新美姓になったのは、祖母の住む母親の実家に養子に入ったからである。一人さびしい少年時代であったことは容易に想像できる。また、彼の童話にもそれを感じさせるものがある。新美南吉の父親は再婚し、継母の間に弟が生まれている。その継母は、一度は離婚し、また入籍するという複雑な事情もあった。小学校、中学校と成績が優秀であった少年には、微妙な心境を与えたことであろう。
 この童話集には、「ごんぎつね」、「おじいさんのランプ」、「手袋を買いに」、「花のき村と盗人たち」などが収録されている。
  

Posted by okina-ogi at 10:06Comments(0)書評

2012年12月29日

「ミコちゃんの夢」

「ミコちゃんの夢」   作 石川郁代(花と話ができた人)

ミコちゃんが考えています。窓枠にひじをついて両手で頬を支えながら、外を見ているのですが、ミコちゃんの目は、うっとり夢を見ているようで、ひらひら舞っている蝶々が、ミコちゃんの髪の毛にリボンの様に止まったのに、それも気がつかないようです。

わたしが、もし風になれるとしたら・・・・。そよ風さんになりたいわ。そして春の野原に行って緑の草を波のようにそよそよ吹いてあげるの。そこに女の子が来て、わーいといって寝ころぶわ。緑の草が女の子のほっぺを、こちょこちょくすぐるの。女の子はいつのまにかあたたかいお日様の光をあびながら、眠ってしまうわ。そしたらわたし、お花畑からお花の香りを運んできてあげて、女の子のまわりをお花の匂いで一杯に包んであげるの。

それから、向こうの方を見ると、赤い屋根のおうちがあって窓があいていて、男の子がベットで寝ているの。そうだわ。わたし、今度は蝶々になるの。そして病気の男の子と楽しいお話をするんだわ。ひらひら飛んでレースのカーテンに止まるの。男の子は気がついてきっとこう言うの。

君、僕とお友達になってくれる?僕、外に出られないから、お外のお話たくさん聞きたいの。わたしは、部屋の中をひらひら舞いながらお日様の話やお花畑の話や風さんの話をたくさんしてあげるの。そして二人はとっても仲良しになるの・・・・。

その時、お勝手の方からママの声が聞こえてきました。
「ミコちゃんおやつですよ。手を洗っていらっしゃーい」
 
ミコちゃんの夢が終わって、いつもの顔に戻りました。そして大きな声でお返事しました。
「ハーイ。ママ。すぐいくわ」
ミコちゃんが窓辺を離れたら、その時髪に止まっていた蝶々がひらひらと飛び立って、ゆっくり外へ飛んでいきました。ミコちゃんは
「あ、蝶々」
と言って立ち止りました。蝶々はひらひらひらひら春の光の中を飛んでいきました。

この作品は、横須賀で保育をされていた石川さんが、園児に読み聞かせようとして作った短編童話です。この園には、小泉元総理の御子息、孝太郎さんと進次郎さんが通っていたということです。平成5年5月7日の日付が書いてありました。
  

Posted by okina-ogi at 10:50Comments(0)書評

2012年12月28日

もういくつ寝ると

心に浮かぶ歌・句・そして詩68

 年末年始になると、自然と浮かんでくる歌がいくつかある。その筆頭は、文字通り「お正月」である。作曲したのは、日本の西洋音楽の草分け的音楽家といっても良い瀧廉太郎である。明治34年に発表されたので、当時の正月の風情が表現され、今とは随分違っている。作詞者は、東くめという女性で、東京音楽学校の卒業生である。瀧廉太郎の2年先輩ということになるが、長寿であった。年配者は、記憶にあると思うが、NHKの「私の秘密」という番組に出演したこともあった。1969年に亡くなっている。和歌山県の人である。「雪やこんこん」、「鳩ぽっぽ」も彼女の作詞である。

「お正月」
もういくつ寝ると お正月
お正月には凧あげて
独楽を回して遊びましょう
早く来い来い お正月

もういくつ寝ると お正月
お正月には毬ついて
追羽根ついて遊びましょう
早く来い来い お正月

正月になれば、日の丸の旗を立てる家もあるが、祭日にこまめに国旗を掲揚する家は少なくなった。よほど、先の大戦の影響があって、戦争を想起させるからなのだろうか。あの家は「右翼」だというレッテルを張られるやもしらず。しかし、「日の丸」は、良い歌ではないか。
  

Posted by okina-ogi at 22:07Comments(0)日常・雑感

2012年12月27日

無常ということ

 こんなタイトルで小林秀雄が文章を書いている。古くから、日本の先人たちは無常感を持つ人が多かった。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・」や「行く川の水は絶えずして、しかももとの水にはあらず。・・・」など昔習った、古典の一節は思いだしても無常ということを実感することはなかった。
 少し遅かったかもしれないが、五十近くから旅を意識し、紀行を書くようになった。拙著をさしあげた方から「昭和の芭蕉さん」などと言われたこともあったが、識(心の層)深さが違う。仏教の唯識に晩年関心を持った数学者の岡潔は、「芭蕉は14識」といっていたが、こちらは、9識も越えられないでいる。時間空間を超え、私心を捨て去るような生き方はできていない。
 岡潔は「物質はない」とも言っている。素粒子論をあげて説明している。自然科学を知り、物質的な恩恵を享受している現代人には、「物質はない」とは思えない。しかし、そう思わないと「消えざるもの」がわからない。「消えざるもの」とは「情」という、心の働きである。「心が響き合う」ということが何よりも尊い。無常が分からなければ、「情」の大切さも分からない。
 「無常」ということは、「無情」ということではない。常に同じ状態にないということだから、何も寂しいということでもない。一人旅をしても、寂しくはならない。心は、過去にも未来にも動いて留まることがない。旅先で出会う見知らぬ人と言葉を交わすと、懐かしささえ感じることがある。
 家族との団欒、母親の体内のように安心していられる教会のような場所も良いが、一人旅に身を置いて人生を考えてみるのも良いのでないだろうか。誰にも薦めるということはできないが、人生そのものが「李白」、「芭蕉」に言わせれば「逆旅」なのだから。
  

Posted by okina-ogi at 23:04Comments(0)日常・雑感

2012年12月27日

高梁という町(2012年12月)



 年の瀬の連休を利用して岡山の友人を訪ねることにした。学生時代の友人で、俳句と将棋が共通の趣味である。二年に一度くらいの間隔で会っているので、同窓会のように昔語りということもなく、近況を話す程度の仲になっている。駅まで、彼の友人のIさんが迎えに来てくれた。店を予約してくれていて御馳走になった。Iさんのおかげで彼もお酒が飲めて再会に話がはずんだ。
「わざわざ、遠方からいらっしゃいました」
と友人に代わって丁重な挨拶をいただいた。
「将棋友達で、年上ということもあり、認知症がないかという心配もあり、ときたま訪ねて確認することにしてます」
彼は、笑って酒を飲んでいる。
 冗談にも、少し言い過ぎだったのか、翌日の対戦は、五連敗。タイトル戦なら四連敗したところで終了である。昔、升田幸三が、大山康晴に王将戦で四連勝したことがあった。ルールで勝者が香車を引いて指すことになっていた。
「わしの方は、ホームじゃけん。お前は、アウェイだから仕方ない」
と慰めとも言えない一言だったが、五局とも完敗に近く返す言葉がなかった。

 帰路、友人の車で高梁市に案内してもらった。前回、訪問した時は、雪が降って実現しなかった。津山にある彼の家から高速道路を使うと、一時間半くらいで行けるので、帰宅する日に案内してくれることになった。高梁から、岡山空港まで一時間で行けるので、都合が良いというのである。
この日は、寒波到来で日本海側は、雪になっていたようだが、岡山県の内陸部から、瀬戸内海側は、すっきりと晴れていた。岡山県は、昔、美作国、備中国、備前国に分かれていた。津山は美作で、高梁は、備中であった。高梁は、古くからの城下町で、戦国時代に、備中高松城という山城が築かれ、現代もその形を留めている。城は、案内してもらえなかったが、市の歴史資料館で模型を見ることができた。
今回の高梁行きの目的は、新島襄の特別企画展が開催されているとの情報を得たからである。それも、二四日が最終日となっている。来年のNHKの大河ドラマは「八重の桜」である。新島夫人である新島八重を主人公にしたドラマである。そうした意識もあって、無理なお願いには違いないのだが、友人の好意に甘えることにしたのである。
幕末、高梁は、備中高松藩が統治し、藩主は、板倉勝静(かつきよ)であった。桑名藩主の子として生まれ、板倉氏の養子になった人物だから、寛政の改革で知られる楽翁こと松平定信の末裔ということになる。幕末、寺社奉行や老中などの要職につき、最後まで徳川家への忠義を貫いた。勝海舟とも親しく、時代が時代でなければ、名君とも言われても不思議ではない人物だったらしい。事実、儒者山田方谷を抜擢して、藩政の改革をやりとげている。上州、安中藩の板倉氏は、分家筋にあたり、藩士であった新島襄と高梁との接点ができる。
新島襄は、安中藩士であったが、江戸で生まれたために上州安中で過ごしたことは、ほとんどなかった。江戸の屋敷で籠の鳥のような生活をしていたという人もある。その新島襄が、藩の手配した船で高梁を訪れたことがあった。海外渡航を決行する前のことである。よほど、この経験が新鮮だったのであろう。新島の好奇心は、海外まで飛躍する。高梁滞在の様子が企画展で見られるかと思ったのである。けれども、企画展というのは誤報だったようで、歴史資料館には、新島襄から新島八重に対する長文の手紙が一点展示されていただけであった。近くには、留岡幸助、福西志計子といったキリスト教に影響を受け、社会福祉や、女子教育に身を投じた高梁出身の人物の資料も展示されていた。家に帰って調べてみると、新島襄は、帰国後、明治一三年に高梁を訪れ伝道をしている。今日、明治二七年に建てられたキリスト教会の建物が残っている。
歴史資料館の多くのスペースをとって展示されていたのは、戦国時代に築城された備中松山城の城主の変遷と山田方谷の紹介であった。茶人でもあり、庭園設計の名人であった小堀遠州の名前があった。山田方谷については、郷土資料館にも銅像があり、高梁の偉人という扱いになっている。司馬遼太郎が、越後長岡の家老であった、河井継之助を主人公として書いた『峠』で山田方谷に触れている。この人物の偉さを今は理解できていない。いずれ、その偉さが実感できたら、河井継之助のように、再度、高梁を訪ねてみようと思う。
国道四八四号線は、市街地に入る時、急峻な山の斜度を考え、近代的な道路設計により渦巻くような形の道路になっている。運転手も大変だが、帰路車も悲鳴を上げた。空港までなんとか走行できたが、帰宅して友人に連絡したら「入院」となったらしい。友人にも愛車にも大変世話になってしまった。坂道を昇りながら振り返った高梁市街の風景は、しっかりと脳裏に刻まれた。

  

Posted by okina-ogi at 08:00Comments(0)旅行記

2012年12月26日

『お伽草紙』太宰治 新潮文庫 578円

 もともと、「御伽草子」は、鎌倉時代末期から江戸時代にかけてできた、短編の絵入り物語である。『人間失格』、『斜陽』などの代表作で知られる、無頼派の作家太宰治に『お伽草紙』という作品がある。その存在を知ったのは、20代の時であるが、読む機会がなかった。つい数年前、津軽を旅することになって、読んで見る気になったのである。
 30歳少し前に、老年心理学を研究する人と知り合いになった。当時は、東京都老人総合研究所の職員をしていたが、その後筑波大学に奉職した。その後、私立大学の教授に就任し、今は退職して老年期を楽しまれている。その先生は、心理学の題材を文学から引用するのが得意だった。
 「太宰治に『浦島』という作品があって、玉手箱を開け、白髪のお爺さんになるという話は、ボケるということであると太宰は言っている。それは、仏様の慈悲なのだ。なぜなら、地上にはかつての肉親、友人の姿はなく、老人になることになることによって、その苦痛から逃れることができたのだ」
 そんな趣旨の解説をした。そんな記憶が、何十年も頭の片隅にあって、この本を読む機会が訪れたのだと思う。戦時中の作品で、こうした非常時に書いたことの事実も、新鮮な感じがあった。
 「御伽草子」には、「瘤取り」、「カチカチ山」、「舌切雀」などが収録されている。
  

Posted by okina-ogi at 07:27Comments(0)書評

2012年12月25日

『ビルマの耳飾り』悲劇の戦線

『ビルマの耳飾り』悲劇の戦線 著者 武者一雄 上毛新聞社 1200円(税込)

この本は、童話というより児童文学という範疇に入る作品である。戦争体験者として子供に、非戦の大事さを教えている。作者は、曹洞宗の寺の住職だった。平成20年に92歳で亡くなっている。その4年前の夏に、友人と武者さんを昭和村にある雲昌寺に訪ねたことがあった。その時署名入りでいただいたのが、この本である。帯の裏には
「人間は、おたがいに生き栄えなければならない。おたがいに殺しあう、あの阿呆な戦争を、もうこのへんでやめないと、やがて人類は滅びることになるかも知れない。1962・1・2 武者一雄」と書かれている。
当時、お訪ねした時のことを拙著『冬の渚』に書いている。

『ビルマの竪琴』の水島上等兵といわれて
                武者(中村)一雄さん(平成十六年・夏)
 今年も終戦記念日が近づいている。毎年、戦争を語れる体験者が少なくなっていく。『ビルマの竪琴』という映画を見た人は多いと思う。市川昆監督によって、昭和三十一年と平成五年に二度にわたって映画化されているが、竹山道雄の同名の児童文学作品を脚本、演出している。ビルマ僧に身を変え、戦死者の遺体を埋葬し、供養しながらオウムを肩に乗せ「埴生の宿」を竪琴で奏でる水島上等兵が主役となっている。
 この水島上等兵のモデルになった人が、群馬県の昭和村に今も健在だという話をある老人から聞いた。年齢は九十歳に近いだろうということである。名前は中村一雄さんといって、雲昌寺という寺の住職だという。中村さんを紹介してくれた老人もビルマ戦線から生還した一人である。
 〝インパール作戦〟という戦いの中で、多くの死者が出た。その死者は戦闘ではなく、多くは、飢餓や病気で死んでいる。インドへの攻略を企図して、ビルマからアラカン山脈を越えインパールを目指したのでその名がついた。十万人以上の兵員を動員したが、装備や兵站計画が不十分で、無謀な作戦として先の戦争に悪名を残した。
 七月二十五日、友人の音楽プロデュサーの滝澤隆さんと雲昌寺に中村一雄さんを訪ねた。彼を誘ったのは、この訪問に音楽が切って離せないと直感したからである。中村さんの住む雲昌寺は、上越本線岩本駅に近い橋から利根川を渡ってすぐの場所にあるが、当日は、関越自動車道を利用し、昭和村インターチェンジを降りて行った。〝雲昌寺の大ケヤキ〟という目印が地図にも載っていて迷うことはなかった。
 玄関は開け放たれていて、外から挨拶すると「どうぞ」と寺独得の高い座敷から中村ご夫妻が迎えてくれた。天井が高く、風通しも良く、暑い日であったが家の中は涼しい。中村さんは、高崎中学(現高崎高校)の卒業と聞いたが、同窓会名簿を調べてもわからなかった。その理由がわかった。元の姓は武者といった(以降、武者さんと書くことにする)。先代の住職の姓に変えていたのである。我々訪問者二人の母校の大先輩というご縁もあるが、年齢差は四十歳に近い。
「私が話すより、このビデオを見てもらったほうがよい」
と、NHKが約一時間にわたり放映した番組を見せてくれた。今から五年前、武者さんが八十三歳の時のものである。
 わかったことがある。竹山道雄の『ビルマの竪琴』はあくまでフィクションである。武者さんは、竪琴の名人でもなく、ビルマ僧に変身したわけでもなく、もちろん、あのオウムも肩にかけていたわけでもなかった。訪問前からも、水島上等兵を武者さんに重ねることはなかったが、僧侶としてのイメージは重なった。
 武者さんは、戦後ビルマ(現ミャンマー)を二十数回訪ねている。そして私費を投じて、捕虜生活を経験した収容所近くに小学校を建てた。奇麗な池があって、近くにパゴタ(仏塔)が建っている。これが最後の旅と、武者さんが創設した保育園に勤める次女とミャンマーを訪ねる様子をNHKはカメラに収めている。感動的なのは、多くの子供たちに迎えられる場面である。彼らの目に武者さんは仏さまのように映っている。
 驚いたことがある。武者さんは、児童文学者であった。『ビルマの首飾り』という作品は、武者さんの非戦の思想が綴られている。
秘伝の甲賀流忍法を駆使して敵を殺さず戦いを有利に進める福島兵長とマーチャという少女の間の約束は、「殺したら殺される」という仏教の不殺生の教えである。約束の印が首飾りであった。福島兵長は、最後は見方を助けるために突撃して死ぬ。マーチャは、イギリスの戦闘機の機銃掃射で打たれて死ぬ。戦の中で人を殺さないということは、なかなかできることではない。物語の最後の章は、「祈り」で結ばれている。昭和四十六年、講談社の児童文学新人賞を受賞している。『ビルマの星空』という小説も書いている。実録『ビルマの竪琴』と言える小説で初版は『生きているビルマの竪琴』というタイトルで出版された。この本がきっかけになって、武者さんが水島上等兵のモデルといわれるようになったのである。
 武者さんと捕虜生活をともにした人で、古筆了以知(こひつりょういち)という武蔵野音楽大学出身の下士官がいた。古筆氏は、戦後、東京フィルハーモニーのビオラ奏者として活躍し専務理事になったが、今は故人である。歌う部隊として武者さんを含めて二十数名の合唱団を指導し、収容されている各部隊を慰問したのである。無二の戦友であった。
「いろいろな歌を唄いましたね。日本の童謡。フォスターの曲。『埴生の宿』はイギリスの兵隊に聞かせたものです」
 榛名の梅を土産に持参したが、帰りには著書を署名入りでいただいてしまった。『恥書きあれこれ始末記』(一部~三部)あさを社、は平成十五年の出版である。武者さんの人生の集大成であるが、道元禅師と良寛の歌と句が紹介されている。
  

Posted by okina-ogi at 13:02Comments(0)書評

2012年12月24日

「トラクター爺さん」

 閑話休題というつもりだが、ちょっと好い話を聴いた。90歳を過ぎて、物忘れが多くなったお爺さんは、これまた高齢な奥さんと二人暮らしをしている。二人とも介護保険の認定を受けて、要介護と認定された。
 介護保険のサービスを受けているが、今も現役の農民である。田に出て、トラクターを運転し、りっぱに農作業をしている。何代目か知らないが、トラクターが古くなって買い換えるという。
 もう、必要ないからやめてほしいと子供に言われても諦めきれない。一度操作をあやまって、トラクターが横転し、本人にケガはなかったがこれを機にトラクターを運転するのはやめた。
どうして、これまでにトラクターに執着していたかを、息子は理解していた。父親は、南方戦線から生還し、小柄ながら力仕事も苦にせず働いた。戦後間もない頃は、農作業の相棒として牛を買った。
 田を耕し、山から材木を出したりするのに牛の力を借りた。牛舎は、家の一部で家族同然の扱いだった。その愛情に応えて、牛も働き物だったが、齢を重ね、役割を果たすことができなくなる日がきた。泣く泣く牛を売ることにしたが、牛も涙を流し、自分のこれからの運命を知るかのようだった。この光景を、息子は見ていたのではなく、父親からの話として何度も聞かされたのであろう。90歳の認知症と診断されてもおかしくないお爺さんにとって、トラクターはかつての牛だったというのである。
 人に歴史あり。他者から理解できない奇怪な行動でも、その背景には、それなりの理由があるのである。見えないものを見る能力が、知識、教養を身につけた専門家にあるかと言えば一概には言えないと思う。
  

Posted by okina-ogi at 22:16Comments(0)日常・雑感

2012年12月21日

『でんでんむしのかなしみ』

『でんでんむしのかなしみ』 作 新美南吉 絵 かみやしん 
              大日本図書   1365円(税込)

「でんでんむしのかなしみ」という彼の作品がある。きわめて短い童話であるが、あるとき、でんでんむしは、自分の背に負った殻の中にかなしみがつまっていることに気づく。そして、他のでんでんむしに尋ねてみると、誰もがおなじように悲しみを殻に背負っていることを教えてくれる。
そして、でんでんむしは、かなしみを受けとめることができるという話である。かなしみを通じた他者との共感と表現するのは、大人の世界であり、こういう話を絵本で見た子供の実感は、言葉以上のものを心に宿すことになるだろう。
新美南吉記念館に「でんでんむしのかなしみ」の絵本があったので、購入したら皇后陛下がお心にとめた童話だということが、帯に書かれてあった。皇后陛下は、童話に強い関心を持たれておられることは、有名である。何がお好きかということを、外に出されないのが皇室の伝統だが、こうした童話が多くの人々の読むきっかけになるのであれば、良いことに違いない。
  

Posted by okina-ogi at 20:34Comments(0)書評

2012年12月21日

米長永世棋聖語録

 米長さんの将棋は独創的だったという。それを称して「泥沼流」などと呼ばれた、将棋の序盤戦は、定跡に熟知しているものがリードするが、中盤以降は、対局観と読みの深さがものを言う。対局には負けたが、コンピューターに対する一手目は、銀の上に玉を動かした。普通は、角道を空けるか、飛車先を突くものである。昔、坂田三吉が、一手目に端歩を突いたのは有名だが、米長さんもそれに劣らずといったところである。
 
 訃報を見るまで知らなかったのだが、ツイッターに書き込みをしている。よくもこれほど次から次へと機知に富んだ言葉が生まれてくるかと感心した。教養もあり、ユーモアもあり、下手な落語家のダジャレよりもおもしろい。ぎりぎりのお色気発言もあるが、米さんが、言うならねというところがある。癌と戦いながら暗さがない。「最近は、奥さんと体は離れても、心が近づいてる」などというおのろけは、人情の機微に触れている。その昔、「女房には、上の口と下の口を食べさせて、文句は言わせない」とのたまっていた亭主関白の米長さん。合掌。
  

Posted by okina-ogi at 07:57Comments(0)日常・雑感

2012年12月20日

「たき火」

心に浮かぶ歌・句・そして詩67

「たき火」
 今は、焚火などをすると苦情が出る。落ち葉などは、ゴミ袋に入れて、ゴミ焼却場で燃やすようになっている。昨年、福島第一原子力発電所で、放射能もれがあり、焚火で放射能が高濃度になるという話もある。
 電化製品がまだそれほど普及していない時代、昭和30年代、マキでご飯を炊いたり、風呂を沸かしていた。幼い時に焚火の記憶はあり、冬の風情のようにこの歌から、懐かしさのようなものが呼び起こされることがある。作曲したのは、渡辺茂。昭和16年に発表されたが、日本全土が空襲にさらされるようになり、事実上歌うのを禁止された時期があった。とかく、受難にさらされる童謡だが、忘れがたい歌のひとつである。

1、かきねの かきねの まがりかど たき火だ たき火だ 落ち葉たき
  あたろうか あたろうよ きたかぜ ぴいぷう ふいている

2、さざんか さざんか さいたみち たき火だ たき火だ 落ち葉たき
  あたろうか あたろうよ しもやけ おててが もうかゆい

3、こがらし こがらし さむいみち たき火だ たき火だ 落ち葉たき
  あたろうか あたろうよ そうだん しながら あるいてく
  

Posted by okina-ogi at 07:57Comments(0)日常・雑感

2012年12月19日

人を信じること

 「他人を見たら泥棒と思え」という言葉がある。現代人は、他人を疑いこそすれ、信じることは少ないのかもしれない。昔の人は、どうだったかわからないが、契約社会のためかと思ったりしてしまう。「信義」などという言葉は、死語にはなってはいないが、あまり使われなくなっている。自分はどうかと問われ、自問してみても自信がないが、努めて他人は信じるようにしている。
次の話は、私の尊敬する数学者の岡潔先生の本に書いてあったものである。京都産業大学の講義録にも載っている。

 明治の初めの頃の話である。母と子が二人で住んでいた。数え年で、13歳になった時、子は母に禅の修行をしたいと言いだした。母は、子供を送り出す時
「お前の修行が上手くいって、世の人がちやほやしてくれている間は、わたしのことなんか忘れてしまってよろしい、しかし、もし修行が上手くいかなくなって、人がみなお前に後ろ指をさすようになったら、必ずわたしのことを思い出して、わたしの所へ帰ってきておくれ、わたしはお前を待っているから」
それから30年が経った。息子は、禅の修行が上手くいって、偉い禅師になって、松島の碧巌寺という大きな寺の往持をしていた。この時、郷里から飛脚が来て
「お母さんが年をとって、この頃は床につききりである。お母さんは何とも言われないが、我々がお母さんの心をくんで言うのだが、早く帰って会ってやってほしい」
こう言ってきた。
 それで禅師はとるものもとりあえず家へ帰って、寝ている母の枕辺に坐った。そうすると、母は顔をもたげて、息子の顔を見て、こう言った。
「私はこの30年、お前に一度も便りをしなかった、しかし、お前のことを思い出さなかった日は一日もなかったのだよ」

 岡先生は、この話を初めて聞いた時、涙が出て止まらなかったという。涙というものはかような時に流すものだとおっしゃっている。「母の愛は、海より深し」ということだが、「人を信じる」ということについて教えられた。これは余談だが、友人に「信義」という名前の人がいて、あるときから所在不明になった。どうやって暮らしているのか、毎日とは言わないが気にとめている。
  

Posted by okina-ogi at 07:54Comments(0)日常・雑感

2012年12月18日

米長邦雄さんの思い出

 日本将棋連盟の会長で、元名人の米長邦雄さんが亡くなった。69歳だった。長く前立腺癌を患っていたらしい。棋界にとって大きな存在であったことは、言うまでもない。こちらは、一米長フアンだが、一度くらいはお話しできる機会があればと思っていた。講演も数回聴き、テレビの将棋の解説など拝見しながら、人間性、その個性的な人生観に敬服していた。

 米長さんの棋力が、最高潮であったのは、30代だと思うが、王将戦、棋王戦、棋聖戦など数々のビックタイトルを獲得したが、名人戦に挑戦しても名人位を手にすることができなかった。とりわけ、中原誠名人が立ちはだかり、その悲願を実現できなかった。名人戦の最後の挑戦は、50歳の頃で、対戦相手も宿敵中原誠であった。結果は、4連勝だった。次の名人戦では、羽生善治に敗れ、世代交代を印象づけた。千代の富士が貴乃花に敗れ引退したような戦いでもあった。

 米長さんについては、若手棋士であった頃、数学者の岡潔に関心が強く、講演会を聴きに行ったらしい。しかし何かの手違いで、岡潔は講演会場に来られず、主催者は、困って、その時会場にいた米長さんに臨時の講師になってもらったという話で、毎年のように岡潔忌である春雨忌に参列しているが、誰からとなく米長さんのその話が出るので、なおさら米長さんを身近に感じるようになった。

 個人的に米長さんと、最接近したのは、前橋で開催された将棋の大会に出場して準優勝したことがあった。おかげで一万円以上する米長さんの署名入りの将棋の駒を賞品としていただいた。優勝者は、米長さんと2枚落ちの対局のプレゼントがあった。当時2、3段の棋力があったと思うので、勝てる可能性があったと思うと心残りとなった。

 この時、最初に講演があり、坂田三吉の話になり、あまりにも将棋に熱中し、貧しい暮らしに耐えられなくなった女房の小春が川に飛び込もうとする話だった。三吉のとった行動は?ひきとめようともせず、成行を冷静に見ていたというのである。三吉曰く「飛び込んだ時には、助ける」将棋は、忍耐が大切だというのである。賞品の駒入れの桐の箱にも「忍耐」と書いてあった。
 今年、正月の四日に、高崎駅に近いヤマダ電機の会場で、米長さんの講演があった。仕事の関係で行けなかったが、前日会場に行ったら米長さんの扇子があり、「惜福」と書いてあったものを買った。人生、勝利の女神がほほえんでくれる生き方の一つが「惜福」である。ご冥福をお祈りします。
  

Posted by okina-ogi at 19:17Comments(0)日常・雑感

2012年12月18日

『魔法の森』(後篇)

 一方弟の春雄は「森の果が解ったら、直ぐ引き返してお花を連れに行こう」と出掛けたが、何しろイチゴを食べたものだから、半町も行かぬのに何もかも忘れてしまった。姉どころか母親があったことすら忘れてしまった。森は薄くなり、広々とした野原になった。行くほどにやっと一本の道にたどりつく。図らずも馬車を引く男と出会う。男は「この辺りには村もなく人も住んでいないが、一体どこから来たのか」と問う。春雄は「あそこ」と森を指す。わが名を問われ、しばらく頭をかしげて「春雄」と答える。住家はどこか、「どこにもない」。父母はあるのか、「ない」。兄弟姉妹は、「ありません」男は自分の家に連れて帰る。さて、この家には春雄と同じ年頃の男児がいたが、一か月前に亡くなっていた。春雄のおとずれに夫婦は大そう喜び、うまいものをこしらえ、良い服を着せ、実のわが子同然に大事にした。
 ある日夫婦が「どうだお前はうちの子になるか」と言うと、春雄は大喜びで、早速お父さんお母さんと呼び出した。さる程に春雄は楽しい月日を送っていたが、八、九年たつ頃になると、故郷のことやら姉のことやら夢に見た。11、12、13年たつと、同じ夢をしばしば見るようになった。小鳥が「イチゴを食べれば、わーすれる。一つイチゴは一年わーすれる」とさっずたことまで思い出し、「春ちゃん、春ちゃん」という声を遠くに聞く夢も見た。月日が経つと共に夢が段々はっきりしてきた。眼が覚めると忘れてしまうのは同じであるが、夢から覚めた後に、何だか大事なものを失くしたような心地が残るようになった。しきりに誰かが、自分を呼んでいるような気さえして、心が少しも落ち着かなくなった。
 ある日、春雄は養父に、「何か大切なものを失くしたような気がして、少しも気が落ち着きません。どう考えても思い出せない。それを見つけに旅に出たいのです」と暇を乞う。両親は「お前は跡取りだから、邸も金もみなお前のもの、出ておいででない」と止める。だが、春雄は「必ず帰って参ります、決して嘘は申しません」と誓って家をあとにした。
 そこからどこをどう旅しただろう。一年過ぎたある日の、陽が落ちかかる頃、大きな野原に出ると、向こうの果てに森が見える。その時「オヤ、ここに来たことがある」と思わず春雄は大声を上げた。5歳の時、イチゴを15個食べた日から、丁度15年目に魔法が解けたのだ。姉の名は花ちゃんだったことも思い出し、いよいよ姉さんが恋しくなる。その夜、大木の下に寝た。夜が明ける頃、「一緒にこい、こい」と例の小鳥は春雄をイチゴの場所にいざった。
 そこは昔、自分が姉さんを待たせておいた処であった。見ると一本の雪のような白ユリが風に揺られて香気を放っている。春雄は「ああ、これはきっと姉さんの墓だ」と、ハラハラ涙を伝わす。ユリの前にひざまづいて花をのぞくと、何処からともなく「春ちゃん、春ちゃん」と声がする。春雄の涙が花の中にひとしずく落ちたかと思うと、不思議ユリは姉さんになっていた。夢に夢みる心地で二人は物も言わず、ただ嬉しさで涙に暮れた。例の小鳥が「あっちへおいで、あっち、あっち」と啼くので、そのとおりについて行くと、またたく間に森から出ることができた。春雄は誓いを守り、姉をつれて、貰われた家に帰った。父母さまの喜ぶまいことか。姉も貰われることになり、二人の嬉しさは極みなく、一家うち揃っていよいよ幸福に暮した。

 この童話は、数学者岡潔の随筆の中に概要が紹介されている。全文を読むことが、できたのは澤さんのおかげである。感謝したい。
  

Posted by okina-ogi at 08:02Comments(0)書評

2012年12月17日

『魔法の森』(前篇)

『魔法の森』 窪田空々作  博文館発行「お伽花籠」

この童話を今日発行している出版社を知らない。明治41年に出版されたもので、その内容は、鎌倉に在住する澤龍さんという方からいただいた本に掲載されたものを紹介する。
ブログ掲載なので、前篇と後編ということにしたい。

『魔法の森』
森のこなたに小さな村があって、お花と春雄という幼い姉弟が、病気の母親と住んでいた。病がどんどん悪くなり、死を悟った母親は、枕辺のお花に
「春雄はまだ小さくて何も解らないから、私が亡くなったら、お前がよく面倒をみなさい。決して放してはいけません。きっとよ」
と念を押す。お花は両手をついて約束のお辞儀をする。父親は一年前に亡くなり、今また母親に逝かれては、幼い自分達は、どうしたらいいのか解らない。同じ枕元にいる弟は、何が何だか解らない。ただ母親の蒼ざめた姿がいたましく、姉さんの大そう悲しんでいる姿が、自分にも悲しくてたまらない。母親はおだやかに二人を眺めると、眼をつむってしまった。二人はこれが最後とも知らず、覚ましてはいけないと静かにしていた。隣のおばあさんが来て
「かあさんは死んでいる」
と言われ、はじめて驚く。涙ながらにおともらいを済ませたが、家主は慈悲も情もなく、粗末な裏長屋から立ち退けと迫り、おまけに家中の物は全て売り払って、自分の懐に入れてしまった。
 寄る辺もない幼い二人は途方に暮れたが、お花は弟に
「遠いあの森と山を越えたら、助けてくれる人もあるだろうから、行ってみよう」
と言う。食べ物を一つずつ持って、空き家同然の我が家を後にした。朝まだ早く、ふみゆく草に露の玉が光っていて、今は亡き母の涙のようである。太陽は次第に高くに昇り、花々の辺りで蝶や蜂が二人に語りかける。いささ小川は「私は遠い遠い国へゆくのよ」とせせらぎ語る。「私たちも」と答えて、小川の流れを伴にした。
 蝶を追い花をつみ、持ってきたものを、みな食べてしまった。春雄はお花のひざで眠ってしまい、目覚めると太陽は西に傾いていた。急いで夕映えの大きな森へ向かう。この森こそ人も恐れる「魔法の森」なのだが、二人はそれを知らない。とっぷり暮れた真っ黒な森には、分け入る勇気も湧かない。二人は草をしとねに一夜を明かす。春雄は疲れ切ってすやすや寝たが、お花は母親のことなど思い出し、なかなか寝つけない。まどろんだかと思うと夜が明けた。春雄はしきりに空腹を訴えるが、食べ物は何一つない。
 太陽が昇ると森は緑にしたたり、種々の小島がさえずる。空腹を満たす食べ物を探して、いつしか森の奥へ分け入ってしまった。春雄が「あそこにイチゴが」と更に深く入る。はたして露の滴る真っ赤なイチゴが、鈴なりになっている。「お腹いっぱい食べてやろう」と、一つ口に入れた、その途端、小鳥が「イチゴを食べるとわーすれる、一つイチゴは一年わーすれる」と啼く。春雄が「姉さんもお食べ」と一つ出すと、小鳥は再び同じように啼く。「春ちゃん、およしよ。イチゴを一つ食べると一年間、何もかも忘れてしまう」と姉は慌てて捨てた。
 「僕はお腹が空いているからかまうものか」と15個も食べてしまった。やがて「森も終わるに違いない。僕はひとっ走りして見てくるから、姉さんはここで待っておいで」と春雄は言う。「いいえ、いけない。離れると二人ともはぐれてしまう」と姉はとめるが、「何すぐに帰ってくるから」と弟は駆け出し、やがて姿が消えた。「春ちゃん。春ちゃん」と呼べど呼べど、わがこだまばかり。お花の心配は一通りではない。追おうか待とうか、いっそ待とうか、いっそ待とうと決心するが、「春雄を放してはいけない」と言う母親の言いつけがよみがえり、こころわずらい気も乱れ、溢れる涙を押さえていると、再び小鳥が「一緒にこい、こい」とさえずる。
 お花は「春ちゃんきっと戻ってくる。もしも私がいなかったら、どんなに心配するか知れない」とかぶりをふる。小鳥は「一緒に来い、来い」としきりに啼く。「いや、行かない。春ちゃんがここで待っていてと言うから、ここに居なくちゃ」とお花。風に草木が動けば春雄の帰りかと、狐か狸が走れば春雄の足音かと心が惑う。
 けものが夜通し往ったり来たりした森も、夜が明けた。お花の廻りには、珍しい果物や木の実がたくさん置いてある。昨夜のけものは神様のお使いか、情を知る動物に相違いない。お花は有難くて、もったいないと、押し戴いて食べた。
 小鳥は相変わらず「一緒にこい、こい」とさえずる。お花はつむりを振って決して動かない。かくて七日目の朝、早くから眼を覚まし、起き返っていざ立とうとすると、どうしても腰が立たない。ハテナとよく見ると、お花の足の先は根になって土に這え入り、腰から下は茎になり、見る見る全身ユリになり、首から上は雪もあざむく純白な花になっている。この森は七日目になる魔法が効いて、人間の身体は何かに変わってしまうのだった。
 
  

Posted by okina-ogi at 16:04Comments(0)書評

2012年12月16日

『木を植えた男』


『木を植えた男』原作 ジャン・ジオノ 絵 フレデリック・バック
                  あすなろ書房 1600円(税込)

 この絵本を手にしたわけではない。映画になったものを上映したので、その内容を知っているのである。昭和天皇が崩御され、御生誕の日が「みどりの日」として祭日になった。その「みどりの日」を意識して上映会を企画した記憶がある。20年以上も前の話である。

 その後、「みどりの日」は、5月の連休の中に移行している。この作品を推薦してくれたのは、「花と緑の農芸財団」に関係していた近藤龍良さんという方であった。理事長は、読売巨人軍の監督をしていた長島茂雄だった。近藤さんは、現在の高崎市倉渕町で、農場を経営し、元商社マンの企画力を発揮し、町ぐるみで都会の人々が週末、田舎で農業ができる空間運動を展開していた。その主旨に賛同してこの映画会になったのである。映画は、緑を守るために、ひたすら種をまき、植林する無償の行為に感動する。   

 実際、主人公のモデルになった人はおらず、原作者の創作であったとしても、物語の構成は、作者の感性がよく表れている。井上靖の『天平の甍』に出てくる、業行という僧を連想する。彼は、中国にわたり30年間ひたすら経典を写し、日本に持ち帰ろうとした。しかし、帰路船は沈没し、経典も業行も海に消えてしまうのである。

 私の友人に、同じような人物がいる。尊敬する人の講義録を今も録音したテープから起こし、文字にしているのである。師の死から、35年の月日が流れている。先日、お会いする機会がありお礼ができた。
  

Posted by okina-ogi at 04:29Comments(0)書評

2012年12月16日

『わすれられないおくりもの』

『わすれられないおくりもの』 絵・作 スーザン・バーレイ
      訳 小川仁央  評論社 1260円(消費税込)

 書棚に、絵本はほとんどない。図書館で読むことはあっても、買ってまで読むという気にはならかった。子供も成人し、読み聞かせる相手がいるわけでもない。子供が小さい時はどうだったかと言えば、寝物語に絵本を読み聞かせた習慣もなかった。仕事が忙しかったからという言い訳もあるだろうが、絵本の良さや、童話の深さというものがわからなかったというしかない。しかし、定年退職の年齢も近づくと、なにやらその存在の重さを感じて来るのだから不思議である。

 『わすれられないおくりもの』 絵・作 スーザン・バーレイという絵本は、50代に友人から贈呈されたもので、きっと良い本だと思い数回読んだ。文章も短いし、すぐ読めるのだが、大人の感性は鈍っているのか、「そうだよね」という位で、心に響いてこない。ところが、年を重ねると、この本がテーマにしている死の問題も意識すると同時に、生の意味も少なからず考えるようになる。

 話の筋、内容は本をご覧あれ。要約すれば、賢いアナグマは死んでしまうが、残された友に多くの良い思い出を残していったという話である。若い時、心理学、とりわけ児童心理学に関心があり、発達心理学を主に専攻していたので、この年になったら、絵本や童話を深く味わっても良いような気がしてきた。
  

Posted by okina-ogi at 04:22Comments(0)書評

2012年12月15日

明治は遠くなりにけり

心に浮かぶ歌・句・そして詩67

大正元年は、西暦では、1912年であり、この年に生まれた人は100歳になる。
 
降る雪や 明治は遠くなりにけり
            中村 草田男

 この年に亡くなった人は、没100年ということになる。石川啄木がこの年に亡くなっているが、明治45年である。大正元年と重なる年になっている。明治天皇の崩御は、1912年7月30日である。明治天皇の大葬の日に殉死した人がいる。乃木希典将軍である。夫人もともに自刃した。日露戦争の激戦を戦った将軍として、歌にもなった。

「水師営の会見」
1 旅順開城約成りて 
 敵の将軍ステッセル
 乃木大将と会見の
 所は何処水師営

 2 庭に一本棗の木
 弾丸あともいちじるく
 くづれ残れる民屋に
 今ぞ相見る二将軍
良く歌われる1番と2番である。作詞したのは、佐々木信綱である。
4番に「昨日の敵は、今日の友」というのがある。明日は、衆議院選挙の投票日。スポーツでもノーサイドになれば、お互いをたたえ合う。政治の行くへはどうなるのだろう。しかし戦争は、悲惨であることは、否定できない。乃木将軍は詩人でもあった。戦いを振り返り、漢詩にした。

金州城下作   乃木 希典
山川草木轉荒涼
十里風腥新戰場
征馬不前人不語
金州城外立斜陽
  

Posted by okina-ogi at 09:37Comments(0)日常・雑感

2012年12月13日

「勝海舟と小栗上野介」

「勝海舟と小栗上野介」

 フェースブックで友人から、BSのTBSで「勝海舟と小栗上野介」をとりあげるという知らせを確認。日付を見ると、12月12日(水)の午後10時からの放映と書いてある。今日、しかも2時間後ではないか。早速お礼を書いて、見ることにした。こうした、情報交換が、無料でできるのは、正直うれしい。
 
 「ライバルたちの光芒」という番組は、初めて知った。司会は、俳優の高橋英樹がつとめ、最後はどちらかに軍配を上げる。高橋英樹が軍配を上げたのは、勝海舟である。ライバルのそれぞれの側には、代弁者が出演しているのだが、勝海舟には、作家の童門冬二、小栗上野介には村上泰賢さんという組み合わせになっている。

 村上さんについては、紹介が必要である。小栗上野介、すなわち小栗忠順のお墓のある、高崎市倉渕町にある東善寺という曹洞宗の寺の住職さんである。熱心に小栗上野介を顕彰されている方である。若い時から、小栗上野介には関心があったので、村上さんのお父様が住職だった頃にも寺を訪ね説明を伺ったことがあった。数年前には、集まりに誘われ、村上さんに直接お会いし、小栗上野介の資料や、人物に関するお話を聴いたことがある。

 小栗上野介については、幕末の重要人物であるが、勝海舟や西郷隆盛ほど世に知られていない。人物をとりあげた作品を書く作家もほとんどなかったが、最近は書かれるようになり、今回の出演者の童門冬二も小栗を小説にしている。村上住職の情熱がそうさせた部分も少なからずあると思っている。

 高橋英樹が勝海舟に軍配を上げた時、やはり村上さんは残念そうだったが、高橋英樹は大いに迷っての末という感じで、僅差の判定だった。その理由は「現代的に考え、勝は、人材を育て(海軍伝習所)、小栗は、物(造船所)を残したから」と言った後に、「役者として演じたいのは、小栗ですね」と村上さんに気配りをしたのが印象的であった。小栗は、東善寺から少し離れた、利根川の支流である烏川の河原で家来と一緒に斬首された。「偉人罪なくして斬らる」と書かれた石碑がある。高橋英樹は、小栗の「悲劇の人」に心ひかれるところがあったのである。
 村上さんも近年本を出されている。『小栗上野介―忘れられた悲劇の幕臣』(平凡新書)。一読をお薦めしたい。
  

Posted by okina-ogi at 19:00Comments(0)日常・雑感