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2013年04月30日

『春の海』信州佐久平

信州佐久平
 

 信州は海に面していない。中部山岳を始めとする高峰を有し、豊かな水源地に恵まれている。そこから発する川の流域に文化が育ち、信州といっても多様な文化圏を持つように思える。
 佐久平は千曲川の流域にある。八ヶ岳、浅間山を遠山にした景観は素晴らしい。千曲川は、小諸に通じ、島崎藤村に「千曲川旅情の詩」をもたらした。懐古園にその碑がある。
 小諸なる古城のほとり
 雲白く遊子悲しむ
で始まる詩は歌となり、草笛によって奏でられることもあり、その詩情を高めている。
懐古園の展望台から見る千曲川の風情は実に良い。先年、友人とこの展望台に登り、藤村の古(いにしえ)に思いを馳せたことがある。
 天公践を空しうするなかれ
 時に范蠡なきにしもあらず
の一節を含む「児島高徳」の歌を友人がしみじみとした調子で唄ったことを思い出す。大正初期の歌で、今では殆ど知る人はいない。公践や范蠡という人は呉越同舟や臥薪嘗胆の故事で知られる中国の古人である。児島高徳は後醍醐天皇の南北朝の時代の忠臣である。不思議とその歌が千曲川の流れに溶け込んで聞こえた記憶が残っている。
 
『信州に上医あり』(岩波新書)、『ダイヤモンドダスト』で芥川賞を受賞した南木佳士の著のタイトルである。南木は医師であり、群馬県嬬恋の生まれである。〝信州の上医〟とは、若月俊一のことである。〝上医〟という中国の言葉を引用したところに彼の筆力を感じる。〝上医〟とは、国の患部まで診断治療できる医師だと説明している。
 十数年ぶりで佐久総合病院を見学する機会を得た。企画したのは榛名町在宅介護支援センターで社会福祉士の資格を持つ高林正洋さんである。彼の中に何かしら佐久総合病院に惹かれるところがあったのだろう。
 『信州に上医あり』を書いた南木と若月の共通点は、その生い立ちにあると思っている。南木が秋田大学の医学生の時、若月の講演に惹きつけられたのは、無意識的であろうが、成人するまでの感受性を育んだ環境にあったというのが読後感としてある。
 生い立ちには著書に書かれているので説明しない。
 南木は言っている。
「若月の顔は笑っているが、目は鋭かった」と。そして一度だけ目があった。そして講演を終えた若月に語りかけようとしたが、思いとどまったという。就職を申し込もうとした自分の安易な行動を意識したからである。
 まるで恋人への想いに似ている。ご縁というものはそういうものである。南木は佐久総合病院に就職した。勿論試験を受けてである。もっぱら若月が面接者として質問し、その当日に合格を告げられている。
 就職して二十年近くの月日が経ち『信州に上医あり』として若月俊一を著すことができた。鋭かった目の意味がわかるまでの時間として、これだけの期間が必要だったのかも知れない。
著書の中で南木は、若月を〝先生〟と書かず、敬称を略している。取材記者的第三者の立場で書きたかったからである。四〇歳もの歳の離れた部下に「若月」と書かれる若月の南木への想いは孫への想いにも似ている。
 若月俊一は、確かに〝上医〟と言って良い。昭和二十年に東京大学の医局から佐久の片田舎の診療所に赴任したのは、若月にとってはまさに都落ちであった。
 しかし、彼はヤワなインテリではなかった。信念があったし、情熱があり、それを形にする企画力を持ち合わせていた。
 思想的にアカと見られ、投獄、停学まで受けた若月には、農民に注ぐ愛があった。彼は、進んで農民の中に入って行った。地域診療、往診を実践した。
 今村昌平監督の「カンゾー先生」という映画があった。
「開業医は足だ。片足折れなば片足にて走らん:::」という町医者の父親の遺訓を守り、往診をするカンゾー先生を思い浮かべた。若月の場合は隊を組んでのチームではあったが、
「農民とともに」という詞を若月が書き、曲をつけた
 朝霧晴れて病院の
  白樺窓に揺れる時
 手をとりあって歌おうよ
  農民と共に進むうた
 山の彼方にこだまして
  国いっぱいに響くまで
詞は二番に続くが、詞の中には「農民と共に」という言葉が歌のタイトルになっている。「農民のために」ではなく「農民と共に」というところが、若月の思想が良く表れている。劇団を編成して、農民にわかりやすく啓蒙活動したのも若月のアイデアである。
人生はドラマというが、若月は役者になれる才能があった。この点、新生会・榛名荘の創立者の原正男に類似している。
二人の間には親交があったと聞くが、詳しいことは生前の原正男の口から聞いた記憶はない。ただ、お互いに敬愛の念をもっていたことは事実である。
原正男の場合、結核撲滅運動の初期は、在宅訪問による啓蒙活動であった。「新生」という機関紙を発行し、ペンと肉声により結核療養のあり方会員に呼びかけた。
二人に共通するのは、イデオロギー的使命観というより、ヒューマニストだという点である。言葉を変えれば、愛の人であり、行為の人であるということである。加えて論客だったということも言える。
この論客の意味は、売名行為といった悪い意味ではない。社会に向けて発信し、国の福祉、医療制度のあり方に影響を与えてきた。若月の場合、この部分が〝上医〟と言われる所以でもある。
 一〇数年前、若月俊一に会う機会があった。老人保健施設が全国七カ所にモデル的に開設し、佐久総合病院はその一カ所であった。老人保健施設をテーマにして、農村医学夏季大学が佐久総合病院で開催され、新生会職員、榛名町職員と一〇名近い人数で参加した時である。
 パネラーには、医事評論家の水野肇、NHK解説員行天良雄が常連のように参加しており、若月の人脈の広さを想像させる。二人は、一九九四年に発行された『農民とともに五十年』にも原稿を寄せている。立命館大学教授の宮本憲一も原稿を寄せ、彼が若月のよき理解者であることを知った。
 静岡大学人文学部教授の学生以来の友人である桜井良治君の師でもあり、彼の結婚式で会った記憶がある。
 講座が終了し、木造の古い講堂に懇親会場が設けられ、若月は精力的に各テーブルを挨拶してまわった。我々のテーブルにもビールの入ったコップを持ちながら、気軽に声をかけた。
 「新生会の皆さんも舞台に出て余興を一つやってみませんか。私名前は若月ですが酒好きと呼ばれています。今夜は楽しくやりましょう」。ジョークを交え気さくに笑みを浮かべて話した。目の鋭さという南木のような印象はなかった。当時八〇歳に近い年齢であったが顔の肌つやの良い小柄な人という記憶が残っている。サスペンダー姿がナウかった。
 
 若月俊一という人は魅力的であり、佐久総合病院そのものである。見学資料として渡された中に「農民とともに」という広報誌が入っており、二四頁で毎月発行されている。この広報力は佐久総合病院の面目躍如するところである。
 現在、佐久総合病院には一五〇〇名を超える職員が働いているが、一〇〇名を超える職員が介護支援専門員の資格を持っている。さらに地域ケア科という組織があり、数か町村の在宅介護支援センターや訪問看護ステーションに多くの職員を出向させている。
 若月の心情は職員に引き継がれ、今日も千曲川の流れのように絶えることがない。
  

Posted by okina-ogi at 17:55Comments(0)旅行記

2013年04月27日

『春の雲』南紀白浜、難波から奈良へ

南紀白浜、難波から奈良へ
 紀州は上州からは陸路では遠い。大阪あるいは、奈良、さらには名古屋から海岸線に沿って陸路白浜をめざす方法と羽田から飛行機で白浜空港をめざす方法を比較しての実感を言うとそういうことになる。実際、時間に置き換えてみると半日と一日がかりというほどに違う。
南紀白浜は、白砂青松の日本有数の温泉地である。白浜という地名は全国に少なからずあるからあえて区別して南紀を付けている。石英が長い年月に細かく砕かれて白い浜辺を形成したことが地名の由来になっている。かつては、ガラスの原料として大量に採取された時代があったが、今は人工的に維持されている。砂岩が波によって削られた千畳敷や熊野水軍の基地となった三段壁の景勝地は白浜の海岸とは対照的であるが、ともに夕陽が海に沈むのを見る絶好の場所である。
 白浜温泉は、古くから知られていて、斉明天皇の御子有馬皇子も白浜温泉をよく訪ねたという。古代の政争の中にあって誅されたこの悲劇の御子に心を寄せる姫がいた。白良媛(シララヒメ)はその死を知らず待ち続けたという話が残っている。
秦の始皇帝は不老長寿の薬を求めて、部下を遥か日本に使わしたという伝説がある。「天台の鳥薬」を二千人という人々を引きつれ、熊野をめざした人物は徐福である。徐福達も白浜の湯に浸かったという想像も逞しくはあるが、それほどに温泉地として白浜温泉が古くから知られていたということである。しかし、この話は湯煙の中に見る風景に近い。
 白浜に近い田辺市に生れた、植物学、民俗学の奇才に南方熊楠がいる。奇才といったのは、ほとんど独学でこの分野の世界的業績を残したからである。同時代の民俗学者柳田国男に優るとも劣らないというのが近年の評価になっている。記念館は海岸近くにあって、今回は訪ねることはできなかったが、またいつかその機会があるだろう。熊楠の功績といえば、明治に起こった全国の小神社の合併に反対の論陣を張り、結果的に阻止したことであろう。その気魂は尋常ではなかった。社(やしろ)を包む森が失われることを何よりも危惧したためである、植物学者としての善意からすれば当然とも言えるが、世界各地を旅し、中国の革命家孫文とも親交があったという熊楠の行動力が実を結ばせたといってよい。
 白浜の町から富田川に沿って上る道がいわゆる熊野古道であるが、岩田地区に「愛の園」がある。神愛修女会の人々が創った老人施設である。初代霊母(修女長)は深田伊都子氏で今は故人となっている。二代目の霊母が濱野タキさんで、鞠のようなふくよかさをしていて、しかも小柄である。その表情には厳しさを内に秘めて慈愛を漂わせている。礼拝堂でお話を聴く機会があった。
「私達修(道)女は一生を神様に捧げるために生きています。その原点は榛名荘です」
濱野霊母以外に神愛修女会には修女さんが数名いて、みな高齢である。濱野霊母は、戦後まもない頃、榛名荘の結核患者の看護にあたった。当時を振り返るようにして話は続く。
 「当時は、大気療法といって、外気を直接室内にとりこむように、夜でも窓を空けたままにしておりました。私たちも患者さんの病室の一画に生活しておりましたので、雪の降る日などは、朝起きてみると布団の脇に雪が薄く積もっていることがありました。またあるときは、厨房の屋根裏のような場所で寝起きしたこともありました。寝ていると、目から涙が出てくる。(生活が辛かったのではなく)玉葱を下で刻んでいたからなんです。木村神父は、『あなたがたは、畳の上では死ねませんよ』と言われました」
木村兵三神父は、神愛修女会の創設者で、今でも修女さんたちは師父と慕っている。昇天して三十年以上になるが、いつも傍らにいるように濱野霊母は語る。
 「愛の園」の下を流れる富田川のさらに上流に本誓寺がある。住職は赤松宗典和尚で修女さん達と親しい。平成六年八月に、修女さん達に同行され榛名を訪ね、伊香保や榛名湖をご案内したことがあった。このときは、原正男理事長も健在で、新生会の職員や榛名荘ゆかりの人たちと親交、旧交を温めた。宗典和尚は、仏教、キリスト教という宗教の壁や教義に拘らない人である。真理子さんという最愛のお子さんを亡くしている。九歳という短い生涯であったが、宗典和尚は、「天に帰る約束の日」として娘の旅立ちを表現した。真理子さんの日記が残っていて、虫や動物達と遊ぶのが好きで、植物にすら話かけるほどに天使のような心性を持った少女であったという。
合掌         赤松宗典 
 父母に合掌すれば孝順となり
 子供に合掌すれば慈悲となり
 目上に合掌すれば敬愛となり
 お互いに合掌すれば平和となり
 自己に合掌すれば徳行となり
 事物に合掌すれば感謝となり
神仏に合掌すれば信心となる
今回、紀州白浜行きを思い立たせたのは、濱野霊母さんと宗典和尚の心に惹かれたのかも知れない。和尚手製の「薬師梅」を口にできなかったが、霊母さんから金山寺味噌のお土産をいただいた。宗典和尚からの贈物でもあったようにも思った。
和歌山県の果樹の生産量とその品質において優れているのは、蜜柑と梅である。山肌に蜜柑の木と梅の木が混在している。和歌山県は、平地は少なく和歌山市を河口とする紀ノ川の流域以外にほとんどないように見える。石高に意味のあった江戸時代に徳川御三家の一つ紀州藩がおかれたのは不思議である。水田が少ないからである。和歌山県の梅の生産高は、断然日本一である。二位は群馬県であるが、生産量は十倍を超える。「南高」という種の梅が特産で果肉が多く、梅干しにしても皮が薄くしかも強いので高価で売られている。南高(なんこう)という響きから、楠公、すなわち楠木正成を連想させる。鎌倉末期の武将で、河内の千早城主である。湊川の戦いで足利尊氏の大軍により戦死する。子供正成(まさつら)との別れは、歌になって残っている。「青葉茂れる桜井の:::」。千早城のあったあたりは、和歌山県境から近い。
「愛の園」に別れを告げ、海岸線に沿って宿泊地に向う。風は強く、日ざしも強い。刈り入れの終わった田はあるが、まだ夏の名残が消えていない。真珠を商う店に寄る。紀伊半島は真珠の養産地として名高い。店の前は海である。浜辺を歩く。砂浜と海の境が渚である。寄せては返す波の音にしばし聴き入る。海に発生した生命が、この渚を克服して地上に生を営むのにどれほどの時間がかかったであろうか。三好達治の詩に
 

日本よ母の中には海がある
フランスよ海の中には母がいる
というのがある。フランス語では母も海もラメールである。
南紀白浜から大阪に向う途中、紀三井寺に立ち寄る。紀伊国屋文左衛門ゆかりの寺である。孝行息子の文左衛門は、高齢の信心の深かった母親を背負い二百数十段もある寺の階段を上ることが多かった。ある日上る途中で草鞋の鼻緒が切れてしまった。それを見かねた女性が替わりの草鞋を差し出した。これがご縁となって文左衛門と夫婦となり、文左衛門が後に巨額の財を成したことから、縁結びと商売繁盛を祈願する人々が参拝するようになった。
境内には、寄進者の石塔があって、松下幸之助の名が刻まれていた。金弐阡六百万円を寄贈したことがわかる。松下電器の創業者の松下幸之助は和歌山市の出身である。経営者としてだけでなく、PHP研究所を設立し、文化的活動も行った。松下政経塾からは若い政治家が生れている。丁稚奉公から、二股ソケットの発明を契機に長寿を全うして一代で世界の松下を築いた。
大阪湾に沿った高速道路を宿泊地の難波を目指して走る。関西国際空港の人口島が目に入る。海上に浮かぶようにしてあり、近代的な橋で繋がっている。上が車道、下が鉄道となっている。島の周辺のある距離までは漁業も禁止され、進入するものは退去を命じられるとバスのガイドさんが解説していた。途中、堺市を通る。堺は、織豊時代鉄砲などの商いで特に栄えた港町である。その商人の一人に千利休がおり、後世茶道の祖と仰がれている。工場群も多く、近代構造物に埋まっているという感じで、わびの世界とは対象的な風景である。
堺の出身といえば与謝野晶子もそうである。明治から大正にかけて活躍した情熱の歌人である。情熱の歌人といったのは晶子の歌で
やわ肌のあつき血汐にふれも見で
さびしからずや道を説く君
 といった、当時の世相、時代からしてあまりにも赤裸々な人間解放的な歌を発表しているからである。しかも女性であったことを考えると驚きである。若い修行僧を見て詠んだという人もいるが、男性にとっては挑発的な(?)歌である。また
 鎌倉やみほとけなれど釈迦牟尼は
       美男におわす夏木立かな
 お釈迦様の教えもすばらしいが美男子であるところも女性からすれば捨てがたいと言っているのである。夫、与謝野鉄幹は、晶子にとって尊敬する歌人であり美男だったということになる。鉄幹と愛人の中に入り、鉄幹を夫にした情熱は、昌子の歌のようである。鉄幹との間に十人の子供を設け、「乱れ髪」などの多くの歌集を世に出した。また、日露戦争旅順攻防の戦いに参戦した弟を思い、「君死にたもうことなかれ」の詩を赤裸々に心情を吐露して歌い上げている。反戦歌という評価をする人がいるが、昌子の感情量が多く抑え切れなかったのだろう。反戦と言えば思想的、理知的な匂いがあるが、晶子にはそれがないというのは、言いすぎだろうか。晶子の歌にはまた、
 金色(こんじき)の小さき鳥のかたちして
       銀杏散るなり夕陽の丘に
という自然描写のものもある。歌の中に色と動きのあるのは健康的ではある。そして圧巻は、鉄幹が棺の人となったとき、自分の身を棺の中に入れてあげたいと歌っているのである。こうした女性を男性はどうみるか。
筆硯煙草を子等は棺に入る
名のりがたかり我を愛できと
 
大阪市は、江戸時代は大坂であり、日本最大の商業都市であった。江戸はもっぱら消費する町で、米や酒が運ばれ胃袋を満たしていたと言われる。輸送手段は船であった。その基礎を築いたのが豊臣秀吉でそのブレーンが近江商人であった。晩年の豊臣家の蓄財は莫大であったに違いない。その秀吉の出自は武士ですらなかった。当時、湿潤な沼地が点在するこの地に城を築き、短い期間であったが天下統一を果たした。大坂城の城壁とその堀の広大さは秀吉の当時の威光をよく示している。天守閣は権力者の居城そのものである。天守閣の下に立った時、日はかなり西に傾いていた。
 露と落ち露と消えにしわが身かな
         浪速のことは夢のまた夢
壮年までの秀吉の人生は、世人に及ばぬ知恵と勇気と機略に富み、幸運と有為な人材を集めた。現世に権力を具現し、関白まで上り詰め位人臣を極めた。臨終に及んで、心は露のように虚しくなってなっていた。家康よりも秀吉が好きだという人がいる。昭和の今太閤と言われた田中角栄は、現代版秀吉とされる。田中角栄の人物像は、死後も書物になって読まれている。人を惹きつけるのは、人情の機微であって、苦労人で出世した人にそうした資質をもつものは多い。秀吉の死後、太閤様の恩を思って家康に対抗した武将も多かった。
昭和六十年頃、赤坂プリンスホテルにある清和会(自民党福田派)の事務所に福田赳夫元総理を尋ねたとき、政敵ではあったが、ロッキード裁判中の身ながら、政界のキングメーカーとして政治力を発揮している田中角栄の話題が出たとき、福田氏は「たいしたもんだね」と言った。たいしたもんだというのは、人が田中角栄の周りに集まるという意味だが、単に金銭や自己の地位への魅力ばかりではないようだ。それが人情の機微である。こうしたふわっとして言語化しにくい分野は学者肌に人にはわかりにくいかもしれない。ただ知というのを少し取り除いてみればよい。これが秀吉好きの人を理解する鍵である。
人間の精神の働きを大別すると、知情意に分けられるというのが古くからのギリシャの説である。知や意によって情は納得しない。逆に情によって知や意は満たされる。情といっても感情といった末梢神経系の感覚器官に繋がった表層的なものでなく、もっと深い心、仏教哲学の唯識で言う阿頼耶識の心とでも言おうか。少し表現が学術肌になって分かりにくくなっている。要は人情の機微に通じる心である。
 殿(しんがり)とは、負け戦にあって退却しつつ最後部で敵と戦うことである。福井の朝倉氏を攻めたとき、背後から浅井氏に挟撃され信長が窮地に陥ったことがあった。そのとき、殿を買って出たのが秀吉であった。このとき、秀吉は死を覚悟していたであろうが、幸運にも生き延びた。そういう死生観も秀吉の中に同居していたことを考えると、彼の一生には起伏がある。求道者のような人生もあって良いが、身を状況にまかせる人生もあって良いのであって、人への評価ほど難しいものはない。
 秀吉と淀君の間に生まれた秀頼は、悲劇の世継ぎである。正室ねねとの間に子宝に恵まれなかった秀吉に秀頼が誕生したのは六十代に近かった。直系を後継者としたいというのは、当時の為政者の素直な気持ちであったろう。今の世にあっても、起業者の後継に子供が就任する場合が多い。法人という法的人格が封建時代の家のようになっている。このことは、人間の業に近い。
 天皇制について反対する人々の中には、万系一世などというのはおかしいという人がある。日本の国を最初から天皇が統治したとは思わないが、神代(かみよ)の時代はともかく飛鳥に都があったころから皇位継承があったのは事実である。しかし、今日の日本は祭政一致の社会ではない。国家神道の力が強かった戦前ですらそうではなかったのだからそれほど目くじらをたてることでもない。天皇家を維持してきたのは為政者(権力者)の知恵であったとみるべきであろう。天皇家が権力を持ち続けようとしていたら今日のような立場にはない。むしろ世界史的にみれば奇跡というに近い。
 中国の政体は、王朝の繰り返しである。その長は皇帝である。天より選ばれたものであるが、覇権主義であるから、必ず新たな皇帝にとって変わられる。天から選ばれた者が替わるのはおかしいというので易姓革命という言葉を発明した。中国の理想の政治は古代にあった。尭、舜の時代で覇権主義に対して王道政治という。ほんの一時期、三国志の時代だが、諸葛孔明という人が蜀の国を宰相として治めたことがあった。この人の余韻が漢民族の中に残り、孫文のような人物を産んだ。魯迅という文人もその中にあるかもしれない。
大化の改新頃までは天皇が政治に強くリーダーシップを発揮している。東大寺や平城京の建設を進めた聖武天皇などは、その筆頭であろう。平城京をタクシーで案内してくれた運転手の話では当時の人口は約五百万人であり、その半分の労力を平城京建設に徴用したであろうというのは大変なことである。しかし、その後平安時代となってからの天皇は政治から一歩離れ、どちらかといえば名誉職に退いた。むしろ祭主のようになった。民の平和を祈ることが仕事になった。だから今日まで天皇家は続いているという。そこがこの国の個性であるが、政治や企業にあっても血の継承ということが一義ではない。政治家に二世、三世の議員が増えているのを一概には批判できないが、世襲になることは問題がある。これは天皇制とは違う。政治には人格識見共に優れたものが選ばれて能力のあるものとして携わればよい。ただし、個人でなく公を優先できる人であるという条件がつく。人に仕えるというのは宗教的表現過ぎるが民意を政策として実行できる人である。
 秀頼のことに戻る。秀頼の誕生により、豊臣政権は複雑になった。関白職を秀吉から譲られていた秀次は自殺に追い込まれた。やがて秀頼は大坂城に母と運命を共にし、若い生命を終える。妻の千姫は救出され、他家に嫁いではいるが余生のような人生を過ごしたように思える。秀頼は、信心のあった武将のように思えることがある。出雲大社に先年詣でたときに、秀頼が寄進した品があった。今回訪ねた法華寺にも秀頼が寄進した痕跡がある。側近の片桐且元の進言があったかもしれないが、できれば平穏な日々を送りたい願望が強かったのであろう。弱冠とは二十歳のことをいうのだが秀頼はその歳にも満たなかった。
 難波(なにわ)は、奈良時代以前から難波津といい、海に面していたとされる。遣唐使の舟が旅立った場所でもあり、当時は葦などが鬱蒼として茂っていたであろう。今は、近鉄、南海、JRなどの駅があって交通の一拠点になっている。近鉄奈良線で奈良市までは約四〇分である。平城京跡は、一面の草原(くさはら)でところどころに木が植えられている。往時の建物も少しずつ復元されて、近年朱雀門が建てられた。内裏の南門にあたり、貴賓だけがくぐれる門とされている。法華寺は平城京跡の北に位置している。
 
 法華寺は尼寺であり、国分寺の総本山が東大寺であるように、国分尼寺として創建された寺である。建立したのは光明皇后、すなわち聖武天皇の后である。大化の改新に功のあった藤原鎌足の子不比等の娘であり、寺は不比等の館跡であったとされている。大極殿のあった場所に極めて近い。
 この寺には、天平彫刻の傑作の一つである維摩居士像が安置されている。本堂に入って左側に置かれていたが、格子越しで少し見にくかったが、少し俯きかげんの温和な表情からは深く思索する姿をも想像出来る。現在の寺の規模は、創建当時よりはるかに狭くなっているが、尼寺の清楚さが感じられた。いまでも修行する女僧がいて、さきほどの運転手の話では、比較的年齢が高い女性と若い女性で真ん中がいないということだが、そのまま鵜呑みにも出来ない。
南紀白浜の修女会と尼寺、旅の始めと終わりが、仕えるのが神と仏の違いはあるが、神聖な女性の教場となった。法華寺の更に北は、丘陵地になっていて、ここは歴代皇族の霊地のような場所である。日本書紀に登場する人々の陵がある。次回奈良を訪ねた時は、さらに時代を遡ることになる。
  

Posted by okina-ogi at 18:08Comments(0)旅行記

2013年04月27日

『春の雲』薩摩への旅

薩摩への旅
 七月七日、七夕の日、早朝群馬を立ち羽田より鹿児島空港へ。東京の空は晴れていたが鹿児島は雨だった。
薩摩半島の南端には枕崎市がある。人口は三万人に満たないが遠洋漁業の町として知られている。空港からは、バスで行く。枕崎駅は大変ローカルな駅であった。切符は駅では買わず、支払いは車内か到着駅でする。運転手は車掌も兼ねて一人である。この日の運転手は、気さくな人で、運転しながら客と話をしている。停車駅で停車時間が長いときには「時間がありますから、タバコでも吸ってください」といって自分も一服している。
都会にないのどかさと人情がある。
 

 駅前の店で鰹料理を食べたが、頭の味噌煮は、この店の自慢料理らしく美味しかった。〝ビンタ〟というのが料理の名前である。目の周囲のゼラチン質のところが体に良いと店の人が説明する。張り紙にも「癌の予防になる。高血圧に良い」などと書かれている。
 観光する時間はなかったが、魚センターをのぞく。鰹節が名物で、乾燥したものや、半干状態のものもあって値段も安い。鰹の腹の部分だけを冷凍して売っている。現地でなければ買えない品物だが、旅の初日ということもあり、手は出さなかった。店の一角に、北海道直送と書かれたコーナーがあった。九州最南端の漁業の町に北海道の海産物が売られている。不思議に思うが、インフラの進んだ日本ならではである。中国大陸であったらありえないだろう。また、店の人の売り方もしつこくなくて良い。正直な売り方だと思うから、かえって買いやすい。このことは、鹿児島県にいるうちその印象は変わらなかった。
 観光地というほどの場所ではないが、枕崎の近くの海岸に坊津(ぼうのつ)という地名がある。ここは、唐の高僧鑑真が遣唐使船でたどりついた場所だと伝えられている。
二時二九分、枕崎駅から指宿市をめざす。いぶすきと読むが砂蒸し風呂の温泉地として全国的知られているから読めるのであって、普通は読めない地名である。
 鹿児島県は、江戸幕藩体制下にあっては、島津氏の支配する地であった。西に薩摩半島、東に大隈半島があり、その間に鹿児島湾が入り込んでいる。錦江湾ともいうが、この方が日本語としての響きは良い。宮崎県の一部日向の地も薩摩藩に組み込まれていた。指宿は薩摩半島の錦江湾側にあり、対岸は大隅半島で視野に入る距離である。十キロ前後の距離に見える。錦江湾の出口にあたり、種子島や屋久島の浮かぶ東シナ海も望める。
鹿児島の土壌の多くは、シラス台地という火山灰地である。列車から見る田園風景に田は少なく、畑が多いのは土壌と無関係ではない。サツマイモは、この地より全国に広まったというが、唐芋という呼び名もある。中国から伝わったからである。
今日なお産地となっているのは、この地の土壌が栽培に適しているからである。収穫を前にした畑の隣には、苗木が植えられ、年に二度の収穫が可能になる温暖な気候にも恵まれている。
 島津家の始祖は、忠久である。源頼朝の長庶子とも伝えられている。戦国末期に大名として登場する徳川家よりは、その格式が高いとも言える。この国の場合、天皇家への血の距離が格式の高さになってきたが、島津家の場合は、系図の長さ、歴史の長さはそれぞれ三十二代、八〇〇余年と徳川家を上回っている。
 
 島津家別邸として今も残っている仙巌園は、磯庭園といわれ、桜島と錦江湾を借景とする名勝である。島津家の当主として歴史の表舞台に登場するのは、十五代の貴久で、フランシスコ・ザビエルの日本での布教を許している。十七代の義弘は関が原の戦いで東軍と戦った。西軍としては敗れたが、敵陣を突破したその勇猛果敢な戦いぶりは、後世に伝えられ、薩摩隼人の武人としての強さを人々に植え付けたと言ってよい。
 二十八代斉彬(なりあきら)は、徳川期の大名のうち最も優れた人物と評価されるほどに開明的な殿様であった。薩摩藩の船に日章旗を掲げたのは斉彬である。斉彬は、諸外国の脅威が迫るのをアヘン戦争などの情報により知り、殖産して富国強兵して日本を守ろうとした。西洋の文明の高さを知り、磯庭園の一隅に反射炉や諸工場を作り、国難の時に備えたのである。紡績工場だったという石造りの建物は島津家の歴史資料館になっている。
 その斉彬に認められたのが、西郷吉之助、後の西郷隆盛であった。斉彬が急死し、遺言により久光の長男忠義に家督を譲るのだが、実権は久光にあった。久光は保守的人物だったというが、幕末にあって、影響力をもった。
 平成になって、島津家はもはや華族という特権階級でもないが、当主修久(のぶひさ)氏が三十二代にあたる。昭和天皇の后、良子皇太后様の母君は宮家に島津家から嫁がれた。昭和天皇に遅れること十三年、百歳に近い長寿をまっとうされ身罷れた。皇太后は生前の呼び名である。島津家のことに少し寄り道をし過ぎた。
 今回の旅のテーマは、終焉ということにした。人の最後、人生の終末を考えてみたかったからである。指宿の近く、内陸に入ったところに知覧町があるが、ここは太平洋戦争中陸軍の航空基地があった。特攻隊員の飛び立つ基地であった。陸軍の特攻攻撃による死者は千余名にも達した。多くがこの知覧から、東シナ海沖縄水域に散っていった。大隅半島鹿屋には、海軍の特攻基地があった。今では海上自衛隊の基地となっている。特攻隊による殉職者は海軍の方が多い。それは、飛行機だけでなく潜水艇による特攻があったからであり、発案者の大西中将は海軍であった。終戦の翌日、責任をとって自決したが、知覧にある特攻記念館で遺書の写しを見た。特攻攻撃に犠牲となった隊員とその遺族に深く詫び、戦後、残った若者は生きて国の発展のために尽くし、世界平和を求めてほしいという文面である。指揮官である大西中将を責めるというより戦争という時代が生んだ悲劇である。ただ、戦術として組織化したところにどうしても批判は残る。人の命を武器として、死を強制する権利は、近代国家にはない。
 
 知覧町は、薩摩藩独得な郷士組織の中で武家屋敷を今も留めている地として知られている。薩摩藩は、鹿児島市内にある鶴丸城の他、外城を築かなかった。一一三の郷士地区を定め、それぞれに守らせた。「人は石垣、人は城、情けは味方、仇は敵」甲州武田氏の思想に似ている。今回はくり返すが人の終焉がテーマである。まだ、歴史的には温もりのある太平洋戦争末期に多くの若者を死地に向わせた特攻基地に関心を寄せた。
 特攻隊の若者の死はあまりにも悲しい。桜花の散るように美しいと見るよりも、若草が萌え出でようとする青春期の芽というよりは、草そのものを根こそぎ奪われてしまう感があるからである。
また、特攻攻撃に志願した、あるいは表現はきついが駆り出された人々は、生育した地に二度と戻れぬ、切り集められた生花に似ている。ただそれは、美しい花を愛でる人の喜びを生むというのではなく、国を守るための生贄のように見える。特攻隊員は、戦死後二階級特進する。二十歳前後ながら、少尉、中尉、大尉となる。また、命(みこと)となって神として靖国神社に祀られる。彼らの終焉は他人から美化されても、彼らからして本当に納得して旅立てたのであろうか。
 「月光の夏」という小説がある。映画にもなった。特攻に立つ前に、どうしてもピアノを弾いて死にたかった隊員がいた。一人は音楽学校、一人は師範学校から特攻隊員となっていた。佐賀県鳥栖市のある小学校にピアノが置いてあることを知り、校長に許可を得て弾いた。曲はベートーベンの「月光」であった。その音色に惹かれ、先生や生徒が集まってきて、耳を傾ける。隊に戻る時間も迫り、隊員は感謝してその場を辞そうとする。そのとき、聴衆であったあった誰からともなく「海ゆかば」を歌って送ろうということになった。「月光」の譜面を捲っていたもう一人の隊員が、伴奏した。
 「海征(ゆ)かば、水漬(づ)かばね
山征かば草むすかばね
大君の辺(へ)にこそ死なめ
かえりみはせじ」
歌の作者は大伴家持である。
 この夜のことは、ある時まで居合わせた人々の記憶から消えた。鳥栖の学校から特攻隊員が弾いたというピアノが古くなり廃棄されるというときになって、当時その場にいた代用教員であった女性がこの思い出を語り、ピアノの保存を訴えたのである。あまりにも感動的な話として、新聞、テレビで報道され有名になる。あの日から四十五年の歳月が経っていた。ところが、皮肉なことにある一人の人間を苦しめていた。実は、二人の特攻隊員のうち一人は生きていたのである。友は死んだ。「月光」を弾いた男であった。生き残ったのは「海ゆかば」を伴奏した男である。
 生と死。特攻の日、飛行機のエンジンの故障により引き返したことにより、彼はなんとも苦痛な長い年月を過ごしてきたのである。死んだ隊員は、英雄となった。
 死は一瞬の苦痛であろう。しかし、死について時間を限って予告的に知らされた人の生き様というものは、どんなものであろう。知覧で見た隊員達の写真は、時に笑み浮かべている。遺書も、思い残すことはあっても、真摯であり、人間性に溢れている。人は何時死ぬか分らないから、生をまっとうすることができるのであって、死の宣告というのは無残なことである。自覚し、承知の上で刑死したキリストにしても辛いものがあったであろう。
「主よ、われをなぜ見離し給うか」
という絶叫には、人としての辛さを想像しても良いような気がする。もちろん、信仰の人には反論されることは知りつつも。
 
 映画「ホタル」が上映されている。鹿児島の旅から帰り、その余韻がホタルの光りほどになった頃見たのである。主役は高倉健、特攻隊員の生き残りを演じている。監督は降旗康男で、大ヒットした「鉄道員(ぽっぽや)」のコンビである。朴訥で寡黙な高倉健のキャラクターが生きている。
 知覧特攻基地の近くに食堂を経営する鳥浜トメという女性がいた。店の名は冨屋食堂。トメは「特攻の母」と隊員から慕われた。平成四年八十九歳の生涯を閉じた。富屋旅館は、特攻隊員と肉親との最後の別れの場所であり、隊員同士の束の間の憩の場でもあった。トメは、店が軍の指定の食堂にもかかわらず蓄財するどころか、隊員の死出の旅立ちに旅費をさしだすようにして隊員をねぎらいふるまった。戦後は、彼らの供養のために、今日の「知覧特攻平和会館」建設の呼び水の働きをした。映画「ホタル」のヒントは、鳥浜トメに特攻隊員が残していった肉声の記憶にあった。
 宮川軍曹(戦死して少尉)は、出撃前夜、富屋旅館に来て、
 「明日は沖縄に行き、敵艦をやっつけてくる。帰ってきたときは、よくやったと喜んでほしい」と言った。トメは、
 「どんなにして帰って来るの?」
と尋ねると
 「ホタルになって帰ってくる」
と彼は言ったという。
 宮川軍曹が出撃した日の夜、次の出撃を待つ隊員が富屋旅館を訪れていた。そこに一匹のホタルが舞い込んできた。本当に宮川軍曹がホタルとなって帰ってきたと皆が口々につぶやき、見入っていた。映画「ホタル」の題名はこのエピソードから生まれた。
 特攻隊員の中には、朝鮮出身の者もいた。故国の民謡「アリラン」をトメの前で泣きながら歌って出撃していった、光山博文少尉。映画「ホタル」の金山少尉のモデルとなった。
 戦死した金山少尉の許婚(いいなずけ)が山岡知子である。知子を演じるのは田中裕子である。気丈さと、あどけない女性の雰囲気を出している。金山少尉のまさに出撃するときに「一緒に連れて行ってほしい」と泣きすがる知子と、未練もありながら飛び立っていく金山少尉の別れの場面は、男女の愛の美しさと辛さを表現していている。戦後、金山少尉の部下であった山岡曹長は知子と結婚する。同情で結婚してほしくないという知子も山岡の愛を受け入れていく。山岡も生き残りの苦しさを秘めながら漁師として生きていく。知子の命は、腎臓の病気で一年余しかないと山岡は医師から告げられていた。韓国に住む金山少尉の遺族に、出撃前に少尉が語った遺言とも言える言葉を伝える決意をする。開聞岳が見える波の打ち寄せる海岸で聞いた言葉を。その内容は、
 「トモちゃんありがとう。明日は出撃します。私は、日本帝国のために死ぬのではありません。朝鮮の家族のため、トモちゃんのため民族の誇りをもって死にます。トモちゃん万歳、朝鮮民族万歳」
 トモちゃんとは山岡の妻のことである。この金山少尉の言葉は、もう一人の部下であった藤枝伍長が聞いていたが、彼は既にこの世にはなく、金山少尉の生きた証を知るのは山岡だけだった。過去を語ろうとしなかった山岡だが、特攻体験者として尋ねられると、
 「生きているもんも、死んだもんも前に向って進んでいる」
と鹿児島弁で、若い記者にポツリという。「月光の夏」、「ホタル」という特攻にまつわる物語は、人の死から逆にいかに生きるかということを考えさせられる。
 知覧町から鹿児島市に向う。二日目の宿(ジャルシティーホテル)は西郷隆盛の生家に近かった。西郷隆盛は正直な人であった。徳のあった人である。徳があるということはどういうことかと言えば、生ある限り他人を愛せる人のことである。「自分に愛を引き寄せることより、ひたすら愛を尽くすことが大事だ」と言ったロシヤの文豪トルストイの言葉のように生きられる人である。西郷さんは人からも愛された。西南戦争のときのエピソードがある。中津藩士で増田宗太郎という武士が郷土の有志を引きつれ薩摩軍に参加した。敗色が濃くなり、故郷に帰るときになって、彼はこのまま戦を続けるが、他は自由にしてもらいたいと隊員に言う。薩摩軍には何の義理があるわけではなく隊員が増田に尋ねると


 「西郷という人に接すると、一日いれば一日の愛が生ずる。何度も会っているうちに離れがたくなってしまった」
と話したというのである。
 もう一つのエピソードは、ある武士が非礼なことをしたと腹を切って詫びようとすると、西郷さんは、
「腹らば切れば痛かど。血も出もっそう。おいどん、そげんこと考えとうなか」
と言って、思い留めたという話である。西郷に腹を切るという死に方はなかったようである。
 西郷隆盛は、七カ月に及ぶ西南戦争に破れ、故郷鹿児島の城山で戦死する。西郷を始め、生き残った薩摩の将兵は、故郷に骨を埋めたかったのであろう。西郷達がたてこもった城山の洞窟は、以外に市街地に近い谷のような地形にあった。しかも、彼らが学んだ私学校跡地にも近い。政府軍にいつでも攻略されても良い場所に思えた。驚くことに、この洞窟を下り、視界が広がり錦江湾が見える場所で西郷は終焉を迎えたのである。弾丸が西郷の巨体に当たり、
 「晋どん、もうここいらでよか」
〝晋どん〟とは、別府晋介のことである。かねてより西郷は、その死を他人から殺されるかたち、この期に及んでは戦死の形を望んだ。


 南州墓地で団体旅行の若者に鹿児島弁で案内する老人の解説は、このあたりの件(くだり)を
 「痛か。痛か。晋どん、もうここいらでよか」と弾に当たった苦しみを口に出している西郷さんを口上していて、この方が人間的親しみを感じさせる。南州墓地には、西郷隆盛の墓石を正面に戦没者の墓石が立ち並んでいる。陽は、傾きつつあったが、赤穂浪士の泉岳寺の墓のように訪れる人が多く、花も手向けられていた。
 朋友、勝海舟の歌が石碑に刻まれていた。
  ぬれぎぬを干そうともせず子供らが
なすがまにまに果てし君かな
 西郷の終焉に自刃ということはなかった。彼が死を求めて行動したのは、勤皇の僧月照と錦江湾に入水したときである。その後の生涯は、死は他人から与えられるという一種の殉教の道を歩んで行ったように見える。西郷自身、天寿をまっとうできるということは考えていなかったようである。
 西郷と親しかった坂本竜馬の終焉はどうだったか。京都伏見の寺田屋で幕吏により重傷を負った竜馬は、西郷のはからいで、妻お竜と霧島温泉に身を休める。日本最初の新婚旅行だと言う人がいる。薩摩の旅の紀行に竜馬も加えたい。
 坂本竜馬が好きな武田鉄也原作の漫画「おおい竜馬」の最終巻の近江屋で暗殺される場面はなんともいえない気分になる。あれほどの剣の達人が頭を切られる場面である。その鮮血は床の間の掛け軸に飛び散り、今も残されている。頭をねらった人間の残虐さを思うと殺された竜馬を愛しく思うのである。竜馬は、脳漿が流れ出ているのを自覚し、自分はダメだと思った。この日、共に倒れた中岡慎太郎には「石川動けるか」と、偽名で呼ぶ配慮をしたという。また、「医者を呼べ」とも言いたかったが大きな声にならなかった。竜馬の人生も神がとりわけ選んで与えた人生に見える。
 
 西郷の郷土の友であった大久保利通は、西南戦争の翌年、役所に出勤する途中、東京紀尾井坂で暗殺される。今のホテルニューオータニのあたりで四十七歳の生涯を終える。大久保は、西郷の幼き時からの友であり、苦難を共にしてきた。維新の英傑が多く輩出した加治屋町には、大久保の像が建っている。
 「児孫のために美田を買わず」は西郷の遺訓であるが、大久保は、借財だけを残していた。家屋敷を担保に国家経営のための借財は、今日の金で八千万円ともいう。葬儀ができないというので政府がやりくりしたという話が残っている。
 大久保は、日本のビスマルクといわれ、現実的で怜悧、非情の政治家とみる人が多い。しかし、友人西郷の死を知ったときは、家族に隠すことなく泣き叫んだという話もある。暗殺された日、包みの中に西郷の手紙があったという。
 鹿児島を立つ日、城山に上る。展望台から桜島が正面に雄大な姿を見せる。大学四年の夏だったか、九州の友人と四人で鹿児島を旅したことがあった。二十五年前に桜島を眺めたその場所に立っている。木立ちは大きく鬱蒼としていて当時と変わらない。鹿児島市内を朝から車で案内してくれた演奏家の上橋さんの話では、最近になって足元が整備されて夜でも登ってこられるようになったということである。
城山展望台の眼下に大きな社がある。照国神社である。島津斉彬を祀っている。拝殿の横に広場があって、そこに斉彬の像が建っている。盤石という表現とはこういうものかと思わせるほどにしっかりとして大きく高い石の台座の上に像がある。作者は朝倉文夫である。説明書きには出世作とあった。大分県竹田市、岡城址の滝廉太郎の像も彼の作であった。その傍らに、戊辰の役に殉じた薩摩藩の人々の名前が刻まれている。名前だけの人もいる。苗字がないということは、武士ではないということである。その数は、七百人に達しない。あの明治維新を武力によりやり遂げた雄藩の犠牲者が意外と少なかったことに驚かされる。西南戦争の薩軍の犠牲者が二千余、特攻隊は陸軍だけで一千余、太平洋戦争の戦死者は数百万ということを考えると、明治維新はほんの一握りの志をもった人々によって、しかも革命とはいえないほどに比較的血を流さないで済んだ政治変革だったと思えた。国家的規模の戦争が多くの人の犠牲を生み出すことを考えれば、話し合いによる変革の道を内政外交に求めていかなければならない。
鹿児島は、彫刻の多い町である。東郷元帥の像は海の臨める小高い岡にあり、墓地の近くに建っている。
  聖将の海を見ており蝉時雨
鶴丸城に近い通りに建つ西郷隆盛の像は巨像といえる。大久保利通、小松帯刀といった明治維新の立役者からザビエル公園の彫刻などと、数え上げれば他の地方都市のその数を凌駕するに違いない。
 旅は人のご縁の大切さを痛感させられる時でもある。音楽プロデューサーの滝沢隆さんの恩師を旅先で訪ねることになった。恩師とは、福島雄次郎という日本の民謡を題材として作曲活動をしている人である。滝沢さんのご縁で、鹿児島に住む福島先生に会うために訪ねてきた、広島県福山市の声楽家平本弘子さんとも知己を得ることができたし、ピアノ演奏で榛名に来た上橋さんには食事を一緒にしたり、市内を車で案内してもらった。福島先生の家は、見晴らしのよい高台にあり、短い時間であったが、質問はもっぱら平本さんがしたのだが、有意義な話を聞かせてもらった。二十三歳の時、結核療養後であったが、五木村で過ごした体験が後の作曲活動に影響を及ぼしたという話をされた。人気(ひとけ)の少ない山奥の中で、労働者の唄った五木の子守唄が若い福島先生の耳に残った。話の合間に、奥様が変わった葉で包んだ草餅や果物、紅茶などを出してくださる。
 「僕の曲は一生懸命さが出すぎて寛容さがない」
というと、平本さんは「そんなことはありません」と否定する。平本さんにとって福島先生の曲には強く引かれるものがあるのである。そうでなければ、ここまで会いには来ない。
 「技術的なことより、自分の人生でなければ生まれて来ない音を自然体で表現すればよい」
福島先生はそう言いたかったのだろうと思う。
〝島原の子守り唄〟を作詞した宮崎康平のことが頭をよぎった。同席した滝沢さんが、私のことを「彼は俳人です」と変な紹介をすると、先生は、
 「俳句を音楽にしたものもありますよ、朝顔の句でしたかね」
朝顔に釣瓶とられてもらい水
加賀千代女の句であるが、俳句が歌になっているというのは初耳であった。
先生は短い時間であったが、名残惜しそうに玄関先まで送ってくれた。一緒にスナップに収まった平本さんの目には光るものがあった。もう少し話したかったのだろうが帰りの飛行機の時間が迫っていた。
鹿児島に住む上橋さんに
「遊びにいらっしゃい。レッスンもしてあげますよ。僕も淋しくしてますから」
と話していたのが印象的だった。内臓の病気で午後は体調が悪いと言っていた。正直な優しい先生という感じがした。帰ったら原正男自叙伝『一筋の道』を送ろうと思う。
この日は大変暑い日であった。上橋さんが、
「シロクマを食べましょう」


というがなんのことか想像がつかない。カキ氷のことで、メロン、スイカ、オレンジと小豆が氷にのっていて、たっぷりコンデンスミルクがかかっている。なるほどダイナミックで白熊の命名がぴったりすると納得した。
  

Posted by okina-ogi at 12:04Comments(0)旅行記

2013年04月26日

『春の雲』長崎への旅

長崎への旅
 
 夜明けとともに門司港に着く。門司は雨だった。少し早い朝食だが船内ですます。門司駅から特急で長崎をめざす。約三時間半、船中泊では熟睡できなかった分を車内で眠る。博多、鳥栖、佐賀::。長崎県の土を踏むのはこれが始めてである。
 長崎は、江戸幕府が鎖国政策をとりながらも、わずかな扉を西洋に向かって開いていた。出島にあってオランダだけには貿易を許していた。出島は、扇の一部を切り取った形をしていて、縦百メートル、横二五〇メートル程の人工の島で、橋で陸と繋がっていた。現在、ミニュチュア版の出島が当時の場所に作られているがそれほど広くはない。出島の跡地には資料館が建てられていて、周囲は埋められて市街地となり、今は海には面していない。
 豊臣秀吉の政権から徳川幕府へと移る中、ザビエルやフロイスが布教したキリスト教は弾圧され、二六聖人の殉教や島原の乱が起こり、以降キリスト教徒の受難の時代が長く続くのである。出島にオランダだけの交易を許していた時期、すでにポルトガル人は国外追放となっていた。出島は、日本に居留していたポルトガル人を収容するために造られた島であった。ポルトガルとの国交断絶は、キリスト教の布教と無関係ではない。鎖国の時代から、固く信仰を守り続けてきた人を隠れキリシタンと呼んだ。
 
 長崎浦上の地には、建築当時東洋一と言われた壮麗なレンガ造りの天主堂が築かれた。街にはアンジュラスの鐘が鳴り響き、市民にとって安らぎを与えていた。まさしく、浦上天主堂は、キリスト教弾圧に耐えてきた人々の何世代に亘る信仰の継続がもたらした象徴的な建物であった。昭和二十年八月九日十一時二分、この天主堂から一キロメートルも満たない地点、地上約五百メートルの上空で、広島に続く第二の原子爆弾が炸裂し、一瞬にして長崎市は灰燼に帰した。天主堂も破壊され、鐘楼とともにアンジェラスの鐘も地上に落ちた。鐘楼の残骸は、当時の惨状を想起させるように、あえて放置され、天主堂の立つ小高い丘の斜面に苔むしていた。
 
 浦上の地で忘れられない人がいる。永井隆博士である。〝浦上の聖人〟と言われ、「如己堂」という二畳程の家に白血病の病に身を伏し、平和を祈り多くの書を世に出した。妻を原爆で失い、二人の幼き子供の成長に限られた生の中で愛を注いだ。〝如己愛人〟は、「己の如く隣人を愛せよ」という聖書の言葉から博士が選らび、漢文体にしたものである。記念館に飾られた博士の書は見事である。絵も亦よい。緑夫人の昇天の絵などはマリヤ様を想像させる。
 永井隆は、明治四十一年に松江市に生まれた。父親は医師であった。松江中学から長崎医大に進み首席で卒業した。専攻は放射線医学であった。江戸時代、キリシタンの信徒頭をつとめる家系に生まれた森山緑と結婚する。大学時代に下宿していた家の一人娘であった。卒業から三年後のことであった。結婚の前に永井は洗礼を受けた。中学時代、唯物論に傾倒していた男が信者になったのは、実に森山緑の影響が強い。
 永井博士が慢性骨髄性白血病となったのは、原爆により放射能を浴びたためではない。戦争中に結核診断のためにレントゲンを撮り続けたことによる結果であった。一日百人のレントゲン撮影をこなし、フィルムが不足し多くは直視で行ったため信じられないほどの放射線を受けたのである。原爆投下の三カ月前に診断され「余命三年」と告げられた。妻に打ち明けると、気丈な態度で「神様の栄光のためネ」と言ったという。
 原爆投下の日、妻はいつものように笑みを浮かべて博士を送った。弁当を忘れたことに気づき引き返すと、妻は玄関先にうずくまって泣いていたのを見た。気丈な態度の内面には、いつも博士の身を按じる心の辛さがあったのである。これが妻との永別となった。原爆が落ちたとき、博士は長崎医大の建物の中にいたが、爆風で吹き飛ばされ、ガラスの破片などで大傷を受けた。簡単な治療を済まし、三日間被爆者の救護活動をして家には帰らなかった。家に帰ったとき、台所あたりに黒い塊があった。それは妻の腰椎と骨盤であった。〝腰椎と骨盤〟医師であったがための悲しい発見であった。傍に十字架のついたロザリオの鎖が残っていた。骨と化した妻同様、原型を留めてはいなかった。博士は、救護活動をしている間に、妻の死を感じとっていた。生きていれば、深傷を負っていても生命ある限りは、這ってでも自分の安否を訪ねて来る女性だったからである。家から長崎医大までは一キロメートルもない。
 
 サトウハチローが作詞し、古関裕而が作曲し、藤山一郎が唄った「長崎の鐘」の背景にあるものはずっしりと重いものがある。永井記念館から平和公園までは、わずかな距離であるが、歩きながら何度も目頭が熱くなり、立ち止まって五月の青空を見上げた。
「こよなく晴れた青空を悲しと思うせつなさよ:::」
八月九日の長崎の空も青く澄んでいた。
 平和公園には、北村西望作の「平和の像」が立っていた。どっしりと座した男性の右手は空を指し、左手は真横に伸ばしている。戦争の終結を早めるために原爆を使用したということだが、落とせばどうなるかは分っていたはずである。非戦闘員である市民が暮らす場所に。
 「アメリカという国は、極端に善いものから悪いものまであります」
という国際基督教大学の学長や同志社大学の総長を務めた湯浅八郎氏の言葉を思い出した。力の強い者は何をしても良いというものではない。ただ戦争というものは嗜虐的なことどもを生み出す。
 平和公園の丘を下ると爆心地に至る。さまざまなモニュメントがあった。浦上天主堂の建物の一部も移されていた。浦上駅前の市電乗り場から長崎駅方面に向かう。市電はどこで降りても百円。子供は半額である。かつての京都市がそうであったが、市電が廃止されてからもう久しい。
 
 二六聖人記念館は、長崎駅に近い小高い丘にある。キリストが処刑されたゴルゴダの丘に似ているという人もいる。坂下はNHKの長崎支局がある。二六聖人の中にパウロ三木がいる。織田信長の家臣、三木半太夫の子で三十三歳で殉教を遂げた。大坂で捕らえられ、長崎までの道すがら説教を続け、刑死する直前までやめなかった。「汝の敵を愛せよ」のキリストの言葉が語られ、「私は太閤様を憎んではいない。この国がイエズスの教えに従うことを祈っているのだ」と信仰の喜びの中に息絶えた。フロイスはそう記録の中に記している。
 沢田政広作のパウロ三木の木彫の像は凛々しく、十字架上の横木にしっかり足をつけ、顔には穏かな笑みすら浮かべ、柔和な彼の心が伝わってくるようである。
 「良い知らせを伝える者の足はなんと美しいことか」
と聖書の中にある。仏教の菩薩像の足は片方が少し前に出ている。それは、衆生を導くために歩みだそうとしている姿だ、とある彫刻家から聞いたことがある。記念館の前には、海に向かって手を祈るように広げた二六聖人の彫刻が、壁面にレリフのようにして刻まれている。作者は舟越保武である。
 殉教について考えてみる。迫害にあっても信仰を捨てず、ひたすら教えに従い、その結果死に至る。どうしてそのようなことが起こるのであろうか。人は死を恐れる。保身をはかり、他人を犠牲にしても生き延びたいと思うものである。仏教では人間の心の中には無明が働いていて無意識的に死を避けるようにできている、だから無明を抑えるように生きよと教えている。無明とは生きる盲目的意志のことである。無明の主人公は、自我である。自我に対して大我、真我というのがあって、これは人を生かしてくれるもの、そう考えることが信仰の窓口であり、その実感と確信の深さが殉教とは無縁ではない。
 殉教、この言葉自体がキリスト教に付随しているように響くのは、キリスト教徒の殉教が多いからであろう。鍵は「愛」、「真心」という言葉であろう。愛の本質は、自己犠牲であると思う。他人を守るために身を挺し、その結果の死は、無条件に愛の行為である。線路に落ちた人を救おうとして列車に跳ねられて死んだ人の話があったが、殉教の心と同じである。「真心」とは、「かくすればかくなるものとは知りながら やむにやまれぬ」という心のことである。人が悲しんでいるの見たら何の疑いもなく悲しいと思う人の心のことである。
 「諸君は功業を成すつもり、僕は忠義を成すつもり」
と松下村塾の弟子たちに告げて刑死した吉田松陰も殉教者と言える。
「死を見ること帰するが如し」
大我、愛、真心の人は喜んで帰って行ける心の故郷をもっているような気がする。
 パウロ三木という戦国時代に生きた青年には、キリストが十字架の道へ至る気分がある。自分の行為や言葉が死であるという自覚をもっているからである。キリストから「あなたは、鶏が鳴くとき、三度とも私を知らないと言うだろう」という人とは違っている。保身を図ることを咎めることはできないが、裏切りや、人を落とし入れる行為は死に値する。

 坂本竜馬が興した日本最初のカンパニー(会社)、亀山社中は伊良林地区の傾斜地に建っていた。個人の所有地になっているが、当時の建物として今も保存されている。竜馬が背をもたれたという柱も健在であった。屋根の一部は、原爆による爆風で吹き飛ばされ修復され今日に至っている。この、ちっぽけな亀山社中を拠点に、倒幕の基礎となった薩長連合に竜馬は一役買ったのである。長州藩の米は薩摩に、そして薩摩藩の名義で武器が長州にわたった。理念だけでなく、実利を心得ていたのが坂本竜馬である。有名な「船中八策」の写しも見た。
 亀山社中から坂道を登ると風頭公園に辿りつく。竜馬の像が建っていて、長崎市街と湾が見渡せる。細く長くのびていて良港であることがわかる。幕末当時、外国船が停泊している風景を想像して見た。竜馬は遠く海外を見ていたのかも知れない。竜馬像の目もはるか彼方を見つめているように見えた。近年、像の近くに、司馬遼太郎の『竜馬が行く』の一節を記した石碑ができた。
 
 伊良林地区の坂道を下り、中島川を渡ると鳴滝地区にシーボルト記念館がある。外観がレンガ風に作られたりっぱな洋館で、長崎市の市営となっている。亀山社中とは対象的である。シーボルトは、ドイツ生まれであったが、オランダ医として長崎に来た。一八二三年、シーボルト二七歳の時であった。
 シーボルトは、医学だけでなく生物学や他の分野の学問も学び、日本文化に対する関心が強かった。短い日本での滞在中に、多岐にわたるサンプルを収集した。一方西洋医学のすぐれた技術と知識を与え、多くの蘭学医を育てた。その塾の跡が、現在のシーボルト記念館になっている。オランダの領事を将軍が謁見するのが江戸参府で、シーボルトもその一員に加わった。江戸滞在中に収集した樺太の絵図が引き金になってスパイ容疑がかかり、取調べの後国外追放になる。世にいうシーボルト事件である。
 シーボルトは、たきという日本女性の間に一子をもうけた。日本最初の産科医、楠本イネである。妻子を置いて故国に帰ることになった。日本が開国する三〇年の間に、日本で収集した資料を整理し、西洋に日本文化を正しく伝えたのはシーボルトの業績である。シーボルトが日本の土を再び踏んだのは六三歳のときであった。しかし、三〇年の月日はあまりにも長かった。またも妻子と別れオランダに帰る。オランダには、四九歳の時再婚したヘレーネという貴族出身の女性との間に三男二女があった。シーボルトは最後まで日本を愛した。七〇歳で世を去る直前に、
 「私は美しく平和な国に行く」と呟いたと言う。美しく平和の国とは日本であった。
 オランダ坂から孔子廟、グラバー公園と歩く。長崎は坂の多い街である。木々の緑が綺麗で、メタアセコイヤの緑は柔らかく目に映った。異文化との交流地点で歴史的なドラマがあり、海と山が迫って美しく旅情は独得なものがある。新婚旅行や恋人と歩くのに相応しい街であると思った。大浦天主堂は、木造建築の古い教会だが、五月三日の祭日であったので国旗がたなびいていた。日の丸と教会、いかにも長崎らしいとカメラに収めた。この地の名物にカステラがある。幼い時からの大好物で、世の中にこれほどうまい物があるのかと思う。カステラを食べるたびにドラマチックな長崎行が思い出されるかも知れない。

  

Posted by okina-ogi at 13:13Comments(0)旅行記

2013年04月24日

『春の雲』我が師、そして古都奈良

我が師、そして古都奈良
 
 二〇〇一年は、数学者岡潔博士の生誕一〇〇年の年にあたる。博士は、京都帝国大学を卒業し、フランスに留学した。フランスでは、人工雪の結晶と随筆家で知られる中谷宇吉郎博士やその弟の考古学者であった中谷治宇二郎と親交を深めた。特に、弟の治宇二郎とは無二の親友となった。
博士の数学上の業績は、他変数函数の分野で多くの発見をしたということだが、それがどのような意味を持っているのかは世人には想像がつかない。現代のアルキメデスと言われたこともある。「発見には鋭い喜びがともなう」そして「発見は何の疑いを持たない状態である」と言っている。
昭和三十五年の池田内閣の時に、佐藤春夫や吉川英治らとともに文化勲章を受けている。吉川英治とは、以来心通わすところがあった。
 
 昭和五十三年の三月に他界したが、その前年の二月十二日に、奈良市高畑、新薬師寺の近くにある自宅に博士を訪ねたことがある。正確には、岡博士の思想に魅せられた大学の後輩に誘われて行ったのである。
当時、自宅周辺にはほとんど住宅はなく、古い土塀に沿って小道があって、その先に高円山(たかまどやま)の原生林を背にするようにして博士の家はあった。
 
 博士は、数学の研究者としてだけでなく、大変な碩学で、日本文化に関心を寄せ、民族の心に深い洞察力を持っていた。『春宵十話』毎日新聞社、『紫の火花』朝日新聞社、小林秀雄との対談、『人間の建設』新潮社など次々と書を出し、学研からは、岡潔集全五巻が出版された。一巻毎に対談が企画されていて、井上靖、司馬遼太郎、石原慎太郎、松下幸之助、小林茂などの角界の著名人が登場している。
博士の繰り返し述べるところは、戦後めざましく経済復興を遂げた日本人の心に、物質的欲望、とりわけ自我を第一とする考えが強まっていくことに対する警告であった。現代の世相を見ると、博士の危惧したところは残念ながら見事に的中してしまっている。あまりにも残酷で、自己中心的な犯罪が増えている。
 博士の思索は、仏教、神道、キリスト教といった宗教にもとらわれず、晩年は心そのものを追求し、世人には極めて難解な思想と映った。けれども、博士に直接お会いし耳を澄まして聴くと、その調べは実にさわやかで心地良いものだと言える。ただ、そう思える人は、今の日本には少ないだろうと思う。なぜなら、
「物質というものはない。造化が放送するテレビ放送、映像である」
こうはっきりと言われれば、ほとんどの人がとまどってしまう。しかし、
「人は懐かしさと喜びの世界に生きている」
「人は他人の喜び、それ以上に悲しみがわかる人でなければならない」
「人のこころの中核は情です。真心に対しては、人は疑いという気持ちが起こらない」
という表現になっていくと納得がいくのである。
実際、博士に直接会い、その一瞬一瞬の生を真剣に生きる姿と肉声に触れると言行一致の強烈な印象が心に刻まれることになる。
 もう、お会いしてから四半世紀近くの時が流れているが、今もって一介の名も知らぬ青年に、真心こめて講義された博士の姿が今も鮮明に想い出されるのである。博士に直接電話して面会を求めた後輩のかわりに上座に座らされて、奇しくも博士と対座することになった。それは実に大事なことであって、今になってみると、自分の人生にとって幸運としか言えない。博士の背後にある襖の上には熊谷守一の蟻のシンプルな絵が何とも印象的で、今日でもその色や線までも再現できるような錯覚がある。
 
 博士の一言一句は心の底に沈んだが、心の調べは消えない。だからこそその時の過去の情景が懐かしいのだろうと思う。岡家を去るときに、博士は不自由な高齢の体で玄関に見送りに出られた。その姿と言葉は生涯忘れられない。
「僕は、足腰はダメだが、首から上は大丈夫。タクシーを呼びましょうか」
博士は座ったままで申し分けなそうに、しかも優しい眼差しで若者を送ってくれたのである。それが博士とのこの世の永別となった。帰りの道すがら見る古い奈良の風景が、格別なものに見えた。
格別とは、何か悠久なものに触れたような気分である。博士のこころの深さを悠久なものに感じたからであろうか。
 博士には、ミチ夫人との間に一男二女があって、次女の松原さおりさんが、博士の死後二十数年に亘って、博士を人生の師と仰ぎ、想いを寄せる人達のために毎年自宅を提供して『春雨忌』を催してくれている。『春雨忌』は、芭蕉の
春雨の蓬を濡らす草の道
をとりわけ生前高く評価し、「自分は、慈雨のように春雨の小止みなく降り続くように説き去り、説き来るようにして世の人々に良き心が芽生えるようにしたい」という悲願からとったのである。第七稿でついに未刊となった著書は『春雨の曲』であった。
松原家のその想いと労苦にはいつも頭が下がる。ご主人は地質学の先生、一子始さんは、生物学を専攻する京大の学生さんである。博士から松原父子ともに京大というところが素晴らしい。始さんは、俗称「ハメちゃん」で、春雨忌に集まる人から愛称こめてそう呼ばれている。幼い時から見ているのでそう親しく呼ぶようになったのであろう。小さい時から利発で良く気の廻る、しかも博学の男の子であった。
時を別にして、就学前の我が子を春雨忌に連れていったことがあったが、玄関前で、虫眼鏡で黒く塗った紙に太陽光線を当てて娘と遊んでくれたハメちゃんのことが忘れられない。
五、六人が泊まり食事や風呂の世話などし、夜遅くまでお話くださるので睡眠時間も少なくさぞかし大変だと思うが、言葉に出さない。いつかはそのご恩に報いたいと思う。春雨忌に集う人達は全国にいるのだから、老年になったら各地を旅されたらと思う。
二〇〇〇年の夏、関東在住の有志で信州や、群馬の榛名湖をご案内することができた。今回は、松原家に三泊もしてしまった。まるでずうずうしくも居候のように甘えて、奈良公園あたりをブラブラしたり、気ままに博士の遺稿などを読みふけったりして、それが一人だけではないのだからひどい迷惑に違いない。
 二〇〇一年の九月頃、博士の生誕百年を記念して本が出版される予定である。多くの人の目に触れ読んで欲しいと思うが、出版社は以前のようには売れないと思っている。二〇〇〇部から始めるという。出版社は、哲学者西田幾多郎や鈴木大拙の著書を出している燈影舎に決まった。
岡博士は京都帝大入学時は理学科で、そこには西田幾多郎の子息の外彦氏がいた。これも何かのご縁なのかも知れない。外彦氏の妻は西田あささんといって、晩年、群馬県榛名の新生会の老人施設に入居し、ひとときの知己を得た。
 博士の生誕地は、和歌山県と大阪府の境にある紀見峠にある。今は、和歌山県橋本市になっているが、標高四百メートルを越える山間の里である。岡家は代々、庄屋であった。博士の祖父にあたる文一郎は、篤志家で一山に私財を投じてトンネルを掘った。今では〝手掘りトンネル〟としてハイキングコースの名所になっている。車が通るには狭く、電灯もない暗闇のトンネルだが、入り口と出口はしっかりと石積みされ大変な費用と時間が費やされたことが容易に想像される。
博士の墓地は、奈良白豪寺の近くの霊園にあるが、分骨されて紀見峠の岡家先祖代々の墓地に、ミチ夫人とともに眠っている。この地は土葬の風習があり、遺骨は石塔とは別の何の変哲もない叢に埋めれている。自然に帰ることを説いた博士にふさわしいと思った。
伊勢神宮の皇学館で神官となろうとしている墓参に加わった恵良さんの横笛の音は、薫風と青葉の中に清楚に流れて清々しく響いた。棚田で弁当を広げ、移りゆく春の緑の中で昼食となったが、また忘れられない人生のひとこまが与えられた。
 
 群馬を立って四日目の五月一日、松原宅を辞して近鉄で西の京駅に向かう。ここには薬師寺と唐招提寺がある。薬師寺は、故高田好胤がその復興に力を尽くした法相宗の寺である。東塔が古く創建時の面影を残している。
行く秋や大和の国の薬師寺の
    塔の上なるひとひらの雲
佐々木信綱の歌碑がある。薬師如来、日光菩薩、月光菩薩の安置されている本堂や西塔も完成し、往時の寺の骨格ができつつある。
 高田好胤は、仏教哲学である唯識に詳しく、はるばるインドから仏教を古代中国の唐に伝えた玄奘三蔵を尊敬してやまなかった。薬師寺を訪れる修学旅行生に仏教を易しく語り、著書も書いてマスコミにとりあげられ、寺への寄進は目を見張るものがあった。その修学旅行生の一人の女性と結婚し話題ともなった。後に離婚することになったがそれなりの理由があったのであろう。名僧であるかないかは知らないが、仏教に帰依した人には違いない。
 好胤師と同じく、三蔵法師を思慕する人物がいる。画家平山郁夫である。彼は、「仏教伝来」を画壇へのデビュー作としてシルクロードをライフワークとしてきた。平山氏の壁画が玄奘三蔵院に完成し公開されていた。それを見たかったのである。
最近、イスラム教徒の手で破壊されたバーミアンの石像の遠景も描かれている。ほぼ中央には、パミール高原の高峰が、雪をかぶり須弥山と題されて神秘の景観を見事に描き出していた。最後は、大雁塔であるが、数年前、この塔が建てられてより千数百年後の姿を西安で見た。人が命をかけても惜しくないものを求めた人物を思慕し、高田好胤も平山郁夫もまた命をかけてきたのである。
 薬師寺から徒歩で一〇分ほどの距離に唐招提寺はある。先の阪神淡路大震災で建物がゆがみ、金堂は十年近くの歳月をかけて修復されることになった。正門から見えたあの美しい建物はすっかり修復のための建物に覆われてしまっている。もちろん「天平の甍」も見られない。井上靖の小説『天平の甍』は、唐の高僧鑑真和上の東征を感動的に描いている。鑑真も命がけの人であった。国禁を犯すに近いかたちで仏教の布教のために日本に渡ったのである。再度にわたる渡航の失敗にもめげず、さらには六十五歳の高齢で盲目になっても日本を目指したのである。
若葉して御目の雫ぬぐはばや
の句碑も初めて見た。
 
 この日は、受付の人が改修中の入場に申し訳なさそうに、「鑑真の故郷楊州の花ケイ花がきれいに咲いているから是非見てください」と順路とともにこまかな説明をしていた。ケイ花は低木だが白い花であった。隣には藤が満開に咲いている。ケイ花と藤、それは日中友好とも言うべき組み合わせになっている。
 『天平の甍』は、長編小説ではない。遣唐使として律宗僧を日本に招聘する任務を課せられた栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)の若き僧に焦点を当てて描かれている。聖徳太子没後百年以上も経た聖武天皇の治世には、税をのがれるために多くの農民が寺をめざし僧になることを求め社会的な問題になっていた。僧たる資格の基準を示すところの高僧がいなかったし、その教本もなかったのである。鑑真和上の渡来の背景にはそうした事情があったのである。
 栄叡は大陸で没し、普照は帰国した。彼ら以前に唐に渡っていた業行は、数十年の歳月をかけひたすら経典を写し続けた。帰国のための船は四艘であったが、業行は最後の舟に乗った。その舟には阿倍仲麻呂も乗船していたが、この舟だけが難破し、業行は経典とともに海に沈んだのである。仲麻呂は唐の都に戻ることはできたが、生きて日本の土を踏むことはなかった。
 天の原ふりさけ見れば春日なる
       三笠の山にいでし月かも
仲麻呂の悲運もさることながら、業行の末路は悲しい。『天平の甍』の影の圧巻は業行の報われない悲運の生涯であったように思う。業行が故国にたどり着いていれば、後に空海が伝えた密教がいち早く日本に伝えられていたのである。ただ空海と言う天才の出現を待たなければならなかったのかもしれない。歴史や人生もそうしたくり返しとも言えなくはない。
 人の世の無常というもその日々を
       真心尽くす人に幸あり
老年まで、もくもくと経典を捜し続け、ただひたすらに写しとり、わが身とともに海の藻屑と消えた業行の生涯はあまりにも日本人的である。世の影となり、脚光も浴びず尊い仕事を成していく。
そのような人の上に日本の国が成り立ってきたことを忘れないでおこう。生きがいのある人生とはこころのありかたによって決まる。業行の人生に生きがいがあったことは疑いのないところである。それで報われている。
  

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2013年04月24日

 絵本『ハグくまさん』

『ハグくまさん』 ニコラス・オールドランド作 落合恵子訳 1470円
 
 友人に大変童話に関心がある人がいて、良い絵本でもあったら紹介してほしいと頼んでいたところ、漸く一冊ご紹介いただいた。それがこの本である。
「なに?なんで熊が木を抱くの。その前に樵も抱いているぞ。そりゃーびっくりするよ」
このくま君少し変だよね。と思ったが、くまの親子が抱き合っている映像をよく見かける。すべてあの精神でやってる。自然界にあるもの全てが愛しいと思えるこのくま君、仏教の唯識では9識以上にランクされるだろう。
我が家に、「くれちゃん」という雌猫がいる。雪の降る年の暮れに家のベランダいるところをストーブを炊いて食事している娘の目にとまった。父親は冷たく追い返したが、翌日も顔を覗かせた。娘の温情に負けて、次の日から我が家の居住権を得た。ガリガリに痩せていた。あれから、6年すっかりふくよかになっている。年の暮れに家に住みついたので、「くれちゃん」となったのである。その猫を、冷たく追い出そうとした父親が、渾身をこめて猫を抱き締めることがある。「ハグ父さん」のこの行為に、猫は迷惑そうだが、愛しさをこめて抱くと、猫も悪い気持ちはなさそうに見える。
  

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2013年04月24日

『春の雲』長州から出雲への旅

長州から出雲への旅
機中「菜の花の沖」を読む。下関から山陰本線で松江までの日本海側を北上する旅である。いまから約二〇〇年前この沿岸に沿って北前船を操って歴史に名を残した男がいた。高田屋嘉兵衛である。蝦夷地、今日の北海道の昆布やニシンを上方に運んだ。ロシア船に拿捕され、カムチャッカに遺留されたが、日本に抑留されていた、ゴローニンらと引き換えに日本に戻るのだが、国家間の紛争を防ぐことになる。一介の町人が外交官の大役を果たしたといっても良い。ロシア船の乗員からタイショウと慕われ、その信頼が両国の合意を生んだ。嘉兵衛は、淡路島の出身である。当時、淡路島は、菜種油の産地であった。春になると、島は菜の花に埋め尽くされた。
 旅の基点は、福岡空港である。福岡空港は、戦後、板付空港として軍用に使用されていた。市街地までのアクセスが極めて良く一〇分程で博多駅に着く。博多からは、門司を目指す。門司港駅周辺は、レトロの街として洋館建築が見られる。
 アインシュタイン博士夫妻が宿泊したという三井物産の商館を見た。移築されたものだが豪勢な造りである。天井が高いのが洋館の特徴である。レンガ造りではなく木材がふんだんに使われ、内部に使用された木の肌は、当時の輝きを少しも失っていない。その一室に林芙美子の展示室があった。芙美子は、その波乱に富んだ幼少、青年時代を門司と下関に住んだ。その後、尾道に出ることになる。
  花の命は短くて 苦しき事のみ多かりき
 あまりにも有名な芙美子の呟きである。
門司の対岸は、下関である。関門海峡を挟み1キロにも満たない距離である。夕陽が山の端に沈み行く中、少し荒れた海を小型船で渡る。源平の壇ノ浦の戦いがあり、幕末には長州藩と四カ国艦隊と馬関戦争のあったところである。
 
 師走の夕は足早である。日清戦争の講和条約が結ばれた春帆楼に立ち寄り、清国全権李鴻章、日本全権伊藤博文、陸奥宗光らの会見の席を見て往時を偲ぶ。貧農の子から宰相まで登りつめた伊藤博文は、松下村塾に学び、「俊輔は、周旋の才あり」と師吉田松陰にその才を認められた人物。この交渉で遼東半島と台湾を得ることになるが、名高い列強の三国干渉により遼東半島は手放すことになる。後年、日露戦争では、その半島の先にある旅順の攻防により、二〇三高地の熾烈な戦いや、広瀬中佐の参加した旅順港閉塞作戦の攻防があった。
 「動如雷電 発如風雨」
 伊藤博文が、明治維新の前、徳川幕府による第二次長州征伐を前にして高杉晋作がたった一人長州藩の藩論を倒幕に変えるために長府の功山寺で挙兵した。その当時を想い、高杉の人物評を書き記した言葉である。高杉の墓のある東行庵にその碑がある。高杉の創設した奇兵隊は動かず、伊藤の力士隊が呼応し、維新回天のドラマが始まったのである。
 
 春帆楼のすぐ近くに赤間神宮がある。
 「海の中にも都がありますぞ」と平徳子の母時子と入水された安徳天皇を御祀りする宮である。徳子は、助けられて出家して京都大原に余生を過ごすことになる。建礼門院その人である。龍宮城を想わせる水天門が、白と朱のコントラストを見せて美しく、その門から見える関門海峡を行く船の往来が見事な絵となっている。江戸時代、赤間神宮は、阿弥陀寺といった。この地の地名でもある。高杉晋作の奇兵隊創設に資金を援助し、多くの志士に助力した下関の豪商白石正一郎は、初代の赤間神宮の宮司であった。維新に功績のあった人々が明治政府の高位に就く中、心の欲するままに淡々とこの宮に仕えた白石正一郎の評価は高い。武士という特権階級ではない商人の中にこうした人のあることは、日本文化の裾野の広さとして誇りとして良いかもかもしれない。戦後の民主主義は、大いに個人の自由をもたらしたが、反面、公に命がけで尽くす精神を置き去りにした感がある。公とは、私の対照語であるが、戦後流に言えば公共の福祉程の意味だが、生命と財産をかけた命がけの行為を考えれば大義というに近い。
 その日の夕食は、ホテルに近いスポットライトに照らされたレトロの洋館に近い店で、名物ふぐ料理と今では珍味となった鯨料理を満喫した。旧友とも再会し思い出に残る会食となった。
 翌朝、ホテルから見える関門海峡は、一面の冬靄であった。わずかに、太陽が輪郭を見せて現れることはあるが、一向に晴れない。
   彼岸かと見えて赤間の冬霞
 九州と本州の間は近くも、対岸は異郷の地のようにも思える。高杉晋作が功山寺で挙兵する前に、福岡の野村望東尼の庵にかくまわれることがあった。数年前、その地平尾山荘を訪ねた時は、まだ肌寒さの残る春の日であった。淡い紅梅と馬酔木の花が咲いていて、庵の傍らに椿の木があった。
  庵棲む尼にせめての椿かな
 九州の同志の決起を促すためであったが、不可能と知るや、単身、下関に帰るのである。野村望東尼は、勤皇の歌人であった。清水寺の僧、月性とも心通ずるものがあったであろう。
 高杉晋作を看取ったのは彼女である。
  面白き事もなき世もおもしろく
 と高杉晋作が詠み、命が消え行く間際に望東尼が下の句を
  棲みなすものは命なりけり
 とつけた。晋作は、一言
 「面白いのう」と言ったという。このあたりは、司馬遼太郎の創作らしい。東行庵の学芸員、一坂太郎氏の指摘するところであるが、この辞世の歌が二人の合作であったことは事実である。
 司馬遼太郎には、「世に棲む日々」という小説がある。
     *    *    *
 下関から長門までの日本海は、晴天の中澄み切っていて実に綺麗であった。田のひこばえは、やがてくる冬の風雪を知ってか知らぬか弱弱しい緑を視界に広げていた。
  ひこばえの田のはてなり日本海
 沿線の家々には、だいだいがそこかしこにたわわに実をつけていた。陽に映えて、その黄色が目に強くやきついた。山陰という言葉の響きは、なにやら物悲しさを感じるが陽は穏やかで、師走としては暖かな日の中を列車は走る。下関を発つ前に魚市場で仕入れた刺身と鯨のベーコンを肴に、ふぐのひれ酒で朝からいっぱいというのも、ゆったりとした列車の旅ならではである。コンビニでわさびと醤油を買って、魚介類を途中買って酒を飲むというのは極めて合理的である。旅のひとつの発見であった。
 
 今日の旅のメインは、青海島めぐりであるが、仙崎の地は、若くして世を去った金子みすずの生地である。昭和の初期、無名の詩人の詩才を西條八十は認めた。西條八十は、大正、昭和にかけ童謡,歌謡詩界をリードした。みすずの「大漁」の詩は、岩波文庫の日本童謡集にも収録されている。「積つた雪」の感性に、みすずの人柄が良く顕われている。
  上の雪
  さむかろな。
  つめたい月がさしてゐて、

  下の雪
  重かろな。
  何百人ものせてゐて。

  中の雪
  さみしかろな。
  空も地面(じべた)もみえないで。

 雪をわが身に置き換えている。
  いくたびか雪の深さを尋ねけり
               子規
 の気分もわかるが、自他の別がみすずの世界には希薄である。
  ぬかるんでいつしか雪の暖かさ
 という句はどうであろうか。
 自然と人間の対立のない世界を日本人は古来から意識してきた。大木とうっそうとした森に囲まれた神社の静寂な空間に身を置く時、そんな気分になることがある。
 数学者で文化勲章を受章した岡潔は言う。
  自分は自分という名の自分 
  他人は他人という名の自分
  自然は自然という名の自分
  それが意識できる人を日本民族という。
 少し哲学的な表現であるが、みすずの詩の世界に通ずるものがあるような気がする。一方、「積つた雪」の詩に冬の厳しい風土を想像できない。北陸から東北、北海道へと日本海を北上すればこうした詩が生まれてこないかもしれないとも思う。山陰長門仙崎の街は、それほど厳しい冬ではないのだろう。そうした分析の前に、みすずの精神性が、雪にでも寄せる優しさを内包しているということなのであろうか。それは、逆にみすずの人として満たされない日々の寂しさと無関係ではないともいえる。
金子みすずにもう少し触れてみたい。生まれたのは、明治三六年。父は、庄之助、母はミチで兄と弟がいた。本名はテル。父親は、ミチの妹の嫁ぎ先の上山文英堂書店の清国支店長であった。その父親もみすず三歳の時に他界。一家は、仙崎に帰り金子文英堂を営むことになる。その建物は、今も仙崎の街に残っていた。みすずの詩の才能を生んだ背景には、幼い時から書に親しむ環境のあった事が想像できる。大津高等女学校に入学することになるが、成績は優秀であった。二〇歳の時、下関に移り住み、この頃から童謡を書き始め、投稿した詩が西條八十に認められることとなる。
 昭和元年二三歳の時、宮本啓喜と結婚。宮本とは、上山文英堂に勤めたことによる縁であった。後に、宮本と養父松蔵との仲が悪くなり、離婚の引き金となる。この年に、一子ふさえが誕生。ふさえは現在も健在であり、みすずは、二六歳で三歳の幼子を残して世を去ったのである。カルモチン服毒自殺であった。下関亀山八幡宮近くの写真館で最後の写真を撮り、その翌日死んだ。白衣のドレスを自ら整え、それを身に纏って死んだ、群馬武尊山の麓川場村の歌人江口きちを連想させる。
 おおいなるこの静けさや天地の
          時誤またず雀鳴く
きちの辞世の歌である。便箋に綺麗に書かれた直筆のこの歌を先年、川場村歴史民俗資料館で見たが、カルモチン服毒後の朝、薄れ行くであろう意識の中で詠んだとは思われなかった。大自然の営みをこれほどに感じるのであれば、何故に自ら死を選ぶことがあろうかと強い哀惜の念を持った。
みすずは、どんな心境で旅立ったのだろうか。遺書が残されていた。夫に対してである。
「あなたが次に結婚しても、ふうちゃん(ふさえ)には心の糧を与えられないでしょう。だから必ず私の母に預けてください」
という一文であった。仏壇にあった便箋書きの遺書を偶然ふさえは、女学校二年の時に見たのである。だから、ふさえは、母親は、愛なくして自分を産んだと思っていた。近年、多くのみすずの詩が世に出ることになり、その考えは、百八十度変わったという。
仙崎は、人口に比して寺の多い町である。みすずの墓地は、みすず通りを海辺に向かって進み、通りに面した遍照寺の一画にある。いつも花が絶えることが無いらしくその日も供養の生花がみずみずしかった。銀杏の大木があった。
 
 仙崎に接するかのように青海島がある。周囲四〇キロほどの広さをもつ島である。日本海の荒波に洗われ、奇岩のある景勝地として国定公園になっている。島一周の船が出ていて、約一時間半で島巡りができる。多くの釣り人が岩に立って糸を垂れていた。みさごという嘴の長い鳥が岩山の頂上に巣を作っているのが目に入った。
ここに素朴な疑問がある。こうした大きくもない島に五〇〇〇人もの住民が暮らしているということだが、いったい水はどのようにして得ているのだろうか。生活に必要な水は、はたして沢のような所、あるいは井戸を掘って得られるのだろうかという疑問である。幼稚な疑問ではある。
仙崎の宿は民宿であったが、夕食は豪華であった。近くのスーパーからふぐとイカの刺身を買い、名産の蒲鉾、特にアゴ(トビウオ)の蒲鉾が美味である。土産物屋で買い入れておいたふぐのひれ酒は格別で至福の時間を与えてくれた。
同宿の友曰く「主婦は、普段家計を助けるために、少しでも安く良いものを買おうとするが、旅に出るとその感覚が麻痺してしまう」というのは至言である。そこへいくと、我々の今宵の夕食メニューは、旅の知恵、男の冷静さというところであろうか。下関でふぐ料理のフルコースを食べられなかった反動でもある。朝食は、民宿のメニューだったが、生簀に泳ぐイカが活け造りとしてこの地の売り物と知り、後悔の念が少し沸いた。 
   *     *     * 
 仙崎駅から長門駅までは一区間である。日本一短い線かもしれない。もちろんワンマンで本数もきわめて少ない。山陽本線のイメージがあるためか、山陰本線も複線かと思いきや沿線には冬枯れた草が刈られずに残り単線であったのが意外であった。萩までの列車も二両連結で運転手は一人であった。しかも若く、一駅一駅ごとの慎重に乗客の乗り降り、信号や機器の確認をする様が印象的であった。                   
 
 萩に近づくにつれ小雨はやみ、古き城下町の落ち着いた町並みが視野に入る。萩市は江戸時代、長州藩三六万石の城下町であった。安芸の国、現在の広島県の小さな城主であった毛利元就は、中国地方の大半を戦国時代に勢力化にいれたが、関が原の戦いを境に毛利氏は、防長二州に移付されたのである。多くの藩士は、家禄が減らされてもこの地に移り住んだ。百姓と同じように田畑を耕し、生活をつないできた。江戸時代、この藩の武士の比率は他藩よりも高かったはずである。徳川二五〇年、藩士の家々では、東に足を向けて寝るという習慣が守られてきた。東とは、徳川幕府である。そうした精神風土の中から吉田松陰は生まれてきた。松下村塾という小さな教場から明治維新を起こした有為な人材が輩出された。松蔭は、国粋主義者であるという人がいる。それは、第二次世界大戦後のイデオロギーによる見方であろう。戦前の教科書に盛んに引用され、軍国主義の高揚に利用された反動もある。吉田松陰は確かに憂国の人であった。神国日本という体質もあったことも事実。しかし、国を愛するということが、いつから不自然と思うようになったのであろうか。私と公があるとすれば、まずは公を愛することが人の道だと思う。日本は駄目だ。政治家が悪い。そのように言うのは簡単である。今から一五〇年前に、身を省みず、日本の国難に立ち上がった人物がいたのである。家族の愛に恵まれ、友を愛し、教え子を愛した私心の極めて少ない人物が松蔭であった。松下村塾に学ぶ者は、互いに助け合い、上下もなく学んだという。松蔭に権威的要素はなかった。野山獄に投獄された時も全てが仲間であった。一瞬一瞬の生を大事にしたのである。弟子の高杉晋作が師を評して言ったように政治的には過激過ぎたかもしれない。浦賀沖に黒船が到来した時に海外渡航を企てたりした。その行為が死罪とも知りつつ。海外を見聞し、その先進技術、知識を身に付けることが国を守ることだと思ったからである。和魂洋才という言葉があるが、西洋の纏が必要だと考えたのである。
 かくすればかくなるものとは知りながら
          やむにやまれぬ大和魂
 死を決意しての行動というものは簡単にできるものではない。この松蔭の歌は少なからず赤穂浪士の討ち入りを意識しているが、大和魂とは、もともとは、「もののあわれを知るこころ」のことである。平安時代の源氏物語にも書かれているくらいだから、極めて女性的で社交上の色合いの強い言葉であった。それが、いつから勇ましい意味合いになったのだろうか。
 敷島の大和心を人問わば
        朝日に匂う山桜花
 本居宣長の歌に勇ましさはない。清純な雰囲気がある。
 松蔭は、純粋培養の人と評したのは司馬遼太郎である。人間の真心がどういうものかを、生涯の行動をもって示したのが吉田松陰ではなかったかと思うのである。松蔭神社の周辺をタクシーで足早に廻ったが、田で叔父玉木文之進の厳しい教育を受けている幼き寅次郎(松蔭)の姿を見たような気がした。
 時雨きて維新に殉ず志士の墓
萩の市街地にある喫茶店「俗塵庵サワモト」の澤本良秋さんには会えなかった。我が家には二〇数年前に萩を旅した時のスナップがある。当時五〇代後半であった澤本さんも今年八二歳になった。奥様に萩焼きの器でコーヒーをいただいたがうまかった。奥様は、我々の関係を知らない。旅から帰ると一通のはがきが届いていた。旅立ちの直前に出した喪中はがきに気づき年賀はがきの投函をやめたこと、父へのお悔やみ、私とのご縁を何かしら感じていることなどが丁寧に綴ってあった。年賀状のやりとりを初対面の日から二〇年以上に亘って続けていたのである。ご縁というものはそういうものであろう。ご長寿を願い、またお会いできる機会があることを願うばかりである。
 
 萩駅から再び山陰本線で北上する。益田市を過ぎ三日目の宿は、温泉津である。ゆのつと読む。古びた温泉街である。野口雨情の歌碑があった。旅館のひとから聞くところによれば、この街の民家の二割が江戸時代の建物、八割が戦前の建物というから、最近の建物はほとんどないということになる。石見銀山の湯治場や北前船の寄港地として江戸時代にぎわった街だというが現在では秘境秘湯の地と思われた。温泉津の湯は、狸が見つけたというが湯量は少ない。その日の夜、裏山から本物の狸が六・七匹集まってきたのにはビックリした。仲居さんが、食事が終わった頃
「狸が来ています」
というので窓を開けるとそのとおりであった。随分と血色の良い狸で我々の残り物を当然のようにもらって食べていた。翌朝窓を開けたが狸の気配はない。昨夜の出来事は、夢の中のことのように思えた。
   *     *     *
 温泉津から松江まで列車で約二時間、同行の友が乗り合わせた老婦人にウニの事を盛んに尋ねている。そういえば旅先でウニにこだわっていたことを思い出した。
「今は、バフンウニの時期ではなく紫ウニの時期ですよ。十二月から四月にかけて紫ウニが獲れます」        
そして、息子が運輸省に勤めているなどとも話し、彼の方は、住所を教えるから獲れたウニを送ってほしいなどと親しく話している。さすが元旅行社勤めの人だと感心した。
松江からはレンタカーを借りた。松江城を見て小泉八雲の記念館を見学する。お堀に沿った武家屋敷の一郭にあり、家並みが綺麗である。八雲が晩婚であったことを知る。ギリシャに生まれ、ヨーロッパやアメリカに住んだ八雲が日本に憧れ帰化したことが不思議である。国を超えて惹かれるものがあるのである。
 
 島根出雲地方は、神々の国。出雲大社が代表的な神社であるが、熊野大社に詣でることにした。大国主命の父であるスサノオノミコトを祀る神社である。この近くには、八重垣神社もある。
 八雲立つ出雲八重垣妻ごみに
         八重垣作るその八重垣を  
古事記に登場する我が国最初の歌といわれるこの歌は、結婚を祝す歌である。相手はクシナダ姫である。壮大な歌である。古来から神道は、男女二神である。素朴といえば素朴であるが真実であろうと思う。愛しき者は、男からすれば女、女からすれば男、真に愛しくあるかが問題である。
熊野大社から出雲大社までは、約八〇キロ。信号も少ない山あいの道を走り、約一時間半でたどり着く。出雲大社に近づくにつれて暗雲が覆い、風花が舞いだす。左前方の空が少し明るくなったと思うと陽の光が矢のように地上を照らし始めた。その荘厳さ、絶妙のタイミングに旅のフィナーレにふさわしい光景が与えられた。
神無月は、出雲では神有月である。十二月となり地方から来た神々は既に帰ってしまっている。氷雨交じりの雪も降ってきて夕方近く人数も少ない。
 
 出雲大社の社殿は、熊野大社のそれよりも古くまた雄大である。古代の社殿の後が発掘され、想像図によれば、高さは、約五〇メートルで東大寺の大仏殿より高い。社殿まで階段がまさに天に登るようにして建てられていた。国造家は、千家氏である。くにのみやつこと読む。「年の初めのためしとて」で始まる正月の歌は、明治初期に国造であった千家某氏の作詞だという。
 古くあり高き社に氷雨降る
旅の目的は十分に達成できたという想いが沸々とこみあげてきた。皇后陛下の御話が小冊子で無料配布になっているのを旅の最後の土産とした。
  

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2013年04月23日

『春の雲』安芸と瀬戸内の旅

安芸と瀬戸内の旅
 今宵、尾道白樺美術館で「智恵子抄」を聴く夕べが催される。白樺美術館は、山梨県の清春美術館と姉妹館で、智恵子の絵画を所蔵している。白樺派、特に武者小路実篤が絵の収集に熱心で、ルオーの絵が展示されている。当日、智恵子の絵を掛けて歌曲「智恵子抄」を聴くという贅沢なコンサートであったが、手違いでその趣向は実現されなかった。
 歌は、二期会会員で津和野出身の声楽家、田中誠が歌った。音楽プロデュウサーの滝澤隆さんと羽田から広島空港までの機中横に座り言葉を交わす。大柄な人で、声量の必要な声楽家にふさわしい体躯をしていた。野口雨情の作詞「赤い靴」の詩が生まれた経緯を話すと興味深く耳を傾ける。童謡「赤い靴」のモデルになった少女が、実の両親やアメリカに帰った養父母の宣教師夫妻に看取られることもなく、東京の孤児院で結核で死んだのであるが、雨情は、そのことを知らなかった。それで「横浜の波止場から船に乗って異人さんにつれられて行っちゃた」となったこと、彼も知らなかったらしく
「そうですか:::」
と深く頷いた。
 伴奏のピアノと詩の朗読は、塚田佳男。田中さんとは対照的に小柄だが、骨格がしっかりしている。東京芸術大学声楽科の出身で、同期には池辺晋一郎がいる。群馬県生まれで、高崎高校の先輩ではあるが初対面である。新幹線の尾道駅から主催者の運転する車でホテルまで乗り合わせることになった。

「智恵子抄」は、高村光太郎の作品。父親は、高村光雲で、親子二代の彫刻家でもある。上野の西郷隆盛の像や、日比谷公園の楠正成の像は光雲作である。十和田湖畔に立つ裸婦像は、光太郎晩年の作品であるが、最愛の妻智恵子の死後の作品は、心の深まりを感じさせるという評価が定着している。三〇代の前半に奥入瀬、十和田へ旅した時その像を見た。紅葉の美しい秋で、ヒメマス料理の味と重なってよく覚えている。智恵子の面影を強く意識して作ったのだろうと思った。
 光太郎と智恵子が結婚したのは、大正三年、光太郎三二歳、智恵子二九歳の時であった。智恵子は絵を学び、無口で、怜悧で、ユーモアを解する心の強い女性であったという。光太郎がひかれたのは、芸術を深く理解し合える確信があったからである。また、自分の分身のようにも思えた。実際、生涯その信頼は、智恵子が精神の病を患っても変わらなかった。その心の奇跡を綴った詩が「智恵子抄」である。智恵子がどうして発病したのかは詳しくは知らない。一説には、智恵子の実家、長沼家が破産し、一家離散となったことが大きな引き金となったということである。昭和六年、智恵子四六歳の時精神異常の徴候が現れた。光太郎が、紀行文を依頼され三陸地方に旅行し、一ヵ月近く家をあけたその留守のことであった。
「智恵子抄」で好きな詩は、幸せだった頃を回想した「樹下の二人」と臨終の場を描写した「レモン哀歌」である。
樹下の二人
  ―みちのくの安達が原の二本松
    松の根かたに人立てる見ゆ―
あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。

かうやって言葉すくなに座ってゐると、
うっとりねむるやうな頭の中に、
ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡
ります。
この大きな冬のはじめの山の中に、
あなたと二人静かに燃えて手を組んでゐるよろこびを、
下を見てゐるあの白い雲にかくすのは止しましせう。
以下詩は続くが省略する。
冬の小春日和、二人は、智恵子の実家の見える裏山の崖の上で、言葉少なに阿多々羅山や阿武隈川を見入っている。手を組んだ智恵子のぬくもりが、遠い過去の幸せだったその日を忘れさせないでいる。
 レモン哀歌
そんなにもあなたはレモンを待ってゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとった一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱっとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑う
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういう命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓でしたような深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まった
写真の前に挿した桜の花かげに
レモンを今日も置かう

 レモンと死、それは智恵子の清純な心を連想させるとともに二人のこの世のわかれにふさわしい荘厳な高貴な香りを漂わせている。看取る光太郎のやさしさがかなしく伝わってくる。
 秋の夜、尾道白樺美術館で聴く歌曲「智恵子抄」の調べは重かった。愛する智恵子との永別の後に作った詩だから悲壮感すら伝わってくる。友人を尾道の駅に見送るために残念ながら「レモン哀歌」は聴けなかった。またの機会があるだろう。
 
 尾道市は、海辺に沿って長く、山側に家々が石垣を積み重ねて建てられている。当然、坂道を登ることになるが、階段で上がるほどの急坂である。著名な文人がこの地を愛し、滞在し、生活した。『暗夜行路』の志賀直哉、『放浪記』の林芙美子、歌人の中村憲吉などの旧宅もその山の斜面に残っている。今では、文学記念館となって、文学ファンや観光客が訪れている。高台からの眺めは良く、芙美子が執筆していた部屋からは瀬戸の海や島々が見える。作家がこの地を選ぶのもわかるような気がする。中村憲吉などは、斎藤茂吉や土屋文明などに療養の場所として勧められたのだから、気候も人に優しいのだろう。小津安二郎監督が製作した「東京物語」の老夫婦が暮らした町でもあるが、町並みはかなり変わっている。
 対岸は向島で、島までの距離はごく近い。近年、尾道市から四国の今治市へのしまなみ海道が開通した。島々を大橋で結んでいるが、島民や観光客に便利を与えているのだろうか。島と島を結ぶのは、船が便利なような気がする。港は限られていても旅では船のほうが小回りがきく。高速船などを使うと目的地まで結構早く行ける。車社会を前提とした大型公共事業だが、その投資に見合った経済効果があるのだろうか。橋は、尾道側から向島、因島、生口島、大三島、伯方島、大島という瀬戸内海でも比較的大きな島を飛び石のようにしてかかっている。近代的吊橋で白く勇壮である。
 
 このあたりの島々は、戦国時代に活躍した村上水軍の拠点となったところである。源平の合戦にもこの地の人は、軍船を操作するのに加わったと思われる。水上戦では、武士同士が戦うのであって、漕ぎ手は殺傷してはいけないルールがあったが、源義経は、それを破って戦いを有利にし、平氏を滅ぼしたという説がある。
 
 生口島は、日本画家の平山郁夫の生まれた島である。平成になって平山郁夫美術館が建てられた。天皇皇后両陛下もご来館されている。道を挟み、隣には耕三寺がある。西の日光といわれている。日光東照宮にある陽明門に模した建物があって、そうした俗称となっている。その他、京都宇治の平等院、奈良室生寺の五重の塔を真似た建物もあるが、けばけばしさを感じた。一大テーマパークという感じである。大阪で富を築いた耕三寺耕三という人が母親の供養のために建てた私寺であったが、今では宗教法人となって東本願寺派の寺となっている。彼は俳句に通じ、「さいかち」の同人であった。主宰していたのは、松野自得という僧で群馬の人である。その門下に、高崎の人で秋池百峰という俳人がいた。私はこの方から俳句の手ほどきを受けている。
境内の大理石でできた垣根に句誌「さいかち」の人たちの句が印されていたが秋池先生の句もあった。故人となっている。
 
 平山郁夫のことに戻る。中学生の頃のスケッチや絵が展示されていたが、素人の絵を超えている。武者の絵などは下絵の写生なのだろうが、驚くほどに緻密に描かれている。その中学生時代に、平山少年は、勤労学徒として広島市で原爆を体験したのである。被爆した場所から生家のある生口島を目指し一心不乱に歩き続け、途中のどの渇きを耐え、被爆した水を飲まなかったことが今日の平山郁夫の生を全うさせたと随想『生かされて生きる』に書かれている。原爆の絵は一枚しか書いていない。広島の町が燃えて、真っ赤な空に不動明王の存在をほのかに描いてある絵である。彼の絵がまだ評価されなかった頃、ベトナム戦争があり、和平の気運が高まる世相にあって、原爆体験者の平山郁夫に原爆をテーマにした絵を書く誘惑があった。でも、それをしなかったのは、死んで行った多くの人々への想いがあったからだと言っている。平山郁夫が広く世に訴え、認められていくことになった作品は、「仏教伝来」である。三蔵法師で知られる玄装三蔵への思慕と畏敬は、シルクロードを幾度となく旅させることになった。
 大三島は、生口島と隣り合わせの島である。しまなみ海道多々羅大橋で結ばれている。大三島は、伊予の国、愛媛県である。生口島の瀬戸田港から大三島の宮浦港までは船はない。バスを乗り継ぐことになるが、国宝の武具があるというので足を伸ばすことになった。
 
 大山祇神社の敷地内に国宝館があり、名だたる武将の太刀や鎧が陳列されている。源義経、静御前、武蔵坊弁慶、山中鹿之助、村上義清の名が目に留まる。大太刀は驚く程の長さである。二メートルくらいは有にあり、実戦で使われたたのであろうかと疑うほどの長さである。大三島のジャンヌダルク“鶴姫”着用の鎧が残されている。胸のあたりが歪曲し、まさに、女性の鎧を思わせる。女性用の鎧としては、現存する日本唯一の貴重なものであるという。
  義経の太刀見し後の秋の風
 タクシーで瀬戸田港に戻り、コインロッカーに預けたバックを取り出し、高速船で三原に上陸。適当な新幹線がないので在来線に乗る。この道中、運転免許証を紛失。後ろポケットに入れておいたのを座席に置き去りにしたらしい。それに気づいた善意な方が、宮島に近い宮内串戸駅の駅員に届けてくれた。四回目の紛失届をおかげで出さなくてすんだ。
 
 広島市には、夕方に着いた。平和資料記念館の閉館は、五時半となっている。タクシーをひろって念願の平和記念公園にたどり着いた。入館の受付で六時まで見学してもよいという。陽は西の空にまだ残り、平和公園周辺を撮りたい気持ちがあったが、記念館を優先した。原正男先生が死を迎えたのは、まさにこの平和公園に戦没者の追悼集会が開かれていた時である。それから一年たって、今その場所にいる。原先生の追悼集、遺稿集を編集し終えて、この地を踏むことになったのは、先生の霊に導かれてきたようなものである。
昭和二〇年八月六日午前八時過ぎ、よく晴れた広島市の上空に達したB29爆撃機(エノラゲイ)より投下された原爆は、市の中心部の地上約五〇〇メートルで炸裂、一瞬のうちに町を破壊したのである。その中心地に近くに、原爆ドームの建物があり、保存されている。あの悪夢の日を思い出させるこの建物の保存は、被爆を経験し、家族を失った人々にとって、胸中は複雑なものがあったに違いない。崩れ落ちた建物の壁や、鉄筋が曲がった様子も当時のままである。原爆ドームだけが現在へタイムスリップしているようで、仲秋の夕陽に照らされるドームの肌の色合いがなんとも悲哀の情感を起こさせた。
 
 江田島は、厳島神社のある宮島とともに広島湾に浮かぶ比較的大きな島である。かつて、海軍兵学校があり、今は海上自衛隊の教育機関として、当時の建物は変わらず使われている。明治二六年に建てられた、レンガ造りの建物は、外壁が磨かれ、秋晴れに映えてつい最近竣工したように見えた。レンガは、一〇〇年以上前、油紙に包まれてイギリスから運ばれてきた。設計もイギリス人であった。海軍兵学校から巣立った軍人の三割は、戦地に散った。日清戦争、日露戦争、第一次大戦、満州事変から太平洋戦争までの十五年戦争がいやおうなく彼らの生を飲み込んで行った。海軍兵学校を目指した青年は、その時代の最高位の頭脳をもった人材が多く、なべて愛国心に溢れていた。海軍は、創設の頃イギリス海軍を模範とした。ために、イギリスの“ジェントルマン”の思想が兵学校の教育に採り入れられた。海軍兵学校に“五省”という教育スローガンがある。
 一.至誠に悖(もと)るなかりしか
 二.言行に愧(は)づるなかりしか
 三.気力に欠くるなかりしか
 四.努力に憾み(うらみ)なかりしか
 五・不精に亘るなかりしか
 日本古来の武士道も、海軍兵学校の卒業生の気骨として残っている。それを証明しているのが、資料館に残されている多くの遺品である。旅順港閉塞作戦に戦死した軍神広瀬中佐、日本海海戦を圧倒的勝利に導いた東郷元帥。訓練中、潜水艇の故障で部下とともに殉職した佐久間艇長。空気の薄れて行く中で懸命に書き記したメモ、それは、夏目漱石も絶賛したように、人間の尊厳を考えさせられるもので、久しくその場を動けなかった。
太平洋戦争中、母艦と運命を共にした山口多聞提督。沈み行く船を部下が離れる時、
「長官、何かおっしゃることは」
と尋ねると
「これでも持って行ってくれ」
と手渡された形見の帽子があった。実に潔い最期である。死に臨む態度は、その人の人生の価値をよく示している。
 真珠湾攻撃に特殊潜航艇で出撃した岩佐中佐の写真があった。前橋市の出身で軍神となったが、童顔でどことなく親しみ安さと、眼の涼しさを感じさせた。
 軍神の眼涼しく天高し
江田島の小用港から対岸の呉にフェリーで行く。所要時間は約二十分。途中自衛艦二隻とすれ違う。呉港が近づくと、進行方向右手に石川島播磨重工のドッグがあり、大型タンカーが赤と紺の二層に塗られた船体を休めていた。この港から戦艦大和は出港して行ったし、戦艦陸奥の悲劇の爆沈もこのあたりの海域だったことを想像してみた。
呉市は、散策せずそのまま呉線に乗って竹原市を目指す。最後の目的地である。原正男追悼集と遺稿集のお礼を直接申し上げたかったからである。右手に海、左手に山が迫り、ひらかれた田園風景は見られなかった。竹原市に入ると稲穂の実った秋の田が、午後の日差しを受けてところどころに見られた。竹原は、古い町並みが残っていて、頼山陽や池田勇人を生んだ街としても知られている。忠海には五時少し過ぎに着いた。広島空港の便が六時半なので長居はできない。駅には、聖恵授産所の桝川さんが待っていてくれた。電話をしていなかったが、本数も少ないから到着予定時間に合わせて待っていてくれたのである。経営母体がキリスト教であることとは無関係ではないと思うが、本の編集の時と同様に誠実な対応そのものだった。川崎所長ご夫妻に会い、少し見学して記念写真をとってそのまま桝川さんに空港まで送ってもらった。
「お土産は、旅の果てのこと、手ぶらでなしです。でも明日くらいには榛名の名産の梨が届くと思います」
この冗談、はたして通じたろうか。
  

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2013年04月22日

『春の雲』後藤静香生地、竹田市への旅

後藤静香生地、竹田市への旅
 後藤静香(ごとうせいこう)は、明治十七年に大分県竹田市の近く大野郡中井田村(現在は大野町)に生まれた。後藤家は代々庄屋として広い土地を所有していた。静香の父親成美(なるみ)は、岡藩の禄二〇〇石の武家から養子にきた人である。後藤静香は、東京高等師範を卒業後、長崎高等女学校などに赴任し、蓮沼門三の創設した修養団の運動に参加した後、社会教育団体希望社を創設した。昭和の初期には、社友百万人を超えたともいわれる全国的組織に発展し、その中から多くの有為の人材が生まれた。静香の思想は、青年時代に影響を受けたキリスト教の素地の上に、静香独自の感性により、孔子や洪自誠の『菜根譚』の思想もとりいれながら、静香自身の言葉で綴られた、『権威』によって表わされている。詩とも言えず、教訓集とも言えない文章であるが、不思議と人を引き付けるものがある。静香自身は、思想家という以上に実践家であった。それ以上に人格的な魅力に富んだ人物であった。社会教育団体「心の家」は、後藤静香に触れ、かつその思想を深く学び続けている人々の集まりである。会員の高齢化が進み、全国組織から地方組織に移行したが、静香の死後三〇数年継続されていることは特筆できる。
 
 社会教育団体「心の家」の代表理事をされていたのが、弁護士の磯崎良誉氏である。磯崎先生は、明治生まれで九十歳に近い高齢である。
「『新生』(社会福祉法人の広報誌)の増刊で、後藤静香の思想を発行したいのですが、その前に是非後藤静香の生地を訪ねてみたいのです」と話すと、
「春暖かくなったら一緒におともしましょう」
ということになった。静香生地には、昭和三十三年に碑が建てられ、近くにその碑を守るように、宮地公一さんという方が住んでいて、磯崎先生は、こまめに連絡をとって、手紙で何度か旅のスケジュールを書き送ってくださった。高齢の大先生におともしてもらうのは話が全く逆である。自分ひとりでと思っていたのが、意外な展開になってしまった。今度は、こちらが同行者を心配することになったが、その心配は、旅先で杞憂であったことを知らされた。
 磯崎先生は、東京文京区に在住で、羽田空港で待ち合わせすることになった。空港ロビーに小柄な先生が現れた。たった一人、家族の見送りはない。時々榛名山の麓にある別荘に送ることがあるが、何時もひとりである。食料も買って自分で料理して食べる。何事も自分でできることは自分でする。磯崎先生に限らず、後藤静香門下の人にはこういう人が多い。静香の思想とは無関係ではない。後藤静香は、生活についてのこまごまとしたことを述べていて、「住まいの中で一番大事にしたいところは寝室である」という見解には同感である。
 羽田空港から大分空港までは、二時間もかからない。大分空港は、国東半島の一角にあって、大分市まではかなりの距離である。バスで別府駅まで一時間以上かかった。法律の話から、文学、特に短歌、もちろん後藤静香についてと磯崎先生との話に飽きることはなかった。別府駅から竹田駅までのJRの車内もいろいろお話できて、車窓からの風景はあまり記憶に残っていない。
 豊後竹田は、山あいの小さな町だが、市街地をくねるようにして大野川が流れている。観光都市ではあるが、大きなホテルは岩城屋ホテル一軒である。磯崎先生は、静香生誕の地を訪ねる時の常宿としているとのこと。夕暮れにはまだ時間があるので、市内を散策することにした。
「私が案内しましょう」
私とは、米寿を過ぎた弁護士先生のことである。岡城址までいくつもりである。ホテルからは地図で見ると数キロはある。タクシーを頼んで行ったほうがと言いかける前に先生は歩き出してしまった。途中、子供に行き先を確かめたりして先導役に徹している。大分行きを話したとき「私がご案内しましょう」ということが現実になってしまった。明治の人の健脚にただ脱帽、ただ唖然。
 
 「荒城の月」、「花」などの作曲で知られる滝廉太郎は、竹田市の生まれである。生家が記念館として残されている。滝廉太郎の生涯は三〇年に満たないが、不滅の名作を残した。滝家からは建築家も出ている。廉太郎の叔父で、滝大吉という。明治の建築史に名前が出てくる人物である。
 荒城の君旧宅に初音きく
鶯の鳴き方は、春浅くまだ上手くない。やがて、聞き惚れるほどの美声に変わるのも時間の問題である。荒城の君とは廉太郎のことだが、荒城とはこれから訪ねようとしている岡城址のことである。「荒城の月」の作詞は土井晩翠で仙台の人である。伊達政宗がかつて君臨した青葉城をイメージして晩翠は、詞を作ったのかもしれない。二人は、生涯直接顔を合わせることはなかった。
 
 岡城址は典型的な山城である。歴史は古く一一八五年に緒方三郎惟栄(これよし)という人物が源義経を迎えるために築城したという伝承があるほどに歴史は古い。その後中川氏によって明治まで城郭を維持してきたが、明治政府の方針で明治四年にとり壊された。滝廉太郎の見た岡城は既に廃墟、まさに荒城であった。廃藩置県、版籍奉還によって武士の社会は崩壊した。武士社会の象徴である城も内乱の元だとして解体したのだろうが、文化的遺産と考えれば誠に損失ではあった、城内には、桜が多く植えられていたが、まだ開花には早かった。竹田市内から岡城址までは山道で、城址公園の受付からはかなり急な石段であった。明治の人は、もちろん同行した。二の丸があったところに滝廉太郎の像があり、記念写真を撮る。高い石垣の下は地獄谷、清水谷の深い谷になっている。反対側は、白滝川が断崖の下を流れている。まさに、外敵からは難攻不落の城を想わせる。
 糸桜偲ぶ横笛山城に
帰路、広瀬神社の前を通る。石段が高い。時間的にも遅くなっていたし、この階段を上りましょうとは言えない。明治の軍神広瀬中佐を祀っている。広瀬中佐は竹田の出身である。戦死する前に、故郷を訪れ講演している。後藤静香十七歳の時にあたる明治三十五年のことで、もしかすると軍神の肉声を聞いているのかもしれない。
 岩城屋ホテルからタクシーで大野町に向かう。地理的には、竹田市から別府方面に十数キロ戻ることになる。運転手に行き先を告げてあるが、行けども行けども山の道という感じで少し不安になった頃、宮地さんのバイクが目に留まった。宮地さんの案内で「権威の碑」のある後藤静香の生地を踏むことができた。杉山が迫り、竹薮も近い。立派な石碑に後藤静香の権威の一節、「民族の素質」が刻まれていた。桜が少し咲いていて、昨日より鶯が上手に鳴いた。遠来の客をもてなしてくれたのだろう。
 後藤家の墓地にも行く。大変な山道で雑木林の奥にあった。墓石は有田焼の陶器が表面を覆い、紺色の見事な墓だった。墓石も多く後藤家が庄屋として長く続いてきたことを物語っていた。磯崎先生は、静香の生地の近くに小さな池がないかとしきりに宮地さんに尋ねていた。磯崎先生は、「心の家」の代表理事ばかりでなく機関紙「希望だより」を発行していた。旅から帰りしばらくして、新たに東京近辺の静香ゆかりの人たちの集まり、東京清交会の代表になり、機関紙「波紋」を創刊した。静香が幼いときに見た原風景を見ようと思ったのである。ここまで想いを深め、想像力をもたねば恩師の思想に近づけないものかと敬服した。私を高齢にもかかわらず、九州まで案内してくださったのも、身をもって後藤静香の思想を伝えようとされたのだとしか思えない。このことは、ご本人には聞けない。謙虚な先生のことだから、笑って
 「そんなことはありませんよ」
と答えるに違いない。
  宮地公一さん宅で、大野町で特別養護老人ホーム偕生園を運営している山中博文理事長に会う。郷土の生んだ偉人後藤静香を敬愛する一人で、隣町の緒方町の町長は、山中さんの息子さんである。かつて日本一若い町長とマスコミに取り上げられたことがあったらしい。アイデアマンで、町の真ん中を川が流れていて、規模は小さいながらナイアガラの滝を想わせる場所がある。その場所に物産展やイベント広場を作り、その周囲の土地に一面チューリップを植えて観光客を集めている。町長さんには会えなかった。
 
 山中さんの友人で、故人となったが吉田嗣義という特別養護老人ホーム任運荘を運営し、「オムツ随時交換」で全国的に名を知られ、毎日社会福祉顕彰を受章した人がいた。下村湖人に学び、後藤静香門下で日本点字図書館の専務理事をしていた加藤善徳(故人)と親交があった人物である。良寛さんを尊敬した人で任運荘の名の由来は「任運騰々」からとった。老人福祉事業界では論客で著名な人だった。宮地さんに遺稿「任運騰々」をいただいたが、こんなところで吉田氏のことを聞くとは思わなかった。この旅では、宮地さんと山中さんに大変お世話になってしまった。お昼をごちそうになったり、駅まで送ってもらったり、老人施設も案内してもらった。
 その日の夕方、別府港から関西汽船の大型フェリーに乗って大阪港まで行く。一等室で夕食つきでしかも交通費も含まれていることを考えると安いものである。これも磯崎先生のアドバイスによる。時間があれば船も良い。
  

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2013年04月21日

『春の雲』金印発見の島、志賀島

金印発見の島、志賀島
 福岡市の沖合に志賀島はある。砂洲が近くまで延びていて、車でも行ける。当日は、福岡港から小型船で渡る。初春の博多湾は、船の切る波のしぶきが、窓をうつほどに凪いではいなかった。湾を抜ければ玄界灘で、日本海を北上すれば対馬に至る。明治三十九年、日露戦争の日本海海戦で、東郷平八郎率いる連合艦隊に敗れたバルチック艦隊は、この海域を通過していった。 
 志賀島は、周囲数キロの小さな島である。島の頂上あたりに灯台があったが、その日は曇っていて、冷たい海風が吹いていた。当然、対馬の島影も見えない。東映映画社の配給する映画の冒頭に海岸の岩を波が洗うシーンがあって、東映のシンボルにもなっている。この島の北東岸にその場所があった。教えられなければ通り過ぎてしまうほどの特別な海岸風景でもない。とりわけ観光地ともいうべき所ではない志賀島を訪ねたのは、この島が、古代、中国の皇帝から授けられた金の印章が発見された島だったからである。
 

 江戸時代、この島の農民が、農作業している時に偶然発見された。金製で、奴国王と刻まれていた。このあたりを支配していた勢力者に与えられた金印で、卑弥呼の邪馬台国の時代に近い。中国の古文書に記されていた内容と一致し、史実となった。考古学ブームの現代でなくも、当時としても大変な発見であったと思う。発見された場所は、金印公園となっているが、道路から石段を登った丘の中腹にあって、簡単な説明が表示されているだけである。
近くは海岸である。蒙古塚というのがあって、元寇の時、台風にあって遭難し、この島に流れ着いた元軍の兵士を弔った場所である。兵士の多くは、朝鮮半島の人達であったと井上靖の小説『風濤』に書かれている。長く大国中国王朝の属国として、近代を迎えた朝鮮民族の悲哀が描かれている。朝鮮、とりわけ李王朝は、儒教を中国からとりいれ、本国以上に儒教の国になった。
儒教の祖は、孔子である。井上靖に『孔子』の労作がある。宗教家ではないが、東洋が生んだ傑出した思想家であり、哲人である。彼の思想が、政治に取り入れられたことが、功であったか罪であったか議論の別れるところだろう。儒教は、為政者にとっては、都合が良かった。特に身分社会であった封建時代には、その傾向が強い。朱子学のような、形式的体系になると、それだけで人間の暮らしや、精神が雁字搦めになる。韓国は、李王朝が長く儒教を政治の根幹にとりいれたために、その名残がいまも人々の慣習の中に根付いている。韓国では同姓の間では原則ではあるが、婚姻が認められない。ただ出身地が違っていれば可能だというのだが、日本では考えられない。「いとこ同士は鴨の味」などという表現は、少し下品だが、近親婚でなければ、結婚に形式的な制約はない。目上の人を尊重するのは良いが、成人した人間がそうした人の前で煙草も吸わないというのも極端である。成長した人間の規範は、外側から規制されるのではなく、自らの心に宿した規範によるものでなければならない。孔子は、そう思ったに違いないが、国の乱れた春秋戦国時代にあって、我が思想を盛んに諸国に君主に宣伝したのも確かのようである。彼の教えというか境地は、教育の題材として今日少しも色褪せてはいない。思想というものは、それを生み出した人の想いとは別に一人歩きするものだということがいえる。
日本は、孔子の思想も取り入れたが、固執することはなかった。古来からこの国は浮気者で、そのときそのときによいと思ったことを身に纏う。ただ生身はそのままにして。その生身が何かということだが、それを日本の風土が生んだもの、あるいは神道だとは言わないが、心理学者のアドラーが言った集団的無意識のように永く養われたこの国の人の気分のようなものだと思う。
 

 志賀島の蒙古塚に、朝鮮民族の歴史を思い巡らし、儒教の思想に私観を述べたが、元寇のあった鎌倉時代、北条時宗の時世に想いを馳せる。海に囲まれ、国そのものを他国から支配されることのなかった日本が、初めて国家間の防衛戦争を経験したのである。元軍の船団は、対馬を容易く攻め落とし九州本土を目指した。博多の沿岸に上陸し、当時発明されていた火薬を武器にし、しかも集団としての戦い方は、当時一対一の戦いをルールとしていた鎌倉武士には不利で苦戦を強いられた。一時は、大宰府付近まで進出されたという。
日本に幸運であったのは、季節が秋だったということである。台風の季節である。沖合の軍船に帰った元軍は、その風雨の中、荒波にのまれ多くが水死した。
それは、神意による風、神風と言われ太平洋戦争という思い上がりの戦争に、不幸な戦法を生んだ。神風特別攻撃隊である。国家が個人にこのような戦法を強制することは、文明国であれば野蛮そのものである。個人が自ら公である国、愛する家族、同胞を守るために身を捧げることは尊いことかもしれないが、国家が個人に死んでくれとは言えない。発案者であった大西中将もそのことは知っていた。形式はあくまで自ら志願したという形をとったが、実際には強制といってよかった。終戦の日、大西中将は自決して責任をとるのだが、あまりにも悲劇である。
はるばる海を渡って、この戦に駆り出された元軍の兵士の亡骸が志賀島にたどりついたのであろう。その人々を、敵とはいえ、手厚く葬ったこの島の人の行為は人道に沿っている。
蒙古塚雲居は割れて鳥雲に
海を見やると、わずかに雲間から薄日がさしていて、そして数羽の鳥が飛んでいくのが見えた。肉体は、志賀島の岸辺に朽ちても、魂は祖国に帰っていく。春になって、北帰する鳥を兵士の化身とまでは思わなくても、自然に渡り鳥に合掌する自分があった。
  

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2013年04月21日

『春の雲』土佐そして九州佐賀への旅

土佐そして九州佐賀への旅
 

 南国土佐を旅するのはこれが二度目である。前回は、職員旅行で、本州からは、瀬戸大橋を渡って四国に入ったが、今回は、羽田空港から高知空港への高知直行の空の便である。
 高知県の人口は約八〇万人。他県に比べて少ない。そのうちの約三〇万人が高知市に集まっている。病院が極めて多く医療が充実している。北海道の札幌も病院が多く、冬になると高齢者の入院の比率が高くなるということを聞いたことがある。
 土佐と言えば、はりまや橋と桂浜、そして坂本竜馬を思い浮かべる。桂浜には竜馬の像があってなかなかの巨像である。全国の竜馬ファンの募金も含まれているらしい。国民的人気が没後一〇〇年以上になっても衰えないのは彼の人なりにある。
竜馬の人生は三〇数年にすぎない。京都河原町にあった近江屋で友人中岡慎太郎とともに刺客によって暗殺された。薩長同盟も竜馬の仲介がなかったらできなかっただろうと多くの史家は考えている。司馬遼太郎が描いた竜馬像が好きだ。
 京都二条城で、徳川慶喜が朝廷に大政奉還をするのだが、竜馬にとっては、政敵である慶喜に対して「よくぞやった」という思いがこみあげ、感涙に及ぼうとする場面がある。周りには倒幕派の志士がいる中である。言葉に出したら竜馬といえども斬られていたかもしれない。竜馬にとって大事なのは、日本という国の行く末だった。新しい政治体制が整えば、世界に向けて商売をしたいとも考えていた。このエピソードに竜馬の人としてのスケールの大きさを感じる。三菱を創設した岩崎弥太郎も土佐の人である。西南戦争のとき、船で政府側の物資を運んで財をなしたというが、経済人としての竜馬の影響がある。
 「船中八策」という、新政府の青写真を竜馬が船上で書いた草案がある。閣僚ともいうべき政府のスタッフの中に竜馬の名前が無いのでどうしてかと尋ねると
「わしゃあ、世界の海援隊でもやろうかいな」
と答えたというのである。海援隊とは、長崎で竜馬が創った商社の事である。俳優武田鉄矢は、竜馬が好きで自分のバンドに同じ名前を付けた。欲がないと言っても政治的野心のことであるが、地位や名誉にこだわらないところが竜馬の人気の秘密なのだろう。剣をとっては、江戸千葉道場の塾頭であり、商売の才もあり、政治のビジョンがあって人徳もあるといったらモテナイ訳が無い。
本邦で最初の新婚旅行は、坂本竜馬夫妻という説すらある。奥さんは、京都伏見の寺田屋で風呂から裸で飛び出して、幕府の追っ手が来たのを知らせ、竜馬の窮地を救ったお竜(りょう)さんである。旅行先は九州霧島の温泉で、西郷隆盛のはからいであったという。
 少し、坂本竜馬に深入りした。竜馬の生家は才谷屋といって武士というよりは商人に近い。市電の走る道沿いに碑が建てられているだけで、家は無い。近くに才谷屋という喫茶店があったがただ名前をつけただけであろう。幕末の土佐藩の武士には、他藩にない身分差があった。上士と郷士とに別れていた。もちろん上士が上で、後藤象二郎や板垣退助は上士であった。土佐勤皇党の首領で月形半平太として戯曲化された武市半平太や坂本竜馬は郷士の身分であった。郷士は藩の重職には就けないだけでなく、辛い差別があった。
 徳川幕府の成立以前、四国の大半を制覇したのは長宋我部(ちょうそかべ)氏であったが、関が原の戦いで西軍に組みしたがために、土佐は、静岡掛川の小大名であった山内家が支配する地となった。殿様よりその奥方が有名になった山内一豊以来、武士の中に上下の差別ができた。山内家の家臣を上士といい、長宗我部氏の家臣は郷士となった。勤皇思想は、主に郷士の中に生まれた。
倒幕の雄藩であった長州藩や薩摩藩は、藩主から家臣まで、徳川家には苦汁をなめさせられた。土佐は、違っていた。このあたりが、土佐の特殊な事情である。
 土佐の人は頭が良いと言われている。方言としての言葉も日本語にない明晰さがあるという。太平洋戦争でシンガポールを攻めた山下奉文大将は敵将にイエスかノーかと迫ったというが、白黒がはっきりしているのが土佐人の言葉使いの特徴である。山下大将も高知の出身である。「いごっそう」、「はちきん」は、土佐の典型的な男女に使われる言葉である。南国土佐の明るい風土と無関係ではないと思う。この地の人は豪放磊落、実に屈託がない。社交的でもある。外交官から戦後長く首相を務めた吉田茂は高知県人である。
「総理の活力のもとはなんですか」
と記者から聞かれ
「人を食っているからさ」
こういうジョークはなかなか出てくるものではない。
 頭の良さといえば、思想家や学者では、ルソーの翻訳で有名な中江兆民は、土佐の人である。
「中江のおにいさん、煙草を買って来てつかわさい」
と坂本竜馬から幼い時頼まれたことを終生忘れなかったという。夏目漱石の弟子で、物理学者の寺田寅彦は高知市に生まれた。生家を訪ねたが平屋の立派な家で庭は後年整備されたのだろうが民家としては、広い庭園になっている。寺田寅彦は、随筆家としても著名で、科学者の書いた文章には良いものが多いように思う。雪の結晶を人工的につくった中谷宇吉郎の随筆も良い。彼は石川県の人である。一九九九年が生誕一〇〇年ということで、加賀温泉に春雨会(数学者岡潔ゆかりの人の集まりで、毎年命日近くに春雨忌を開き、奈良新薬師寺に近い次女松原さおりさん宅に集まっている)の人達と「中谷宇吉郎・冶宇二郎兄弟展」を見に行った。弟冶宇二郎は考古学者であったが、若くしてなくなった。パリ留学時代、多変数函数の分野で多くの発見をしたことにより文化勲章を受けた数学者岡潔と親交があった。弟も筆がたった。
 高知県には土佐鶴という越の酒に劣らない地酒があって、さはち料理には欠かせないお酒になっている。日本酒は寒い土地ほど美味いと思っていたが、そうではなかった。灘の酒は、個人的には好んで飲まないが、江戸時代には江戸の町の人間を酔わせたと言ってよい銘酒も寒地の酒ではない。その土地の水が多分に影響しているのであろうか。鉄分が少ないほど良い酒ができると、元禄時代から倉渕村で、造り酒屋をしている牧野酒造のご主人に聞いたことがある。
 高知市には一泊して、翌日土讃線で瀬戸大橋を渡り岡山駅まで行く。旅に出ると何かを紛失するが、今回は九州の旅行ガイドブックを駅に置き忘れてしまった。また本屋で買えばよいのだが、大事なメモが書いてあった。本に自分の名前を書いてあるわけでもないから、拾った人はゴミ箱にでも捨ててくれるだろう。岡山駅から山陽新幹線に乗り換えて博多をめざす。福岡市は、九州の首都のような町であるが、市街地は博多と呼ばれている。恥ずかしい話だが、瀬戸内海の伯方と博多の音が同じなので、伯方の塩は博多の塩だと思っていた。黒田藩の城下町であるが、商港としても栄えた街で、その名残が博多という地名を今に残している。日本は海に囲まれた国。港は交通の要所となる。大阪市に近い堺港もそうであるように博多もしかりである。俵屋宗達という商人の名が浮かぶが、人物の詳細は知らない。福岡市に宿をとるのはこれが四度目になるが、ここを起点にして九州の各地を旅した。柳川、久留米、鳥栖、大宰府、志賀の島、学生時代には鹿児島まで行った。明日は、佐賀へと旅立つ。吉野ヶ里、そして佐賀市へと。
 

邪馬台国が北九州か近畿かという古代史論争は今をもって終着していない。それが明らかにならないところにロマンがある。吉野ヶ里遺跡は、今は佐賀平野の内陸にあるが、当時は海辺の近くにあった。というよりは、海が近づいていたという言い方が正しい。駅からは、区画整理された田園地帯になっていて、道は舗装されている。途中、赤米(古代米)が植えてある田があった。穂は充分に実り刈り入れは近い。
吉野ヶ里平成の世を秋津飛ぶ
この日は、秋とはいえ暑い日であった。当時の建物を再現したその影に涼しさはあるが、強い紫外線が降り注いでいた。雑草は、観光客に踏みつけられ哀れですらある。多くの弥生人が生活したであろう吉野ケ里遺跡は、平成という時代に旅する人の一時の場所に過ぎない。
 佐賀市は、吉野ヶ里から一〇数キロの距離である。タクシーに乗ることにした。運転手に聞いた話では、近年佐賀空港ができたが利用する人が少ないという。佐賀という県は不思議な県である。江戸時代には、鹿児島薩摩藩と同様に二重鎖国の藩であった。藩主は鍋島氏である。藩の外との交易や、人的な交流といったものを禁じ、日本は、長崎の出島にオランダと中国二カ国に貿易を許し、他の国々との国家的関係を閉ざした。二重鎖国とはそういう意味である。
 江戸時代の佐賀藩は、豊かというよりは貧しかったと言ってよい。藩内の民、特に農民はよく働いた。「佐賀者の行く後に草はない」という言葉を聞いたことがある。田園の草は肥料にし、山の枯れ木は燃料とした。一方、武士は学問に精を出した。優秀でなければ、藩から高禄で登用されないからである。国を閉ざすということは、異質な文化に触れることがない。経済的には自国(藩)という狭い中での流通は、自給自足に近い。学問を深めるといっても観念的になりやすい。葉隠れの思想は佐賀藩に生まれたが、良くも悪くも鎖国の国の匂いがする。しかし、佐賀藩の教育水準の高さと伝統が、明治になって大隈重信や江藤新平などの政治家を生んだ。明治政府というのは、財政基盤も弱く、法体制もなく、足早に西洋諸国から模倣に近いかたちで取り入れざるをなく、倒幕雄藩である薩摩・長州・土佐には官僚的政治家が殆どいなかった。つまり、政治の実務ができる人材がいなかったのである。江藤新平は司法の分野で、大隈は経済の分野でというふうに。大隈重信の国家観は「日本は法治国家である」という認識を明治の始めにもっていたことである。「日本は武士の高潔さを生んだ儒教の国、農本主義の国」だという西郷隆盛などとは国家建設のビジョンが違っていた。江藤新平は佐賀の乱に刑死し、大隈重信は、一時は下野しても明治政府の要職を務めた。早稲田大学の創立者でもある。
 曼珠沙華大隈公に義足あり
大隈記念館で義足を見たが、それほどの感慨もない。爆弾を投げつけられ、足を負傷し、そのために足を切断し義足で長命を保ったのは立派には違いないが、その足を床の間に置いて来客に語るのを常としたというのは悪趣味に近い。
 日本陸軍の創始者といわれる大村益次郎が、刺客に遭い、足に受けた傷がもとで死ぬのだが、手術が遅れたためで、彼が明治政府の高官であったために役所の許可が必要だから手遅れになったというのであるがつまらない話である。高位なる者の体にメスを入れてはいけないというのは全くの形式論である。大隈の足などは地に一刻も早く返すべきであって、大村の足などはさっさと切断(きる)べきであった。皮肉なことだが、大村は、百姓出の医者であった。
 

 佐賀城は、平城であるが、城内は広い。その一部しか見られなかったが、なにか佐賀藩の城として納得するところがあった。城門が大きく、記念写真を撮ったら人物が小さくなってしまった。佐賀県の隣は、長崎県である。この県にはいまだ足を踏み入れたことがない。
  

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2013年04月21日

『春の雲』下関周辺、柳川への旅

下関周辺、柳川への旅
幕末、明治維新の先鋒となった藩の一つが長州藩である。下関市街地の隣が長府で、ここに江戸時代、長州藩の支藩である長府藩庁があった。下関は、長府藩に属していた。商港として栄え、この町が産んだ富が倒幕を支えたであろうことは想像に易い。
赤間神宮の神官、青田國男氏とは二十年来の知己である。横笛の名手で、岡潔の供養の集い「春雨忌」の墓前で吹くその音色は、実に清々しい。人柄も清く、憂国の士そのものである。長州男児の体質を感じる。そのご縁でこの地を踏むことになった。


 真っ先に訪ねてみたいところがあった。功山寺である。昭和五十二年にNHK大河ドラマ「花神」(司馬遼太郎原作)を見て以来、雪の功山寺を馬に乗って、一人明治維新の義挙ともいうべき行動を起こした高杉晋作のことが忘れられなかったからである。都落ちしていた三条実美らの公家にその意思を告げるためだったというが、彼は、その時「長州男児の心意気をお見せしましょう」と言ったという。
九月、山門に至るモミジは緑を失っていなかったが、門をくぐると晋作の騎馬像が右手にあった。識見あり、詩才あり、行動力あり、その発想も破天荒で革命児にふさわしい。三十年に満たない人生を思い切り駆け抜けたという感じである。自分にないものを持つ人には憧れを持つものである。功山寺境内には長府博物館があって、この地の歴史資料館となっている。坂本龍馬の書簡があった。山際には墓地があり、かつての領主であった大内氏の墓もある。家臣陶氏に滅ぼされたが、陶氏も毛利元就に宮島での戦いで滅びる。栄枯盛衰である。
功山寺にほど近いところに乃木神社がある。日本では人を神にするが、近代になって乃木将軍ほど祀られる人を知らない。東京、京都桃山、四国松山、一時隠遁生活を送った栃木那須にもある。生家を見たが小さな家であった。押入れに入れるはずの寝具が、天井に吊るされている。それほどに狭い。軍人としては無能であったと酷評する史家もいるが、忠君愛国はこの人のためにあるような言葉である。殉死は、江戸期より久しくなかったが、静子夫人とともに明治天皇の大葬の夜、自決したことは、明治の人には衝撃であった。夏目漱石に『こころ』を書かせている。

うつ志世を神さりましゝ大君の
みあと志たひて我はゆくなり
(希典)
 出てましてかへります日のなしときく 
けふの御幸に逢ふそかなしき
(静子)
乃木将軍六十四歳、静子夫人五十四歳であった。遺児はない。二人の男児があったが、ともに日露戦争で戦死した。乃木神社の近くに忌宮神社がある。神功皇后ゆかりの古い宮である。
この夜は、仲秋の名月が見られる日で、青田さんに観月の宴に招かれた。巫女の舞を豊功神社で見た。下関の内海が眺められる高台にあり、月はなかったが満珠、干珠の島影が見えた。
無月なれど満珠干珠の島の影
 その日の二次会は、行政書士、警察官の某氏と青田さんとで、ふぐ料理を食べながらおおいに談じた。ホテルまで送ってもらったが、フロントで自分の部屋が思い出せないくらい酔いが廻っていた。
 翌日、赤間神宮に参拝し、豊功神社に瓦を奉納して、青田さんの友人である平田誠一郎さんに車で高杉晋作の墓のある東行庵に案内してもらった。下関からは、約一時間ほどの距離にある。高杉の墓はそれほど大きくない。どうしてこの地を墓所としたかは、高杉が死の直前に「吉田へ・・」と呟いたからだという。師である吉田松陰のもとへととれたが、彼の創設した奇兵隊の本営のあった吉田郷清水山となったといういきさつがある。
 平田さんには、新下関駅まで送ってもらった。平田さんは、参議院選挙に立候補したが、残念ながら当選を果たせなかった。彼も青田さんに似て国士という感じがした。
 

 夕方、博多駅に着く。群馬県に住み、さすが福岡県には縁が薄いが、学生時代からの友人がいる。久しぶりの再会である。卒業から四半世紀近く経つが、逢えば一瞬に心が通じる。不思議なものだ。ビルの屋上で月見酒ができた。博多名物、屋台のラーメンも食べられた。時間は経ち、空間も変わり、それぞれの空の下で人と交わり生きてきた。ただ、思い出だけは二人の中に残っている。生活空間の中だけで人生が完結していないところが、人間社会の素晴らしいところだ。人生という旅で、行き会う人との一期一会を大切にしたいと思った。
 ホテルまで荷物を持ってもらったが、エスカレーターの前を行く友の肩に、再会までの人生ドラマを見たような気がして、そっと肩に手を掛け
「大変だったね」と一言。
 あくまで想像の世界。人は、親子、兄弟、友達であっても皆違う世界に生きている。ただ心だけは通わせることができる。ただそれだけのことである。
 翌日、西鉄で菅原道真を祀る大宰府天満宮を参拝する。この旅、神社へお参りすることが多くなった。意図した訳ではないがそうなった。道真公の歴史的な資料は持ち合わせていない。この地に左遷されてきたこと。学問の神様として後世崇拝されていること。そして
 東風吹かば匂いおこせよ梅の花
  主なしとて春な忘れそ
 の歌を詠んでいる。左遷というのは、いつの時代にもある。そのことを嘆くのもよし。発憤するもよし。ただ心のままにということであろう。


 柳川は、水郷の町でもあり、文学の香りのする街である。北原白秋の存在が大きい。『火宅の人』を書いた壇一雄の墓所がある。女優壇ふみの父親である。無頼派と言われ、太宰治らとも親しかった。読売新聞に書いていた壇ふみの父親評が面白かった。作家として世に認められた父ではあったが、酒と愛人に明け暮れた人生に翻弄された「火宅」の一員である娘は、
「あれだけ生きたいように生きられた人には、もう『おめでとう』と言うしかありません」
と達観し、そして
「人は一人で生まれてきて一人で死んでゆく。でも、人を愛せずにはいられない。そのテーマで人生を文学にしたのが父だと思います」
娘も人生を深く見つめる歳になった。
酒と言えば、太宰治ら弟子にもてはやされた、井伏鱒二の漢詩「勸酒」(干武陵)の名訳を思い浮かべたくなる。壇一雄もその詩を口ずさみながら文人仲間で文学論、人生論を談じた光景をふと柳川に来て想像した。
原作は、五言絶句で
勸君金屈巵  満酌不須辞  花発多風雨
人生足別離
〈この酒づきを受けてくれ
 どうぞなみなみつがしておくれ
 花に嵐の喩えもあるぞ
 「サヨナラ」だけが人生だ〉
平易な訳に見えるが、なかなか奥行きと味わいがある。最後の「サヨナラだけが人生だ」のところの余韻に魅せられて、太宰などは本当に自らの人生を絶ってしまった。壇一雄だったら「(人間なんて欲望さ)サヨナラだけが人生だ」と付け加えたに違いない。娘壇ふみが言うように自分という存在を知ってほしいという愛の尽きることのない希求者には、キリスト的愛を語ったり、行為したりするのは、うっすらと感じていても気恥ずかしかったのではないだろうか。京都清水寺管主として百歳を越える長寿であった大西良慶は、人間の欲望を薦めてはいないが否定はしなかった。人生一筋縄ではいかない。
残暑の中、一本の竹竿で船を漕ぐ船頭さんの技術は素晴らしい。行き交う船に乗る見知らぬ人と言葉を交わす。船もゆるやかに時もゆるやかにながれている。船にトンボがとまっている。つがいである。
つがいトンボしばし小舟の客となる
石造りの川べりには、桃色の貝がこびりついている。田螺の種類らしい。この川は、有明海に続いている。柳川といえば泥鰌である。昔は、田舎の小川にはどこでもいた魚だが、あまり見かけなくなった。今は、獲る人もいない。泥鰌鍋は、ゴボウや葱に卵を入れて食べるのだがなかなか美味である。泥臭いという人もいるが、素朴な味がする。その日は、うなぎを昼飯にした。柳川のうな重は、蒸篭で蒸したもので、柔らかさがあって上品な味がした。
久留米市に立ち寄り、石橋美術館を見る。前から見たいと思っていた絵がある。坂本繁二郎の馬の絵である。輪郭は、はっきりしないがなんとも淡い絵で、やすらぎを感じる。優しさもある。坂本画伯の人柄が顕われているのだろう。同級生に青木繁がいる。男たちが大きな魚を担いで浜辺らしきところを歩いている絵は有名である。古事記をモチーフにした絵もある。男性的で、坂本繁二郎とは対照的である。どちらがということより、好きづきというところであろう。黒田清輝の絵も展示されていた。
その夜の宿は、福岡ドームの隣にあるシーホークホテルである。なかなかデラックスなホテルだが、それほど高い宿泊料でもない。博多湾の夜景が眺望できるレストランで、中華料理を友人と楽しむ。気分も良かったのか、老酒六百ミリリットルを一人で空けると
「結構いけますね」
なかば呆れられた感じで、友の方は、ビール中ビンでかなりきつそうである。学生時代はかなり行けた口と思っていたが、これも時の流れによる変化である。昨日から今日一日、久しぶりの再会とはいえよくつきあってもらった。博多の町の夜景は美しかった。
街の灯のひとつひとつの夜長かな
家々の灯りの中に、まだ見知らぬ人々の暮らしがある。芭蕉の句で
秋深き隣は何をする人ぞ
というのがある。そんな気分に似ている。自分は、世の人と隔絶して生きているわけではなく、ご縁があれば、親しくできる同世代に生きているという意味で一種の懐かしさの感情すら起きる。
芥川龍之介は、この芭蕉の句に寂しさを感じたという。彼は自我の強い人だったから、隣は他人と感じた。しかも秋はものがなしい季節だとも思った。孤独と言う感情は、一人でいることにより生まれるのではなく、一人だと思うその人の心の中に生まれてくるのだろう。芥川の友達は、彼を慰めるために来訪し、楽しい宴を持つと、その時だけは芥川の寂しさは紛れるのだが、友達が去ると前にも増した孤独感が彼を襲った。彼の晩年は、そんな心理的状況だったという。
君看よや双眸の色語らざれば憂いなきに似たり
他人の魂に敏感すぎるほどの感受性をもった芥川の好きな言葉である。誰の作か定かではないが、良寛さんだったであろうか。
友人を送り、その夜はエキゾチックな部屋で安眠ができた。 (平成九年九月十九日)
  

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2013年04月21日

『春の雲』(拙著)

 21世紀になった年を期に紀行文を書こうと思い立った。本のタイトルはと考えた時、四季を意識つつ、自然界の風光のようなものが良いだろうと考えて「春の雲」とした。冬までたどり着ければと4巻で完結しようと考えていたが、今日に至ってみると、8巻となり、四季を二めぐりしたことになる。後で気がついたのだが、「春の雲」は、私の尊敬する数学者の岡潔の随想集と同じになっている。この当時、この随想集の存在を知らなかった。不思議なスタートになった。部数は、200部にして、友人知己に謹呈させていただいた。良く稿正したつもりだが、誤字や内容の不備もあり、今回修正しつつ、写真など入れながらブログの特権を生かして掲載しようと思う。先ずは、目次をご覧いただくことにしたい。

『春の雲』目次
下関周辺、柳川の旅
土佐そして九州佐賀へ
金印発見の島、志賀島
後藤静香の生地、竹田への旅
安芸と瀬戸内の旅
長州から出雲への旅
我が師、そして古都奈良
長崎への旅
薩摩への旅
南紀白浜、難波から奈良へ
信州佐久平
原正男先生の遠景
後記
  

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2013年04月20日

法律門外漢のたわごと(健康保険法③)


国民年金の保険料の未納ということはあっても、よほどのことがない限り医療保険料は払うものです。けれども、職がなかったりして収入がない時は、その支払いも困難なことがあります。少し景気が上向いて、雇用の機会が増えているかもしれませんが、未就労の若者が多いようです。このような場合、親が会社勤務している場合は、子供を扶養にして健康保険に加入させることができます。いつどんなケガや病気になるかはわかりません。成人している子供を扶養しているというのも社会的に格好の良いこととは言えませんが、家族だからこそのセーフティーネットという事でしょう。
子供の場合、世帯を同じくしていなくても、収入が130万円未満であれば可能ですが、親や兄弟の場合は、少し条件が違ってきます。詳しいことは、健康保険法の「被扶養者」についての説明を読んでみてください。
  

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2013年04月19日

心に浮かぶ歌・句・そして詩114

 あれを見よ 深山の奥に花ぞ咲く 真心つくせ人知らずとも
山桜を詠んだ歌として心に浮かぶ歌になっている。古歌であるらしいが、誰が詠んだかわからない。本来の人間の生き方に思えてならない。良い歌である。春、碓氷峠の高速道路を走っているとこの歌が浮かんでくる。
  

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2013年04月18日

心に浮かぶ歌・句・そして詩113




朧月夜
1. 菜の花畠に、入日薄れ、
見わたす山の端(は)、霞ふかし。
春風そよふく、空を見れば、
夕月かかりて、にほひ淡し。
2. 里わの火影(ほかげ)も、森の色も、
田中の小路をたどる人も、
蛙(かはづ)のなくねも、かねの音も、
さながら霞める朧月夜。
高野辰之作詞の文部省唱歌である。故郷、紅葉も彼の作品だが、良く歌われている。高野の生地は、長野県で記念館もある。数年前に友人と訪ねたことがある。紀行に書いている。一部抜粋して掲載する。

善光寺平の春
長野県民だけでなく、多くの日本人に愛されて歌われている曲がある。「故郷(ふるさと)」である。作詞は高野辰之で、長野県豊田村(高野が生れた明治九年は永田村、平成の合併で中野市になった)の出身である。高野の生地は、長野盆地の北の端、飯山市にも近く、山村と言って良い場所である。高野が学んだ、永田小学校の跡地に記念館が建てられている。五月の連休を利用して行ったのだが、古木の桜が散り始め、菜の花が咲く頃で、飯山から野沢温泉にも繋がる国道には菜の花が途切れることなく植えられ、鮮やかに咲いていた。千曲川が沿って流れ、後方の山々には残雪があった。
『ふるさとを創った男』というタイトルの本を書いた猪瀬直樹も長野県の出身である。猪瀬は、良く高野の足跡を取材して書いている。歌というものは、曲は知っていても、誰が作曲したとか作詞は誰かということには関心がいかないものだ。「故郷」は文部省唱歌として音楽の教科書に載ったとき、作詞、作曲共に作者の名前は書かれていなかった。「紅葉」、「春の小川」、「春が来た」、「朧月夜」は、文部省唱歌であり、高野辰之が作詞した。作曲したのは、全て岡野貞一である。岡野は、鳥取県の人で東京音楽学校(現在の東京芸術大学の前身)の教授であった。文部省から高野と同様に、唱歌の編纂委員を委嘱されたために、コンビを組むことになったのである。
高野辰之については、後に詳しく触れたいと思うが、岡野貞一という人は、敬虔なクリスチャンで、謹厳実直という言葉がピッタリの人物だった。また、高野辰之記念館で購入した資料には、「右手のしたことを左手に伝えない人柄」という、クリスチャンの岡野にふさわしい軽妙な人物評があった。対照的に、高野という人物は、立身の志は、充分あったし、豪放磊落に近いところもあり、岡野が寡黙であったのと対極的に、弁舌巧みで、聴衆を話に引き込ませる能力があったという。
二人が世に出した名曲を良く聴いてみると、岡野の清潔で、純粋な魂が響いてくるような気がするし、高野の郷土の山河への愛着が詞の中に溢れていて、しかも自然の豊かさを子供にもわかるように表現されている。「故郷」や「朧月夜」の表現は、やや古文調ではあるが、当時の小学生であれば、充分理解できたのではないだろうか。ただ、「春の小川」は、東京、代々木に流れていた小川のスケッチから生れたと言われているが、やはり幼き日に過ごした郷里の風景が情景になっているのだろう。
高野辰之の生家は、記念館の近くに残っている。立派な塀に囲まれ、屋敷の中を覗いたわけではないが、庭木も丹念に手入れされ、蔵もあり、屋敷も大きい。現在、高野の末裔が住まいにしていると聞いたが、高野辰之には実子はなかったので、養子夫婦の子孫の家なのであろう。道路から見えるところに高野辰之博士の生家と書かれた標識があったが、何か気の毒な感じがした。
高野の生家は、農家であったが決して貧しくはなかった。父親は、仲右衛門と言い、小布施の豪農商であり、佐久間象山とも親交もあり、高齢の葛飾北斎を招いた教養人で知られている高井鴻山が晩年開いていた塾に学んでいたという。父親の教養と知識の影響は、大きかった。
高野辰之は、尋常高等小学校を卒業すると母校の永田尋常小学校の代用教員になる。十四歳の時である。今日で言えば、中学を卒業した少年が小学生を教えるということだが、誰もがなれるわけではない。十七歳で代用教員をやめ、長野師範学校に進む。同窓には、アララギ派の歌人島木赤彦がいた。教員となり、赴任した飯山市(当時は飯山町)の真宗寺の住職の三女井上つる枝と結婚する。この時、つる枝の父親は、
「将来、この山門を偉い人物になって故郷に錦を飾るくらいの人物でなければ、娘はやれない」と言ったと、猪瀬直樹はその著書に書いている。この寺は、島崎藤村の『破戒』に出てくる寺でもある。〝末は博士か大臣か〟というのは、地方の親が持つ子供への期待であり、学問のできた子供は、志を立てたのである。唱歌「故郷」の
「こころざしをはたして、いつの日にか帰らん」
というのは、まさに若き高野自身の正直な決意だったのである。四十九歳の時、『日本歌謡史』によって、東京帝国大学から博士号を送られ、〝こころざしをはたす〟ことになった。
 高野は、若い時から古典文学への関心が強く、とりわけ近松門左衛門の浄瑠璃の世界に魅了された。当時の国文学では本流の研究分野ではなかった。長野師範学校に勤務しながらも、研究は続けられた。その方法は、丹念に古文書を実証的に調べていくことであった。作家円地文子の父親である、当時東京帝国大学の教授で文学博士であった上田萬年(かずとし)に師事しながら教職を辞し、上京するのである。高野が〝こころざしをはたす〟ことができたのは、実力もさることながら、上田博士の後ろ盾があったからである。
 高野辰之は、その研究内容からすれば、国文学者ということになる。たまたま、唱歌の作詞者として後世に名を残す事になったが、本望であったかどうか。晩年は、野沢温泉村に対雲山荘という別荘を持ち、悠々自適な日々を過ごした。誕生地の記念館とは別に、村営の「おぼろ月夜館」があって、高野の業績を伝えている。建物の中には、高野の書斎が復元され、斑山文庫の額が掛けてある。斑山は高野の号であり、豊田村に近い斑尾山からとったものである。信州人は山が好きである。
  

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2013年04月17日

高山彦九郎

 


 寛政の三大奇人の一人とされている。他の二人は林子平と蒲生君平である。どこが奇人なのかわからないのだが、今中国との領土問題で尖閣列島が問題視されているが、彼らが今生きていたら、憂国の士として声高に国土保全の狼煙を上げたかもしれない。
 高山彦九郎は、群馬県の出身。現在の行政区でいうと太田市である。記念館もあるらしい。勤王の思想家で、幕府から危険視され、九州の久留米で自刃した。高山彦九郎には、京都で会ったことがある。といっても銅像である。三条の橋の近くにあって、膝まづいて御所に向かい拝礼している。上毛カルタでも郷土の偉人として候補に上がったが、戦後間もない頃だったので、進駐軍の意見で没になった。
 高山彦九郎は、幕末の志士に大きな影響を与えている。過日、長州の人(山口県、下関市)に会ったら高山彦九郎の話が出た。関心があるらしい。群馬の人間ではなく、他県の人が関心を持つ高山彦九郎の記念館を訪ねてみようと思えてきた。資料は、長州の人に送ってあげようと思っている。
  

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2013年04月16日

上毛カルタ

 


 群馬県には「上毛カルタ」というものがある。中心になって製作したのは、二松学舎大学の学長を務めた浦野匡彦という人。戦後まもない、昭和22年のことで歴史は古い。カルタ取りの県の大会もあるので、子供達は暗記してしまう。成人して、他郷で県人会ができれば、「上毛カルタ」で盛り上がれるかもしれない。
 群馬県ゆかりの人物も登場するが、「天下の義人茂左衛門」というのがある。江戸時代の沼田藩の農民で、藩主の悪政を直訴したため、妻子ともに磔になった人である。同じ磔になった国定忠治は登場しない。子供達が、替え読みして「天下の義人ドラえもん」など詠んで笑っている。
 44枚、「あ」から「わ」まで暗証はしていないが、好きな札がある。それは、「世のちり洗う四万温泉」という札で、還暦になって初めて温泉宿に泊まることができた。街中にも表札があって、なるほどそのとおりだと感心した。
  

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2013年04月15日

『群馬のキリスト者たち』

『群馬のキリスト者たち』 山下智子編著 聖公会出版 1800円+税
 

 4月12日の山下氏の講演の後購入。著者がサインしてくれた。名前の他に「平和愛好の聖徒」の文字を書き入れた。その聖徒とは、新島襄、内村鑑三、湯浅治郎、柏木義円、深澤利重、不破唯次郎、周再賜、山村暮鳥、コンウォール・リーである。新島襄、内村鑑三は、上毛カルタに取り上げられている人物。明治、大正期の代表的なキリスト者である。「平和の使い新島襄」と「心の灯台内村鑑三」は、逆であっても良いのではというコメントがあったが、言われてみればそうである。良心を強調したのは新島襄であり、内村鑑三は、非戦論で知られているからである。しかし、このように上毛カルタに表現された背景には須田清基という牧師の願いがあった。柏木義円から洗礼を受け、良心的兵役拒否をした人である。
  写真がたくさん載っていて、明治、大正、昭和の群馬でのキリスト教の歩みを知ることができる。「平和愛好の聖徒」のうち湯浅治郎、柏木義円、周再賜に関心を寄せた。3人に共通するのは、地に足が着いているという表現が適当かわからないが、そんな感じがした。湯浅治郎についてだけ紹介すると、新島襄の死後、同志社は、財政的な危機があった。湯浅は、国会議員をやめ、無給で同志社の運営に関わった。その間、稼業は息子に譲り、息子の仕送りと株とで過ごしたという。つまり、息子にただ家督を譲ったのではなく、買い取らせたのである。妻の甥にあたる蘇峰には援助もしている。高い理想をかかげ、それを実現させる情熱を形に、継続させる資質が湯浅治郎にはあった。山本覚馬という存在もそうであるように、同志社は、新島だけの功績というわけではない。しかし、こうした人材を引き付ける新島襄の人そのものは、かけがえのないものであったことは否定できない。
  

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2013年04月14日

湯浅家の人々

  


 安中市は、新島襄とゆかりのある町である。新島襄が安中藩士だったからである。新島襄の伝道により、キリスト教信者となる人々が多く出て、今も安中教会を拠点に信仰生活を送っている。とりわけ、熱心な信者として、新島襄の同志社の基礎作りに貢献した人物がいる。湯浅治郎という。実業家であり、政治家であった人で、その末裔が今も安中市に有田屋という醤油醸造業を営んでいる。湯浅治郎は子だくさんで、二人の妻に10数人の子供をもうけている。最初の妻の中に湯浅一郎という画家がいる。次男の湯浅三郎が有田屋を継いだ。後妻の子に湯浅八郎がいる。母親は、徳富蘇峰、蘆花の姉である。同志社大学の総長、国際キリスト教大学の初代総長となった人である。
 湯浅八郎氏とは、最晩年にお会いし、講演を聴くことができた。90歳近かったが細身で小柄な体から信じられない程の情熱と理想がほとばしる話に感動した記憶が残っている。その模様を記事にしたものがあるが、どこかにしまい忘れている。見つかったら、御紹介したいと考えている。
 先に紹介した有田屋の3代目の当主は、湯浅正次さんと言って安中市長をされていた。平成2年に市長室で取材をさせていただいた。穏和な方で、心良く取材に応じてくれた。「八重の桜」が放映されている今日、湯浅家の人々が脳裏に浮かんできた。
 取材記事の一部から、湯浅家と安中市を垣間見ていただきたい。

「首長に聴く」    安中市 湯浅正次市長  平成元年12月
 近隣市町村の首長を訪ねるのも今回が最後。12月25日クリスマスの日、湯浅安中市長に聴いた。
 湯浅市政になって久しい。湯浅家といえば、名門である。明治の政治家湯浅治郎は、湯浅市長の祖父にあたり、国際キリスト教大学初代総長の湯浅八郎、画家の湯浅一郎はおじになる。自身も醤油醸造の老舗有田屋の当主である。そうした血筋の良さと、新島襄が安中に蒔いたキリスト教に深い理解を持つクリスチャンとしての人格に、市民の信望が厚い。
 安中市は、人口約4万6千人。中山道の杉並木で名高いように、古くから宿場町であったが、江戸時代は城下町でもあった。徳川末期に、藩主板倉勝明が出て、おおいに文武を振興したために、明治に入り文教の町となる基礎が築かれた。新島学園は、キリスト教主義による教育を進めている。湯浅市長は、良き理解者と聞く。安中教会は、大正期に建てられたが、海老名弾正や柏木義円といった人たちが熱心に伝道を行った。また文化人としては大手拓次が有名である。現在では、画壇では小林良曹氏、北村真氏、俳壇では堀口星眠氏といった人々の名が聞こえてくる。・・・・・・・以下略
  

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