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2013年11月30日

『侘助』(拙著)小さな大人(たいじん)(下)

 
 渋沢栄一の誕生は、一八四〇年である。天保十一年で幕末には成人している。西郷隆盛、大久保利通、坂本龍馬、福沢諭吉といった人々とそれほど年齢は違っていない。九十一歳という長寿に恵まれ、昭和の初期まで実業界で活躍した。渋沢の生まれた家は、火災で焼失したが、明治二十八年に再建され、母屋、副屋、土蔵、門などとともに残っている。豪農としての屋敷の風格があり、見学することもできる。
 
 この屋敷は、「中の家」(なかんち)と呼ばれている。父親の元助は、渋沢家の本家筋にある「東の家」から婿養子となった人物で、「中の家」を隆盛に導く商才があった。養蚕や藍玉の製造と販売、質屋業も手がけた。少年栄一も藍の買い出しを任され、大人顔負けの取引をした。少年時代から利発であった。母親のえいは、ライ患者の娘を、平気で世話する人であった。後年、長く東京府の養育院の院長として慈善事業に貢献したのは、母親の影響かもしれない。
 渋沢家は、武士ではないが、多額納税者として名字帯刀を許されていた。栄一は、父親が病気のため、代官所に父親の代わりに呼ばれ、金を工面するよう言われたことがあった。その時、即答はせず、自分はあくまで家長の名代だから話だけは伝え、後日返答するようにしたいと代官に言ったという。封建時代、こうした道理は通らなかった。代官からすれば、「問答無用」という感覚に違いがなかったが、栄一からすれば、こんなおかしな社会は壊してしまいたいと思ったかもしれない。この体験が、後の過激な高崎城乗っ取り計画の複線になったかもしれない。
 裕福な家に生まれたとしても、士農工商の中の農民であり、武家には服従しなければならないことは、わかっていても、既に知行合一の儒学を学び、社会正義を考え始めていた栄一には、黒船来航により開国に向け社会も変化しつつあったことも刺激的に働いて攘夷思想が正しく思えるようになっていた。
 一時期、お尋ね者のように幕吏に追われる立場になるが、人物を見込まれ、一橋家の家臣になる。一橋慶喜の側近であった原市之進に仕えることにより、薩摩藩の西郷隆盛などと接することになる。こうした幕末の志士との交流が、明治政府の要人との人脈につながっていく。しかし、渋沢栄一としての人生最大の幸運は、一橋慶喜の弟である徳川昭武を代表とするパリ万博の幕府随員として、海外に渡ったことにある。明治維新の動乱期に海外にいたことが、政争の中に命を奪われることから渋沢栄一を救ったとも言える。なによりも、西洋文明に触れ、経済の仕組みに目を開かせられるものがあった。それは、資本主義の仕組みである。多くの人がお金を出資し、事業を起こすことであった。自然と金融のことにも目を向けることになる。
 帰国した渋沢栄一は、戊辰戦争後、政治的に謹身し静岡にいた徳川慶喜のもとで財政立て直しに従事するが、大隈重信の要請もあり、大蔵省に出仕する。大隈重信の口どきは
「八百万の神の一人になってくれ」
というものであった。財政の基礎作りを手掛けるが、官吏にはなりきれない栄一の理想は、民間にあって実業を起こすことであった。その手始めが、銀行の設立である。国立第一銀行は、歴史教科書にも登場する、清水喜助の設計した建物で、錦絵や写真に残っている。国立と名がついていても、民間出資の銀行である。三井財閥の資金も多いが、多くの人々の出資を求めた。西南戦争を境に新興の財閥になった三菱の当主である岩崎弥太郎とは経済人としての考えが違い、会社の富は多くの人々に分かち合わなければならないというのが、渋沢栄一の考えであった。「道徳経済の合一」「論語と算盤」という言葉にあらわれているように特定な人が豊かになる、弱肉強食の社会を否定した。
確かに、東京、王子駅の近くの広大な土地に屋敷を構え、日本を訪れた南北戦争の北軍の将軍であったグラント元大統領や孫文、タゴールなどを自宅に招くほど財力も成したが、それは、渋沢栄一の人物的魅力に焦点を当てた方が良い。渋沢記念館は、この地にもあるが、現在戦災を免れた建物は、行政の管理になっている。戦中、戦後、日銀総裁や大蔵大臣を歴任した孫の渋沢敬三が物納したことによる。渋沢の家系をみると実業家もいるが学者も多く出ている。単にお金に執着するような血は濃く流れていないように感じる。渋沢敬三は、民族学にも大きく貢献している。渋沢栄一の長女の夫は、我が国の法律学の草分け的存在である穂積陳重であり、甥の渋沢元治は初代の名古屋大学の総長になっている。華麗な一族とも言える。
江戸から明治にかけ、日本は西洋文化を大いに取り入れた。戦後の経済復興は、アメリカの影響が大きい。市場原理主義、物質文明への傾斜と行き過ぎた面は確かにある。人間にとって心の喜びが最初になければならない。ただ、貧困と飢えは人を幸せにしないのも事実である。江戸時代は、しばし飢饉にみまわれた。富の蓄積があれば、その危機を乗り越えることができる。資源に乏しい日本は、物づくりによって世界と交易して生きる道を歩むことに異論はないはずである。「衣食足りて礼節を知る」というのも論語の言葉である。渋沢栄一という人物が成し遂げたことは、その点からも評価してよい。
渋沢栄一という人は、生涯にかけて一国の総理大臣の二倍も三倍も国民に貢献したというある人の賞賛もあながち過大評価ではないような気がする。群馬に程近い、埼玉深谷にこれほどの人物がいたことをこの年までに意識しなかったのは、自分の視野の狭さによる。渋沢栄一の屋敷の隣に小さな池があった。当時は、きれいな泉だったらしい。そこから号をとり青淵と名のった。そして、家族からは大人と呼ばれた。まさしく、心の澄んだ、小さな大人が渋沢栄一だと思いたい。渋沢栄一の葬儀には、多くの人々の参列があった。労働界からも哀悼の意が寄せられている。
  

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2013年11月29日

『侘助』(拙著)小さな大人(たいじん)(上)

小さな大人(たいじん)
 JR高崎線の深谷駅には、渋沢栄一の生誕地であることがわかる大きな看板がある。いつ頃からあるのか調べたことはないが、それほど昔のことではないに違いない。駅舎は、煉瓦造りになっていて多分に東京駅を意識している。明治初期、文明開化の名のもとに、西洋風建築が出現した。その建築素材が煉瓦である。明治期の著名な西洋建築に使用された煉瓦の多くは深谷で製造されたのである。
 
 この煉瓦製造に深く関与したのが、渋沢栄一である。明治政府は、富国強兵をスローガンにしたが、富国の代表的な事業が、官営富岡製糸工場の建設である。今日、群馬県民の熱き願いが、世界遺産への登録に向けて歩み出させている。当時の建物が、民間に払い下げられた後も良く保存されている。渋沢栄一は、一時期、大蔵官僚になったことがある。富岡製糸工場の建設は、明治三年に発案され、二年後に完成した。この構想に渋沢栄一は関わった。初代の工場長が、尾高惇忠(あつただ)である。この人物には、説明がいる。渋沢栄一からみれば従兄にあたり、義兄になる。渋沢栄一の妻は、尾高惇忠の妹だからである。水戸学に精通し、論語を栄一に教えた師でもある。号を藍香といい、陽明学であったから、攘夷家としてかなり過激な行動もした。高崎城乗っ取り、横浜の焼き打ちなどの攘夷を目的とした計画を渋沢栄一らと策謀したこともあった。彼の末裔には、著名な音楽家が出ている。
 富岡製糸工場の外観を埋める煉瓦は、深谷で製造されたものではないが、深谷地区では、瓦製造の技術があった。加えて、煉瓦に適した粘土質の土が採れた。明治二〇年に日本煉瓦製造会社が操業を開始するのであるが、瓦から煉瓦製造の準備期間があったのである。関東ローム層と利根川の氾濫により、煉瓦に適した粘土質の土ができたのかもしれないが、渋沢栄一の生地には「血洗島」という恐ろしげな地名が残っている。しかし、「血」を「地」に変えてみると納得がいくのである。
 政権交代があるかもしれない、衆議院選挙の投票日となった八月三〇日の日曜日に、車でこの地を訪ねたのであるが、深谷市は、群馬に近く、利根川を渡れば群馬県である。平成の町村合併で太田市になっているが、対岸の世良田地区には、新田義貞、徳川家祖先の地としての史跡や神社仏閣が残っている。
 
 平成七年に渋沢栄一記念館が完成した。総工費一〇億円近い建物で、農業農村活性化農業構造改善事業という長たらしい目的のため、国の補助金を多く受けて作られている。多目的な使用が可能な建物にはなっているが、かなりの面積を、渋沢栄一の展示コーナーが占めている。確かめたわけではないが、元教員と思われる解説員が親切に説明してくれた。渋沢栄一は、身長が一五〇センチ程しかなく、展示室の入口に等身大の若い時の写真があったが、中高年には少し肉付きが良くなり、建物の裏側にある銅像は、なんとも親しみ深い体形になっている。解説員の体型も、どこか渋沢栄一に似ている。人柄も渋沢の好々爺のような雰囲気がある。五〇〇以上の会社の設立に関わり、多くの慈善事業に貢献し、大学設立の資金的な協力者になったエネルギーが、この小さな体から生まれたと思うと頭が下がる。解説員の次の説明に、ちょっとしたヒントを得たような気がした
「渋沢栄一という人は、趣味やこれといった道楽はなく、仕事が全てのような日々を送った人でした。たまに『知人のところに言ってくる』と、奥さんに告げて外出するのが息抜きのようなもので、家にいる時は、ほとんど仕事関係の来客に応対していました。それに、知人というのは女性のことで、奥さんも承知していたようです。二度の結婚(死別による)、内に外に二〇人ほどの子供さんをつくりなさった方です。夫人に『あなたは、キリスト教ではなく、論語の信奉者でようござんしたね』と皮肉られたという話も伝わっています」
人との交流の中に、偉業を成し遂げた人物ということになるのだろうが、それだけでは十分な説明にならない。
  

Posted by okina-ogi at 12:36Comments(0)旅行記

2013年11月28日

法律門外漢のたわごと(遺族年金)

 公的な年金については、何種類かの遺族年金があります。11月26日の朝刊(読売新聞)を見たら、地方公務員共済のケースでしたが、妻の死に対して、遺族年金が支給されないことを不服として裁判を起こし、妻の死後15年にして勝訴したという記事が一面に載っていました。見出しだけでは、なんのことか理解できませんでしたが、記事を読むうちに納得できるものがありました。
遺族年金の場合、民間人で考えると、厚生年金や労災年金の場合、遺族が夫である場合には、受給資格に年齢制限があって、妻の死亡時55歳以上でなければ支給されないことになっています。「男は辛い」とは思っていたのですが、男女雇用均等法があり、共働きが当たり前の時代、遺族になった男性が差別されるのも考えてみるとおかしいかもしれません。
国民年金の場合、遺族年金は、遺族基礎年金といい、18歳以下の子供がいる妻にだけ支給されることになっていましたが、近い将来同条件で夫にも支給されるようになるようです。そのことから考えても、今回の判決は妥当と言えるかもしれません。しかし、判決が確定した場合、法律が改正されるまでは、訴えた人には年金が支給されないのでしょうか。「法律の門外漢」にはわかりません。
  

Posted by okina-ogi at 08:54Comments(0)日常・雑感

2013年11月27日

『侘助』(拙著)我もまた城崎にて(下)

 

 城崎温泉の宿は、温泉街から少し離れた円山川べりにあった。旅館の前を山陰本線が走っている。宿に着く前、にわか雨にあったが、喫茶店で雨宿りをして小ぶりになったのを見計らって、宿にたどりついた。観光客用の無料傘があって、それを借用して雨をしのぐことができたのだが、商店街の人の粋な計らいに助けられた。部屋に入り、浴衣に着替えたらどしゃぶりの雨になった。この日、中国地方では各地に大雨が降り、竜巻なども起こって、災害となった。
 「わしは、志賀直哉は、よう読まんし、好きにもなれん」
父親との長い確執、小説『暗夜行路』は、友人のお気に入りとはいかないようである。志賀直哉は、長命で、文壇の重鎮ともなった人である。各地を転々とし、東京には長く暮らしていない。奈良市の奈良公園に近い高畑町に、志賀直哉の旧邸が今も残っている。白樺派と言われる、武者小路実篤らの多くの文人と交流があった家で、サロンともなった。志賀直哉に師事した作家に、小林多喜二がいる。プロレタリア作家と志賀直哉の組み合わせは不思議であるが、思想は違っていても小説の手法では多喜二からすれば学ぶところがあったのであろう。多喜二が直哉を訪ねたのはこの家だったと思う。
 今年は、太宰治の生誕百年の年である。『二人だけの桜桃忌』の著者、吉澤みつさんは、太宰と同年の明治四三年の生まれである。十月の誕生日が来れば、満百歳になる。ユーモアもあり、記憶力、思考力は衰えていない。吉澤さんのご主人が、太宰の最初の妻、小山初代の叔父にあたる。吉澤さんは、太宰に会ったのはただ一度だけである。玉川上水に山崎富栄に入水した一カ月ほど前のことで、文人の集まりの後、自宅に寄るようにという主人の託けのためだった。そのとき、今回は都合がつかないと断っているが、揉み手をして申し訳なさそうにしている太宰の姿が印象的だったと随想に書いている。
 太宰は、志賀直哉に対して反感を持っていたらしい。紀行風の小説『津軽』の中で、名ざしにはしなかったが、中央文壇の重鎮らしき作家は、志賀直哉とみて間違いないというのが文芸評論家達の定説となっている。志賀直哉も何かの座談会で、こちらは名指しで批判した。その内容は詳しく知らない。その後太宰も『如是我聞』で反論したが、決着や和解ということはなく、太宰は他界してしまう。
 『二人だけの桜桃忌』の著者、吉澤さんにこのあたりのことを話すと、志賀直哉は、太宰の品行を認められなかったのだろうという。しかし、太宰は書くことが好きだったし、晩年は、体を蝕まれ、命を削るようにして生きた作家だったと認めてあげたいともいう。また、何人もの女性と関係したことに触れると
 「女性にもてるのよ。相手が好きになってしまう。女たらしということではないのよ。だから、太宰は幸せ者です。美知子夫人は賢婦でした」
と言った。百歳の方の証言だから重く受け止めたい。
 太宰治の戦時中の作品の中に『御伽草子』がある。「こぶとりじいさん」、「浦島」、「カチカチ山」、「舌きり雀」などの日本古来の昔話を、太宰の独創を加えた意味深な物語に仕立てている。一方の志賀直哉と言えば、軍国日本を斉藤茂吉と同様鼓舞していた。志賀直哉が、戦後一変して日本主義から離れた言論、思想的豹変を思うといかにも太宰治が小児的な人物に見えてくる。同情的に言えば狡さがないのである。芥川賞の選考に漏れた時に、選考委員の川端康成の評に怒って誌上に批難の文章を載せたことなどは、大人気ないとも言える。
「考える時間が長い。はよう指せ」
将棋の対局は、終盤にさしかかっている。かなり難解な局面になっている。将棋を指しながら、志賀直哉と太宰治の話をしていたが友人は将棋に集中している。それもそのはず、城崎対局の雌雄を決する勝負になっている。
 宿での最初の勝負が五番勝負の決勝戦になった。この対局には勝ったのだが、もう二番指そうということになった。結果は、友人の二連勝。
「棋聖戦に勝ち、名人戦に負けたということだな」
主催地の友人に花を持たせたと言いたかったが、実力は、彼の方が上だと認めざるを得ない。
 「来年は、新潟佐渡対局というのはどうだね」
佐渡には行ったことがないらしい。それに新潟競馬もある。こちらは競馬には興味はないが案内くらいはしてあげよう。父親の従兄に原良馬という競馬解説者がいて、友人に競馬好きがいるから案内しても良いかと話したら、いつでも声をかけてくれということになっている。原良馬さんも高齢だから、なるべくなら来年あたりにしたい。
  

Posted by okina-ogi at 04:25Comments(0)旅行記

2013年11月26日

『侘助』(拙著)我もまた城崎にて(中)

 一泊目の宿は、湯村温泉である。砂丘からは、一時間ほどで着いた。チェックインまでには、時間がある。抹茶のサービスでもてなされたが、またまたビールを注文している。お土産の本三冊を手渡す。『二人だけの桜桃忌』と『群馬の俳句・俳句の群馬』、もう一冊は拙書である。『二人だけの桜桃忌』は、百歳のしかも太宰治ゆかりの人の本だと説明するとしっかり目を通し
「これが、百歳の人の文章か」
と素直に驚いている。
「あなたも、百歳になっても良い文章が書けると思うよ」
と言うと
「そんな長生きはしとうないわ」
という返答。
『群馬の俳句・俳句の群馬』に村上鬼城が載っている。村上鬼城の句は良いという。句の内容が真摯だという。このあたりの感じは共感できる。俳句に向かう態度というものがある。その点、句の才能は他に優れた俳人のいることを認めても、高浜虚子という俳人が第一等だというのが彼の持論である。近代俳句の裾野は、虚子を頂点に広がっている。子供にも高浜年尾、星野立子という秀でた俳人がいる。山梨の俳人、飯田蛇笏も虚子門下だが、彼の俳句の師は、蛇笏の息子の飯田龍太の「雲母」の同人だと聞いたことがある。今は知らないが、昔「雲母」に投句していたのを覚えている。
 雨の日の 牡丹の客と迎えられ
彼の句だが、今日に至り他人が記憶しているくらいだから自信作だと思う。気品ある女性が、茶室に迎えるような清楚な情緒が伝わってくる。雨と牡丹の組み合わせがそうした想像を引き起こす。お茶と気品ある女性の組み合わせは、作者の人柄からはとうてい連想できないのだが、作品からはそう感じるのである。句評について、感想を求めると
「まあ、そういったところじゃ」
旅を終え、お礼の電話をした時に、これまでの自選での句を送るように依頼したところ以下の句が手紙で届いた。
○ 女箸買ひ夕立の中帰へる
○ 夕立のあと立つ風の甘さかな
○ 鉄橋を仰ぎ真夏の空あふぐ
○ 射的場の女あるじと夏の月
○ 手花火に寄りて散りゆく下駄の音
 一泊目の宿は、湯村温泉である。砂丘からは、一時間ほどで着いた。チェックインまでには、時間がある。抹茶のサービスでもてなされたが、またまたビールを注文している。お土産の本三冊を手渡す。『二人だけの桜桃忌』と『群馬の俳句・俳句の群馬』、もう一冊は拙書である。『二人だけの桜桃忌』は、百歳のしかも太宰治ゆかりの人の本だと説明するとしっかり目を通し
「これが、百歳の人の文章か」
と素直に驚いている。
「あなたも、百歳になっても良い文章が書けると思うよ」
と言うと
「そんな長生きはしとうないわ」
という返答。
『群馬の俳句・俳句の群馬』に村上鬼城が載っている。村上鬼城の句は良いという。句の内容が真摯だという。このあたりの感じは共感できる。俳句に向かう態度というものがある。その点、句の才能は他に優れた俳人のいることを認めても、高浜虚子という俳人が第一等だというのが彼の持論である。近代俳句の裾野は、虚子を頂点に広がっている。子供にも高浜年尾、星野立子という秀でた俳人がいる。山梨の俳人、飯田蛇笏も虚子門下だが、彼の俳句の師は、蛇笏の息子の飯田龍太の「雲母」の同人だと聞いたことがある。今は知らないが、昔「雲母」に投句していたのを覚えている。
 雨の日の 牡丹の客と迎えられ
彼の句だが、今日に至り他人が記憶しているくらいだから自信作だと思う。気品ある女性が、茶室に迎えるような清楚な情緒が伝わってくる。雨と牡丹の組み合わせがそうした想像を引き起こす。お茶と気品ある女性の組み合わせは、作者の人柄からはとうてい連想できないのだが、作品からはそう感じるのである。句評について、感想を求めると
「まあ、そういったところじゃ」
旅を終え、お礼の電話をした時に、これまでの自選での句を送るように依頼したところ以下の句が手紙で届いた。
○ 女箸買ひ夕立の中帰へる
○ 夕立のあと立つ風の甘さかな
○ 鉄橋を仰ぎ真夏の空あふぐ
○ 射的場の女あるじと夏の月
○ 手花火に寄りて散りゆく下駄の音
 湯村温泉は、新温泉町という町の中にある。平成の町村合併でできた町である。日本海から十数キロ内陸に入った山あいの温泉地である。湯村温泉を一躍有名にしたのは、NHKのテレビドラマ「夢千代日記」のロケ地になったからである。三十年前近くのドラマは見ていないが、吉永小百合主演の作品で、夢千代の像が建てられている。よく見ると吉永小百合にどことなく似ている。像の台座には、「祈恒久平和」と刻まれている。夢千代は、母の胎内で被爆した女性であった。
 夕食を済ませ、街に出ると夏祭りであった。川のほとりに荒湯という場所があって、源泉が湧き出している。温度は九十八度である。これは、日本一の高温である。宿でもらった卵の引換券で、温泉卵を持ち帰ることができた。ゆで卵になるまで一〇分、その熱気はすごい。友人は、宿に閉じこもっている。温泉と酒、いつもの展開である。将棋は四局指し、二勝二敗の五分。昨年は五局のうち一勝しかできなかったことからすれば上出来である。インターネットのゲームソフトで腕を磨いた成果がでたのかも知れない。決勝戦は、城崎温泉ということになった。
 旅館、朝野屋を九時前に立つ。次の城崎温泉には、昼前に着いてしまう。旅館は、三時からだから、昼飯を食べても充分時間がある。外湯もあるが、宿の温泉があるから、城崎の途中で観光できないかと思い、湯村温泉宿の仲居さんに聞いてみると、円山応挙ゆかりの寺を教えてもらった。大乗寺と言って、円山応挙一門の襖絵がある。本物もあるが、円山応挙の金箔の「老松孔雀図」や「郭子儀童子図」は、重要文化財となっており、コンピューターグラフィクによるレプリカである。中学生か高校生かというほどの少女がノートに書き込んだ説明文を読みながら案内してくれた。本尊は十一面観世音菩薩だが、この仏像を中心に襖絵が構成され描かれている。寺全体が曼陀羅のような芸術作品になっている。あいかわらず、友人は寺の外でブラブラ芸術鑑賞などには興味はなさそうである。しかし、朝から車の運転は引き受けて、客人のもてなしの姿勢は見せてくれている。
 大乗寺からほど近いところに、餘部鉄橋がある。明治四十五年に完成した橋梁で、四十二メートルの高さがある。昭和六十一年に日本海からの突風で車両が落下し、犠牲者が出た事故があった。現在は、コンクリートの支柱が建築中で、鉄骨の構造を残すかで意見が分かれているらしい。志賀直哉が城崎温泉に訪れたのが大正二年のことだから、既にこの鉄橋は完成していた。志賀直哉がこの鉄橋を渡ったかはわからない。
 小説『城の崎にて』を改めて読んでみると、あまりにも短編であることに驚いている。おそらく中学生の頃に読んだと思うが、死んだ蠅の印象だけが残っている。大正二年の夏に山手線の電車にはねられ背中に傷を負ったその療養のため、一か月ほど城崎に滞在したのである。その温泉宿は三木屋という旅館で、今も当時の佇まいを残し営業している。志賀直哉の文章は、極めて簡潔で、夏目漱石も評価し、芥川龍之介も感嘆の言を発したという話を聞いたことがある。評論家の小林秀雄も、写実的な点を高く評価している。『文章心理学』という異色のテーマの著者である心理学者の波多野完治は、志賀直哉の文章は体言止めが多いと指摘した。そして文章が短いのが特徴であるとも。これは『枕草子』の作者清少納言に類似している。対象的な作者が、谷崎潤一郎で、こちらは源氏物語のような文章だというのである。
 小説『城の崎にて』の短編は、城崎の滞在から五年後に出版された。生死の問題を見つめていることは確かである。対象としたのは、蜂や鼠、イモリなどの小動物だが、蜂には死後の自分を想像し、ネズミには死に至るまでの苦しみ、それを動騒という言葉で表現している。イモリの場合は、何気なく投げつけた石により殺してしまったことによる罪の意識と、はかなさである。その描写は心境も反映してはいるが、小林秀雄がいうようにきわめて写実的である。
 城崎の街に入る山道に「志賀直哉ゆかりの桑の木」という標識があった。その桑の木の描写は
「大きな桑の木が路傍にある。彼方の路へ差し出した桑の枝で、或る一つの葉だけがヒラヒラヒラヒラ同じリズムで動いている。風もなく流れの他は総て静寂の中にその葉だけがいつまでもヒラヒラヒラヒラと忙しく動くのが見えた。自分は不思議に思った。多少怖い気もした。然し好奇心もあった。自分は下へいってそれを暫く見上げていた。すると風が吹いてきた。そうしたらその動く葉は動かなくなった。原因は知れた。何かでこういう場合を自分はもっと知っていたと思った。」
志賀直哉の文体、感性がよく現れているという有名な一節である。

 湯村温泉は、新温泉町という町の中にある。平成の町村合併でできた町である。日本海から十数キロ内陸に入った山あいの温泉地である。湯村温泉を一躍有名にしたのは、NHKのテレビドラマ「夢千代日記」のロケ地になったからである。三十年前近くのドラマは見ていないが、吉永小百合主演の作品で、夢千代の像が建てられている。よく見ると吉永小百合にどことなく似ている。像の台座には、「祈恒久平和」と刻まれている。夢千代は、母の胎内で被爆した女性であった。
 夕食を済ませ、街に出ると夏祭りであった。川のほとりに荒湯という場所があって、源泉が湧き出している。温度は九十八度である。これは、日本一の高温である。宿でもらった卵の引換券で、温泉卵を持ち帰ることができた。ゆで卵になるまで一〇分、その熱気はすごい。友人は、宿に閉じこもっている。温泉と酒、いつもの展開である。将棋は四局指し、二勝二敗の五分。昨年は五局のうち一勝しかできなかったことからすれば上出来である。インターネットのゲームソフトで腕を磨いた成果がでたのかも知れない。決勝戦は、城崎温泉ということになった。
 旅館、朝野屋を九時前に立つ。次の城崎温泉には、昼前に着いてしまう。旅館は、三時からだから、昼飯を食べても充分時間がある。外湯もあるが、宿の温泉があるから、城崎の途中で観光できないかと思い、湯村温泉宿の仲居さんに聞いてみると、円山応挙ゆかりの寺を教えてもらった。大乗寺と言って、円山応挙一門の襖絵がある。本物もあるが、円山応挙の金箔の「老松孔雀図」や「郭子儀童子図」は、重要文化財となっており、コンピューターグラフィクによるレプリカである。中学生か高校生かというほどの少女がノートに書き込んだ説明文を読みながら案内してくれた。本尊は十一面観世音菩薩だが、この仏像を中心に襖絵が構成され描かれている。寺全体が曼陀羅のような芸術作品になっている。あいかわらず、友人は寺の外でブラブラ芸術鑑賞などには興味はなさそうである。しかし、朝から車の運転は引き受けて、客人のもてなしの姿勢は見せてくれている。
 
 大乗寺からほど近いところに、餘部鉄橋がある。明治四十五年に完成した橋梁で、四十二メートルの高さがある。昭和六十一年に日本海からの突風で車両が落下し、犠牲者が出た事故があった。現在は、コンクリートの支柱が建築中で、鉄骨の構造を残すかで意見が分かれているらしい。志賀直哉が城崎温泉に訪れたのが大正二年のことだから、既にこの鉄橋は完成していた。志賀直哉がこの鉄橋を渡ったかはわからない。
 小説『城の崎にて』を改めて読んでみると、あまりにも短編であることに驚いている。おそらく中学生の頃に読んだと思うが、死んだ蠅の印象だけが残っている。大正二年の夏に山手線の電車にはねられ背中に傷を負ったその療養のため、一か月ほど城崎に滞在したのである。その温泉宿は三木屋という旅館で、今も当時の佇まいを残し営業している。志賀直哉の文章は、極めて簡潔で、夏目漱石も評価し、芥川龍之介も感嘆の言を発したという話を聞いたことがある。評論家の小林秀雄も、写実的な点を高く評価している。『文章心理学』という異色のテーマの著者である心理学者の波多野完治は、志賀直哉の文章は体言止めが多いと指摘した。そして文章が短いのが特徴であるとも。これは『枕草子』の作者清少納言に類似している。対象的な作者が、谷崎潤一郎で、こちらは源氏物語のような文章だというのである。
 小説『城の崎にて』の短編は、城崎の滞在から五年後に出版された。生死の問題を見つめていることは確かである。対象としたのは、蜂や鼠、イモリなどの小動物だが、蜂には死後の自分を想像し、ネズミには死に至るまでの苦しみ、それを動騒という言葉で表現している。イモリの場合は、何気なく投げつけた石により殺してしまったことによる罪の意識と、はかなさである。その描写は心境も反映してはいるが、小林秀雄がいうようにきわめて写実的である。
 城崎の街に入る山道に「志賀直哉ゆかりの桑の木」という標識があった。その桑の木の描写は
「大きな桑の木が路傍にある。彼方の路へ差し出した桑の枝で、或る一つの葉だけがヒラヒラヒラヒラ同じリズムで動いている。風もなく流れの他は総て静寂の中にその葉だけがいつまでもヒラヒラヒラヒラと忙しく動くのが見えた。自分は不思議に思った。多少怖い気もした。然し好奇心もあった。自分は下へいってそれを暫く見上げていた。すると風が吹いてきた。そうしたらその動く葉は動かなくなった。原因は知れた。何かでこういう場合を自分はもっと知っていたと思った。」
志賀直哉の文体、感性がよく現れているという有名な一節である。
  

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2013年11月25日

『侘助』(拙著)我もまた城崎にて(上)

我もまた城崎にて
 五十路を迎えて温泉が好きになった。自宅の風呂などは、シャワーで済ますことが多いのに、温泉に行くと湯船に長く浸かって飽きることがない。夏の山深い温泉地に行き、渓流の水音を聞き、濃い緑が目の前に広がるのを見ながら湯殿にいる時間は至福な時間である。山陰には、群馬に劣らず名湯がある。兵庫県にある城崎温泉などはその筆頭であろう。一昨年、鳥取の三朝温泉に行き、旧友と再会した。その友人を昨年は、伊香保と草津に案内した。温泉で寛ぐのも目的ではあるが、なにより将棋と酒である。そして、俳句も含めた文学談義が、酒の肴のような位置を占めている。昨年の夏、友人を高崎駅に送り
「来年の夏には、城崎あたりで酒を飲みながら将棋を指しましょうや」
と言って別れたのだが、それが実現した。
 群馬から山陰を訪ねるのは、交通の便は良いとは言えない。山陰本線があるとは言え、その本数も少なく、単線であり、海岸線を走ることもあり時間がかかる。友人は、津山に住んでおり、自家用車で鳥取空港まで迎えに来てくれるという。日本海側には高速道路はないが、それなりに整備された国道がある。津山市から鳥取市までは、約二時間、鳥取市から、城崎温泉までは、三時間ほどである。
 昼十二時過ぎに空港に着き、友人が出迎えてくれた。少し赤ら顔で、夏の太陽で日焼けしたのかと思ったら、近づくと酒気を帯びている。一時間ほど前に空港に着いたので、生ビールを二杯飲んだのだという。鍵を渡された。道中長いので、少しは車の運転するからと電話で話しておいたのが、空港からということになった。将棋に先手必勝というのがあるが、まさに先手を取られてしまった。
 鳥取空港の近くには景勝地がある。白兎海岸もその一つだが
「ただの海岸じゃ、目的地と反対方向だから、行かんでもええ」
とつっけんどんに言う。

「それよりも飯食べておらんじゃろ。砂丘でも行くか」
もうひとつの景勝地の鳥取砂丘には、行かしてもらえることになった。蟹そばを御馳走になったが、彼氏は冷えたビールを美味そうに飲んでいる。
「わしは、砂丘には行かんよ。お前行ってこい。そこの長靴借りてな。今晩の旅館に持ち込む日本酒を買って待っているから。お前も一本買え」
砂丘で長居するなと言わんばかりである。想像していたとおり、砂丘は広かった。海岸まで行けば、三十分は優にかかる。観光客を乗せる駱駝が座ってつまらなそうに海を眺めていたので、砂丘に添えるように写して帰ることにした。後で気づいたのだが、駱駝の写真撮影も有料になっていた。
  

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2013年11月22日

ホイリゲの集い



 11月17日(日)の夕べ、ホテルメトロポリタン高崎の丹頂の間で、群馬日墺(日本・オーストリア)交流協会(会長 浜名敏白)主催による「ホイリゲの集い」が開催された。第18回になる。会場は、100人を超える会員と関係者で埋まった。
ホイリゲとは、音楽都市ウイーン近郊で収穫された新酒、あるいは居酒屋のことで、毎年、聖マルティンの日に解禁となる。音楽を愛好し、オーストリアに想いを馳せる人々の提案で開催されるようになった。オーストリアには二度訪問しているが、ホイリゲの季節ではない。ベートーベンの「田園」ゆかりの地を想像しながら楽しい夕べになった。
毎年恒例になっている「エ―デルワイスカペレ」による演奏は、チロル地方とウイーンの歌が組み込まれ、会の雰囲気を盛り上げてくれた。「美しき青きドナウ」、「エ―デルワイス」、「ドレミの歌」は定番になっている。
オーストリアは、今では観光の国になっているが、ハプスブルグ家の帝国があったことで知られている。王朝文化にはさほど関心がないが、芸術、とりわけ音楽の国には違いない。毎年、ウイーンを中心に近隣国へのツアーが企画されている。企画の内容によるが、来年は、三度目に挑戦してみたいと思う。
  

Posted by okina-ogi at 08:53Comments(0)日常・雑感

2013年11月21日

音楽茶房「あすなろ」の再開

 
 今年の6月に高崎市の商店街に茶房「あすなろ」が再開した。NPO法人「高崎まちなか教育活動センターあすなろ」(市川豊行理事長)が運営し、高崎経済大学の卒業生が店長になり、現役学生の有志が店に出るという。   店内では、ミニコンサートが随時企画され、コーヒーを飲みながら鑑賞することができる。詩人崔華國の始めた「あすなろ」がどのように継承され発展するかという期待がある。
 県立土屋文明記念文学館で「あすなろと崔華國」と称する企画展が、9月16日まで開催された。高校時代、「あすなろ」の存在を耳にしていたが、一度も行ったことはなく、高校生にとっては禁断の場所、あるいは、不良学生のたまり場のような気がしていたのだが、大変な誤解だったということを企画展を見て認識した。
 崔華國という人は、朝鮮半島から日本に渡ってきた。昭和30年代に上映された「ここに泉あり」に共感し、高崎に定住して喫茶「あすなろ」を開館した。詩の朗読会を企画するだけでなく、「クラシック音楽の夕べ」では、群響の団員を演奏者に招いたりした。井上房一郎とともに、群馬交響楽団の運営、高崎市音楽センターの設立に尽力した丸山勝廣とは、肝胆相照らす友となった。
 丸山勝廣という人は、個性的というより情熱家であり夢を実現するだけの企画力と持続性があったのであろう。崔華國の晩年の顔は、好々爺に見える。二人は良く口論したが「死友」であり続けた。公憤という言葉がある。議論の内容は、自分以外のことが対象になっていたのであろう。音楽、文学、絵画といった芸術の中にある文化について語りあったのだろうと推測できる。「古来、詩のない民族は滅びる。そして夢のない個人もまた滅びる」という岸田國士の言葉を崔華國よく口にしていたという。そうしたことに関心を持つ人のサロンに「あすなろ」をしたかったのであろう。
 
  

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2013年11月20日

『白萩』(拙著)後記

後記
 生まれ出でて五十六年、荻原という苗字を頂戴している。荻(おぎ)というイネ科の植物なのだが、今もって野に出て、これが「荻」だと認識したことがない。だから、多くの人々も、「荻」という植物を知らないかもしれない。近いうちに、植物図鑑に照らして正式に対面しておかなければならないと思っている。
 それほどに「荻」という植物は、影が薄いが、秋の季語になっている。写真で見ると薄(すすき)に似ているが、少し男性的な感じがする。「萩」という植物がある。こちらは、多くの人に愛されているためか、秋の代表的な植物になっている。
 初対面の人に名刺を差し出すと、八割がた「ハギワラさん」と呼ばれる。返信の手紙にも「萩原様」と書かれる。高校時代、担任の数学の教師が「ハギワラ」というので、何度か訂正してみたが、「ハギワラ」に戻るので、一年間「萩原」になった。もちろん答案用紙には「荻原」と書いた。視覚的に、「荻原」と「萩原」は似ている。
 文字をよく見てみると、萩は、秋に草冠がついている。俳句をしているので、知っているのだが萩の秀句が圧倒的に多い。
 芭蕉の『奥の細道』にも
  一家に遊女も寝たり萩と月      芭蕉
  行き行きてたふれ伏すとも萩の原   曾良
がある。正岡子規から始まる近代俳人も「萩」を季語にした名句がある。それに対して「荻」を季語にした句は少ない。ある書によれば、荻の、風になびく姿が霊魂を招き寄せるという古代の人の感性から「おぐ」が変じて「おぎ」となったと解説している。次の句などは、感じが出ている。
  荻の花揺れて折々むき変り      加賀谷凡秋
万葉集に
  神風の伊勢の浜荻折伏せて
        旅寝やすらむ荒き浜辺に  ※浜荻は、葦の別名
という歌のあることを知ったが、いかにしても「荻」は地味な存在である。家系をたどると農民であったから苗字を持ったのは、明治からであろうが、御先祖さまは、どうしてこの苗字を選んだのか、今は知るすべはない。荻は萩の裏で良い。紀行のタイトルは「萩」に譲ることにした。
 前号の『浜茄子』の後記に、次号はイタリア紀行から始めたいと書いた。三十年ぶりのローマ、ポンペイの史跡はほとんど変わっていない。十一月末には、久しぶりに母校同志社大学の今出川キャンパスを歩いてみたが、こちらも卒業当時とほとんど変わっていない。
 諸行無常が人の世の真相なのだと思うが、古い建物が、個人の生命を超える時間を続けて維持されていることは、時代を超えた懐かしさの源になる。これからも、歴史と人物に惹かれて旅ができると思うが、今生でご縁のある方を大事にしていきたい。裏千家の茶の世界のように一期一会ということで
ある。
  

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2013年11月19日

『白萩』(拙著)諏訪湖素描

諏訪湖素描
 ここ数年、信州諏訪湖が魅力的な場所に感じてきた。これまでに、諏訪湖を訪れたことは、数多い。しかし、いずれも通過点であり、宿泊もしたこともなければ、ゆっくり足を留めたこともない。五年ほど前、伊那を五月の連休に友人を訪ねた時の帰り、片倉館というレトロな建物で温泉に浸かったことがあった。七年に一度という諏訪大社の御柱祭という大祭の日であったが、風雨の激しいことしか覚えていない。
 昨年は、高遠に、明治の教育家、井沢修二の生家を訪ねた途中、琵琶湖周航の歌の作詞者である小口太郎の像と碑があるというので、天竜川の水門近くの湖畔に立ち寄った。いずれも青葉の美しい季節で、諏訪湖がすっかり好きになってしまった。観光案内の地図を広げたり、インターネットの地図で調べていると、美術館や記念館が多いことに気づいた。諏訪大社の下社に近い場所に島木赤彦記念館があることを知った。アララギ派の歌人としてその名を知ることはあっても、関心を寄せることはなかった。俳句にはご縁があって、まがりなりにも句作は続けているが、短歌は鑑賞することはあっても創作する素養がない。作れば道歌のようになり、言葉の少ない俳句が性に合っている。
 近代俳句や短歌の源流は正岡子規に始まるとされている。それは、写生という観点を強調したことによる。自然界の様相を個人の主観が選び、そこに共感する心情を限られた言葉に移す。思いの丈を述べるのは俳句、短歌ではないというのである。俳句について言えば、若い時に師事した先生の考えがそうであったので、なるべくその流儀でやってきたつもりである。先生は、「さいかち」という同人誌に所属され
「俳句は、人生のアルバム作りのようなものです」
と言い、写真を撮るようなつもりでやってきたが、乱写はできない。フィルムに限りがあるという訳ではなく、感動がなければ良い俳句にならないと釘をさされていたからである。
 短歌も、それほど俳句と事情は異なっていないだろうと思う。他人が鑑賞する時、背景に作者の感動がなければ、空しく言葉だけが目に映るだけである。さらに言えば、技巧というか、言葉の巧みさだけでは、人の心は動かず、作者の真情が、自我から解き放たれているように感じられるような場合に秀歌といわれ、多くの人々に記憶されるものとなるような気がするのである。したがって、有名歌人の短歌だけが素晴らしいという訳ではなく、無名歌人、こん言い方も失礼で、昭和天皇が雑草という名の植物はないと仰せになられたような意味で、短歌を志した人の歌には、その人の頂点にあるような歌があるものである。
 
 島木赤彦記念館は、下諏訪町の町制百年を記念して、平成五年に建設された。諏訪湖博物館でもある。館内には、諏訪湖の生活や、自然の営みを伺い知る展示物が並べてある。島木赤彦のコーナーがあり、その活動の流れがわかるようになっている。入口近くに、アララギ派の系図があって、島木赤彦の位置は、正岡子規の孫にあたっている。父親にあたるのが、伊藤左千夫であり、その兄弟には、農民文学の先駆けともいうべき小説『土』の作者、長塚節がいる。長塚節については、後に触れたい。島木赤彦の兄弟には、斉藤茂吉、中村憲吉、土屋文明、古泉千樫、釋迢空などがいる。島木赤彦から見た系図だから、子規の直系のように書かれているが、確かに赤彦の弟子達の裾野は広い。伊藤左千夫の死後も『阿羅々木』の編集を担当したのが島木赤彦であり、歌論として〝理論武装〟もしている。アララギ派を全国に広めた功績は大きい。
 
 島木赤彦は、明治九年に上諏訪角間の地で生まれた。下級ではあるが、士族である。父親は、漢学や、国学の素養があり、赤彦の文学の土壌は、父親によって作られたと言ってもよい。しかし、村人からは謹言実直で神様のように慕われた、父親とはかけ離れて、赤彦の幼少期は、悪童そのものであった。友達の家に、泥まみれになった素足のままで上がり込み、勝手に飯を食べ一日ゴロゴロしたこともあったらしい。しかも、弟を友人に押しつけ、魚とりに興じていたという証言も残っている。このあたりでは、人の言に耳を貸さず、身勝手で行儀作法もない人間を〝ごた〟と呼ぶ。友人の父親に殴られたこともあった。島木赤彦は、ペンネームで、本名は塚原俊彦といった。祖先を辿ると、武田信玄の家臣だったという。また母方には、諏訪大社の建築に関わった名宮大工がいて、芸術家の血が彼の中に流れているという指摘をする人もいる。
 長野尋常師範学校に入学し、教師を目指すことになるが、本人は軍人志望であった。父親の反対があったのである。在学中に久保田家に婿養子となり、久保田姓となるが、妻は一子を残し若くして世を去り、妹が妻となり久保田家を継ぐことになる。教員になっても文学に対する熱意は失うことはなかった。正岡子規亡きあと、その遺志を継いだ、伊藤左千夫が編集する「馬酔木」に投稿しながら、「比牟呂」という文学雑誌を編集し、伊藤左千夫や長塚節らと交友を深めるようになる。三十三歳で校長となり、三十六歳で郡視学となり、信濃教育界での活躍もあったが、伊藤左千夫の死後は、アララギの編集や作歌に専念するようになる。
 島木赤彦の代表的な短歌を三首揚げる。
高槻の木末にありて頬白のさへつる春となりにけるかも
湖の氷はとけてなほさむし三日月の影波にうつろふ
信濃路はいつ春ならん夕づく日入りてしまらく黄なる空のいろ
高槻の歌は、志貴皇子の
岩走る垂水の上の早蕨の萌え出づる春となりにけるかも
を基調にしている。
斉藤茂吉や土屋文明もそうであったように、島木赤彦も万葉の世界に惹かれ、生涯研究し続けた。
 赤彦は諏訪湖を愛した。湖の歌は、非常に繊細な描写である。三日月の儚い光が、いまだ冬の寒さから抜けきれないでいる湖面の波に揺れているというのである。最後の歌は、晩年のものであり、浄土信仰のような宗教観が感じられるのである。島木赤彦は、胃癌のために五十歳で亡くなった。
 社会教育家で『権威』の著者である後藤静香は、歌人島木赤彦を次のような詩で評している。
 赤彦
眼鏡をかけて石をきる
眼もとをすえて石をきる
汗をながして石をきる
のみより強い腕さきで
かっちん かっちん 石をきる
 努力の人にも
 やがてこの世の日がくれる
火花が見えるのみのさき
のみの手もとは暗くても
かっちん かっちん 石をきる
島木赤彦は、求道的な歌人であったとも言える。『歌道小見』という著書がある。島木赤彦と同じ諏訪の出身である、岩波茂雄の創設した岩波書店から出版された。
 
 正岡子規に二十一歳で入門し、その歌の才能を高く評価された人物が、長塚節である。茨城県の豪農の家に生まれたが、農民の貧しさを描いた『土』は、文豪夏目漱石から支持された。小林多喜二の『蟹工船』とともに、格差社会の叫ばれる今日、再び人々の話題にのぼるようになった。長編ではないが、地味な印象が残る小説である。長塚節の人生も地味と言えば地味かもしれない。生涯独身で、よく旅をした。ほとんど全国をまわり、紀行も書いている。短歌だけでなく散文にも長けていた。咽頭結核のため三十五歳で亡くなっている。旅先であった九州の病院での客死となった。自らの死を冷静に見つめて詠った「鍼の如く」の一連の歌は、長塚節の歌境の到達点とされている。
 垂乳根の母が釣りたる青蚊帳をすがしといねつたるみたれども
 短夜の浅きがほどになく蛙ちからなくしてやみにけらしも
恋と病気に絶望しかけている時に帰郷し一時の平安があった。しかし、
 単衣きてこころほがらかになりにけり夏は必ず我れ死なざらむ
と死の近いことを自覚する。
 長塚節には黒田てる子という結婚を意識した女性がいたが、病気を理由に諦め、そのことを伝えてもいた。しかし、想いは消えず、友人の島木赤彦にも打ち明けていた。赤彦に
「僕は生涯一人なんだ」
と呟く場面が、藤沢周平の小説『白き瓶』に描かれている。
 死の近くになって生まれた次の歌は、芭蕉の「旅に寝て夢は枯野をかけめぐる」を連想させる。
 枯芒やがて刈るべき鎌打ちに遠くにやりぬ夜は帰り来ん
生まれ故郷の台地を思い浮かべているのである。それは、まさに小説『土』を生み出した風景であり、過去を振り返り、土と戦い、生き抜こうと格闘した貧農に暮らす人々も思い浮かべているのである。
 五月の連休の渋滞を避けて、高速道路で友人と諏訪を訪れたのだが、昨年、他界した彼の母親は、歌の嗜みがあった。島木赤彦の記念館を知っていたら、温泉もある諏訪湖に連れてきてあげたかったと呟いたのが記憶に残った。ただ、将来の運営、維持費も考えず多額の費用をかけて建設した記念館には否定的だった。昭和の初期に、職員と地域住民の健康を考え、シルク王と言われた片倉兼太郎が一族に提言し建設した「片倉館」の千人風呂には満足してもらえたようである。この文化福祉施設の設計者は、台湾総督府も設計した著名な建築家で、建物は文化財的な価値がある。驚くのは、財団法人が経営していることである。
  

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2013年11月17日

『白萩』(拙著)埼玉(さきたま)古墳群

埼玉(さきたま)古墳群
 古い地名で言うと、上野、下野、武蔵一帯に古墳群が点在している。古代、有力な豪族が存在していたことが、発掘調査で明らかになってきた。大化の改新(六四五年)以後の歴史は文献もあり、日本史で学ぶことができるが、古墳時代以前は謎めいている。考古学的発見により古代史のロマンも生まれる。邪馬台国がどこにあったかも議論が分かれている。
 
 埼玉県行田市に埼玉古墳群がある。その中で最も古い古墳である稲荷山古墳の埋蔵品から鉄剣が発見された。昭和四〇年代の初めのことである。そのことは、考古学的に見れば、特別視される出来事ではない。その後、鉄剣を調べていくと、一一五の文字が浮かび上がり、その再現により「世紀の大発見」となった。現在、金錯銘鉄剣として国宝となっている。そこに書かれていた文字から、埋葬されていた人物が雄略天皇の傍に仕えていたことが推察できたのである。西暦四七一年、稲荷山古墳の完成と年代がほぼ一致し、大和政権が、東国まで及んでいたことが明らかになった。 雄略天皇は、ワカタケル大王とも言った。その文字が鉄剣から読み取れたのである。天皇の呼称は、天武天皇からとされる。雄略天皇は、仁徳天皇の孫にあたり、二一代の天皇である。
 仁徳天皇の父君は、応神天皇とされる。母君である神功皇后とともに八幡神に祀られる天皇であるが、その存在すら疑う古代史家もいる。どことなく、応神天皇以前は、神話の世界という感じがしている。その代表的人物で英雄視される日本武尊は、応神天皇の祖父にあたっている。埼玉古墳群を訪れたのは、梅の花が終わり、桜の開花へと向かう、三月末の日曜日だったが、その一週間後に大阪、奈良、京都を訪ねる機会があった。仁徳天皇陵には行けなかったが、応神天皇、仁徳天皇を祀る神社に参拝できた。
 その神社は、京都の宇治市にあって、世界遺産に登録されている。宇治上神社という。日本最古の神社建造物として、その価値を認められたのである。本殿は国宝であるが、平安時代後期の桧が使用されていることがわかっている。宇治川を挟んで、平等院があるが、その建築は平安中期にあたる。権勢を誇った藤原道長の子の頼通によって創建された。平等院も世界遺産に登録されており、両者の関係は深く結びついている。平等院の仏像彫刻も同行した彫刻家の解説を聴きながら、そのすばらしさに感動したが、本題から逸れるので宇治上神社に戻る。
 
 宇治上神社を訪ねるのは、今回が初めてではない。今から十二年前に九州に住む友人と参拝したことがある。その後も彼と訪ねているので、三度目となる。彼は、宇治が好きで、何年間か住んだことがある。その宇治が好きな理由を聞いたことはないのだが、ある人物の存在があったことは確かである。宇治上神社には、応神天皇、仁徳天皇とともに莵道稚郎子命(うじのわきのいらつこのみこと)が祀られている。仁徳天皇の弟にあたり、日本書紀などでは、応神天皇は、莵道稚郎子命に皇位を譲ろうとしたが、それを受けず、兄の仁徳天皇が即位することになる。互いに譲り合ったので、皇位は三年間空位となったと伝えられている。
古代、政権は奪うもので、権力闘争で肉親同士が戦うことも珍しくなかった。莵道稚郎子命は、聡明な人物であったとされている。その政権移譲の方法は自殺であった。自分の苦しみから逃れる方法が多くの自殺であるが、莵道稚郎子命の場合は私情ではないと、書紀からは読みとれる。日本武尊のために海神を鎮めるために入水した弟橘媛(おとたちばなひめ)の場合と同じである。弟は兄を尊敬していたし、国のまつりごとを心から兄に託すのが良いと考えていた。莵道稚郎子命の自殺は、最高の自己犠牲とも言える。ただこうした行為は、誰でもできるわけではない。
「自分を後にして他人を先にせよ」の究極の行為である。九州の友人は、莵道稚郎子命が好きだったのだと思う。京阪鉄道の宇治駅の近くに、莵道稚郎子命の陵と伝えられる森があって、二回ともそこに案内してくれた。
 父君も兄君もいて夏木立
本殿の後ろには豊かな森がある。
 日本が国としての形を成し、政権らしきものが生まれたのは、三世紀後半とされる。畿内を始めとして各地に古墳が造られるようになった。埼玉古墳群には、円墳や前方後円墳が存在する。天皇家は、神武天皇を初代とするが、応神天皇あたりが、大和政権の初めにあたるような気がする。古代史を詳しく調べたわけではないので、このあたりは、義務教育で習う日本史の範囲を超えない。
 埼玉古墳の中にある資料館に展示されていた埴輪を見ていたら、その素朴さに改めて驚かされた。この時代、ヨーロッパでは、ローマ帝国の時代である。一年前に、イタリアに行き、ローマ時代の遺跡を見ることができた。その時代の像は、資料で見たのだが、同じ時代のものかと、埴輪と比べるとその写実性の表現の違いに唖然とする。中国大陸では、さらに遡ること五〇〇年以上前の、秦の始皇帝陵の近くから発見された、兵馬俑の武人達の姿も極めて写実的である。この違いは何なのだろうという疑問が浮かんだ。
宇治に同行してくれた彫刻家の先生に聞けば良かったと思ったが、内容が幼稚過ぎる気がして、質問をためらい、疑問はそのままになってしまった。
 
 宇治の桜を眺めている時期に、「阿修羅展」が、東京国立博物館で開催されている。阿修羅像は、奈良の興福寺で若い頃から幾度となく見てきた。三つの顔、六本の腕のある不思議な像だが、顔は少年に見える。埼玉古墳群の埴輪から、三〇〇年を経ない、西暦七三四年の作品というから驚く。しかし、多分に大陸文化の影響があって、今流に言えば純国産というわけにはいかないようである。この像は、顔や胸にその名残があるように朱に塗られていたと考えられている。平等院の仏像あたりで日本様式が確立したとは、彫刻家の先生に教えてもらったことである。
 埼玉古墳は、広々としていて、公園として埼玉県が整備している。桜もたくさん植えられ花見もできる。県民の憩いの場所である。古墳を見ても日本歴史は、まるで霧の中のようで、頭の中にはただ風が吹き抜けるばかりである。ただ、人々の生活があったことだけは、想像できる。稲作文化が、西から東、そして北へと進んでいった。宮澤賢治の心の原風景にある縄文時代からの日本古来の文化は、その北上によって消え去っていく運命にあったなどというとりとめもない想念が浮かんできた。
 今回の紀行は、文章が前後左右に揺れて、自分でも纏まりがないことがわかる。昔から、古墳に関心があったが、考古学に関心があったわけではない。今でも、考古学は地味で、わかりづらく、しかもとりつきにくい学問だと思っている。特に日本の場合、古代に文字を持たなかったために、その歴史の事実が遺跡と結びつきにくい。学者の間に論争が尽きず、定説も揺るぐのも、文章として残っていないことの影響が大きい。その点、ギリシャ、ローマ、中国などの遺跡は史実と結びつく。あたり前と言えばあたり前であるが。
 
 墳墓や古代遺跡を過去結構多く訪ねていることに気づいた。日本だけではない。中国では、秦の始皇帝陵、明の十三陵の一つである定陵もそのスケールの大きさに驚かされた。日本では、吉野ヶ里遺跡、西都原古墳はともに九州にあり紀行にも書いた。奈良、桜井市の近くにある箸墓古墳は、邪馬台国の卑弥呼の墓ではないかと報道されたことがあり、奈良で毎年開かれる数学者岡潔先生を慕う人々の集い春雨忌の帰りに訪ねたことがある。今回の、奈良行きの往路の中で、堺市にある仁徳天皇陵と考えたが、こちらは、事前の情報収集が十分ではなく、交通手段を間違え実現しなかった。
 奈良から帰り、書店に古代史関連の書物を探していたら、興味あるタイトルの著書に出会った。『東アジアの巨大古墳』という書名で大和書房から出版されている。二八〇〇円という値段は、本のボリュームからしては少し高価だが、この分野の本は読者層が少ないためか、コーナーに並ぶ他の書籍も一〇〇〇円台のものは少ない。著者の一人の中に、上田正昭の名前があった。京都大学の名誉教授で考古学の権威である。数年前に、高崎哲学堂で上田正昭の講演を聴いたことがある。司馬遼太郎との対談も世に広く知られている。高崎哲学堂は、高崎市に最近移管されたが、上田正昭は、長く常務理事をしていた私の高校の同級生である熊倉浩靖君の恩師でもある。彼も最近、古代の関東地域の研究を大書に纏め出版した。上田正昭が文章を寄せている。
『東アジアの巨大古墳』は、アジア史学会の論文とシンポジウムを編集したもので、
上田正昭は、「河内王朝と百舌鳥古墳群」の表題で書いている。仁徳天皇陵は大山古墳が正式名称で、百舌鳥古墳群の中で最大の前方後円墳である。伝応神天皇陵とされる誉田(こんだ)山古墳を凌ぎ、日本最大の規模でもある。大山古墳を古代人が造るにあたり、一五年八カ月の時間と延べにして六八〇万七〇〇〇人の労働者、そして総工費として七九六億円の費用がかかったであろうという建設会社の大林組の試算を紹介している。
 この本から、大づかみで古墳時代の日本史を紹介すると次のようになる。邪馬台国は、畿内にあって、その場所は三輪山の前に広がる平地で、そこにある箸墓古墳は、卑弥呼の後を継いだ女王台与のもので、邪馬台国は大和政権に繋がり、崇神天皇から、河内王朝の応神天皇と繋がるというものである。箸墓古墳は、我が国最古の前方後円墳で、規模も大きい。その完成は、三世紀中葉で、西暦に直せば二五〇年前後になる。大山古墳は、五世紀代のものとされるから、二〇〇年位の間に、大和政権が確立され、その影響下に関東の埼玉の地までに前方後円墳が造られるようになったと考えられる。
 本を読むと、考古学的基礎がないことに加え、規模や、知らない古墳の名前が出てきて飛ばし読みしたい衝動にも駆られたが、シンポジウムの模様の収録を読むと、不思議と古代史が浮かんでくるような気がした。熊倉君も、監訳者として名前が載っていて、改めて彼がアジア史学会の重要メンバーであることを知らされた。この本のおかげで古代史に近づき易くなったのも事実である。
  

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2013年11月16日

『白萩』(拙著)商人の実学(伊能忠敬)

商人の実学
 江戸時代の後期、上総(千葉県)に生まれ、日本全国を測量し、当時にあっては、驚くほど正確な日本地図を作成した人物がいる。伊能忠敬である。日本史に登場するが、今日までその偉業の詳細を知ることはなかった。
 
 伊能忠敬は、一七四五年に九十九里浜に近い、小関という場所に生まれた。誕生の地には、徳富蘇峰の文字で「偉人伊能忠敬翁出生の地」と書かれた碑が立っている。父親は、酒造家で名主を務める神保家から婿入りした人で、漢学の素養があった。忠敬は、三人兄弟の末子であった。六歳の時に母親は亡くなり、その後、父親は、忠敬一人を残し、実家に帰った。小関家には、義弟もおり、このあたりは、江戸時代の家制度では奇異なことではなかったらしい。残された忠敬の人格形成に大きな影響があったことは、想像できる。
 十歳の時、父親に引き取られ、神保家の人となるが、寺の小僧に出されたりする。忠敬は、算学に関心があり、和尚のもとで基礎を習得することができた。後に星学(天文学)や歴学を学ぶ素養となった。
 十七歳の時、佐原の伊能家の婿養子となる。妻の達は、夫をなくしていたが子供があり、年上であった。気性も強く忠敬の肩身は狭かったであろう。伊能家は佐原では有数の商家であったが、商勢は衰えかけていた。「米糠三升あれば婿に行くな」という言葉もあるが、忠敬は、見事に伊能家を復興する。忠敬が四十九歳で隠居した時、伊能家の資産は数十倍になっていた。商才はもちろん、人徳もあったのであろう。
 天明年間に浅間の大噴火があり、全国各地が不作となり飢饉が起こった。佐原も例外ではなかった。忠敬は、大阪方面から大量に米を買い付け、貧しい近隣の人々を救済した。余剰の米は、江戸で売り利益も得ている。このあたりは、商人としてぬかりがない。
損をして得を取れではないが、困っている時に人を助ければ、やがてその恩により報われる。計算してのことではないだろうが、金持ちの出し惜しみとは無縁の人だった。
 近江商人は、遠隔地にあって富を築くことが多かった。飢饉や災害の時は率先して、蓄財を散じた。そうしなければ、住民の反感を買うことも知っていた。悪徳商法で儲けたわけではなくとも、悪徳商人と思われてしまう。家運が傾くことがなければ、富というものは、独り占めにしてはならない。打ちこわしに遭うこともありえる時代である。今日不況下にあって、収益をあげていた大企業の離職者への対応や従業員への配慮にもそのことは言える。
 伊能家のある佐原市には、今も江戸時代の面影を残す町並みが残っている。利根川の下流に近く、水郷地帯になっている。江戸時代の利根川は、現在のように銚子の河口には流れておらず東京湾に流れ込んでいた。江戸幕府は大規模な河川工事によりその流れを変えた。その結果、銚子の河口から流れを変えた利根川を溯り、支流となった江戸川を下り、江戸へ至る水路となった。この結果、海運による流通がスムーズになったばかりでなく、江戸の町が洪水になる危険も少なくなった。新田も開発され、米の生産量も増えた。
 東北地方の米をはじめとする産物は、房総半島を迂回し、江戸湾から江戸の町に運ばれていた。外海の船の運航には困難が伴い、難破することも多かった。河川を利用することにより、運航が安全になったばかりでなく、移動の距離も短縮された。佐原は、中継地となり、大いに栄えることになったのである。
 伊能家の建物は、利根川に通じる小野川べりに今も一部が残っており、近くに伊能忠敬記念館がある。高崎線から東京駅を経由し、総武線で成田まで行き、佐原の駅に着いたのは、正午前であった。高崎駅から四時間程かかったことになる。JRの「青春18きっぷ」での移動のため、新幹線や特急は利用できない。そのかわり日帰りで二三〇〇円の費用ですむ。この日は、どんよりと曇り、昼ごろから雨になった。目指す記念館までは、歩いていける距離である。駅からしばらく行くと、古い街並みとなり、それぞれの店に雛人形が飾られている。佐原という観光地らしい催しになっている。名物のかき餅を焼く香ばしい匂いも漂ってくる。
  冴え返る水郷佐原偉人あり
 
 伊能忠敬記念館は、近代建築ながら外観が、江戸時代の商家の造りになっていて、すぐには辿り着けなかった。それほどに、街並みに溶け込むように建てられている。受付を済ませて展示室に進むと、伊能忠敬像が描かれた掛け軸があった。裃を着て座り、腰に小刀を差し、大刀を脇に置いて斜め左方を見つめている。鼻筋は高く、髷を結っている中年の姿が描かれている。商人ながら、伊能忠敬は苗字帯刀を許された。作家井上ひさしは、長編『四千万歩の男』を書いたが、記念館を訪れたとき、この像の前に立ち尽くし、創作会話を交わしている。井上ひさしは、伊能忠敬像から小狡い人物を感じた。
これは、井上ひさしの独得の感性で、伊能忠敬を軽蔑しているわけではない。井上ひさしの前に現れた伊能忠敬は
「そう小狡い小狡いというな。天文学に暗いあなたのような人に私を小説にする資格はない。出版するのは禁止する。早く立ち去るが良い」
と突き放された時に、ふと我に返る。
「お願いだから帰ってください。閉館時間をずいぶん過ぎていますから」
記念館の係員に声かけられたためである。それほど長い時間、彼はこの像の前に立っていたのは事実であろう。大河ドラマに採用されるような大作として書いたと明かしているように、井上やすしの方に小狡さを感じなくもない。しかし、伊能忠敬に惹きつけられたものは何であったのであろう。
 掛け軸の横には、伊能日本地図とインテルサットが撮影した日本地図が繰り返し入れ替わるように映像で写し出されている。多少のずれはあるが、ほとんど重なって見える。
彼は、この途方もない事業をどのようにして成し遂げたのであろう。館内には、測量に使った器具が展示されている。
 家督を息子に譲り、隠居の身になった伊能忠敬は、本格的に歴学の勉強を始める。住まいを江戸に移し、高橋至時(よしとき)という、二〇歳も若い人物に師事する。高橋至時は幕府の天文方の役人であった。当時の天文学の第一人者であったが、天体観測により、正確な暦を作ることを役目としていた。伊能忠敬には、既に歴学の基礎ができていたので、さらに専門的な知識を身につけるのは早かった。
 伊能忠敬も天体観測に熱中し、金星の南中を日本で初めて観測する。伊能忠敬の関心は、地球の円周がどのくらいあるのかということに移っていく。そのためには、地上のできるだけ長い距離を真北に移動し、その正確な長さを測り、その地点と基点の北極星の角度を測ることによって可能になる。この時代、蘭学書などにより、地球が丸いということも、地動説も既に知られていた。五五歳の時、実行に移す機会がおとずれる。
 幕府は、蝦夷地の測量を許可するのである。ロシアの南下により、松前藩に任せていた北海道の統治に積極的に関わらざるを得なくなったのである。一八〇〇年のことである。しかし、幕府は許可しただけであって、費用はほとんど伊能忠敬が負担した。公共のための仕事が自腹というのはおかしな話だが、彼には躊躇する問題ではなかった。御用の旗を掲げ、諸藩の領地を測量し、緯度の一度の距離が、二八里二分(一一〇・七五キロメートル)という結論に至る。現代の測定値と一〇〇〇分の一の誤差しかないというのだから驚きである。
 伊能忠敬の地図作成の評価は、幕府の認めることになり、全国各地を測量しながら、日本全図が完成するのである。完成したのは、伊能忠敬の死後ではあったが、一〇回の測量によって実現した。最後の測量には加わらなかったが、徒歩で実測したことは、年齢のことも考えると偉業と言える。最初の測量から一七年の月日をかけている。測量先から娘に宛てた手紙には、歯が一本になって好きな沢庵も食べられなくなってしまったと書いている。彼が測量のために歩いた距離は、地球一周の距離に近かった。もう少し長生きしたら達成できたかもしれない。
「一身にして二生を経(ふ)る」とは、まさに伊能忠敬にふさわしい言葉である。今日、我々が定年後をいかに生きるかということにも刺激を与えてくれる。生活のためには、若い時夢見た人生が職業として反映されることは少ない。趣味であっても、長く温めてきたものが開花することもあるかも知れない。しかし、それは誰にでもできることではない。伊能忠敬は、歩幅を一定にし、距離を測ったという。もちろん測定器は使った。彼の凄いところは、一歩一歩を無駄にしない、意志の継続である。商人であった時代にも、一つずつ確実に仕事に取り組んでいたことは想像に難くない。しかも、学問を、自らの行動で深め、地図として形に残している。伊能地図は、彼の人生の結晶であり、作品である。
 
 伊能忠敬死後のことであるが、彼の作成した地図は、幕府の所蔵庫に保管されその存在も忘れかけられていた。副本は伊能家にも残され、高橋至時の養子である高橋景保のもとにも残された。日本に来日したシーボルトが、江戸参府の時、この地図を譲り受けたことが発覚し、シーボルトは国外退去となった。いわゆるシーボルト事件である。この結果、伊能地図は海外で知られることとなり、その正確さは評価された。
 明治になって、政府が自国に正確な地図がないと思い、イギリスの測量技師に東京湾の測量を依頼したことがあった。その時、伊能地図の存在が思い出され、その地図を見せられた技師たちは、測量の必要はないと帰ってしまったという話が残っている。陸軍参謀本部も長く使用し、若山牧水などはこの地図を頼りに旅をしたことも紀行文で知ることができる。江戸時代の佐原の一商人の実学が、後世の人々の生活に利便を与えたことは、快挙といえる。
 
  

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2013年11月15日

徳州会事件に思う事

 いつのまにやら、このような大きな医療グループになっていたかと改めて驚いている。創立者の息子が衆議院議員になっているが、グループぐるみの選挙で公職選挙法に抵触し、関係者が逮捕されたと報道されている。
 徳之島から出て、全国各地に患者のための病院経営は、世の人々にも受け入れられ、医師会という組織とも戦いながら、成長した。それは、それで誰もができることではない。徳田虎雄という人物の志と情熱は、それなりに評価しなければならないだろう。
徳州会という組織を見ると、医療法人や社団法人等となっている。法人は、社会の公器である。公益法人となれば、なんらかの税制上の優遇措置もあるだろう。ところが、法人の代表者には、身内の名前が並んでいる。これは、異様である。天下のトヨタにしても、現在の社長は、豊田家の人だが、ファミリー企業という感じはしない。
 現在、大河ドラマで「八重の桜」が放送されているが、同志社は新島夫妻に子供がなかったこともあり、まさしく、同志が今日まで糸をつないできた。創立の精神があるので、総長は、クリスチャンということはあったとしても。創立者の一人、新島襄は同志社の創設にあたり、勝海舟に200年かけてやると言った。その言葉に勝海舟は、賛同した。組織の継承を新島襄は、重視したのである。
 もう一点注視したいことがある。急速な拡大である。大資本が、コンビニストアを拡大する手法に似ているが、医療は質を問われる。医療スタッフの採用、養成が希薄になりはしないか。以前、このブログに書いたが、伊那市にある伊那食品の年輪経営のことである。少しずつ成長していくという考えである。市場の変化という風雪に耐えながら、組織を成長させる。初心を忘れず、現状を冷静に分析し、将来の展望も忘れない。しかも、働く職員の生活に気配りする。地域にも富を還元する。どこか、徳州会とは、対照的である。しかも営利企業である。政治の世界にのめり込まず、本業に戻ってほしい。これだけ大きな組織になったのだから、有為な人材を中枢に据えてほしい。
  

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2013年11月14日

『白萩』(拙著)経世済民

経世済民
 
 私学の雄である慶応義塾が昨年(二〇〇八年)、創立一五〇年を迎えた。福澤諭吉は、一八五八年に江戸に蘭学塾を開いた。この年は、慶応四年にあたり、元号が塾の名前になった。東京国立博物館、産経新聞、慶応義塾が主催者になって、平成二一年一月十日から三月八日まで「福澤諭吉展」が開催されている。主な会場は、東京国立博物館の表慶館である。この建物に入場するのは初めてである。古い建物らしく、エレベーターなどの近代的設備はない。
 福澤諭吉の足跡を訪ねて、一昨年、昨年と大阪の適塾や大分県の中津にある記念館に足を運んだ。『西洋事情』の福澤の著書を意識して「国内事情」のタイトルで紀行文を書いてみたが、人物像としては霧の中のように見えてこない。自分の感性からは、少しとらえにくい人物であることだけは理解した。福澤の触れた世界の広さが想像できないからであろう。政治、経済、教育、医学といった学問に通じていただけでなく、時の日本をリードした人々との交流を通して、多大な影響力を明治の文化に発揮している。
 早稲田大学を創立した大隈重信は、政治的実務能力を買われて、薩摩藩、長州藩中心の明治政府の中枢にあって政治家として活躍した人物であるが、教科書にも出てくる〝明治一四年の変〟で在野の人となる。その後、政党を組織し、総理大臣までなっている。だからというわけではないが、早稲田出身者には政治家が多いという印象が強い。
 最近の政界を見ると、早稲田に負けず、慶応も有力政治家を出していて、早慶戦も互角の様相を呈している。郵政民営化を掲げた小泉純一郎元総理、小沢一郎民主党代表は、慶応義塾大学の卒業である。けれども、慶応義塾と言えば、財界に有力者を輩出し、経済を看板にしてきた印象が強い。国鉄の民営化に臨調のメンバーとして加わった加藤寛は、慶応義塾の出身の経済学者で、小泉元総理の師でもある。慶応義塾の出身ではないが、小泉政権の経済ブレーンになった竹中平蔵は、現在も慶応義塾の経済学部の教授である。
 
 経済の語源は、「経世済民」という中国の古典にある言葉に由来する。江戸時代中期の儒学者の太宰春台がその意味を説明している。
「およそ、天下国家を治むるを経済という。世を経(おさ)め民を済(すく)うの義なり」世の中を治め民衆を救うのが「経済」の本義だというのである。この側面から見て福澤諭吉の功績を考えてみるのも良い。
福澤諭吉が生まれたのは一八三五年であるが、経済の中心は米であった。加工品も流通していたが、取引される主なものは第一次産業のものが多かった。しかも、オランダと中国、それも極めて限られた場所(長崎の出島)で貿易が認められるだけで、内需が一〇〇パーセントに近い鎖国国家であった。為政者である大名や配下の武士の給与も石高で示されるように米が金のような役割を果たしていた。
ペリーの黒船来航により、江戸幕府は、日米和親条約を結び箱館(函館)及び下田を開港し、鎖国体制は崩れた。その後、各国と修好通商条約が結ばれ、横浜、神戸、長崎などが開港され、海外との交流が不平等条約の形ながら始まった。しかし、国民の海外渡航は、国禁のままであった。そのような状況下にあって、福澤諭吉は咸臨丸に乗り、アメリカへ渡る幸運を得た。一八六〇年のことであるから、福澤諭吉は二五歳である。新島襄の海外渡航は、四年後の一八六四年である。新島襄は、この時二一歳であった。幕府の随員としての福澤と、脱国の新島とその手段は違っても、海外に目を向けたことは共通している。二人とも学校を開設することになるのだが、持ち帰ったものが違った。福澤諭吉が持ち帰ったものを大雑把に表現すれば〝新しい暮らし方〟ともいえようか。新島襄は、〝キリスト教精神〟である。二人の交流の記録はほとんど残っていないが、福澤も新島も大隈重信とは、深く関係している。
福澤諭吉と新島襄は明治の六大教育家に数えられる。二人を比較することにどれほどの意味があるかはわからないが、以下は個人的な印象である。先ずは人柄である。福澤は、「独立自尊」の人と言われるほど自立心が強く、他人と妥協はしないが、社交的でもあり権力とは距離を置きながらも政財界に知己が多い。言動は、大言壮語、大風呂敷、毒舌ともとられる歯に衣を着せないところがあった。他人を罵倒することもしたらしい。しかし、封建時代の身分制度を親の敵と憎んだ彼は、庶民にも人情細やかなところがある。家族に対しては、親馬鹿といわれるほどに子煩悩で夫人に対しても優しかった。外国滞在の経験もあり、女性の立場を理解し、男尊女卑ではなかった。アメリカでは、少女と一緒に記念写真を撮る茶目っ気もあった。多くの写真を残した人だが、なかなかの美男子であり、女性にはもてたであろうが、節度はあった。男女関係のゴシップは、後世に残していない。
新島襄はどうか。生徒や夫人からさん付けや呼び捨てでも平気だった人だったから、平等思想は、言動一致して体得していた感がある。極めてストイックで紳士的人物であった。敬虔なクリスチャンという表現が使われることがあるが、新島襄はその典型であろう。しかし、素質としては、熱情の人でそれを自制したところは、信仰によるのだろう。たゆまず募金活動を続け、粘り強く許認可の交渉ができたのも、見えざる神への使命感を自覚していたからであろう。真摯過ぎるほどに神に忠実である。新島襄も福澤諭吉に負けず好男子である。女性教育にも熱心で、女性からは尊敬された。艶福家ということからも程遠い。福澤諭吉も新島襄も教育事業は別にして生活の中で、お金には困らなかったと思われる。福澤においては、著述による印税は馬鹿にならない額であり、家屋敷もりっぱだった。新島襄は、アメリカからの送金もあり、個人の家屋敷も今日でも保存され残されているがりっぱである。福澤を拝金主義と避難する人もいるが、借金をひどく嫌った人で、必要とあれば多額の寄付をしたことからもその評価は当たらない。
慶応義塾大学には、医学部がある。「福澤諭吉展」で北里柴三郎が紹介されていた。北里柴三郎は、日本の近代医学の開拓者のような存在で、細菌学の権威である。当時、細菌学者で著名であったコッホに学び、破傷風菌における発見や、ペスト菌の発見で、ノーベル賞の候補にまでなった。帰国後、伝染病研究に取り組もうとするが、古巣である東京帝国大学から暖かく受け入れられることはなかった。その時、援助の手を差し伸べたのが、福澤諭吉だったのである。土地も提供し、資金援助もしながら民間の伝染病研究所が設立され、所長に就任するのである。福澤諭吉の死後、大正になって慶応義塾に医学部が設立され、その初代の学部長、さらに病院長になったのが北里柴三郎であった。北里柴三郎という人は、肥後人らしい頑固さもあったが、福澤の恩は忘れなかった。
福澤諭吉はあくまで、在野の人を通した。明治政府からの出仕を固持している。反骨精神という言葉は、福澤諭吉には当てはまりそうだが、権威の衣を着ることは、考えもしなかった。心を売りたくないと言えばよいのだろうか。福澤がなかなか理解できなかったのは、経済について今日まであまりにも疎かった自分に原因があるような気がしてならない。
「福澤山脈」というコーナーには、経済界で活躍した人物が紹介されていた。電力事業に功績を残し、「電力の鬼」などと呼ばれた松永安左エ門や阪急電鉄、阪急百貨店、宝塚歌劇団の創業者小林一三は、福沢諭吉が塾長を務めていた時代に慶応義塾に入っている。現在、一億以上の人間が資源を多く持たない日本に住んでいる。経済活動により生み出される富がなければ、人並な暮らしはできない。昨年の後半から突然の不況の原因となった、実体経済を無視したかのような金融経済の破綻は、論外にしても、「独立自尊」から生まれた福澤的経済観にも関心を向けてみる価値があるかもしれない。
  

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2013年11月12日

走水神社の景観(2013年11月)

 走水神社の景観
 十一月初旬、かねてから計画していた鎌倉周辺の旅が実現した。江の島に宿をとり、翌日、鎌倉を散策し、三浦半島を廻り散会するという内容である。毎年、「春雨忌」という数学者故岡潔先生を偲ぶ会が奈良で開催されているが、そこに集う有志が集まった。いつも、関西の方が、「春雨忌」を企画し御案内いただいているので、是非関東にもお出でいただきたいと申し上げたところ十二名の参加を得て実現した。関西から五名、山口県から二名、関東から五名というのがその内訳である。
 江の島の宿は、古くから旅館を営む「岩本楼」で、ローマ風呂と洞窟風呂が味がある。海岸に近く、寄せる波の音を聴きながら、話が弾んだ。朝早く起きて、島を巡る人もいれば、島内にある神社を参拝する人もいる。充分に天然温泉に浸かり、日頃の疲れを癒す人というふうに各自気儘に過ごすことができた。幸運にも天気が良く、富士山が見えたと関西から来た人が喜んでいた。
 人生には師が必要だと思う。自分の好きな人生を生きれば良いという人もいるだろうが、船旅に羅針盤が欠かせないように、人生という旅にも方向を過たず、航行の知恵を与えてくれる師があればと思うのである。十二人にとって共通の師が岡潔先生なのである。しかし、その中の御一人は、御令嬢である。幹事役を買って出たのは、没後三十年以上に渡り、御自宅を提供し、寝食の世話もし、我々を導いてくださったことへのお礼の気持ちが強かった。
 岡潔先生の孫にあたる御子息が、東京駅の近くにある中央郵便局の中にある東大博物館に勤務されていて、見学案内してもらえるというので、集合場所は、東京駅にし、昼食と東京見物もできた。日頃、奈良と東京に離れ離れに生活している母子の再会もできた。現在の中央郵便局の建物は、広場側を残し、改築した。東大博物館は、二階と三階にあって、かえって古い建物とマッチし、さらに工夫して展示されている。生物研究者である御子息の説明も分かり易かった。
 旅のメインは、江の島、鎌倉ではあるが、横須賀に近い東京湾に面した海岸近くにある神社である。日本で最初に建設された観音埼灯台にも近いが、観光客が大勢訪ねる場所でもない。神社の名前は、走水神社である。

 さぬさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも
この歌の作者が、我々をこの地に呼び寄せたと言っても良い。
古事記に記された、日本武尊の妃である弟橘媛の歌である。日本武尊が対岸の上総に軍船で渡ろうとした時、海上が荒れて危機を迎えた時、海神を鎮めるために、入水して犠牲になったのが、弟橘媛である。岡先生は、この弟橘媛の行為は、何にも増して尊いと言っている。そのことを、参加者全員が知っている。皇后陛下も幼い時に読んだこの話を公の場で語られたことがあった。最近は、この神社がパワースポットとして、観光客に足を運ばせているようだが、現世利益の目的で訪ねたわけではない。十人以上のグループの参拝に、神社の人らしき人が説明役になって、神社の由来などを話してくれた。神官は常住していないというから、氏子の方だったのだろう。参拝者の中には、神職の人もいたのだが、じっと耳を傾けていた。解説に口をはさむようなことをしないところが偉い。
少し高台に昇り、海を眺めると対岸が見える。昨日から暦の上では冬になっていて、陽はかなり西に傾いているが、湾を航行する船が多く見える。説明がなければ意識しなかった人工島も見える。弟橘媛を思いつつ、時を超えた心の眼は「二十四の瞳」の奥にある。弟橘媛の歌は、大きく石碑に刻まれ我々と同じように海を見ている。この碑の建立に尽力したのは、明治の将軍達で、東郷平八郎の名もあった。
今回の小旅行に携えた本がある。評伝岡潔(虹の章)全二冊で、その本の記述で知ったのだが、岡先生と俳人山口誓子は、第三高等学校の同級生だという。第一高等学校と第三高等学校の野球の試合があり、岡先生と山口誓子は、応援団の中にあり、その思い出を共に随想に書いている。大正一〇年一月の試合と言うから、今日では考えられない季節である。試合は、第三高等学校が見事に逆転勝ちした。その立役者が、センターを守っていた、島田叡である。内務官僚として、終戦近くにあって、誰もが就任を希望しなかった沖縄県知事になり、最後まで職責を果たし、殉職した人物である。遺体も発見されておらず、行方不明のままになった。
岡先生が、人生の羅針盤としての教えの一つに
「他人を先にして自分を後にせよ」というのがある。同期生の中にもそうした人物がいたことを走水神社で思い浮かべた。同じく同期生の山口誓子の句に
海に出て木枯らし帰るところなし
という名句がある。好きな句の一つである。
特攻隊の人々を思っての作句らしい。「浜茄子や今日も沖には未来あり」も秀句だと思うが、走水神社から海を見ていると誓子の句に惹かれるところがある。
  

Posted by okina-ogi at 08:56Comments(0)旅行記

2013年11月11日

「徳富蘆花『黒い眼と茶色の眼』を読む」

 
 

 11月10日(日)、安中市にある「安中市学習の森ふるさと学習館」で講演会があった。講師は、群馬県立土屋文明記念文学館の学芸係長の木村一実氏。大河ドラマ「八重の桜」も終わりに近づいている。講演の内容は、この日放映される「八重の桜」の下地になっている。小説『黒い眼と茶色の眼』は、岩波文庫から出版されていたが、絶版とのこと。古本で手に入れるしかないという。「八重の桜」に合わせて再版しても良かったのではないかと思った。
 小説のタイトルになっている黒い眼の人物は、新島襄である。小説の中では飯島先生となって登場する。茶色の眼の人物が山本久栄である。新島八重の兄の山本覚馬の後妻の子供である。小説の中では山下寿代となっている。明治19年、二度目の同志社入学の時に、蘆花青年はこの女性と恋愛関係になる。恋敵もいたらしい。新島家、山本家からも反対され、蘆花は失意のうちに同志社を退学し、京都を去る。蘆花の結婚の最大の障害になったのが、新島八重だったようだ。その理由が講演では良く分からなかったが、来週放映される「八重の桜」で紹介されるようだ。
 大正という、失恋体験から30年近くになって、なぜこのような自身の心の傷と、同志社設立の中枢にあった人々の身辺を世間に小説とはいえ発表したのかは、最も理解に苦しむところだったが、蘆花の他の作品『自然と人生』、『みみずのたわごと』等読んでも、品格の低い人物では決してない。蘆花の妻にとっても、当時健在であった八重さんにとっても迷惑な小説と感じたであろうと思った。墓場まで他人には言えないことは、政治家ではなくてもあるような気がするのだが。
  

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2013年11月09日

『白萩』(拙著)元旦の函館

元旦の函館
 元旦の北の旅は、今年で八年連続となる。目的地は、北海道の函館である。八年目にして、津軽海峡を渡ることになった。JR東日本の元旦パスについては、何度も触れた。ところが、発売日の十二月十五日には、元旦に函館を日帰りする計画は、既に予定列車が満席で頓挫することになってしまった。少し割高だが、長距離の移動なので、グリーン車を使おうと思っていたので、売り切れになっているとは予想外であった。駅員さんもビックリして
「グリーンの指定席は、空席があるもんですがねえ。今年はどうなっているのかな」
経済不況の影響もあるのだろうか。何しろ、函館まで一日往復一二〇〇〇円なのだから、片道で東京から帰省のために利用しても安い。
 幻となった計画は、朝六時五一分(始発)安中榛名駅を出発し、大宮を経由して八戸まで新幹線で行き、特急に乗り換えて函館に一時過ぎに到着する。現地で三時間半ほど滞在し、五時少し前に、函館を発つ。復路は、安中榛名駅に停車する新幹線はないので、高崎駅に長野新幹線の最終で一二時前に到着することができるというものであった。
 いったんは、諦めかけていたのだが、沸々と函館行きの念が高まってきた。陸路がだめなら空がある。一泊して、函館山から夜景でも見ることにしよう。いまだに、インターネットで予約した経験はないのだが、目的がはっきりすれば、なんとかなるものだ。パック旅行の扱いで、一泊朝食付で三八〇〇〇円というのがあった。翌日の便は、早朝だが、元旦の旅の目的は充分叶う。旅行会社から航空券は届かず、メールでバーコード付きの予約番号が送られてきて、そのコピーで搭乗手続きができるのである。便利な時代になったものである。全て自分ですることになるのだから、経費も安くなるはずだ。
 
 元旦の函館行きに拘ったのには理由がある。同志社大学の設立者である新島襄の海外渡航の地だったからである。昨年の十一月に京都に行き、若王子山に眠る新島襄の墓参りを三〇年ぶりにした余韻も残っている。たまたま入学した学校が同志社大学であったが、半生を振り返ると、自分のどこかしらに新島襄の精神が沁みついているような気がするのである。それにしては、新島襄の人となりについては知らな過ぎる。
 昼近くにホテルのある函館駅に空港からのバスで着く。朝市がある場所で、新鮮な魚介類が食べられる。元旦でも観光地だからか店が開いている。海鮮どんぶりを食べて、新島襄の海外渡航の地に徒歩で向かう。駅の観光案内でもらった地図を片手に、ぶらぶらと歩いて行くと、人力車引きの若いアルバイトの男性に声をかけられる。
「メタボ対策で歩きにしますから結構」
相手も納得してくれたようで、しつこく誘うようなことはしなかった。途中には、明治館のような赤煉瓦造りの建物があって、レトロな雰囲気が漂っている。歩道には雪が残っていて、転倒しないように注意して歩く。
 
 新島襄の海外渡航の地には碑が建てられている。海上自衛隊の函館基地の近くにある。向かいには人工島らしき島がある。碑は、一九五四年に同志社大学が寄贈、函館市が建立したものである。漢文が刻まれている。
 男児決志馳千里
 自嘗苦辛豈思家
 却笑春風吹雨夜
 枕頭尚夢故園花
新島襄には志があった。新島襄ばかりでなく幕末の人々の中には志を持つ人が多かった。志士と言われる人々で、文字通り武士階級に生まれている。初めは、尊皇思想に惹かれた痕跡があるが、渡航後は、キリスト教の神になった。その根本には至誠という資質があるように思うのである。国を思い、家族を思い、国民を思う。どこに重点を置くかは別にして、自分を後にする精神では一致している。加えて命がけということがなければ、志という精神は生まれてこない。その志に人々が共感するのは、至誠の精神があるからである。死の直前に詠んだ漢詩にもその精神が読み取れる。
歳を送りて悲しむを休(や)めよ病羸(びょうるい)の身
鶏鳴早く已(すで)に佳辰を報ず
劣才縦(たと)え済民の策に乏しくとも
尚壮図を抱いて此の春を迎う
海外渡航を企てた志士に吉田松陰がいる。こちらは、失敗し、死罪にはならなかったが投獄された。後に許されて、松下村塾を開き、明治国家に重き役割を果たす人物を多く輩出したことはよく知られている。松陰も至誠の人であった。
 新島襄は、一八四三年に江戸の安中藩邸で生まれた。父親の民治は、祐筆という今日で言えば藩の庶務係のような仕事をしていた。極めて誠実温厚な人物であったらしい。
祖父は弁冶といい、新島襄がアメリカ滞在中に死んだが、教養もあり、信仰心の強い人で、幼年期の新島襄の人格形成に強い影響を与えている。新島襄が幼年期を綴った文章の中に次のようなエピソードが残っている。新島襄の幼名は、七五三太と言った。命名したのは弁冶である。新島家に男児が生まれたのを喜び、「しめた!」と叫び、それがそのまま名前になったというのは有名な話である。その名付け親の弁冶が、厳しく七五三太を叱ったことがある。母親の言いつけを守らず、下品な言葉で反抗する場面を目にした弁冶が、有無も言わさず七五三太を押し入れに閉じ込めた。一時間程閉じ込められた後に解放されたのだが祖父の行為に納得がいかなかった。弁冶は、「もう泣くかんでもよい」と優しく声をかけ次のような句で七五三太を諭したのである。
 憎んでは打たぬものなり笹の雪
その祖父は、海外渡航を打ち明けた訳ではないが、箱舘(当時はそう呼ばれていた)行きの送別として
 行けるなら行って見て来よ花の山
という句で激励した。これが、祖父との永別となった。函館の地に建つ碑に書かれた故里を思う気持ちの背景には、愛情溢れる家族があったのである。
 
 この函館から日本脱出を強行した日は一八六四年七月一七日の夜半であった。その手助けをした人物が福士成豊で、後に日本で最初に函館に気象観測所(自宅)を造ったことでも知られている。共犯ということになるかもしれないのに勇気のある人物であるに違いない。新島襄の志に感動したからであろう。対照的に、ギリシャ正教の布教のため来日していたニコライ神父は、新島襄の海外渡航に反対したらしい。その真意は知らないが、自分がキリスト教や英語を函館の地で教えてやろうと言って押し留めようとした。逆に日本語や日本の知識を学ぼうとし、新島襄は四〇日程ニコライの住まいに寄宿している。国禁を犯してまでも渡航にこだわったのは、自分の目と肌で体験しなければ気が済まない、志とは別の好奇心が強く働いたからのであろう。不思議なことに、帰国後の新島襄は、東京に移って布教していたニコライとは交渉を持った形跡がない。
 この日、碑のある場所には若い男女が一組いるだけで、すぐに立ち去り碑を見るために来たのかは定かではない。碑をカメラに収め、数分目をつむり、小舟に隠れベルリン号に乗船する新島襄の姿を想像してみた。その時、海ねこらしき鳥の声がしたので目をあけて見る。鳥なら自由に空を飛べるが、新島襄のような志はない。渡航した年は、二一歳である。
「新島先生、思い切ったことをやりましたねえ」
ホテルへの帰り道、無料で開放されている足湯に浸かった。〝洗足〟という言葉もあるが、〝ぬるま湯に浸かる〟という言葉もある。自分の場合は、後者であって決して偉人にはなれないと自覚した。あえて苦難を求めるような生き方はできないからである。
 函館から上海を経由してアメリカ大陸(ボストン)に渡ることができたが、約一年の月日を費やした。上海からアメリカまでは、ワイルド・ローヴァー号という船で航海したのであるが、テイラー船長という人物が好人物であった。ジョーという名前で呼んだのは彼である。刀を彼に売り渡し聖書を買い、身も心も武士を捨てたつもりであった。しかし、武士の精神は形を変え消え去ることはなかった。士族階級であった内村鑑三にも、日本人的キリスト者という感じがあるように。『武士道』を書いた新渡戸稲造もしかりである。
 新島襄は、人との出会いにおいて幸運だったと言える。それは、彼の人格がもともと誠実だったからである。誠実さのようなものは、異国においても伝わるものである。新島襄のアメリカでの最大の理解者は、ハーディー夫妻であった。ハーディーは養父となり、生活費、学費のほとんどは、見返りも求めることなく彼から出た。夫妻は、敬虔な清教徒であった。しかも夫は実業家で、ワイルド・ローヴァー号の船主であったことがご縁になった。神の導きという言い方でも良い。つたない英語で、日本を離れた目的を新島襄は夫妻に伝えた。魂は伝わった。
G・ブッシュ元大統領の母校であるフィリップス・アカデミーを卒業し、英語の基礎とピューリタン精神を体得した新島襄だが、もともと彼の人格は、紳士的だった。改めて異国で新しい衣を纏ったという感じである。さらに、私立の名門大学であるアーモスト大学で理学士の資格を得るのだが、キリスト教の信仰への確信を得たことが彼のその後の人生を決めている。
幸運な出会いと言えば、アメリカ滞在中に少弁務使(駐米公使)として日本から派遣されてきた森有礼との出会いである。彼によって、新島襄の密出国者の立場は解かれたのである。森有礼は、帰国後には文部大臣になり、新島襄の同志社の事業に協力者となっている。留学生の身分となった新島襄だが、日本政府から送金を受けたわけではない。幾度となく、森有礼や黒田清隆、岩倉遺外使節団の随員であった田中不二麿らに官吏になることを要請されるが全て断っている。田中不二麿は、帰国後の新島襄の協力者となったが、新島襄に固辞されると
「君は耶蘇の奴隷じゃ」

と言って誘いを断念したが、新島襄も田中不二麿には、自己保身が強く、天下を憂うる士ではないと失望する。しかし、新島襄は田中不二麿により、岩倉遺外使節団の通訳、翻訳要員としてヨーロッパの視察にも加わっている。このときにも政府の随員でなく、対等な契約により臨時に採用された形にこだわった。しかも高額な契約金だったらしい。いずれにしても、アメリカ滞在中の明治政府高官との接触は、帰国後の同志社の事業を進めていくための人脈形成に大いなる財産になったことは確かである。
十年近いアメリカ滞在を経て帰国した新島襄は、キリスト教を基盤とした学校を設立し維持発展させるため、病弱な体をすり減らしながら、募金活動と行政府とねばり強く交渉していく。それを支えたのは神への使命感であることが、多く書き残した新島襄の手紙や講演などからわかる。政府の役人になれば、西洋文明をとりいれた学校は、容易にできたであろうが、神が託したものではなかった。真の学の自由は、神のもとに忠実である精神の中にしかないという確信があった。「君は耶蘇の奴隷じゃ」という田中不二麿の言葉もあながち間違いではない。
新島襄は、筆まめであった。政府の要人にも面識はなくも、自分の考えを手紙で書き送っている。達筆でもあり、詩心もあり、まして憂国の人であったから、政府の要人や財界人からも寄付が集まった。また、行動の人でもあり全国各地を托鉢僧のように回っている。旅も良くした人である。また、新島襄がアメリカン・ボードの準宣教師であったことも忘れてはならない。アメリカからの資金が事業を大きく支えたのも事実である。
今、新島襄と重なる人物を思い出している。榛名山麓に結核療養所と老人福祉事業を築き上げた、故原正男氏である。二人の共通点が多いことに改めて驚いている。二十年を超えて原先生のもとで働けたことは何よりも幸運であった。新島先生のお導きかもしれない。
次のことは、余談であるが、函館の魚介類の中で有名なのは、烏賊だと聞いていた。蟹は冷凍技術も発達してどこでも食べられるから生きた烏賊がうまいのだという。ホテルの近くの店で活き造りの烏賊を食べさせてくれるというので注文した。調理場で料理された新鮮な刺身が出てくるかと思っていたら、食卓の上で解体し始めた。いちいち部位を説明され、眼の前に出されると食欲もわいてこない。店の人からすれば、ショーのような気分でサービスしてくれたのだが、客は閉口するしかなかった。出された烏賊は、思ったより硬い。足は醤油に浸すたびに動くし、吸盤で皿から離れず口の中でも抵抗している。人間はやはり罪深いに違いない。味わう余裕もなくビールも半分残して退散した。帰宅したら、さし歯が一本抜けてしまった。天罰に違いないと思った。
  

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2013年11月06日

『白萩』(拙著)二百年の計

二百年の計
 十一月二十九日(土)、京都に行く。ここ数年は京都の街に降り立っていない。通過点になっている。この日、同志社大学の心理学科が、来年四月に文学部から独立して心理学部として開設されるのを記念してシンポジウムが開かれた。会場は、室町キャンパスにある寒梅館ハーディーホールである。テーマは〝「心育の時代」に向かって〟となっている。基調講演を茶道裏千家家元の千宗室氏が行った。演題は、「心の探検」である。家元は、文学部心理学科の卒業生である。
 
 家元が、心理学を専攻したのは「名状し難い不安感」のためだったという。伝統ある裏千家の御曹司にも心に重圧を感じることは、当然あるだろう。小さい頃、先生にも
「君は就職の心配をしなくてもよいからいいね」
などと言われたことは、いじめではないが心に棘のように刺さった。心理学を専攻したことによって、不安感から解放されたわけではなかったが、「不安は影のようものだ」という結論には、感心した。日が差せば、影ができるが、曇れば消える。自分という体があるかぎり、影は生まれる。いつも一緒にあるものだと思えば良いというのである。裏千家は、伝統的に大徳寺で禅を学ぶ。座忘斎千宗室の悟りなのかも知れない。
「千さん帰りはったで」
と恩師の橋本先生がホールに座っていたら声掛けられた。今日は、先生の家に泊めていただくことになっている。電話でご連絡した時に、家元の講演の話になって、機会があればご挨拶したいと言ったのかもしれない。それを、先生は気にかけてくださっていたのである。
「お話をうかがえただけで十分です」
講演から休憩をはさんで、シンポジウムも開催されたが、興味ある内容であった。少子化が進むのと逆行するように、生徒数を倍増するのも、心理学が「心育の時代」にふさわしい学問だという読みがあるのだろう。
橋本先生のお宅には、愛犬が留守番をしていた。コーギー犬でイギリスウエールズ地方の牧畜犬である。名前は「グラス(草)」という。本来ならば、退官されてまもない大学教授であれば、慰労会に出席することになるのだろうが、先生は
「荻原君。はよ帰ろ。犬が心配やから」
とタクシーをひろって自宅に案内してくださった。この日、奥様は、群馬県の親戚の家に泊まりに出かけていて、グラス君が家を守っていたのである。
 夕食は、近くの中華料理店で御馳走になった。二年前の教授退官のお祝いには出席したが、大勢の卒業生の中ゆっくりと話せなかった。この日は、それができた。
 「Y君(シンポジウムに参加した心理学専攻の教授)が鴨長明の文章を引用したのは、驚いたなあ。行く川の水は絶えずして、しかももとの水にあらず。::あれなあ。わしの父親もよう口にしてたわ」
人の世は、うつろい儚い。だから優しさ、情が大切だというのが橋本先生の人生観である。人と争ったりすることは、極端に嫌われる。同志社大学創立者の新島襄の精神をよく受け継がれている。すっかり、時間も忘れるほどに時は過ぎたが、グラスが家で待っている。グラスは、見知らぬ人にはよく吠える犬だが、夜は吠えず、おかげで安眠できた。そればかりではない、いつもと同じ目覚めの時間に起こしてくれた。主人である先生に、散歩の催促の意思表示だったのかもしれない。
 
 朝、九時半頃先生の家を発つ。若王子神社の付近に自家用車で送っていただく。この神社の裏山に新島襄の墓地がある。三十年程前に友達と墓参した時の写真が残っているが、昇り口あたりの記憶はほとんど残っていない。昨夜、新島襄の墓参のことを話したら、二冊、関係図書をくださった。
 京都に、同志社英学校が開設されたのは、明治八年(一八七五年)十一月二十九日で、昨日が開校より百三十三年目に当たっていた。開設者は、新島襄だが、京都府の行政に関与していた山本覚馬の協力が大きい。山本覚馬は、会津藩士で戊辰戦争では、官軍と戦っている。捕らえられたが、後、許されてその能力を買われ、京都府の議長も務めた人物である。同志社が設立される前、明治五年に公立の女学校女紅場の開校に関わっている。開明的な思想を持ち、幽閉中に口述筆記させた建白書『管見』は、明治新政府の要人の目に留まった。既にその時、盲人であった。山本覚馬の妹が、新島襄の夫人になった八重である。山本覚馬との出会いがなかったら、同志社大学が今日、京都御所と今出川通りを挟んだ地に存在することはなかった。同志社の今出川キャンパスは、幕末薩摩藩邸があった場所で、山本覚馬の名義を経て、同志社に譲渡されている。
 新島襄の墓は、小高い山の頂上あたりにあるが、京都市の共同墓地の中にある。八重夫人の墓は新島襄の墓の隣にあり、山本覚馬の墓も近くにあった。山本覚馬の墓の隣には、徳富蘇峰の墓(分骨)がある。徳富蘇峰は、キリスト教から離れたが、新島の臨終にも立ち会って、その遺言も書き残した。『新島襄の手紙』が岩波文庫にあるが、夫人の八重を除けば、一番多く手紙を書き送った人物である。国民新聞の主幹として、政財界の重要人物とのパイプ役になったのが、蘇峰である。同志社大学の設立に向け、募金による資金づくり、認可に向け蘇峰は新島襄から頼りにされていた。
新島襄の周辺には、クリスチャンと思われる人々の墓石が多い。同志社ゆかりの人々の墓であろう。墓地へと向かう山道の入口には、若王子の町内会が用意した、竹の杖があった。「同志社関係の皆様自由にお使いください」と書いてあった。
 新島襄の現在の墓は、埋葬後建立された墓石ではない。風化が進み、昭和六十一年に不慮の事故によって倒壊し、翌年再建されたものである。不慮の事故とはなんだったのだろうか、同志社の学生が、倒してしまったらしい。悪気があってしたことではないのだろうが、寛容な新島襄であれば、地下から「気にしなくともよい」と許してくれるに違いがない。
 同志社開校間もない頃、生徒間にトラブルが起こり、木の杖で自分の腕を打ちすえ、校長である自分の責任を生徒の前で示した「自責の杖」事件でもわかるように、新島襄は他人を責める人ではない。この杖を、展示会で見たことがあるが、一片は小さな欠けらになっているが斜めに割れている。
 
 新島襄は、明治二三年一月二三日に大礒の百足屋で急性腹膜炎によりで死去した。四七歳であった。東海道線が開通しており、二四日の真夜中に京都の七条駅につき、新島邸に安置され、二七日に同志社チャペル前のテントで葬儀が行われた。参列者は四千人で、棺は生徒が交代で、若王子山頂まで運んだ。数年前に亡くなっていた父民治の眠る南禅寺に埋葬する予定だったが、南禅寺が拒否した。新島襄はキリスト教の大立物と見られていたからである。
 新島襄の墓碑を揮毫したのは、勝海舟である。徳富蘇峰が、依頼した。新島襄の学校設立には批判的だったが、熱意が伝わると賛成し、良き理解者になった。新島の死に、弔文を寄せている。勝海舟には、新島の学校設立の事業が急ぎ過ぎと感じていた。
「時間をかけておやりさい」
ということだったのだろうが、元来病弱な体だった新島襄には、急ぐ理由があったのである。
その新島襄が、自分の計画は、二百年かけて成就すると答えたとき、勝海舟は、賛同を示したという。
 二百年の 計あり京は紅葉して
この日の、京都は紅葉の最盛期で、若王子から丸太町寺町上ル松陰町の新島旧邸までタクシーに乗ったが、銀杏が見事黄色に色づいていた。
 京都御所の東、手町通りに接して新島旧邸が今も保存され、一般に公開されている。二階建の和洋折衷の木造建築だが、セントラルヒーテイングになっていた。冬の京都は寒いので、病弱な新島襄には快適に過ごせる住まいが必要であった。床を高くし、夏は涼しく過ごせる工夫もされている。トイレは、洋式になっている。一階に書斎があるが、几帳面さを物語るように、本は整然と書棚に収まり、机の上に積み重なっていた。当時のままを再現しているという。
 新島旧邸と少し離れたところに附属屋があり、両親の隠居屋として使われていた。こちらは、平屋の和風建物で、展示コーナーになっている。レプリカかも知れないが「自責の杖」も展示されている。新島旧邸を囲むように、新島会館別館と新島会館がある。新島会館は校友会が管理していて、講演会や演奏会などに使用されているが、昭和六〇年に現在の建物が建てられる前には、洋風の木造の建物があって、予約すれば、卒業生は宿泊することができた。昭和五五年に新婚旅行の時宿泊し、翌年京都を訪ねるのにあたって再度宿泊した時、ズボンを忘れていたらしく、職員の人が忘れ物ですと言って渡された時はビックリした。
 寺町御門から、御所に入り今出川キャンパスを目指す。とにかく御所は広い。松が多いが、ところどころに紅葉した木々がある。天気もよく、青空との組み合わせが実に気持ち良い。今出川通りを渡り東門から入る。入って直ぐの所に良心の碑が建っている。
 
 良心之全身ニ充満シタル丈夫ノ起リ来ラン事ヲ  襄
校内は卒業当時とほとんど変わっていない。ここには、重要文化財の建物が多い。建設順に揚げてみると、彰栄館(明治一七年)、礼拝堂(明治一九年)、有終館(明治二〇年)、ハリス理化学館(明治二三年)。ここまでが新島襄が生きていた時代の建物である。クラーク記念館(明治二七年)は、神学館として建てられ、阪神大震災を契機に、平成一九年に修復工事が完成した。アーモスト館(昭和七年)は同志社女子大学の敷地に建てられた学生寮だったが、現在は、国際交流施設として改修工事が行われている。
 この日、ハリス理化学館の二階で「早稲田と同志社」の企画展が開催されていた。早稲田大学は、大隈重信が中心になって開校した私学である。展示会を見ると、新島襄と大隈重信とは親交があったことがわかる。政界にあって、有力な政治家の一人、井上馨も同志社の理解者であった。早稲田と同志社の交流は、現在、学生の交換留学の形で継続されているが、同志社の出身の新島の弟子とも言える、大西祝、浮田和民、安部磯雄らが早稲田の教壇に立っていることが、両校の関係を強くしている。
 この展示室の隣には、新島襄の常設展示コーナーと思われる部屋があって、ここには、アメリカに渡る途中、船長に売ったとされる、刀があった。また、明治一六年に開かれた、第三回全国基督教信徒親睦会の集合写真があった。この写真は、長野県安曇野の井口喜源治記念館で見たことがある。新島襄と内村鑑三が並んで写っている。後ろには、横井小楠の息子時雄(同志社総長)もいる。前列には、安中教会の中心になり、同志社に無給で奉仕した、湯浅治郎が横向きの顔で腰かけている。横浜バンドの出身の牧師、植村正久もこの親睦会に出席し、新島襄の説教に感動した一人だというがこの集合写真の中にいるのかは確認できなかった。植村牧師とは、長老派と言われる人々の代表的人物として合同問題が持ち上がった時に意見を異にすることになる。新島襄の属する教会は、組合派と言われ、民主的な色彩が強く、長老派は寡頭政治のように、一部のリーダーの力が強く働く要素があった。その違いがあって、合同は実現しなかったのである。身内の同志社出身者からも合同に賛成する人もいて、苦渋の日々を過ごしたことが死期を早めたかもしれないが、このあたりに新島襄の信念の人の一面が顕れている。
 
 石金も透れかしとて一筋に射る矢に込むる丈夫の意地
 真理は寒梅の如し敢えて風雪を侵して開く
という新島襄の歌が浮かんでくる。
してはいけないこととは思いながらフラッシュなしに設定し、デジカメで撮ったらとても良く写っていた。少し大きめに現像し、書斎の机の上に置いて今この紀行を書いている。近代日本のキリスト教の黎明期の人物がこの写真の中にいると思うと貴重な写真である。
写真ではないが、新島襄のアメリカでの風景画があったが、見事なものである。スケッチや、即興の風刺画もなかなかのものである。改めて新島襄の知らない一面に触れたような気がした。
帰りの新幹線の中で、橋本先生からいただいた本、一つは『新島襄の生涯』著者J・D・デイヴィス(北垣宗治訳)小学館、もう一冊は、『現代語で読む新島襄』編者学校法人同志社、丸善、に目を通しながら、新島襄の精神を考えて見たが、改めて偉人だと思った。偉い人とはどのような人かと昔自分なりに考えてみたことがあった。
一、 人ができないような命がけの生き方をすること
二、 社会のために尽くすこと
三、 謙虚であること
四、 多くの人から慕われること
五、 情熱があり、自分の理想を実現できる意思が継続できること
新島襄には、この全てがあてはまる。元旦には、国禁を犯し、海外へ渡航した函館の地を訪問し、新島襄の続編を書いてみたくなった。
  

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2013年11月05日

『白萩』(拙著)光と影、表と裏、継承

光と影、表と裏、継承
 随分と抽象的なタイトルになった。上野の森は、芸術鑑賞ができる一大ゾーンになっている。秋も深まりつつある十月十九日、東京都美術館では、十七世紀のオランダの画家フェルメールの作品が展示され、東京国立博物館では、俵屋宗達、尾形光琳、酒井抱一、鈴木其一ら江戸時代の日本画家の作品が「大琳派展」と名をうって開催されていた。西洋絵画と日本画の展示会を同じ日に見られるのも、上野ならではである。
 明治から大正にかけて、多くの美術家が活躍し、優秀な作品が生み出されたが、本格的な美術館が日本には存在しなかった。仮の展示会場が設けられることはあっても、常設展示ができる、美術作品専用の建物という意味での美術館は、当時は帝都といったが、東京にもなかったのである。
 東京都美術館には何度も足を運んでいるが、現在の建物は、昭和五十年に開館した建物である。初代の東京都美術館は、大正十五年に建設されている。驚いたことに、日本最初というべき、東京都(当時は府)美術館は、一人の私人の寄付金で建設されたのである。寄付されたのは、大正十年、寄付したのは佐藤慶太郎という炭鉱商である。
 佐藤慶太郎の像が、館内に今も置かれているが、決して目立つ場所にはない。像の作者は、朝倉文夫である。彫刻界では著名な人物で、自宅を「朝倉彫塑館」として今日に残している。明治十六年に大分で生まれた人で、荻原碌山や高村光太郎らと並ぶ、日本近代彫刻の草分けのような存在である。彼の作品で、同郷の滝廉太郎の座像を十年近く前に岡城址で見たことがある。
 寄付された金額は、百万円。今日のお金に換算すると三十億円を超える。財産の半分に相当する金額でもあった。佐藤慶太郎には妻がいたが、実子がいなかった。後に、残りの財産もほとんど社会事業や公に寄付している。日本のカーネギーという人もあり、生涯カーネギーのような人生を目指し、実践した人物であった。彼の経済界での成功は、筑豊炭田の石炭の商いによる。火野葦平の「花と龍」にも登場する。現在の北九州市の若松を拠点にし、信用第一を信条にし、投機的ではない誠実な商い、加えて石炭そのものへの研究心が商売に説得力を持たせた。他人に頼まれても揮毫することはなかったが、一人の巡査の熱意に心を許し、生涯に一度筆を走らせ与えたことがある。達筆な横書きの文字は「公私一如」と書かれていた。
 西洋絵画のコレクションについては、倉敷紡績の大原孫三郎や、川崎造船の松方幸次郎が知られているが、彼らは経済人として財を築いただけでなく、芸術への関心も強かった。佐藤慶太郎の場合、そうした趣味人でもなかった。佐藤慶太郎が、寄付を思い立ったのは、芸術家達が、東京府知事に美術館建設を陳情する新聞記事を、東京に出張した折に目にしたことから始まっている。六十歳近くになり、持病の胃腸病に悩まされ、事業の縮小を決意し、今後は社会奉仕の道をと模索していたこともあったが、若い時から「公私一如」の精神の実践があったからであろう。
 
 初代の東京都美術館は、どのような建物だったのだろう。当時の写真が残っている。建物の正面には六本の円柱が並び、広い石段を登るようになっている。建物全体は四角で、回廊中庭式になっていて周囲に絵画が展示され、中央部に彫刻が展示された。「光の中庭」と呼ばれたように、天窓から採光の工夫がなされていた。外観はギリシャ風建築に見えるが、法隆寺が設計者に意識されていたという。設計にあたったのは、岡田信一郎という人である。明治生命本社ビル、歌舞伎座、鳩山会館などの作品で知られている建築家である。東京帝国大学で建築を学び、卒業時、成績最優秀者として恩賜の銀時計を受けている。東京美術学校や早稲田大学で教鞭をとり、日本建築史や建築意匠、製図などを教えた。
 大正十五年から、五十年を経過した、昭和五十年に老朽化により解体されることになったが、保存を求める声もあった。「残したい奉仕精神と美術館」と題して朝日新聞の声欄に切々と訴えた人物がいる。その人とは、加藤善徳(よしのり)氏である。昭和六十二年に亡くなられているが、この方には数度お会いしたことがある。『次郎物語』の作者、下村湖人に師事し、他に社会事業家、後藤静香の社会教化運動にも参加し、晩年『後藤静香選集』の編集に中心的な役割を果たした。戦後は日本点字図書館の専務理事として、盲人の本間館長を助けた人である。夫人は、加藤道子さんといって、社会福祉の分野で活躍された方である。夫人も先年鬼籍に入られた。
 
 佐藤慶太郎と加藤善徳氏の関係を知ったのは、東京美術館の販売コーナーで購入した『佐藤慶太郎伝』斉藤泰嘉著(石風社)を読んだからである。著者は、東京都美術館の学芸員を長く務めた。昭和六十一年に、亡くなる一年前の加藤氏を訪ねている。加藤善徳氏は、戦前、戦後三度にわたって佐藤慶太郎の伝記を書いていたのである。それは、加藤善徳氏が佐藤慶太郎が私財を提供し、自ら理事長になって活動した「生活館」に行動を共にしたことがあったからである。「生活館」の正式名称は、佐藤新興生活館といって、富士山麓の聖者と言われた山下信義らの思想を基に、理想的な生活のあり方を実践普及させようとした団体である。拠点にした建物は、現在も駿河台に「山の上ホテル」として残っている。加藤氏は、佐藤慶太郎の人物を近景として描写できた人で、文才があった。斉藤氏の本のあとがきに、加藤氏が書いた伝記が大いに生かされたことが記されている。
すっかり、美術鑑賞を忘れ、佐藤慶太郎というスケールの大きい篤志者に引き込まれてしまった。芸術、文化、人生には光と影、表と裏があるが、何よりも継承ということが大事だということを考えさせられた一日であった。

 フェルメールは、ブリューゲル、レンブラントらに続くオランダ絵画の巨匠とされているが、残されている作品が少ない画家である。しかも、日本に所有されていないので、ほとんど実物を国内で観ることができないのだという。光と影の画家とも言われるレンブラントとは違うのだが、数点見た絵の共通点として、窓辺の人物が描かれている。自然と窓の外から差し込む光と、部屋の暗い部分のコントラストの中に人物が描かれることになる。「手紙を書く婦人と召使」などがそうで、今回は展示されていなかったが「牛乳を注ぐ女」もそうした構図の中に描かれている。当然に光が強調されるのだが、影を描かなければ光も生きてこない。人生模様を暗示しているようでもあると思った。佐藤慶太郎という人物は、太陽のように光の源になるほどの強烈な眩さはないが、世の光となっている。しかし、佐藤に身近に接し、伝記を書いた加藤善徳氏は影のような存在にも思える。しかし、書き残した文章は、月の光のように佐藤慶太郎の「奉仕の精神を」後世に残し、照らすことになった。加藤氏の思いが、斉藤泰嘉氏に継承されたからである。

 「大琳派展」は、壮観であった。特に屏風に描かれた風神雷神図は圧巻であった。年代順に言えば、最初に俵屋宗達が描き、次に尾形光琳が描き、酒井抱一、鈴木其一と続くのである。この間二〇〇年の時が経過している。美の継承、美の系譜とも言える。姫路城主の弟に生まれた酒井抱一は、尾形光琳の屏風の裏に「夏秋草図」を描いた。風神の裏側は、秋風に靡く芒や、どこからとなくちぎれて飛んできた蔦紅葉などが描かれている。雷神の裏は、雨に打たれた夏草や百合の花、雨水の流れる様が描かれている。表の風神雷神図が金の背景なのとは対照的に銀の背景になっている。尾形光琳から一〇〇年後の画家である酒井抱一は、尾形光琳を尊敬し、その技法、精神を継承した。銀の背景にしたのは、師ともいうべき尾形光琳への敬意の表れに違いない。
  

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2013年11月04日

『白萩』(拙著)ごん狐の故郷

ごん狐の故郷
 
 愛知県知多半島に半田市という地方都市がある。古くから醸造業が盛んで、ミツカン酢の本社と工場がある。木造の黒塗りの建物が運河一帯に立ち並び、電線や看板もなく、江戸時代にタイムスリップしたような感じがする。どこからとなく、酢の香りがしてくる。JRの半田の駅から近く、徒歩で五分程の距離にある。酢の博物館があって、無料で見学できるが、予約しないと入館できない。職場の友人の実家が、半田市にあって、父親の七回忌の法事のために帰郷することを聞いていたので、法事の前日に半田市を訪問することになった。午後二時に、駅で待ち合わせし、少し早く着いたのでミツカン酢の建物を見たのである。
創業は、一八〇四年というから二〇〇年も続いている老舗のような存在であるが、今日、日本の酢の大きなシェアーを占めている大手企業である。初代の中野又佐衛門という人が、酒粕から酢を造ることを開発し、江戸の人々に大いに好まれたという。中埜酒造という兄弟会社のような酒造会社もあるが、別会社になっている。半田市に来たのは、ミツカン酢の工場見学のためではない。半田市の出身の童話作家の記念館と、田園風景を見たいと思ったからである。
 
 童話作家とは、昭和一八年に二九歳で亡くなった新美南吉で『ごん狐』の作者として知られている。ごん狐の話は、多くの人が知っている。長く小学校の教科書に載っているからである。昨年だったか、NHKの教育テレビの「こころの時代」で新美南吉のことが放映されたことがあった。映し出された新美南吉の生誕の地の風景の中で、彼岸花が一面に咲いた風景が印象的だった。ごんぎつねが、息子の兵十が母親のためにせっかく捕った鰻をいたずらして逃がしてしまった矢勝川の堤防である。そして、新美南吉の故郷は、職場の友人の故郷でもあったのである。そのことを彼に話したら、新美南吉の資料をたくさん貸してくれた。不覚にもこの歳まで新美南吉の名前さえも知らなかったのである。「北の賢治、南の南吉」と対比するほどの童話作家としての評価が高い人物にもかかわらず。
 五年前、宮沢賢治の生地である花巻を訪ねたことがある。童話を読んだからという訳ではなく、彼の生き方そのものに関心があったからである。賢治には、自然界への想いの深さと洞察力があり、何よりも
「世界が全体幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」
という言葉には感動した。「雨にも負けず」の詩の意味もわかったし、事実そのように生きようとしたことも。人生は決して長さではないとも感じた。
 新美南吉とは、どのような人物であったのだろうか。宮沢賢治ほど、人物の詳細は世に伝えられていないし、研究者も多いわけではない。新美南吉全集が刊行されているが、それを調べてみるエネルギーと時間は持ち合わせていない。友人からお借りした童話集と数冊の小冊子だけが情報源である。後は、彼の生まれ育った場所を訪ねてみるだけである。
 
 新美南吉の生れたのは、大正二年である。西暦に直せば一九一三年だから、生きていれば今年で九五歳になる。本名は、渡辺正八といった。兄が夭折し、その名前を受け継いだ。母親は病弱で、新美南吉が四歳の時に死んだ。奇しくも亡くなった時の年齢は、新美南吉と同じである。新美姓になったのは、祖母の住む母親の実家に養子に入ったからである。一人さびしい少年時代であったことは容易に想像できる。また、彼の童話にもそれを感じさせるものがある。新美南吉の父親は再婚し、継母の間に弟が生まれている。その継母は、一度は離婚し、また入籍するという複雑な事情もあった。小学校、中学校と成績が優秀であった少年には、微妙な心境を与えたことであろう。
 「でんでんむしのかなしみ」という彼の作品がある。きわめて短い童話であるが、あるとき、でんでんむしは、自分の背に負った殻の中にかなしみがつまっていることに気づく。そして、他のでんでんむしに尋ねてみると、誰もがおなじように悲しみを殻に背負っていることを教えてくれる。そして、でんでんむしは、かなしみを受けとめることができるという話である。かなしみを通じた他者との共感と表現するのは、大人の世界であり、こういう話を絵本で見た子供の実感は、言葉以上のものを心に宿すことになるだろう。新美南吉記念館に「でんでんむしのかなしみ」の絵本があったので、購入したら皇后陛下がお心にとめた童話だということが、帯に書かれてあった。皇后陛下は、童話に強い関心を持たれておられることは、有名である。何がお好きかということを、外に出されないのが皇室の伝統だが、こうした童話が多くの人々の読むきっかけになるのであれば、良いことに違いない。
 以前、出雲大社に参拝した折に、皇后陛下の講演を小冊子にしたものが、無料で配布されていたことを思い出した。そこには、日本武尊と弟橘媛の話が書かれていた。夫が無事に荒海を渡れるように自ら海神を鎮めるために海に身を投じる話である。少女時代に読んだ思い出を語られているのである。新美南吉の作品ではないが『泣いた赤鬼』という短編の童話があるが、自己犠牲の愛をこの童話も伝えている。人の悲しみがわかるということは、素晴らしいことであるが、人間というのはつくづく自己中心的にできている。このような童話に感心しても、なかなか大人の知恵が働いて、自己弁護したり保身を図り、行動に移すようなことはしないものである。子供たちは、いつも先生や大人を見ている。特に先生方は、教師の言葉もあることだから「言うは易し、行うは難し」という言葉を肝に命じておかなければならない。新美南吉は、教師をしながら童話を書いていた時期があった。生徒思いの先生だったという証言があるから、童話に書かれているような心性を持った人だったのであろう。
 喉頭結核が直接の死因になるが、亡くなる年に『狐』という童話を書いている。この話も母親の自己犠牲を子供が辛く、悲しみと受け止めるのだが、『ごん狐』よりも晩年に創られただけあって、童話作家としての境地として深さを感じる。話の最後に、母親と子供の会話が出てくる。夜に、新しい下駄を履くときつねになるという話を聞かされた子供が真剣に悩むのである。そうすると、母親は、父親も母親もきつねになって一緒に山に住むと言って慰める。子供は、想像をたくましくして、猟師がきたら困ると心配する。そのときは、父親と母親で手を引っ張ってあげるというのだが、子供は納得しない。猟犬は足が速いからすぐ捕まってしまうという。母親は、そこで自分がびっこになって、犬に捕まるようにするという。子供は、それは絶対嫌だと泣き出す。そして、しばらくすると泣き疲れたのか寝てしまう。母親はそっと枕をあてがってやる。家族愛ととりわけ母親のぬくもりが感じられて、新美南吉が追い求めてきた世界があるような気がした。
 新美南吉の童話に流れている特質を、北原白秋の弟子ともいえる詩人与田準一は、「生存所属を異にするものの魂の流通共鳴」と少し哲学臭い評価をしているのだが、とりわけ動物に対する「魂の流通共鳴」が強い。柳田国男が全国から日本の昔話を収集しているが、動物を擬人化した話は多い。特に狐は、人をだます悪賢い役になるが、新美南吉の描く狐には、彼の同情も寄せられているのか、優しく可愛い印象さえある。『手ぶくろを買いに』の子狐などにその感じがある。ごん狐は、兵十の鉄砲で撃たれて死ぬのだが、傷が浅く兵十に看病され生き返り、仲良く暮らすという展開にしてあげたいとも思うのだが、ハッピーエンドではないから良いのかも知れない。

 新美南吉記念館は、駅からそう遠くにはないが、職場の友人の息子さんが、父親を乗せて駅まで迎えに来てくれて案内してくれた。写真では拝見していたが、初対面である。実に明るく、爽やかな青年である。大学時代は、ラグビーの選手でイギリスまで遠征したことがあるというたくましい肉体の持ち主であった。福祉大学を卒業して、児童の福祉施設に勤務している。記念館には、友人の母親と奥さんが待っていてくれた。職場結婚だった彼の奥さんとは、二十年ぶり以上の再会ということになるらしい。
新美南吉記念館は、少し変わった建物である。鉄筋コンクリートの建物なのだが、屋根が湾曲していて芝生が植わっている。遠くから見ると公園のように見える。建物の横を走る道路の先には、矢勝川が流れ、その先には里山の権現山が見えた。彼岸花の咲く時期には少し早かったが、早咲きのものが少しあった。新美南吉の故郷、ごん狐の故郷を訪ねる願いは充分成就したと感じた。
市の共同墓地に、友人の父親は眠っている。友人ご家族と一緒に墓参させていただく。彼の父親とは、結婚式の時にお会いしただけである。驚いたことに、新美南吉のお墓がこの墓地の一画にあった。石碑のような大きな石塔に新美南吉の墓と書いてある。なにかしらご縁のようなものを感じながら合掌した。
この日、友人とそのご家族には大変お世話になってしまった。息子さんは、駅に迎えにきてくれてからずっと車で案内役になってくれた。友人のお母さんには、明日は大事な法事があるにもあるのにかかわらず、夜、家に料理を用意してくれて歓待していただいた。こちらからごちそうしなければと思っていたのが反対になってしまった。季節に知多半島近海で獲れる新鮮な海の幸である、ワタリガニ、シャコ。手作りの塩辛、タコ。地元名物「どて焼き」、最後は、味噌煮込みうどんまでいただいた。七十歳を過ぎておられるが、息子がいつもはあまり口にしない日本酒で、酒好きの来訪者に付きあってくれたために、予約していたホテルまで車で送ってくれた。なんとも言えない心遣いに本当に新美南吉の故郷に来て良かったと思った。
翌日、熱田神宮に参拝し、静岡で途中下車し、旧友二人にも久しぶりに会うことができたが、そこでも、粋なセッテイングに配慮というものがあり、もてなされる幸せをつくづくと感じた。前日、墓参の後に野間大坊にある源義朝の墓に案内してくれた友人は、歴史好きの私のことを考えてくれたのであるが、奥さんとの初めてのデートの場所である美浜の野間埼灯台にも立ち寄り、そこが車を運転してくれた息子さんの大学時代の懐かしい場所と重なり、親子にとっても有意義な時間になったこともあり、私の旅好きの我儘も少しはお役に立ったかもしれない。群馬に帰り、この文章を彼岸花が咲き始めた時に書いている。インターネットには、矢勝川の彼岸花が満開に咲いていた。

  

Posted by okina-ogi at 19:36Comments(0)旅行記