2012年06月28日
樋口一葉と江口きちのこと
樋口一葉は、5千円札にも採用されている明治の女流作家ですが、江口きちは、群馬県川場村出身の歌人で、女性啄木という人もあります。童謡詩人金子みすずと同様に若くして世を去りました。「薄幸の女流作家、その心性の清さ」の続きとして掲載しました。
薄幸の女流作家、その心性の清さ(2)
この日、金子みすずだけに会うのも、惜しいと考えて、樋口一葉女史を訪問したくなった。こちらは展示会を見に行ったわけではない。台東区に樋口一葉記念館がある。上野から北千住方面行きの地下鉄日比谷線の三の輪駅からほど近い場所にある。
樋口一葉は、生涯十五回住まいを変えている。全てが東京であるが、十四回目の場所がこの地であった。ここで雑貨商を営んだ。近くには吉原遊郭があった。この町に暮らす人々の生き様を深く観察し、家長として母や妹の暮らしを支え、貧しい中に必死に生きた自分を投影させながら小説を書いた人である。
「奇跡の十四カ月」という期間に、今日樋口一葉の代表作と言われている作品は書かれたのである。みな短編小説になっているが、奇跡という意味には、短い期間というだけではなく、結核を患いながらの執筆であったからである。そして、わずか二十四歳の人生であった。
キリストの生涯を連想した。聖書には、キリストが宣教を始めたのは、およそ三十歳のときであったとしるされている。それから、数年後に十字架にかけられるのだが、福音書の記者は、その間の経緯に多くのページをさいている。そして、その間の空間的、時間的凝縮度の高さは、後の人類への贈り物になっている。誕生のいきさつの記述や少年期のエピソードは、十字架へ向かうイエスの悲壮な晩年の歩みを、称えるための添え物のように感じる。大胆な言い方をすれば、この「奇跡の数年間」は、イスラエルの民族の歴史の結晶のように思うのである。釈尊のような解脱したとされる宗教者も、個人だけの資質にのみに生まれるのではないと考えて見たくなった。ただ、個人史の中に、「奇跡の時間」を準備してきた蓄積を無視はできない。キリストが、聡明で多くの知識を学んでいたことも事実であり、樋口一葉の成績は、首席になるほどで、多くの書物を図書館に通い読み耽ることがあった。良き種のことを考えれば良い。
「奇跡の十四カ月」に書かれた代表作は『にごりえ』、『十三夜』、『たけくらべ』、『おおつごもり』などであるが、新潮文庫を買って読んでみたが、文語体でかなり平成人には難解である。『たけくらべ』は、映画などで大方の雰囲気とあらすじは覚えていたが、二、三度読み返してはみた。
『十三夜』は、樋口一葉の時代にありそうな話で、大衆の共感を得たかもしれない。生活のための結婚は、女性に耐え忍ぶ心を強要し、反対に心の自由を奪ったことになる。
一葉は、結婚はしなかったが、借金で身を売るぎりぎりの生活をした。幸か不幸か結核が彼女の命を奪った。
新渡戸稲造に代わり樋口一葉が、新しい五千円札の顔となったのは、お金に困っていた彼女には皮肉な出来事である。樋口一葉記念館には、福井日銀総裁から記念館の館長に番号の少ない新札が寄贈されている写真と、現物が展示されていた。
一葉の小説の題名が独特である。『たけくらべ』は「背比べ」のことだと思うし、『おおつごもり』は「大晦日」のことである。『十三夜』もよくわかる。『にごりえ』が良くわからない。「濁り江」ということばはあるが、果たしてその意味なのであろうか。
薄幸の女流文学者というタイトルが良かったかどうか。年若くして死んだからと言って不仕合わせとも言えない。さらにみすずの心性は清らかと言えるように思うが、一葉の場合は、理知的で生きるための借金を親しい人間以外にもする逞しさがあった。ただ、森鴎外が彼女の小説を絶賛したのはなぜかと考えてみたい。川端康成
のような女流作家好きというわけでもないだろう。
樋口一葉同様、若き女手により家人を支え、真摯に短い生涯を終えた女流歌人がいた。「昭和の女啄木」と呼んだ人もいる。群馬県武尊山の麓、川場村の江口きちである。父親は、博打好きで妻子を置き去りに放浪し、母親は、きちが成人する前に脳溢血で死んだ。幼い妹と、五歳の時に脳膜炎により重い障害持った兄が残された。しばらくすると、廃人同様になって父親が帰ってきた。
きちは、母親の家業を継いだが、商売向きな性格ではなかった。それでも、妹が尋常小学校を卒業し、美容師の奉公ができるまで家計を支え、河井酔茗という歌人を師として歌を詠み続けていた。しかし、二十六歳の時、生活苦から逃れるように、白装束に身を整え、不自由な兄の行く末も心配し、枕を並べて服毒死したのである。昭和十三年十二月二日のことである。古い校舎を残し歴史民族資料館にしたその一画に、江口きちの遺品が展示されている。
辞世になった歌は
睡(ね)たらひて夜は明けにけりうつそみに聴きをさめなる雀鳴き初む
おおいなるこの寂けさや天地の時刻あやまたず夜は明けにけり
「貧乏は罪悪である」と言った友人がいるが、お金の苦労は決して心のゆとりを生まない。しかし、精神的に貧困になるということにはならない。死の間際にも、天地の摂理を聴き分けられた、若くして逝った江口きちの最後も悲しく惜しい。
薄幸の女流作家、その心性の清さ(2)
この日、金子みすずだけに会うのも、惜しいと考えて、樋口一葉女史を訪問したくなった。こちらは展示会を見に行ったわけではない。台東区に樋口一葉記念館がある。上野から北千住方面行きの地下鉄日比谷線の三の輪駅からほど近い場所にある。
樋口一葉は、生涯十五回住まいを変えている。全てが東京であるが、十四回目の場所がこの地であった。ここで雑貨商を営んだ。近くには吉原遊郭があった。この町に暮らす人々の生き様を深く観察し、家長として母や妹の暮らしを支え、貧しい中に必死に生きた自分を投影させながら小説を書いた人である。
「奇跡の十四カ月」という期間に、今日樋口一葉の代表作と言われている作品は書かれたのである。みな短編小説になっているが、奇跡という意味には、短い期間というだけではなく、結核を患いながらの執筆であったからである。そして、わずか二十四歳の人生であった。
キリストの生涯を連想した。聖書には、キリストが宣教を始めたのは、およそ三十歳のときであったとしるされている。それから、数年後に十字架にかけられるのだが、福音書の記者は、その間の経緯に多くのページをさいている。そして、その間の空間的、時間的凝縮度の高さは、後の人類への贈り物になっている。誕生のいきさつの記述や少年期のエピソードは、十字架へ向かうイエスの悲壮な晩年の歩みを、称えるための添え物のように感じる。大胆な言い方をすれば、この「奇跡の数年間」は、イスラエルの民族の歴史の結晶のように思うのである。釈尊のような解脱したとされる宗教者も、個人だけの資質にのみに生まれるのではないと考えて見たくなった。ただ、個人史の中に、「奇跡の時間」を準備してきた蓄積を無視はできない。キリストが、聡明で多くの知識を学んでいたことも事実であり、樋口一葉の成績は、首席になるほどで、多くの書物を図書館に通い読み耽ることがあった。良き種のことを考えれば良い。
「奇跡の十四カ月」に書かれた代表作は『にごりえ』、『十三夜』、『たけくらべ』、『おおつごもり』などであるが、新潮文庫を買って読んでみたが、文語体でかなり平成人には難解である。『たけくらべ』は、映画などで大方の雰囲気とあらすじは覚えていたが、二、三度読み返してはみた。
『十三夜』は、樋口一葉の時代にありそうな話で、大衆の共感を得たかもしれない。生活のための結婚は、女性に耐え忍ぶ心を強要し、反対に心の自由を奪ったことになる。
一葉は、結婚はしなかったが、借金で身を売るぎりぎりの生活をした。幸か不幸か結核が彼女の命を奪った。
新渡戸稲造に代わり樋口一葉が、新しい五千円札の顔となったのは、お金に困っていた彼女には皮肉な出来事である。樋口一葉記念館には、福井日銀総裁から記念館の館長に番号の少ない新札が寄贈されている写真と、現物が展示されていた。
一葉の小説の題名が独特である。『たけくらべ』は「背比べ」のことだと思うし、『おおつごもり』は「大晦日」のことである。『十三夜』もよくわかる。『にごりえ』が良くわからない。「濁り江」ということばはあるが、果たしてその意味なのであろうか。
薄幸の女流文学者というタイトルが良かったかどうか。年若くして死んだからと言って不仕合わせとも言えない。さらにみすずの心性は清らかと言えるように思うが、一葉の場合は、理知的で生きるための借金を親しい人間以外にもする逞しさがあった。ただ、森鴎外が彼女の小説を絶賛したのはなぜかと考えてみたい。川端康成
のような女流作家好きというわけでもないだろう。
樋口一葉同様、若き女手により家人を支え、真摯に短い生涯を終えた女流歌人がいた。「昭和の女啄木」と呼んだ人もいる。群馬県武尊山の麓、川場村の江口きちである。父親は、博打好きで妻子を置き去りに放浪し、母親は、きちが成人する前に脳溢血で死んだ。幼い妹と、五歳の時に脳膜炎により重い障害持った兄が残された。しばらくすると、廃人同様になって父親が帰ってきた。
きちは、母親の家業を継いだが、商売向きな性格ではなかった。それでも、妹が尋常小学校を卒業し、美容師の奉公ができるまで家計を支え、河井酔茗という歌人を師として歌を詠み続けていた。しかし、二十六歳の時、生活苦から逃れるように、白装束に身を整え、不自由な兄の行く末も心配し、枕を並べて服毒死したのである。昭和十三年十二月二日のことである。古い校舎を残し歴史民族資料館にしたその一画に、江口きちの遺品が展示されている。
辞世になった歌は
睡(ね)たらひて夜は明けにけりうつそみに聴きをさめなる雀鳴き初む
おおいなるこの寂けさや天地の時刻あやまたず夜は明けにけり
「貧乏は罪悪である」と言った友人がいるが、お金の苦労は決して心のゆとりを生まない。しかし、精神的に貧困になるということにはならない。死の間際にも、天地の摂理を聴き分けられた、若くして逝った江口きちの最後も悲しく惜しい。
2012年06月24日
金子みすず講演会
6月23日(土)、高崎市群馬町の市民活動センターで、「金子みすず」の講演会がありました。講師は、童謡詩人の矢崎節夫氏で、彼の講演を聴くのは今回が2回目です。東日本大震災の後、「こだまでしょうか」の詩が有名になりましたが、金子みすずという人は、あなたという立場に立って考えられる人だというのです。人の優しさというものは、そうした感性から生まれてくるものだと言いました。同感ですが、なかなかそのようにできないのが私たちです。被災者という言葉は、3人称としての言葉の響きがあります。「代受苦者」という仏教の言葉があるとのこと。良い言葉を教えていただきました。以前、金子みすずについてエッセイに書いたことがあるので掲載しました
薄幸の女流作家、その心性の清さ(1)
平成十七年一月十六日、東京は強風と氷雨の降る悪天候になっていた。銀座松屋で詩人金子みすず展が開かれていた。ある人から招待券をいただいていたこともあり、最終日の前日の日曜日、天気予報を無視しての東京行きとなった。
金子みすずは、童謡詩人として今日多くの人々に知られるようになったが、死後長くほとんど無名に近かった。彼女を世に出したのは、矢崎節夫という詩人である。彼が大学の一年生の時に、『日本童謡集』(岩波書店)で金子みすずの詩「大漁」に出会った。その感動と衝撃は矢崎の心から消えず、みすず探しが始まる。「大漁」の詩が掲載されたのは、西条八十の評価が高かったからである。
大漁
朝焼小焼だ
大漁だ。
大羽鰮の
大漁だ。
浜はまつりの
ようだけど
海のなかでは
何万の
鰮のとむらい、
するだろう。
七五調の響きが心地よい。それに加えて、命へのいたわり、それは人や動物にとどまらない。草花や自然界の無生物まで及んでいる。矢崎は、みすずが残した五百十二篇の手書きの詩が綴られた手帳を、みすずの死後五十数年になって、実弟から渡され、世に発表したのである。会場に展示されていたが、一九二五年、一九二六年(大正十四年、大正十五年・昭和元年)の数字が手帳に読み取れる。
金子みすずは、昭和四年に二十六歳で死んだ。自殺だった。離婚が引き金になったというが、ふさえという幼児を残しての死であった。他者を普通の人間以上に思いやれる心性の持ち主であったが、自己愛が希薄であったのだろうか。今日、いとも簡単に、しかも弱い者でも殺してしまう人間と比べてみると、なんとも対照的ではある
が、才能豊かな詩人の死は惜しい。
みすずの手帳は、もう一組清書したものが西条八十に渡されていたが、遺稿として出版されなかったのは不思議である。また、弟の上山雅輔は、作詞家、放送作家、脚本家、演出家として幅広く活躍した人物である。彼は、幼いときに親戚に養子に出され、みすずを実の姉と知らず、恋心を抱いたこともあったらしい。それはともかく、肉親としてみすずの詩の輝きがあまりにも近すぎて見えなかったのだろうか。
銀座松屋の八階の展示室には人があふれて、自筆の詩がゆっくりと見られなかったが、帰りがけに、展示の内容をまとめた本に目を通したとき、次の詩などはみすずらしいと思った。人も四季を何回か重ね、この世に生を受けた役割を終えて、また自然に戻っていくと考えるとなるほどと思う。ただ、風雪に耐えて、たくましく生きていく庭の寒梅も好きだ。新島襄の漢詩と比べてみたくなった。
木
お花が散って実が熟れて
その実が落ちて葉が落ちて
それから目が出て花が咲く
そうして何べんまわったら、この木は御用がすむかしら。
みすずの詩である。新島襄の寒梅の詩は、
寒梅
庭上の一寒梅
笑って風雪を侵して開く
争わず又力(つと)めず
自ら百花の魁を占(し)む
薄幸の女流作家、その心性の清さ(1)
平成十七年一月十六日、東京は強風と氷雨の降る悪天候になっていた。銀座松屋で詩人金子みすず展が開かれていた。ある人から招待券をいただいていたこともあり、最終日の前日の日曜日、天気予報を無視しての東京行きとなった。
金子みすずは、童謡詩人として今日多くの人々に知られるようになったが、死後長くほとんど無名に近かった。彼女を世に出したのは、矢崎節夫という詩人である。彼が大学の一年生の時に、『日本童謡集』(岩波書店)で金子みすずの詩「大漁」に出会った。その感動と衝撃は矢崎の心から消えず、みすず探しが始まる。「大漁」の詩が掲載されたのは、西条八十の評価が高かったからである。
大漁
朝焼小焼だ
大漁だ。
大羽鰮の
大漁だ。
浜はまつりの
ようだけど
海のなかでは
何万の
鰮のとむらい、
するだろう。
七五調の響きが心地よい。それに加えて、命へのいたわり、それは人や動物にとどまらない。草花や自然界の無生物まで及んでいる。矢崎は、みすずが残した五百十二篇の手書きの詩が綴られた手帳を、みすずの死後五十数年になって、実弟から渡され、世に発表したのである。会場に展示されていたが、一九二五年、一九二六年(大正十四年、大正十五年・昭和元年)の数字が手帳に読み取れる。
金子みすずは、昭和四年に二十六歳で死んだ。自殺だった。離婚が引き金になったというが、ふさえという幼児を残しての死であった。他者を普通の人間以上に思いやれる心性の持ち主であったが、自己愛が希薄であったのだろうか。今日、いとも簡単に、しかも弱い者でも殺してしまう人間と比べてみると、なんとも対照的ではある
が、才能豊かな詩人の死は惜しい。
みすずの手帳は、もう一組清書したものが西条八十に渡されていたが、遺稿として出版されなかったのは不思議である。また、弟の上山雅輔は、作詞家、放送作家、脚本家、演出家として幅広く活躍した人物である。彼は、幼いときに親戚に養子に出され、みすずを実の姉と知らず、恋心を抱いたこともあったらしい。それはともかく、肉親としてみすずの詩の輝きがあまりにも近すぎて見えなかったのだろうか。
銀座松屋の八階の展示室には人があふれて、自筆の詩がゆっくりと見られなかったが、帰りがけに、展示の内容をまとめた本に目を通したとき、次の詩などはみすずらしいと思った。人も四季を何回か重ね、この世に生を受けた役割を終えて、また自然に戻っていくと考えるとなるほどと思う。ただ、風雪に耐えて、たくましく生きていく庭の寒梅も好きだ。新島襄の漢詩と比べてみたくなった。
木
お花が散って実が熟れて
その実が落ちて葉が落ちて
それから目が出て花が咲く
そうして何べんまわったら、この木は御用がすむかしら。
みすずの詩である。新島襄の寒梅の詩は、
寒梅
庭上の一寒梅
笑って風雪を侵して開く
争わず又力(つと)めず
自ら百花の魁を占(し)む
2012年06月22日
群馬地域文化の先覚者「井上房一郎」
群馬地域文化の先覚者「井上房一郎」
井上房一郎(一八九八〜一九九三)は、企業人でもあったが、文化、芸術に深い理解を持ち、郷土高崎を拠点にして、地域文化の旗手として功労のあった人物である。
高崎市城址に建つ群馬音楽センター、群馬の森に中にある群馬県立近代美術館は形に残る、彼の遺産のようなものであるが、晩年まで情熱を注いだ文化事業があった。
「高崎哲学堂」設立事業である。アメリカの著名な建築家、レーモンドの設計した建物は、モデルとしては残されたが建築として竣工を見なかった。しかし、彼が設計し、事務所として使用していた建物を、ほぼ設計どおりに建てなおした井上邸が、今日、紆余曲折を経ながら、高崎市が管理し、「高崎哲学堂」となっている。
この建物は、高崎駅西口に近く、高崎市美術館と隣接し、高崎市が井上邸を管理するようになってからは、敷地が一体となって来館者が見学できるようになっている。
市の中心部にこんな緑豊かで静寂な空間があるのかと目を疑うほどの庭園が美しい。建物は、古い木造建築で、どちらかというと地味な外観をしている。しかし、屋内に入ると和風ではあるがモダンで、気持ちよく暮らせる工夫がなされていることがわかる。井上房一郎の生前の暮らしぶりを垣間見るような感じがあって、井上がこの建物を愛し、多くの政財界人や文化人を招き、事業構想、理想や文化論など語り合ったのであろうという思いが湧いてくる。
お盆に入って自宅のポストを開けるとメール便で書籍が届いている。差し出し人は、熊倉浩靖君とある。開封してみると『井上房一郎・人と功績』熊倉浩靖著 みやま文庫が目に入る。井上房一郎の評伝である。早速、まえがき、目次、あとがきに目を通し、携帯でお礼と慰労の電話をする。いつかは、井上房一郎の評伝を書く人物が現れるだろうと思っていたが、熊倉君が先駆けになることは、必然だと思った。彼は、高校時代から井上房一郎にその才能を見出され、長く房一郎のもとで、高崎哲学堂の設立運動に関わった人である。熊倉君の一方の師である、京都大学の名誉教授の上田正昭からも「井上先生の評伝をまとめることは君の責務」だと何度となく言われたと「あとがき」に書かれている。表紙には、和服姿でコーヒーカップを持ちにこやかにしている井上翁の写真があり、表紙を開くと、井上邸の写真もあり、群馬県立近代美術館に寄贈された美術品もカラーで紹介されている。
「後に続く者(井上房一郎の生涯とその功績を研究し世に伝える者)の礎になる」というのが彼への電話の中身である。 読書感想文ではないが、本の内容を紹介したい。書き出しは、父井上保三郎の記述から始まっている。井上保三郎は、高崎に明治維新の頃に生まれた人で、夏目漱石と生年がほぼ同じである。今日、会社組織としては残っていないが、井上工業株式会社の創立者である。彼は、建設業で成功を収めたが、多くの商工業の会社設立に関与し、商工業都市高崎の発展に寄与した。その数、三〇社以上である。渋沢栄一を想起させる。彼の精神は、「只是一誠」だという。次のエピソードなどは、井上保三郎の人なりをよく顕している。
明治四四年に、山形煙草専売局新設工事を請負った。請負代金は、現在の金額で三十億円である。煉瓦造りの設計になっていて、経費削減のため、現地で煉瓦を製造することにした。その結果、煉瓦を焼く煙が原因で、桑が枯れるという公害問題が発生した。農民は、竹槍を持ち、立ち退きを迫った。保三郎は、単独で農民の代表に会い、被害にあった桑の弁償と、自分の購入した土地に桜桃を植えて村に寄付すると告げた。その誠意に村人は、感動し理解者になったという話である。保三郎には、観音信仰があり、後年、私財を投じて白衣観音を建立した。
この白衣観音の原型モデルを製作したのは、伊勢崎市出身の彫刻家森村寅三という人で、このモデルを森村のアトリエから自転車の荷台に積んで運んだのが、若き日の田中角栄である。彼が自伝の中に書いているらしい。田中角栄が、戦前、井上工業に籍を置いていたことは、『異形の将軍―田中角栄の生涯』津本陽の中にも書かれている。
さて、井上房一郎であるが、明治三一年に高崎市に生まれている。この本で知ったのだが、彼の母親は、房一郎が三歳の時に亡くなっている。房一郎という人は、父親の財の恩恵は受けたが、母親の愛の記憶は、薄かったかもしれないということである。彼が、芸術に憧れたことの、深層心理に母親の早い死が関係したかもしれない。
二五歳の時、フランスに渡る。大正一二年の二月のことである。それから昭和四年に帰国するまでヨーロッパで過ごす。七年間も海外に滞在できたのは、父親の理解と、財力による。うらやましい限りである。しかし、この経験を帰国後無駄にしなかった。この間、西洋文化に触れるが、房一郎の、芸術観に影響を与えたのが、デカ
ルトとセザンヌだったというのは、この本で初めて知った。ピカソにも惹かれている。自我と理性の尊重は、東洋思想から離れるが、老年期の井上房一郎の好々爺のような姿に触れている印象からすると意外であった。
戦前の房一郎を語る場合、必ず触れなければならない人物がブルーノ・タウトである。ドイツから、亡命するような形で日本を訪れたタウトは、本来の建築ではなく、工芸の分野で房一郎と業績を残す。タウトを積極的に迎え入れたのは、房一郎だと思っていたが、頼まれたという話も意外であった。沼田出身の建築家、久米権九郎から依頼されたのだという。しかも、県の嘱託という形をとるという条件だったというのである。数年前、高崎哲学堂で、当時タウトや房一郎と一緒に仕事した水原徳言の講演を聞き、タウトは自信家でプライドが高かったという証言と一致する。
戦後の房一郎の活躍は、高崎市民オーケストラを今日の群馬交響楽団へと育てたこと。その活動拠点となる群馬音楽センターの建設である。映画「ここに泉あり」でも全国に知られるようになった、房一郎や団員達の苦労は想像に絶するものがあった。
直接楽団の運営に携わった丸山勝廣は自著『泉は枯れぬ』で当時を回想している。今もご健在でピアノリサイタルを開催している風岡裕子さんは、ご縁があり、手紙のやりとりなどをさせていただいているが、当時の苦労話を聞かさせていただいている。
映画の中で、風岡さんの役を演じたのが岸恵子であるが、映画公開前のことであるから、六〇年以上前の話である。
房一郎の偉いところは、こうした活動に市民を招き入れ協賛を得るとともに、自身も多額の費用を投じたことである。房一郎の言葉によれば「自分を犠牲にして、より多くの市民の対等の参加を呼びかける」
という手法である。群馬県立近代美術館にも、自分のコレクションを惜しげもなく寄贈している。こうした精神がないと、理想は高くも多くの浄財は集まらない。
最後の文化事業「高崎哲学堂」設立は、建物としては繰り返すが実現していない。房一郎の志に共感し、哲学堂の理事長を引き継いだ原一雄は、表現は正しくはないが、哲学堂をときには、葬儀会場につかってみたらどうだろうと提案された時、反対したが、今から考えると企業人としての房一郎のアイデアだったと見直したという。民間の事業が継続されためには、収入の道も確保しなければならないことを、房一郎は体験の中で知っていたのである。しかし、原一雄に
「全ては途中で終わることを覚悟しなければ、どんな運動もできない。真摯な想いを貫くなら必ず人々の賛同を得て運動は続けられていく」
と語ったという。原一雄は歌人であり、高崎市における実業家でもあった。即興的なしまりのない感想文になったが、熊倉君に評伝を纏めた苦労に感謝を表したつもりで
ある。
井上房一郎(一八九八〜一九九三)は、企業人でもあったが、文化、芸術に深い理解を持ち、郷土高崎を拠点にして、地域文化の旗手として功労のあった人物である。
高崎市城址に建つ群馬音楽センター、群馬の森に中にある群馬県立近代美術館は形に残る、彼の遺産のようなものであるが、晩年まで情熱を注いだ文化事業があった。
「高崎哲学堂」設立事業である。アメリカの著名な建築家、レーモンドの設計した建物は、モデルとしては残されたが建築として竣工を見なかった。しかし、彼が設計し、事務所として使用していた建物を、ほぼ設計どおりに建てなおした井上邸が、今日、紆余曲折を経ながら、高崎市が管理し、「高崎哲学堂」となっている。
この建物は、高崎駅西口に近く、高崎市美術館と隣接し、高崎市が井上邸を管理するようになってからは、敷地が一体となって来館者が見学できるようになっている。
市の中心部にこんな緑豊かで静寂な空間があるのかと目を疑うほどの庭園が美しい。建物は、古い木造建築で、どちらかというと地味な外観をしている。しかし、屋内に入ると和風ではあるがモダンで、気持ちよく暮らせる工夫がなされていることがわかる。井上房一郎の生前の暮らしぶりを垣間見るような感じがあって、井上がこの建物を愛し、多くの政財界人や文化人を招き、事業構想、理想や文化論など語り合ったのであろうという思いが湧いてくる。
お盆に入って自宅のポストを開けるとメール便で書籍が届いている。差し出し人は、熊倉浩靖君とある。開封してみると『井上房一郎・人と功績』熊倉浩靖著 みやま文庫が目に入る。井上房一郎の評伝である。早速、まえがき、目次、あとがきに目を通し、携帯でお礼と慰労の電話をする。いつかは、井上房一郎の評伝を書く人物が現れるだろうと思っていたが、熊倉君が先駆けになることは、必然だと思った。彼は、高校時代から井上房一郎にその才能を見出され、長く房一郎のもとで、高崎哲学堂の設立運動に関わった人である。熊倉君の一方の師である、京都大学の名誉教授の上田正昭からも「井上先生の評伝をまとめることは君の責務」だと何度となく言われたと「あとがき」に書かれている。表紙には、和服姿でコーヒーカップを持ちにこやかにしている井上翁の写真があり、表紙を開くと、井上邸の写真もあり、群馬県立近代美術館に寄贈された美術品もカラーで紹介されている。
「後に続く者(井上房一郎の生涯とその功績を研究し世に伝える者)の礎になる」というのが彼への電話の中身である。 読書感想文ではないが、本の内容を紹介したい。書き出しは、父井上保三郎の記述から始まっている。井上保三郎は、高崎に明治維新の頃に生まれた人で、夏目漱石と生年がほぼ同じである。今日、会社組織としては残っていないが、井上工業株式会社の創立者である。彼は、建設業で成功を収めたが、多くの商工業の会社設立に関与し、商工業都市高崎の発展に寄与した。その数、三〇社以上である。渋沢栄一を想起させる。彼の精神は、「只是一誠」だという。次のエピソードなどは、井上保三郎の人なりをよく顕している。
明治四四年に、山形煙草専売局新設工事を請負った。請負代金は、現在の金額で三十億円である。煉瓦造りの設計になっていて、経費削減のため、現地で煉瓦を製造することにした。その結果、煉瓦を焼く煙が原因で、桑が枯れるという公害問題が発生した。農民は、竹槍を持ち、立ち退きを迫った。保三郎は、単独で農民の代表に会い、被害にあった桑の弁償と、自分の購入した土地に桜桃を植えて村に寄付すると告げた。その誠意に村人は、感動し理解者になったという話である。保三郎には、観音信仰があり、後年、私財を投じて白衣観音を建立した。
この白衣観音の原型モデルを製作したのは、伊勢崎市出身の彫刻家森村寅三という人で、このモデルを森村のアトリエから自転車の荷台に積んで運んだのが、若き日の田中角栄である。彼が自伝の中に書いているらしい。田中角栄が、戦前、井上工業に籍を置いていたことは、『異形の将軍―田中角栄の生涯』津本陽の中にも書かれている。
さて、井上房一郎であるが、明治三一年に高崎市に生まれている。この本で知ったのだが、彼の母親は、房一郎が三歳の時に亡くなっている。房一郎という人は、父親の財の恩恵は受けたが、母親の愛の記憶は、薄かったかもしれないということである。彼が、芸術に憧れたことの、深層心理に母親の早い死が関係したかもしれない。
二五歳の時、フランスに渡る。大正一二年の二月のことである。それから昭和四年に帰国するまでヨーロッパで過ごす。七年間も海外に滞在できたのは、父親の理解と、財力による。うらやましい限りである。しかし、この経験を帰国後無駄にしなかった。この間、西洋文化に触れるが、房一郎の、芸術観に影響を与えたのが、デカ
ルトとセザンヌだったというのは、この本で初めて知った。ピカソにも惹かれている。自我と理性の尊重は、東洋思想から離れるが、老年期の井上房一郎の好々爺のような姿に触れている印象からすると意外であった。
戦前の房一郎を語る場合、必ず触れなければならない人物がブルーノ・タウトである。ドイツから、亡命するような形で日本を訪れたタウトは、本来の建築ではなく、工芸の分野で房一郎と業績を残す。タウトを積極的に迎え入れたのは、房一郎だと思っていたが、頼まれたという話も意外であった。沼田出身の建築家、久米権九郎から依頼されたのだという。しかも、県の嘱託という形をとるという条件だったというのである。数年前、高崎哲学堂で、当時タウトや房一郎と一緒に仕事した水原徳言の講演を聞き、タウトは自信家でプライドが高かったという証言と一致する。
戦後の房一郎の活躍は、高崎市民オーケストラを今日の群馬交響楽団へと育てたこと。その活動拠点となる群馬音楽センターの建設である。映画「ここに泉あり」でも全国に知られるようになった、房一郎や団員達の苦労は想像に絶するものがあった。
直接楽団の運営に携わった丸山勝廣は自著『泉は枯れぬ』で当時を回想している。今もご健在でピアノリサイタルを開催している風岡裕子さんは、ご縁があり、手紙のやりとりなどをさせていただいているが、当時の苦労話を聞かさせていただいている。
映画の中で、風岡さんの役を演じたのが岸恵子であるが、映画公開前のことであるから、六〇年以上前の話である。
房一郎の偉いところは、こうした活動に市民を招き入れ協賛を得るとともに、自身も多額の費用を投じたことである。房一郎の言葉によれば「自分を犠牲にして、より多くの市民の対等の参加を呼びかける」
という手法である。群馬県立近代美術館にも、自分のコレクションを惜しげもなく寄贈している。こうした精神がないと、理想は高くも多くの浄財は集まらない。
最後の文化事業「高崎哲学堂」設立は、建物としては繰り返すが実現していない。房一郎の志に共感し、哲学堂の理事長を引き継いだ原一雄は、表現は正しくはないが、哲学堂をときには、葬儀会場につかってみたらどうだろうと提案された時、反対したが、今から考えると企業人としての房一郎のアイデアだったと見直したという。民間の事業が継続されためには、収入の道も確保しなければならないことを、房一郎は体験の中で知っていたのである。しかし、原一雄に
「全ては途中で終わることを覚悟しなければ、どんな運動もできない。真摯な想いを貫くなら必ず人々の賛同を得て運動は続けられていく」
と語ったという。原一雄は歌人であり、高崎市における実業家でもあった。即興的なしまりのない感想文になったが、熊倉君に評伝を纏めた苦労に感謝を表したつもりで
ある。
2012年06月20日
労農船津伝次平
労農船津伝次平
紀行『侘助』は、「津山日記」で書き終えたつもりでいる。原稿を、印刷所に送る寸前になって、高校の同級生で、群馬県立女子大学の教授である熊倉君からのシンポジウムの案内を思い出した。彼は、群馬学という郷土研究の副センター長になっていて、シンポジウムでは司会の役になっている。内容が良かったら取材記事として載せてみようと思った。その日は三月五日(土)の午後で、会場は、前橋市立原小学校の体育館である。シンポジウムのテーマになったのが、船津伝次平(ふなつでんじべい)である。群馬県には、昔から「上毛かるた」というのがあって、小学校で子供たちが覚えることになっている。かるた大会もある。「上毛かるた」には、郷土の偉人が登場する。
こ 心の灯台内村鑑三
て 天下の義人茂左衛門
ぬ 沼田城下の塩原太助
へ 平和の使い新島襄
れ 歴史に名高い新田義貞
わ 和算の大家関孝和
そしてろが労農船津伝次平である。
船津伝次平(一八三二〜一八九八)は、前橋藩領の原の郷の名主の子として生まれた。平成の合併で現在は、前橋市になっているが、数年前は、富士見村の一地区であった。前橋市街に近いが、広い赤城山の裾野にあり、緩やかな傾斜地になっている。船津伝次平の祖先は、甲州武田氏に仕える武士であったが、武田氏滅亡後、この
地に定住したとされている。三代目からは、代々当主は伝次平と名乗り、彼が四代目になる。
それほどの大地主ではなかったが、父親は寺子屋を開き、俳句を嗜む教養人であった。伝次平も向学心が強く、父親に学び、自らも近隣に師を求め、和算や儒学を学んだ。俳句も父親譲りで終生の嗜みとした。若い時から勤勉で、農業が肌に合い、研究心があり、農業技術を体験の中から身につけていく。村人に人望があり、父親の死後、後継者として名主に推される。この時、二七歳である。栽培に関する工夫として、静岡の石垣イチゴに引き継がれた「石苗間」は、ある時下草刈りに出かけた時、石の近くの下草が良く茂っていたのに気付き、石の保温により草の発育が良くなっていることを発見する。石を河原から拾ってきて茄子苗の間に入れたところ茄子苗が良く育った。また、茄子の艶、味のためにどのような肥料が良いかも試してみた。肥料の三大要素である、窒素、リン、カリのことを知識として知らなかった時代のことである。後年、明治政府が東京駒場に開いた農学校で日本に招聘されたドイツ人から知ることになる。まっすぐな山芋を収穫する工夫をしたのも、彼の知恵による。
船津伝次平の偉いところは、こうした技術を村人に教え、普及しようとしたことである。自分だけが富もうとは考えなかった。江戸時代には、飢饉があり多くの餓死者が出た。貯えがあれば、飢饉を凌ぐことができる。農業の中心は、米作であるが、低温の夏の不作もあるが、水がなければ立ち行かない。原の郷は、火山灰地の上にあるために、水の浸透性が高く、水不足になった。その解消のためには、植林することだと思い立つ。この事業は一人ではできない。加えて森が育つのは、数十年先のことである。将来を展望した発想は村人にはなかなか理解されなかったが、実現する。植えたのはクロマツである。今日、群馬県の県の木になっている。
農業そのものに従事したかった彼は、一度は名主をやめるが、明治元年、三十七歳の時に、前橋藩主から大総代を引き受けるように命が出る。伝次平は坊主頭になり、断ろうとするが、名字帯刀と禄の支給はもちろん鬘を被ることも許されその任に着く。根っから農作業が好きだったのである。
伝次平の父親の彼に家訓のように残した言葉は
「余分な蓄財のために商売はするな。結果がはっきりしないような事業に手を出すな。自分の耕作能力以上に土地を所有するな。人を使用するなら二人くらいにして、家畜は馬一匹でよい。冬の農作業のない時は、学び、農繁期は書物に目を通してはいけない。家業に専念しろ」
であった。彼はそれを良く守った。
やがて、船津伝次平の存在は、政府の高官の知るところとなり、大久保利通の強い要請により、駒場農学校の指導者になる。明治の殖産に、彼の実践技術生かしたかったのである。一方、イギリスやドイツから農業指導者を高額な給料を出して招いたが、当時イギリスなど農業機械を導入した大規模経営の農業は、現実的ではなかっ
た。船津伝次平が、就任後間もなく大久保利通は、不平士族によって暗殺される。その後、農政に関わった井上馨は鹿鳴館で知られるような、極端な洋化主義者であったので、駒場農学校を辞職する。父親の教えと彼の農業観である。筋を通したのである。
今日、高齢化した農業の後継者が問題になっている。長男が後を継ぐという状況にはない。技術の継承がない。サラリーマンをやめて家業を継ぐなどというほどに農業は生易しくはない。農家の生まれである、自分自身がそのことを良く自覚している。
食糧自給、農産物の海外との自由商品化など、難問がやまずみである。戦後になっても、農業従事者は多かった。今日では、日本は工業立国で、外貨の獲得は、工業製品に頼っていることは自明である。しかし、食の問題は命に直結している。農の勤労精神から、勤勉さも生まれ、多くの優秀な人材が地方から輩出した。今では、農家の体裁もない我が家から、教員、軍人などが育っていったが、彼らが農業を親とともに過ごした少年期の話を聞かされる。船津伝次平のような勤労と勤勉を体現し、日本の農業に貢献した人物は稀だが、彼の次の精神は、農業に従事するものには引き継がれるようにしたい。
それは、『中庸』の中に出てくる「率性之曰謂道」という言葉である。天に命ずる、之を性と謂うに続く「性に率う、之を道と謂う」の解釈だが、伝次平は、率を「したがう」と読まず、「ひきいる」と読むのが正しいと考えた。つまり、農作物には手をかけてやらなければならない。そのかわり、人間のためになるようにする。自然農法といっても放置して良いというものではない。人も最後は土に還る。船津翁の人生は、これからの自分の生き方の指針になっている。
紀行『侘助』は、「津山日記」で書き終えたつもりでいる。原稿を、印刷所に送る寸前になって、高校の同級生で、群馬県立女子大学の教授である熊倉君からのシンポジウムの案内を思い出した。彼は、群馬学という郷土研究の副センター長になっていて、シンポジウムでは司会の役になっている。内容が良かったら取材記事として載せてみようと思った。その日は三月五日(土)の午後で、会場は、前橋市立原小学校の体育館である。シンポジウムのテーマになったのが、船津伝次平(ふなつでんじべい)である。群馬県には、昔から「上毛かるた」というのがあって、小学校で子供たちが覚えることになっている。かるた大会もある。「上毛かるた」には、郷土の偉人が登場する。
こ 心の灯台内村鑑三
て 天下の義人茂左衛門
ぬ 沼田城下の塩原太助
へ 平和の使い新島襄
れ 歴史に名高い新田義貞
わ 和算の大家関孝和
そしてろが労農船津伝次平である。
船津伝次平(一八三二〜一八九八)は、前橋藩領の原の郷の名主の子として生まれた。平成の合併で現在は、前橋市になっているが、数年前は、富士見村の一地区であった。前橋市街に近いが、広い赤城山の裾野にあり、緩やかな傾斜地になっている。船津伝次平の祖先は、甲州武田氏に仕える武士であったが、武田氏滅亡後、この
地に定住したとされている。三代目からは、代々当主は伝次平と名乗り、彼が四代目になる。
それほどの大地主ではなかったが、父親は寺子屋を開き、俳句を嗜む教養人であった。伝次平も向学心が強く、父親に学び、自らも近隣に師を求め、和算や儒学を学んだ。俳句も父親譲りで終生の嗜みとした。若い時から勤勉で、農業が肌に合い、研究心があり、農業技術を体験の中から身につけていく。村人に人望があり、父親の死後、後継者として名主に推される。この時、二七歳である。栽培に関する工夫として、静岡の石垣イチゴに引き継がれた「石苗間」は、ある時下草刈りに出かけた時、石の近くの下草が良く茂っていたのに気付き、石の保温により草の発育が良くなっていることを発見する。石を河原から拾ってきて茄子苗の間に入れたところ茄子苗が良く育った。また、茄子の艶、味のためにどのような肥料が良いかも試してみた。肥料の三大要素である、窒素、リン、カリのことを知識として知らなかった時代のことである。後年、明治政府が東京駒場に開いた農学校で日本に招聘されたドイツ人から知ることになる。まっすぐな山芋を収穫する工夫をしたのも、彼の知恵による。
船津伝次平の偉いところは、こうした技術を村人に教え、普及しようとしたことである。自分だけが富もうとは考えなかった。江戸時代には、飢饉があり多くの餓死者が出た。貯えがあれば、飢饉を凌ぐことができる。農業の中心は、米作であるが、低温の夏の不作もあるが、水がなければ立ち行かない。原の郷は、火山灰地の上にあるために、水の浸透性が高く、水不足になった。その解消のためには、植林することだと思い立つ。この事業は一人ではできない。加えて森が育つのは、数十年先のことである。将来を展望した発想は村人にはなかなか理解されなかったが、実現する。植えたのはクロマツである。今日、群馬県の県の木になっている。
農業そのものに従事したかった彼は、一度は名主をやめるが、明治元年、三十七歳の時に、前橋藩主から大総代を引き受けるように命が出る。伝次平は坊主頭になり、断ろうとするが、名字帯刀と禄の支給はもちろん鬘を被ることも許されその任に着く。根っから農作業が好きだったのである。
伝次平の父親の彼に家訓のように残した言葉は
「余分な蓄財のために商売はするな。結果がはっきりしないような事業に手を出すな。自分の耕作能力以上に土地を所有するな。人を使用するなら二人くらいにして、家畜は馬一匹でよい。冬の農作業のない時は、学び、農繁期は書物に目を通してはいけない。家業に専念しろ」
であった。彼はそれを良く守った。
やがて、船津伝次平の存在は、政府の高官の知るところとなり、大久保利通の強い要請により、駒場農学校の指導者になる。明治の殖産に、彼の実践技術生かしたかったのである。一方、イギリスやドイツから農業指導者を高額な給料を出して招いたが、当時イギリスなど農業機械を導入した大規模経営の農業は、現実的ではなかっ
た。船津伝次平が、就任後間もなく大久保利通は、不平士族によって暗殺される。その後、農政に関わった井上馨は鹿鳴館で知られるような、極端な洋化主義者であったので、駒場農学校を辞職する。父親の教えと彼の農業観である。筋を通したのである。
今日、高齢化した農業の後継者が問題になっている。長男が後を継ぐという状況にはない。技術の継承がない。サラリーマンをやめて家業を継ぐなどというほどに農業は生易しくはない。農家の生まれである、自分自身がそのことを良く自覚している。
食糧自給、農産物の海外との自由商品化など、難問がやまずみである。戦後になっても、農業従事者は多かった。今日では、日本は工業立国で、外貨の獲得は、工業製品に頼っていることは自明である。しかし、食の問題は命に直結している。農の勤労精神から、勤勉さも生まれ、多くの優秀な人材が地方から輩出した。今では、農家の体裁もない我が家から、教員、軍人などが育っていったが、彼らが農業を親とともに過ごした少年期の話を聞かされる。船津伝次平のような勤労と勤勉を体現し、日本の農業に貢献した人物は稀だが、彼の次の精神は、農業に従事するものには引き継がれるようにしたい。
それは、『中庸』の中に出てくる「率性之曰謂道」という言葉である。天に命ずる、之を性と謂うに続く「性に率う、之を道と謂う」の解釈だが、伝次平は、率を「したがう」と読まず、「ひきいる」と読むのが正しいと考えた。つまり、農作物には手をかけてやらなければならない。そのかわり、人間のためになるようにする。自然農法といっても放置して良いというものではない。人も最後は土に還る。船津翁の人生は、これからの自分の生き方の指針になっている。
2012年06月18日
2012年06月14日
リストラなしの年輪経営
信州伊那谷に素晴らしい会社がありました。
戦後日本人が忘れかけていた経営をしている会社です。
この会社のことは、現在、100歳に近い、東京帝大卒の私の住んでいる地域で開業医をしていた方から教えられました。
「かんてんパパ」のネーミングで知られる伊那食品という会社です。「年輪経営」タイトルがいいですね。
さぞ、こんな会社で働く職員の人生は豊かだと思いました。いつかは、見学したいと思っています。
戦後日本人が忘れかけていた経営をしている会社です。
この会社のことは、現在、100歳に近い、東京帝大卒の私の住んでいる地域で開業医をしていた方から教えられました。
「かんてんパパ」のネーミングで知られる伊那食品という会社です。「年輪経営」タイトルがいいですね。
さぞ、こんな会社で働く職員の人生は豊かだと思いました。いつかは、見学したいと思っています。
2012年06月14日
江の島の「池田丸」という地魚料理店
江の島の見える「池田丸」という地魚料理の店で旬のシラス料理を友人と食べました。
内陸群馬の人間にとって新鮮な魚と海はあこがれです。
三好達治の詩に、「海の中には母がいる。母の中には海がある」というのがありますが、春の海は格別です。
内陸群馬の人間にとって新鮮な魚と海はあこがれです。
三好達治の詩に、「海の中には母がいる。母の中には海がある」というのがありますが、春の海は格別です。
2012年06月14日
奈良旅行 【旅行記】
4月1日奈良に行きました。
数学者、岡潔先生の「春雨忌」に出席し、墓参をしてまいりました。
岡先生の、命日は昭和53年3月1日で、「春雨忌」は、今年で33回目になります。
昭和35年に文化勲章を受章されています。
世界的な、数学者でありますが、日本人の心の美しさを、晩年社会に数々の著書で書かれておられます。
墓石の横には「春なれや 石の上にも 春の風」の句が刻まれています。
数学者、岡潔先生の「春雨忌」に出席し、墓参をしてまいりました。
岡先生の、命日は昭和53年3月1日で、「春雨忌」は、今年で33回目になります。
昭和35年に文化勲章を受章されています。
世界的な、数学者でありますが、日本人の心の美しさを、晩年社会に数々の著書で書かれておられます。
墓石の横には「春なれや 石の上にも 春の風」の句が刻まれています。
2012年06月14日
消費税は弱者にやさしい 【書評】
著者は、大学時代の友人です。
消費税が政治問題に浮上している今日、消費税の何たるかを知るために良著になっています。
彼の専門は、財政学で、政治的立場とは無縁であり、市井の生活者としての体験も書かれています。
詳細は、連休山荘であって、ゆっくり拝聴することにしています。
消費税が政治問題に浮上している今日、消費税の何たるかを知るために良著になっています。
彼の専門は、財政学で、政治的立場とは無縁であり、市井の生活者としての体験も書かれています。
詳細は、連休山荘であって、ゆっくり拝聴することにしています。
2012年06月14日
『井上房一郎・人と功績』熊倉浩靖著(みやま文庫)
『井上房一郎・人と功績』熊倉浩靖著(みやま文庫)
井上房一郎は、芸術に深い見識を持った経済人として、群馬の文化事業に大きな功績を残した人物です。
母校、高崎高校の大先輩であり、母校のバラ園の手入れをされていた井上翁の姿は、高校時代の記憶の中に残っています。
晩年、情熱を傾けた、「哲学堂」の事業に理事、常務理事として支えた、熊倉君の近景も含んだ評伝として、一読をお薦めします。
井上房一郎は、芸術に深い見識を持った経済人として、群馬の文化事業に大きな功績を残した人物です。
母校、高崎高校の大先輩であり、母校のバラ園の手入れをされていた井上翁の姿は、高校時代の記憶の中に残っています。
晩年、情熱を傾けた、「哲学堂」の事業に理事、常務理事として支えた、熊倉君の近景も含んだ評伝として、一読をお薦めします。
2012年06月14日
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