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2016年10月29日

『大東亜戦争の実相』 瀬島龍三 PHP文庫 533円(税別)



瀬島龍三は、大本営の参謀であった。戦争の戦略、企画を立てる立場にあった。戦後、10年ほどシベリヤに抑留され、帰国後は、商社伊藤忠に勤務し、会長にまでなっている。中曽根内閣の時に土光臨調の委員を務めてもいる。先の大戦については、多くを語らなかったが、アメリカの大学で講演した記録が本になって残っている。
参謀らしい著述である。感傷的、感情的表現はほとんどない。敢て言えば、先の大戦は、「太平洋戦争」ではなく「大東亜戦争」であるという主張である。本のタイトルにもなっている。そのことは、日本にとって先の大戦は、「自存自衛の受動戦争」だとも言っている。戦争を肯定しているわけではない。7つの教訓を上げている。
①賢明さを欠いた日本の大陸政策
②早期終結を図れなかったシナ事変
③時代に適応しなくなった旧憲法下の国家運営能力
④軍事が政治に優先した国家体制
⑤国防方針の分裂
⑥的確さを欠いた戦局洞察
⑦実現に至らなかった首脳会議
 明治維新以来の国是を「開国進取」と言っているが、帝国主義の時代ではないから、軍事力を背景にした海外進出は、もはや日本の選択肢にないということを痛感した。
  

Posted by okina-ogi at 15:54Comments(0)書評

2016年10月29日

東京株式市場10月場所

結果は、○○○○●○●●○○○○○●○○○●○の14勝5敗の好成績。為替が円安に向かったことが影響しているかもしれない。年度途中の各社の決算が発表されているが、まちまちで、好況ということでもなさそうである。
季節は、秋から冬に向かうが、秋風から木枯しになって寒さが増すのは確実だが、株式市場の方はどうなりますやら。
  

Posted by okina-ogi at 11:52Comments(0)日常・雑感

2016年10月28日

『世界認識』-世界人類としての「共生」と「平和」-藤原書店2300円(税別)



東日本大震災のあった年の7月、岩手県奥州市を訪ねた。この地に生まれた後藤新平の足跡を訪ねてみたかったからである。後藤新平は、関東大震災の後、帝都(東京市)の復興に尽力した人物として知られている。そのことも動機のひとつであった。生家も残っていたが、記念館があった。そこで購入したのがこの本である。
後藤新平は、明治から大正にかけて活躍した政治家だが、若い頃は、医師であった。板垣退助が暴漢に刺されたときに、現場に駆けつけて診察治療したことでも知られている。科学的知識だけでなく、世界情勢に詳しく、歴史や、芸術にも造詣が深いことがこの本を読むとよくわかる。講演の記録もあって、演説も大衆を惹きつける能力もあった。肉声も残っていて、収録したCDで聞ける。
改めて読もうとしたのには理由がある。帝国主義の時代に唱えたと言う「日本膨張論」のことが気になっていたからである。徳富蘇峰の戦後日記を読んだ時に「日本膨張論」という言葉が出てくる。日本には、遅れてきた帝国主義ということが言われる。その内容が、覇権主義、侵略主義、軍国主義であったとすれば、「日本膨張論」は、その根本思想になっているのではないかという関心があった。
読んだ感想としては、後藤新平の「日本膨張論」の背景には、覇権主義、侵略主義はなく国際協調主義がある。国力のバランスも無視していないが、日本の平和主義を主張している。ただ、シベリヤ出兵に賛成した閣僚の立場は、後世批判を受けてもしかたないかもしれない。
安倍内閣の「積極的平和主義」と「日本膨張論」が重ならなくもないが、軍隊が平和活動とはいえ、海外に出て行くと、紛争に巻きこまれる危険性がある。今日、戦前のような朝鮮半島や台湾のような植民地経営ということもなく、満州のような偽装国家という状況にも関わることがない。後藤新平は、その両方に関与している。それなりの成果を果たしている。彼が強調するのは、経済的国家間の協調主義である。海外に積極的に経済投資をすることでもある。後藤新平の政治思想から現代人が学ぶことは、多い。
  

Posted by okina-ogi at 12:03Comments(0)書評

2016年10月25日

「しがくのやど」



私学共済の加入者に便宜を図る宿が、全国に8箇所ある。今年3月、友人の勧めで湯河原の「敷島荘」という宿に泊まった。食事もよく、場所も良かった。軽井沢にも「しがくのやど」があって、またもやお誘いがあった。中軽井沢駅の近くにあって、外観も高原宿の感じがある。
厚生年金会館、郵便貯金会館なども利用したことがあるが、無駄な投資をして、国民の反発をかったことを意識して、最近は、旅先の宿にすることはなかったが、営業を継続していることから考えれば、それなりの努力をしているのだろう。軽井沢は、別荘地であるが、自分の所有する別荘はないし、友人の別荘もない。加えて、自宅から日帰りできる距離にあり宿泊する必要もなかった。
今回は、友人が遠方から訪ねてくるので、泊る意味もある。帰路我が家にも泊ることにもなっていて、軽井沢を車で案内することにした。近くには、文人が愛した星野温泉がある。こちらは日帰り温泉である。宿を出て、昼食をはさみながら体を休めて、夕食を我が家で接待することにしている。
  

Posted by okina-ogi at 16:53Comments(0)日常・雑感

2016年10月20日

帝国ホテルのランチ



帝国ホテルと言えば、日本のホテルの雄と言っても良い。歴史が長いのである。しかも、内幸町という東京の一等地にある。帝国ホテルは、明治23年に開業した。ホテルに隣接して鹿鳴館があり、その建物の存在と無関係ではない。国策のホテルとしてスタートしている。最初の建物は、日本人の設計した洋館であったが焼失した。
二代目は、アメリカ人建築家ライトの設計で、帝国ホテルの存在を更に世に示した。現在の帝国ホテルのある場所には解体されて存在しないが、玄関部分は、明治村に移築されて残っている。二代目帝国ホテルの完成は、大正12年であり、落成式の日に関東大震災が起こったことで知られている。建物は傷ついたが崩壊せず、多くの避難民を受け入れた。耐震性に優れていたという評価も得たが、大谷石を多く使用していたために、漏水などがあり、老朽化が進み解体されることになった。しかし、建物の意匠は、芸術的で多くの人々の目に焼きつくことになった。現在、ホテルの1階フロアーの一角にも、その建物の壁面の一部が保存されている。
今回、職場の企画で、3代目?の帝国ホテルの17階で昼食を食べることになった。インペリアルバイキングと称して、5500円也である。約一時間半、バイキングなので好みの物食べ放題ということである。パンフレットを見たら、バイキングを日本で最初に始めたのは、帝国ホテルで昭和33年だという。ライトの設計した建物が存在していた時代である。
  

Posted by okina-ogi at 17:11Comments(0)日常・雑感

2016年10月19日

『頑蘇夢物語』 徳富蘇峰著 講談社学術文庫 1230円(税別)



旅先(小樽)で購入した本である。旅先では読みきれなかった。続編もあるらしい。文庫本ながらボリュームがある。解説は、御厨貴、東大名誉教授。政治史、政治学が専門。「蘇峰さん、好きです」と最後に書いている。彼にとって、蘇峰の著述が、赤裸々な歴史の証言と写ったからだと思った。
徳富蘇峰については、若いときから関心があったが、著書を読むことはなかった。自伝を読んだような気がするが、本棚を探しても見当たらない。どこかの本屋で立ち読みして、読んだ気になっているのかもしれない。蘇峰の家は、大庄屋であり、武士階級との交流もあり、父親はりっぱな学者であり、横井小楠と深いつながりがあった。熊本市内に大江義塾が残され見学したことがある。二十歳頃自ら開いた塾である。好学の徒といって良い。蘇峰の家系図をそこで見たが、歴史に名を刻んだ人物が多くいる。
早くから、西洋思想やキリスト教に触れ開明的な思想を持った。その中で、大きな影響を与えたのが新島襄で、終生師と仰いでいる。新島襄の同志社の経営に、外から大いに協力し、臨終の場にも立ち会っている。大磯の旅館であるが、後年大磯に居を構えている。この本は、そこで書かれている。敗戦から3日後に書き始めている。この時、蘇峰は、80歳を超えている。筆法鋭く、赤裸々に心境を吐露している。その立場は、一貫していて、強烈な皇室中心主義である。天皇批判ともとれる記述もある。
徳富蘇峰は、ジャーナリストという範疇を超えた人物で、膨大な著述を残している。『近世日本国民史』である。全100巻。56歳から90歳を超えて完成させた。地の塩となって生きる、同志社人らしからぬ人物でもある。中曽根元総理は晩年の蘇峰を何度も訪ねている。もちろん首相になる前である。著書『自省録』に書いている。
  

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2016年10月15日

『夫婦のルール』三浦朱門×曾野綾子 講談社 900円(税別)



旅先(小樽)で購入した。小樽の町をゆっくり散策できないので、この街にしかないような書物はないかと、駅前にあった紀伊国屋書店に立ち寄った時に、目に留まったのである。三浦朱門90歳、曾野綾子85歳と表紙に書いてある。それにしては、お若い。文庫本で車内でも気軽に読めそうである。夫婦の会話である。
両氏とも長寿で、作家であり、三浦朱門は文化庁長官、曾野綾子は、日本船舶振興会(日本財団)の会長を歴任した名士でもある。2人のご意見を素直に拝聴することにした。この夫婦にしても山あり谷ありだと思った。順風満帆ということでもない。他人と自分を比較しても、同じ条件ではないのだから意味はない。辛辣にも聞こえるような内容もあるが、言葉尻を捕らえて反論する気は起こらなかった。
本の中でも少し触れていたが、30年前に三浦朱門の母君が、私の勤める老人施設を利用されていたことがあった。三浦朱門は、文化庁長官になられた頃でお話する機会は少なかったが、曾野綾子は、こまめに面会に来られ、署名入りの本もくださった。御2人に共通しているのは、著名人らしくない気さくな人柄だった印象である。気楽に、法人の広報誌に寄稿していただいた。高齢夫妻のメッセージ、心に留めることにした。
  

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2016年10月14日

札幌、小樽、余市へ(2016年10月)



 北海道への旅は、意外と少ない。札幌も二度目で、三十年以上前のことである。時計台に立ち寄った写真が残っているが、旅の記憶もすっかり薄れている。小樽や余市は、初めて訪ねることになる。残暑から長雨を経て、秋の気配が漂うようになって、金木犀の香りに惹かれるように北海道に渡ってみたくなった。あえて言葉にすれば、「開拓使」、「札幌農学校」という、明治維新後の薄れた奇跡を追ってみたいという気持ちである。そこから始まった、殖産による北海道の発展である。二百万都市、札幌は、その成果であるが、揺るぎもない、日本有数の大都市となっている。
 十月九日(日)の出発の日、関東と札幌周辺の天候は、同じ日本とも思えない違いがあった。羽田は、雨で千歳は晴れて風が強かった。温度も十度近い差があった。服装が難しい。千歳空港に降り立つのは初めてである。札幌までは列車で行く。空港に隣接して駅があり、札幌までは三十分そこそこで着く。九州の福岡市と札幌市は距離があっても、飛行機を利用すれば日帰りが可能である。札幌まで車窓の眺めは、北海道らしく平地の森に白樺の木が目立つ。高原に来たような爽やかさがある。
 ホテルは、札幌駅から近いがチェックインには、時間がある。北海道大学のキャンパスに向かう。駅からごく近い場所にある。広大な敷地に緑が豊かなことで知られている。案内板に眼をやると、農場まである。札幌農学校を基礎にした伝統を想像せざるを得ない。正門から近い場所に、小川が流れ、芝生に覆われ、木々もそこかしこに植えられた公園のようなエリアがある。解説書を見ると、「中央ローン」という呼び名がある。少し傾斜があり、冬にはスキーもできたらしく、日本のスキーの発祥地という人もある。川の水の流れを止めればスケートもできる池になったとも書いてある。はるか昔の話だが、大学構内ということを考えるとロマンがある。
 

 標識を頼りに歩くと、クラーク像にたどり着く。二代目で作者も違う。一代目は戦時中供出され、溶けて戦争のために使われた。初代の像の作者の魂も溶かされるようで、このことだけでも戦争の愚かさを思うのである。クラーク博士は、「青年よ大志を抱け」という有名な言葉を残したことで知られているが、真相は、異説があるようだが、北海道開拓の恩人と言う功績は揺るがない。大正十五年の除幕式には錚々たる要人が参列したが、内村鑑三は参列しなかった。偶像崇拝から程遠い彼の思想からしたならば、クラークの精神とは無関係の事業に思えたのだろうが内村鑑三らしいと思った。
 クラーク博士が日本に招聘されたのは、明治九年で札幌農学校の教職にあったのは、一年に満たない。しかし、彼の残したキリスト教精神は、札幌農学校に残り、新渡戸稲造や内村鑑三、宮部金吾などを輩出したことで知られている。第一期生の中には、初代の北海道帝国大学の総長になった佐藤昌介がいる。南部藩士の家に生まれ、直接クラーク博士の薫陶を受けている。札幌農学校から北海道帝国大学になったわけではなく、東北帝国大学農科大学として文部省に移管され、やがて北海道帝国大学という名称に変わるのである。その間に学校経営の先頭に立ったのが、佐藤昌介である。だから、今日北大の功労者として顕彰されている。余談だが、同志社の創立者新島襄は、アマースト大学でクラーク博士に学び、日本への招聘を明治政府に紹介している。
 札幌農学校は「開拓使」という明治の初めに北海道に置かれた中央直轄の行政府のもとに設立された官立の学校である。ロシアの領土欲に危機感を感じた明治政府は、北海道の開発に力を入れることになる。人が住むことが、領土を主張する根拠になる。居住権のようなものである。北海道を空き家にしないためには、人の生活の基盤を作らなければならない。その基本は農業だと考えたのである。しかし、北海道の気候は寒冷で、加えて、本土のような農産物を生産するにはその土壌が適していなかった。石狩の原野は、泥炭質の土壌であった。屯田兵という言葉を教科書で学んだが、この発想を最初に持ったのは榎本武揚だと言われている。農業に従事しながら警備にもあたる兵士である。榎本は、北海道を独立国にしようと函館戦争を戦ったが敗れた。榎本を助命するように奔走したのが、黒田清隆である。西郷隆盛は、国の礎は農にありと考えていたので、士族が農を兼ねて北方警備にあたる構想を持ったが、下野し西南戦争にも破れ、実現しなかった。榎本の夢と西郷の構想を引き継いだのが黒田であった。毀誉褒貶のある人物であるが、北海道の人は、今日でも大恩人だと考えている。これも余談だが、榎本武揚は、東京農業大学の創設にも関係している。
 北大構内をゆっくり散策しても良いと思ったが、総合博物館を見ることにした。北大の歴史もわかると考えたからである。『北大歴史散策』という手頃な著書を館内で購入できた。館内の展示は、興味をそそられるものであったが、一箇所だけ見たいところがあったのである。受付で尋ねてみた。
「人工雪を作ったことで知られる中谷宇吉郎の研究室がこの建物の中にあると聞いたのですが」
答えは、わからないということであった。
中谷宇吉郎は、寺田寅彦に学んだ物理学者で、北海道帝国大学に赴任し、昭和十一年に人工雪の結晶をつくることに成功している。さらに、戦時中、数学者岡潔を非常勤職員として招き、岡潔は、ここで数学上の大発見をしたのである。その往時を偲んでみたかかったのである。しかし、中谷博士の記念碑が残っていた。除幕式には、中谷夫人が参列した。夫人の詠んだ歌がある。
天からの君が便りを手にとりて
      よむすべもなき春の淡雪
中谷宇吉郎が残した「雪は天から送られた手紙である」に見事に応えている。
宇吉郎直筆の色紙は、由布院の亀戸別荘、見せていただいたことがある。


時代は下って、北海道の自然がウイスキー作りに適していることに目をつけ、その夢を実現した人物は、NHKの朝ドラ「マッサン」でも紹介され世に広く知られるようになった。広島竹原市の造り酒屋の息子、竹鶴政孝である。翌日、朝早くホテルを立って、余市に向かう。小樽までは、列車の本数が多いが、その先の余市までは、乗換えで本数も少ない。余市工場の見学は、無料だが説明を聞くためには予約が必要になる。
余市蒸留所の建物は、外壁に大谷石を使用した建物であって重厚感がある。ガイドさんに聞くと、スコットランドの景観を思い描いてこうした建物になったのだという。現在、この建物群は、国の有形文化財になっているものが多いという。本物のウイスキー作りを目指した、こだわりの人竹鶴政孝の心意気が伝わってくる。敷地内の景観も美しい。スコットランドに行ったことはないが、余市蒸留所の環境はリタ夫人も心安らぐものがあったであろう。夫妻の住まいもあり、中には入れなかったが、夫人の故国の家のように建てられているのであろう。いずれは、竹鶴政孝の生地、竹原市も訪ねてみたいと思っている。レストランでウイスキーをいただきゆっくり過ごそうかとも考えたが、札幌への帰路、列車の本数が少ない。
昼食は、小樽ですることにした。この日は寒く、十度を切りそうで、街を散策する勇気は湧いてこない。名所になっている運河を眼に焼きつけ、ラーメンで体を暖めて立ち去ることにした。夜景が素晴らしいのだが、一人旅には、想像するだけで十分だと思った。この地にゆかりのある人物で、小説家の小林多喜二のことが浮かんだが、記念館があるわけではない。


ウイスキーの次はビールである。サッポロビール園がある。札幌駅から直通のバスがある。歩くのには遠いのである。レンガ造りの建物に展示コーナーとレストランがあり試飲ができる。余市と違って有料になっている。三種類、グラスで六百円と手頃な値段でおつまみつきである。一種類に「開拓使麦酒」というのがあって、飲み比べて美味しさを感じたが、ネーミングのせいかも知れない。サッポロビールの前進は、明治九年に開拓使が設立した札幌麦酒醸造所であった。ビール作りの技術的責任者は、日本人である。こちらの「マッサン」にあたるこの人物の名前は、中川清兵衛という。幕末、国禁を犯してイギリスに渡り、ドイツでビール製造の技術を取得した。新島襄と同じように命がけで海外渡航に成功した人がいたのである。こちらは、横浜からである。郷里は新潟の与板というから良寛さんの生地に近い。初めて知る名前である。明治一九年には、民間に払い下げられ、翌年株式会社としてスタートしている。大倉喜八郎、渋沢栄一らが参加している。その後、社名などは変わって今日に至っているが、百四十年という歴史がある。
今回の二泊三日の旅で北海道の歴史が分かったとは言えないが、蝦夷地から北海道にかわり大きな変革をとげていることを実感した。それを、まざまざと感じさせてくれるのが札幌市の変容で、北海道の人口の札幌市への集中は驚くばかりである。イギリスのロンドンを髣髴させる。市街地を離れれば、冬は雪に閉ざされ自然の厳しさは今も変わらない。野生動物とすれ違うこともあるだろう。定住してみなければ、北海道のことはわからない。先祖も、親戚も北海道とは無縁だが、戦前父親が北海道に住んだことがあると言っていた。戦前まで、農林省の外局に馬政局というのがあった。北海道の厚岸にあったと言っていた。軍馬の生産管理する組織で、短い間の公務員であった。召集令状により満州に渡り、敗戦とともにシベリヤ抑留となった。北海道に優る寒冷地である。北海道も、シベリヤも懐かしい土地ではなかったのか、多くを語らず、子供への情報は少ない。だから無意識に、寒冷地を避ける意識が働いていたのかもしれない。これを機会に、再度北海道を訪ねることになれば良い。最後の晩食べた蟹と日本酒は美味しかった。北海道の食材は、魅力的である。
  

Posted by okina-ogi at 17:38Comments(0)旅行記

2016年10月14日

三浦九段の不正疑惑


インターネットの見出しを見て、一瞬目を疑った。どういうことなのだろうかと。まず、不正という意味が分からない。将棋の対局の不正とはなんだろう。内容を読むと、対局室から離れ、コンピューターの将棋ソフトを利用して指し手を選んでいたという疑惑らしい。本当に。A級クラス、タイトル獲得棋士である三浦九段がまさか。しかも、竜王戦の挑戦が決まっている。ちなみに賞金額は、名人戦より高い。それはともかく、こんな行為をしたら棋士生命が絶たれるではないか。「まった」するのとはわけが違う。棋士としての倫理にも反する。間違いであってほしいが、将棋連盟は、出場停止処分にした。ちなみに、三浦九段は高崎市の出身。同郷の棋士として期待していた。残念である。
  

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2016年10月08日

『数学する人生』 森田真生著 新潮社 1600円(税別)



著者は、この著によって小林秀雄賞を受賞した。数学という学問分野は、あまりにも深遠な世界と感じるのが世の多くの人の印象であろう。内容は、専門的で、基礎がないので到底理解は出来ないのだが。著者が伝えようとするところは、感じられるのである。数学は、見えない世界の法則を記号や言葉で表現する学問だということである。
人間の心の世界も似ている。見えない世界があり、そこにも法則がある。そのことを晩年追求したのが、岡潔という数学者である。そのプロセスを、著者はなるべく平易に、他者が分かるように書き綴っている。
40年近く、岡潔の世界を見つめてきたが、この著に触れて「ああそうなのか」と思うところが多い。分かったということではない。音楽や絵画が好きになるように、ますますその感じが強くなると言ったほうが正しい。著者の今後の研究活動や新刊書に注目したいと思う。
  

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2016年10月05日

森田真生という人

今日の日本経済新聞を見ていたら、「旬の人時の人」欄に森田真生さん(31)が紹介されている。小林秀雄賞を受賞した。新潮社が主宰している賞で、評論やエッセイに贈られる。見出しには「数学の魅力を語る『独立研究者』」とある。『独立研究者』という言葉が耳慣れない。森田さんは、大学の数学科を卒業して、教職の道に進まず、組織から給与と言うものを貰わず自活の道を選んだ。しかし、毎日が研究であり、数学の研究者であることには変わりない。
一時ではあるが、百姓をしながら数学の研究を続けた人がいる。世界的数学者で、文化勲章を受章した岡潔である。森田さんは、岡潔の数学する人生に惹きつけられた。新潮社から『数学する人生』を著し、岡潔のことを綴っている。奇しくも、岡潔は、小林秀雄と対談し『人間の建設』という著書がある。『国家の品格』の著者藤原正彦も岡潔を紹介していた。ただ、森田さんは、岡潔がなくなってから生まれた人で、そうした世代に岡潔に共感する人が出てきたことに驚きを禁じえない。
  

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