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2017年03月27日

東京の桜(2017年3月)

 東京の開花宣言は、いつもの年より早かった。靖国神社の桜の開花模様が基準になるらしい。ところが、それから気温は上がらず、開花は順調に進んでいない。三月二十六日(日)に、ハイキング同好会のメンバーと東京花見散策を決行したが、あいにくの雨で、気温も低い。同行者の提案で、駒込駅に近い、六義園の枝垂れ桜を見てみようということになった。
六義園は、柳沢吉保が造園したことで知られる、日本の代表的な大名庭園である。明治になって、三菱財閥の創始者岩崎弥太郎が購入して使用したこともあったが、寄付されて、現在では東京都が管理している。大震災や空襲の被害もほとんど受けず、名庭園の景観が維持されている。広島市の縮景園が爆心地に近かかったために、名木が焼失したのとは、対照的である。肝心の枝垂れ桜は、咲き初めという感じで、花見客も少ない。ただ、氷雨に濡れている庭園を見るのも味わいがある。都会の中に広大な、しかも閑静な緑の空間が残されているのも素晴らしい。
お目当ての隅田川の桜も期待できないと思いつつ、両国駅に向かう。昨年開館した、すみだ北斎美術館もコースに入っている。六義園を散策したので、駅についた頃には昼時になっている。ガード下にあるちゃんこ料理の店に入る。グループなのでちゃんこ鍋を注文する。両国は大相撲のメッカであるが、力士の多くは大阪に出張中である。久しぶりのちゃんこ鍋は、実に美味しかった。この日が寒い日であったことも良かった。


葛飾北斎は、墨田区ゆかりの人物である。当時としては、長寿で九十歳まで画業を続け、その力量は衰えなかったと言われている。長野県の小布施にも北斎の痕跡を見ることが出来る。有名なのは、岩松寺の天井画である。高井鴻山という高弟もいた。モネなどの印象派の画家にも影響を与えたし、ゴッホはとりわけ北斎を賞賛している。北斎の誕生地に近い公園の一角に美術館はオープンしたが、外観もモダンで近代的な建築になっている。会館から半年も過ぎたが入場者は多い。外国人の入館者もいた。
北斎の作品は、海外に多く流失している。若冲のコレクターで知られている、ジョー・プライスのように個人で北斎の作品を収集した外国人がいた。ピーター・モースという人で、故人になっているが、遺族からその作品は墨田区に譲渡され、美術館の核となっている。芸術は、文化の違いが障害とはならず国境を越えていく。作品の芸術的高さは、万国民に共感と感動を与える。
北斎の代表作は、「富嶽三十六景」である。七十歳過ぎてからの作品だというから驚きである。とりわけ、「神奈川沖浪裏」は、有名で海外でも良く知られている。誇張されているが躍動感がある。「凱風快晴」は、赤富士である。決して写実的ではないが、一度見れば、心に焼き付けられて忘れない作品である。子供の頃、記念切手を夢中になって集めたことがある。趣味週間切手で浮世絵が発売されたことがある。その中にあった「東海道程ヶ谷」はシートで購入して半世紀以上も所有している。「富嶽三十六景」の中には、隅田川からの風景もある。
現代、隅田川沿いには高層ビルも立ち並び、富士山も隠れてしまうほどである。近年スカイツリーが、隅田川の近くに建ち、東京の街を鳥瞰することができるようになった。見通しが良ければ、富士山を遮る物は無い。北斎が、今日生きていれば、新しい富嶽百景が加わるに違いない。スカイツリーに昇らずとも、創造力で描く素質は、北斎にはある。「東海道名所一覧」という作品がそれである。右下には、日本橋が描かれ、右上には、京都の二条大橋が描かれている。左上には富士山が大きく聳えている。
美術館の一角に、蝋人形の北斎が絵を描いているコーナーがあった。北斎の弟子の露木為一が、描いた「北斎仮宅之図」を基にして設営したのだが、畳の上に和紙を置き、墨で描いている北斎は、ユーモラスにも見える。冬なのか、炬燵布団を肩にかけている。何度も書きなおしたと見えて、紙が乱雑に部屋の隅に丸められている。近くに娘が覗き込んでいる。娘も絵を習っていて、声は出さないが、なにやら注文をつけているような感じがある。手には煙管を持っている。北斎には、先妻と後妻があり、娘は北斎を看取っている。彼が残した最後の言葉は、「天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし」だというから、死の直前まで画業の高みを目指していたのである。一説には、北斎の祖父は、赤穂浪士の討ち入りの時、吉良家の家老で討ち死にした小林平八郎であるといわれているが定かではない。


すみだ北斎美術館を出て、徒歩で墨田公園を目指す。このあたりが花の名所になる。ビルの間に、スカイツリーが見えるはずだが、近距離なのに霧で見えなくなることもある。相変わらず春雨は、小止みなく降り続いている。桜は、諦め桜餅の老舗に行くことにした。美術館からは一里はある。長命寺桜餅といって、創業三百年だというから、北斎の時代にもあったことになる。休憩場所としてお茶と一緒にいただこうと思ったが、入り口にそのサービスはできないという張り紙がある。ようやくたどり着いたのに。思い直し土産にして、一個は、外で腰掛けて食べた。岸の桜は咲いていない
  

Posted by okina-ogi at 16:36Comments(0)旅行記

2017年03月21日

「私の履歴書」



日本経済新聞を購読してから長いが、「私の履歴書」欄は、一面より先に読むことにしている。月に一人の人物が紹介される。3月は、美術収集家のジョー・プライスである。1月がカルロス・ゴーンだったので、今年になって二人目の外国人の登場である。近年になって、江戸期の画家、若冲の展示会が好評を博している。若冲ブームを引き起こしたのは、プライスの収集が大いに貢献している。
外国の人が、日本の、しかも江戸時代の日本画の虜になるのも驚きだが、記事を読むうちに納得がいった。プライスは、自然に対する関心が若いときから強かった。しかも、帝国ホテルの設計者として知られる、ライトとの出会いもあった。
美術品を収集するには、財力も必要である。彼の父は、パイプラインを建設する会社で財を成したことが大きい。兄とともにその会社で働き、美術品の購入できる資金は、遺産だけではなかった。彼は、美術品だけではなく、伴侶も日本から手に入れている。当然親日家である。親日家というよりは、高齢になって日本に国籍を移した日本文学の研究者、ドナルド・キーンは「私の履歴書」に紹介されていない。文化勲章受章者でもある。94歳の高齢でもあることだから、早く登場させてもらいたいと思う。
  

Posted by okina-ogi at 16:58Comments(0)書評

2017年03月18日

三十年後の伊豆下田(2017年3月)



 正確な記憶ではないから、三十年前だったかは、定かではない。職員旅行だったのだろう。俳句が残っている。伊豆の山に霧が横にたなびいている風景を詠んだ句で、ホテルの窓からの眺めだったのだと思う。宿は、伊豆東急ホテルだったかもしれない。これまた定かではない。こんなに記憶が曖昧になるのも、全てがお任せの団体旅行だったからかもしれない。けれども、一つの情景は明瞭に残っている。寝姿山から見下ろす下田湾である。
 ペリーの黒船に向かい、決死の海外渡航を企てた吉田松陰のことを意識していたからである。資料館を訪ね、松蔭の行動のあらましなども見た記憶も残っている。今回は訪ねなかったが、下田開国博物館は、一九八五年の開館となっている。なまこ壁造りの建物である。そういえば、下田の町にはなまこ壁の建物が多く残っている。近くに、開国の外交の舞台になった、了仙寺もある。三〇年程前の下田旅行の根拠はこのあたりにある。
 友人のお誘いで、ホテル伊豆急に宿をとった。海辺に近い高台にあり、砂浜も長く、日の出も見られる景観は素晴らしい。もちろん天然温泉の浴場があり、適温で温泉の質もよい。川端康成の名作『伊豆の踊子』の文庫本を携帯し、海を眺めながら読んでみた。短編だが味わいがある。踊子と主人公(康成)が別れるのは、下田港だった。一人旅だったが、踊子との束の間の出会いに叙情がある。何度も映画化され、踊子も時代時代の女優が演じた。田中絹代、吉永小百合、山口百恵といった人達である。伊豆の踊子は歌にもなっている。
その一節
「さよならも言えず泣いている。私は踊り子よ、ああ船が出る」
日本人は、こういう場面に共感する。
 

  翌日、ペリー通りなる道を歩いていると、三島由紀夫の色紙や新聞記事のコピーが貼ってあるお店があった。しばらく眺めていると、ドアが開き、新聞の写しを差し出し、「これお読みください」
と、同じものを渡された。
「ありがとうございます」
と受け取ると、ドアがしまり、説明もなかった。
 駅のホームで眼を通すと、三島由紀夫は、夏になると下田東急ホテルに泊まり、周囲を散策し、下田を取材しつつ、数々の作品をこのホテルで執筆していたことが書かれている。新聞記事には、下田市民大学講師、前田實と書かれている。コピーを手渡してくれた本人だったかもしれない。前田さんは、昭和四十四年の八月、いきつけの理髪店で三島由紀夫に偶然出会った。色紙に揮毫してもらい、『豊穣の海』の一巻と二巻に署名してもらっている。二人の間に言葉は交わされなかったという。三島は、気軽に町を歩いていたらしく、インターネットで見たのだが、日新堂というお菓子屋さんのマドレーヌが好きで、よく買いにきたらしい。今も店主をしている横山郁代さんは、昭和三十九年に三島に出会った。その時、横山さんは、中学生だった。
 『三島由紀夫の来た夏』という本を書いている。その中に書かれているらしいが、散策する三島の後を、友達と追跡した思い出がある。ホテルに帰る、細道の途中で、三島がサングラスをとって、「あかんベー」をして見せたというのである。その顔は、笑っていたという。昭和四十五年に割腹自殺した年の夏も、子供たちを伴って、下田に避暑に来ていた三島由紀夫のことは初めて知った。三月末には伊良湖崎のホテルに泊まる。すぐ近くに神島がある。小説『潮騒』の舞台になった島である。
  

Posted by okina-ogi at 13:18Comments(0)旅行記

2017年03月14日

関口コオの切り絵



芸術家とのお付き合いは少ないが、切り絵作家、関口コオの作品は好きで、面識も出来て30年近くお付き合いがある。年賀状のやりとりもある。数年前に、高崎市箕郷町に開館した「関口コオきり絵美術館」を訪ねた時、氏も居られ、久しぶりにお話しする機会があった。多くの作品も展示されていた。日本航空からポスターの依頼があったことを嬉しそうに話しておられたのが印象的だった。
氏の原画の作品は、一点も所持していないが、コピーを3点ほど自宅の和室などに飾ってある。いずれも初期の作品で童と白い犬が田舎の風景の中に描かれている。子供たちの服装やわらぶき屋根の家が出てくるところをみると、大正、昭和初期の感じがしている。自分の幼い頃の思い出も浮かんできて、ノスタルジックな気分になる。
写真は、「焚き火」というタイトルがついている。今日では、田舎でも焚き火など簡単にできなくなった。そういえば、「焚き火」という童謡がある。この切り絵に添えても違和感がないが、戦時中に作詞したために、不謹慎と言うことで戦後まで日の目をみなかったという話がある。関口コオの切り絵には、童謡詩をつけてみたい気がする。
  

Posted by okina-ogi at 16:57Comments(0)日常・雑感

2017年03月11日

小川芋銭の掛け軸



知人で書画の収集家から、小川芋銭の掛け軸を譲ってもらった。小川芋銭の名前は、頭の隅にあり、展示会で目に留まったのである。俳句と俳画が描かれていてあっさりしている。いつ見ても飽きない感じのする雰囲気がある。
傘と酒壷が描かれている。句は「一本の傘に重たし今年酒」。今年酒が季語で秋の季語である。今年酒は、新酒の意味である。句を鑑賞すれば、「待ちわびたかのように、行きつけの酒屋に新酒を買いに行った帰り、雨の中、片手に持った酒壷が重く感じられる。家に着けば一杯やれる楽しみが頭に浮かびまんざらでもない気持ちである」というようなところか。
小川芋銭は幕末に生まれ、美術学校にも行かず、農業のかたわら絵を描き続けた人で、高齢になって日本美術院の同人となり、日本画家と認められている。同郷の野口雨情や長塚節とも親交があった。新横綱稀勢の里の出身地茨城県牛久に住み、そこで昭和12年に亡くなっている。
  

Posted by okina-ogi at 11:15Comments(0)日常・雑感

2017年03月02日

バルテノン神殿と彫刻群



ギリシアのアテネ市のアクロポリスの丘に建つバルテノン神殿は、今から2500年前の建築物だというから驚く。その設計の技術が、この時代に確立されていたことや、写実的な彫刻が施された神殿だったという、芸術性も驚異的である。その巨大さから見て莫大な資金と長い月日が費やされたことは、想像に難くない。
この時代、珍しくアテネは平和な時代であった。古代の民主主義も確立し、ペリクレスという有能なリーダーがアテネをリードしていた。建築もアテネの市民の賛成の元に進められていたから問題視するところはない。ところが、その資金は、税金や市民の寄付もあったと思うが、本来ならば、国の防衛のため使うべきお金だった。
デロス同盟の各ポリスの拠出金は、アテネが管理していた。いざとなれば、軍船を作り、戦いになれば軍事費になるお金である。使途からすれば、流用である。拠出したポリスの了解をとったかは、疑わしい。
彫刻群は、大英博物館に展示されている。波風彫刻群と呼ばれている。創作したのは、フィディアスと伝えられているが、バルテノン神殿建築の総指揮をとった人物とも言われている。
  

Posted by okina-ogi at 11:34Comments(0)書評