2013年06月18日
『福祉を廻る識者の声』36(若月俊一)
生きる苦労 若月俊一
最近施設のお年寄りと、こんな一問一答がありました。お伝えいたしましょう。「なんでわし達は生きていかなきゃならんのでしょう。こんなに面倒かけて」
「今まで、世の中のために尽してきたお年寄りに、今度は世の中が尽してあげるのは当然です。長寿国になって〝お年寄りの世の中〟になりましたから、とくに肉体的にも、精神的にも不自由になったお年寄りのために、ホームを作ったり、在宅ケアのための保健婦さんやホームヘルパーさんたちを増やすことに、今や国も役場も、一生懸命になってるようです。しかし、まだまだ足りはしません。率直に言って、お年寄りの面倒は、世の中の〝みんな〟が看るべきでしょうね」
「なんで、こんな苦労してまで生きていかなきゃならんのでしょう」
「そうですねえ。だけど、人間はみんな苦労して生きているんじゃないですか。愛も、喜びも、また憎しみも悲しみも、すべて人間の中から出てくるんじゃないでしょうか。つまり、生きてる証拠なんです。死ねば、その苦労がなくなる代りに、永遠の安らかさが来るのです」
「面倒を、みんなが看ろと言うけど、今の若い人は自分中心じゃないでしょうか」
「そういう傾向は確かにありますね。しかしこれは直してもらわなければならないと思います。なぜなら、みんなが年寄りになるんですからね。若い人も他人事(ひとごと)じゃない筈です。みんなが生きることの大切さをしっかり自覚することです。しかし、年寄りも甘えちゃいられませんよ。できるだけ、みんなに迷惑をかけないような配慮は、生きていくのに一番大切なことです。繰り返しますが、生きるとは、みんなと一緒に生きること。それで話し合ったり、書いたり。これで呆けを防ぐことができるのです。人間は社会的動物ですからね。世間からいい人と言われたいもんですね」
若月俊一(わかつきとしかず)。一九一〇年、東京生まれ。東大卒。長野県厚生連佐久総合病院院長。日本農村医学会理事長。 (平成四年・春号)
美しさ (平成四年・春号)
ほろほろと山吹散るか瀧の音
この芭蕉の句は、春の句であるが、どことなく生命の盛りのなかにあるかげりを感じる。
今や桜の花が満開である。桜の花も数日を経ずして地に落ちる。花見は、日本の風物の一つであるが、その散りゆく姿が、なんとも美しいと人々から愛されている。物の〝あわれ〟とは、長く民族の共通の無意識の中に養われてきた感情であるが、つまりは優しさの根源とは無縁ではないように感じられる。
ピエタの像は、慈悲の極みとしての美であるという、原公朗氏の講演の指摘である。美しさの定義を〝悠久なる物の影〟といったのは芥川龍之介であるが、美もまた深遠なるものに違いない。福祉が文化であるならば、その道のりは奥行きのある果てのない旅路の如きものであろうか。(翁)
最近施設のお年寄りと、こんな一問一答がありました。お伝えいたしましょう。「なんでわし達は生きていかなきゃならんのでしょう。こんなに面倒かけて」
「今まで、世の中のために尽してきたお年寄りに、今度は世の中が尽してあげるのは当然です。長寿国になって〝お年寄りの世の中〟になりましたから、とくに肉体的にも、精神的にも不自由になったお年寄りのために、ホームを作ったり、在宅ケアのための保健婦さんやホームヘルパーさんたちを増やすことに、今や国も役場も、一生懸命になってるようです。しかし、まだまだ足りはしません。率直に言って、お年寄りの面倒は、世の中の〝みんな〟が看るべきでしょうね」
「なんで、こんな苦労してまで生きていかなきゃならんのでしょう」
「そうですねえ。だけど、人間はみんな苦労して生きているんじゃないですか。愛も、喜びも、また憎しみも悲しみも、すべて人間の中から出てくるんじゃないでしょうか。つまり、生きてる証拠なんです。死ねば、その苦労がなくなる代りに、永遠の安らかさが来るのです」
「面倒を、みんなが看ろと言うけど、今の若い人は自分中心じゃないでしょうか」
「そういう傾向は確かにありますね。しかしこれは直してもらわなければならないと思います。なぜなら、みんなが年寄りになるんですからね。若い人も他人事(ひとごと)じゃない筈です。みんなが生きることの大切さをしっかり自覚することです。しかし、年寄りも甘えちゃいられませんよ。できるだけ、みんなに迷惑をかけないような配慮は、生きていくのに一番大切なことです。繰り返しますが、生きるとは、みんなと一緒に生きること。それで話し合ったり、書いたり。これで呆けを防ぐことができるのです。人間は社会的動物ですからね。世間からいい人と言われたいもんですね」
若月俊一(わかつきとしかず)。一九一〇年、東京生まれ。東大卒。長野県厚生連佐久総合病院院長。日本農村医学会理事長。 (平成四年・春号)
美しさ (平成四年・春号)
ほろほろと山吹散るか瀧の音
この芭蕉の句は、春の句であるが、どことなく生命の盛りのなかにあるかげりを感じる。
今や桜の花が満開である。桜の花も数日を経ずして地に落ちる。花見は、日本の風物の一つであるが、その散りゆく姿が、なんとも美しいと人々から愛されている。物の〝あわれ〟とは、長く民族の共通の無意識の中に養われてきた感情であるが、つまりは優しさの根源とは無縁ではないように感じられる。
ピエタの像は、慈悲の極みとしての美であるという、原公朗氏の講演の指摘である。美しさの定義を〝悠久なる物の影〟といったのは芥川龍之介であるが、美もまた深遠なるものに違いない。福祉が文化であるならば、その道のりは奥行きのある果てのない旅路の如きものであろうか。(翁)
Posted by okina-ogi at 20:23│Comments(0)
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