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2013年09月09日

『翁草』(拙著)県立土屋文明記念文学館

県立土屋文明記念文学館
 群馬町は、群馬県群馬郡群馬町である。県名、郡名、町名が同じというのは、日本の中でも珍しいのではないだろうか。平成の合併で高崎市と一緒になる可能性があり、その名は消えようとしているが、この町に平成七年になって、県立の立派な記念館が開館した。土屋文明記念文学館である。総工費は三十億円に近く、個人を記念して建てられた群馬県の文学館という趣旨としても破格の費用である。
 記念館がある群馬町保渡田地区は、古墳群があることでも知られている。古代、この地に有力な豪族が住みついていた証拠である。しかも、同じ群馬町に国分という地区があり、国分寺があったことも知られている。奈良朝の頃は、このあたりが群馬、当時の呼び名では上毛(かみつけ)の中心地であったと考えられるのである。万葉集の秀でた研究者であり、斎藤茂吉と並ぶアララギ派の歌人土屋文明の生誕地が、その万葉の時代に栄えた地にあるということは興味深いことではある。
 『翁草』(拙著)県立土屋文明記念文学館
 土屋文明は、長命で、平成二年に百歳を越えて亡くなっている。群馬の文学者として著名なのは、小説家では『田舎教師』などの作品で知られる田山花袋、詩人では萩原朔太郎であるが、土屋文明は、二人に近い時代の人ながら長命であったために、まだ歴史上の人物という感じがしない。今日まで、文明の歌集も読んだこともないし、文明の万葉の評論も目にしたことがないので、人物の詳細もほとんど知らなかった。むしろ、同じ群馬町に生れた、詩人、童話作家の山村暮鳥の存在が大きかった。土屋文明記念文学館に足を向けたのも山村暮鳥の展示の企画があったからである。
 山村暮鳥の展示も時間をかけて見て廻ったが、初対面というべき土屋文明の人生とその作品に、思いを馳せられてしまった。館内で販売されていた『土屋文明私観』原一雄著(砂子屋書房)を読み、その思いはいっそう強くなり、読後感のようなものとして書き留めたいという気になった。その内容は、原一雄氏の本からの引用のようになるが、著者の土屋文明への敬愛と、人物理解、鋭い歌の鑑賞は誠に見事であって、いずれは文明の歌集を手にしたいという気持にもなった。
 原一雄氏は、大正元年の生まれと書いてあるので、九十歳を越えている。現在、音楽センターや群馬の県立美術館建築に貢献し、群馬の文化活動の進展に寄与し、大きな足跡を残した井上房一郎の遺志を継ぎ、財団法人高崎哲学堂の理事長として活躍されている。高崎高校の同窓会長も歴任した名士でもある。
 土屋文明は、明治二十三年(一八九〇年)に群馬郡上郊(かみさと)村に生れた。家は農家であったが、決して豊かではなかった。兄弟も多く、文明は親戚に預けられて育っている。嫁いでいたが子供のなかった伯母の家である。大事にされたが、感受性が強く、頭の良い文明少年は、何となくこの村での暮らしが息苦しかった。それは、文明の祖父が、犯罪者で北海道の監獄で刑死したことからくる村人の視線のためだった。
 文明は、下を向きながら歩く少年であった。その視線の先には、名の知れない野草があり、異常なほどに植物への関心を持ち続ける素地になったと原氏は著書に書いている。小学校の時に「アララギ」を購読し始め、百歳の死の直前まで短歌を追い求め、万葉の歌の探究に生涯をかけた文明にとって、植物は自分の分身のようでもあった。
 「泣き文ちゃん」というほどに、小さい時から人の悲しみへの感受性が強かったことも文明の性格のひとつであった。それは文明の優しさであったが、貧しさや村人の冷ややかな態度の重圧から這い上がってきた反骨精神も持ち合わせていた。
 文明は、親からは経済的に無理と反対されたが、周囲の勧めもあり、高崎中学に入学する。当時中学に進学できる者は一握りであり、成績が優秀であったとしても財力のない家の子供が多かった。文明の状況も同じであった。
 「僕は運が良かったのだ、本当に運が良かったのだ」
と、文明が周囲の人々に語ったように、人との出会いに恵まれ、経済的支援も受けて、最終学歴が小学校で終るはずが、第一高等学校から東京帝国大学まで進んでしまうのである。このことは、ただ運が良いという以上に優れた頭脳の持ち主であったことを証明している。東京帝国大学では、哲学科で心理学を専攻している。
 土屋文明の人生最大の師は、伊藤左千夫であった。『野菊の墓』の作者である。伊藤左千夫は歌人でもあり、写生を歌の根本に置くことを提唱した正岡子規の「アララギ」派に属していた。同門には、島木赤彦や斎藤茂吉、中村憲吉らがいる。伊藤左千夫は、人格者であった。酪農をしながら文学の道を歩み、高崎中学を卒業した文明を、中学の恩師であった村上成之という人の紹介で引き取り、働きの場を提供したばかりか、第一高等学校の受験を支援したのである。
 伊藤左千夫の助力で、第一高等学校に入学し、同期に芥川龍之介、山本有三、菊池寛、久米正雄、倉田百三といった文学史上に名を残した人物と知己を得ることが出来たのである。「僕は運が良かった」というのは、こうした出会いも含まれているに違いない。
伊藤左千夫は、文明が一高を卒業した、大正二年に五十歳で脳出血のために急死するのだが、文明は棺にすがり、一目もはばからず泣きじゃくったという。「泣き文ちゃん」にとって人生最大の悲しみの瞬間であった。
 唯真(ただまこと)つひのよりどとなる教(おしえ)
               いのちの限り吾はまねばむ
伊藤左千夫が人格者と言ったのは、優れた文学者というだけでなく、人格に深く響いて人の生き方に影響を与える教育者の資質を感じるからである。近代人には胡散臭くなっている「真心」を文明青年に身を持って示した人であった。『野菊の墓』の主人公の心のあり方は左千夫そのものだったということを文明が伝えている。
 大正七年に二十八歳で結婚した文明は、島木赤彦の推薦によって教職に就く。いきなり、諏訪高等女学校の教頭として赴任する。その二年後には、校長になる。日本全国で一番若い校長であった。信州で七年間の教員生活を過ごし、その間教え子の中には、作家の平林たい子や、左翼運動で獄中死した伊藤千代子がいた。短歌の創作から離れ、女学校の教育に専念したが、文明にとっては不可解な突然の転任の人事に、教職を捨てる。そこから歌人としての人生が始まったといって良い。このあたりは、上州人、土屋文明の反骨精神である。芥川龍之介は、文明の第一歌集『ふゆくさ』を評して
 「文明には、和御魂(にぎみたま)と荒御魂(あらみたま)が同居している」
という意味の言葉を寄せている。
 信濃にて此の国の磯菜食ひたりき世に従わず背かぬ我等にて
という、六十七歳の時の歌に文明の処世観が表現されている。「世に従わず背かぬ」という言葉はなかなか普通の人の口からは出てこない。忍耐と反骨と正義が含まれている。
 土屋文明の歌集は多いが、戦災で東京の青山の家を焼かれ、群馬県の吾妻町に疎開し、戦後六年間あまり農耕生活を送り、万葉集の研究に没頭する時期があった。土や、植物に触れられる環境は、万葉の歌を調べるのには実にふさわしいものであった。
ただ、故郷である群馬町を訪れることはほとんどなかった。吾妻町は、榛名山の北側にあり、南側に位置する群馬町からはそれほど遠く離れてはいない。
青き上に榛名をとはのまぼろしに出でて帰らぬ我のみにあらじ
この歌碑が、生地の保渡田の「やくし公園」に建てられているが、土屋文明にとって故郷は、懐かしい場所ではあったが、ゆかりの人々はあったとしても、足の向く地ではなかった。
「故郷は遠きにありて思うもの::」
と室生犀星が言った言葉と、どこか重なるものがあるのだろうか。
農家の後継ぎでなかった私の叔父は、人情もろく磊落な父と違い、繊細で、几帳面な性格の人であった。今日の国立感染症研究所の前身である国立伝染病研究所に勤務し、東京に定住し、冠婚葬祭以外は実家をほとんど訪ねて来ることはなかった。草津に別荘を持ちながら、途中寄るようなこともしなかった。父が入院するようになった晩年には、何度も見舞ったが、自分が癌と診断された後は、甥の結婚式に参列したのを最後に、親戚の見舞いを望まなかった。故郷に対する文明の心境から昨年亡くなった叔父のことがふと思い出された。田舎の風景は美しく、幼いときに見た風景でもあり、どことなく甘美で懐かしいものがあっても、そのとき体験する人間模様は人さまざまである。
 『翁草』(拙著)県立土屋文明記念文学館
 文明は、歌碑を建てることを拒み続けたらしい。生地の歌碑だけは許したが、文明が亡くなる年の完成である。果たしてそのような文明にとって、この立派過ぎるほどの文学記念館を天国から彼はどのような心持で眺めているのだろうか。


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Posted by okina-ogi at 11:33│Comments(0)日常・雑感
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