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2016年11月11日

海舟、鉄舟、南州



幕末、江戸の町を戦火に焼かれるのを防いだ立役者である。海舟は、勝海舟。鉄舟は山岡鉄舟、南州は、西郷隆盛である。大政奉還から幕末の政局は、めまぐるしく変わっていく。鳥羽伏見で幕軍と薩長軍との間に戦いが起こり、幕軍が敗走する。大坂城にいた、徳川慶喜は、戦う意思がなく、夜、わずかな側近と幕府軍艦で江戸に帰り、謹慎を表明。朝廷軍との交渉の全てを委任されたのが勝海舟である。
このあたりの経緯は、多くの本に書かれているが、改めて調べてみることにした。参考図書にしたのが、江藤淳の『海舟余波』である。江藤淳は亡くなって久しいが、晩年には、『南州残影』を書いている。後者も合わせて再読した。世の中の体制が大きく変わろうとする時、国を滅ぼすほどの戦いをせず、明治維新の道を開いたのは、表題にある3者の功績が大きいと言ってよい。この3人の人物に共通しているのは、「私」がなく「公」が先にあるということである。「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と西郷隆盛が言ったのは、西郷自身のことではなく、山岡鉄舟を評して言った言葉なのである。
勝海舟は、江戸城無血開城の立役者であるが、周到な準備を持って西郷との会談に臨んだことが、『海舟余波』には多くの文献の引用もしながら書かれている。そして、勝海舟の周囲は同調するものがなく敵ばかりと書かれている。その中で、交渉をやり抜いたのは、政治家の資質があったからだというのが江藤淳の結論である。「百万人と言えども我行かん」という精神にも似ているが、根回し、布石をしながら、将来向かうであろう「公」のビジョンも勝海舟の孤独を支えていた。福沢諭吉に非難された時、批評家に何がわかるものかと、本気になって相手をしなかった気持ちもよくわかった。



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