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2013年06月15日

『福祉を廻る識者の声』32(深田伊都子)

新生会の上に神の祝福を           深田伊都子
 原先生!御送付のパンフレット「ジョージが丘の四季」を拝見しながら、終戦直後、国の結核撲滅五カ年計画に乗って建てられた「バルナバ」「聖母」「復活」各病棟等で働かせていただいたあの頃の榛名荘時代からはや四十年。ケアホーム「新生の園」完成までのあれこれが、走馬灯のように脳裏に浮かび、今日まで発展させられた原先生と逝かれたつや夫人の、ケアを求めるお年寄りへのひたすらな情熱が潮のように迫ってまいりました。
 つづいて、榛名荘創立者であり神愛修女会の生みの親でもある亡き木村神父様、そして鈴木セイ先生となつかしい恩人のお顔が浮かんでまいりました。
 また同便で御寄贈いただいた慶子様の御著書「老いの交響曲」を拝読して、新生会に入所されたすべての方々を、かけがえのないひとりの人間として尊重し、愛し、それぞれの人生を豊かに全うされるよう手段を尽すことこそ福祉に携わる者の使命であり、福祉の原点でもあるとの御確信のもと、全力をつくしておられる慶子様に共鳴、思わず慶子さん万歳!」とさけびました。新生会は、神と慶子様によって集められた同志の方によって、ますます聖旨に叶う施設として福祉界をリードされましょう。お仰せの通り、原先生は御相談にのられるだけでもう御心配ありません。修女会員一同、心からおよろこび申し上げます。
 榛名荘を苗床に誕生し、御地をはなれて岩田の地に根付いて二十年。幼稚園、特養「愛の園」、地域のための「ステパノ館」、そして有料老人ホーム「深和ホーム」が誕生してからもう三年になります。修女の殆どは老齢化。けれども神よって、神のために出発した社会福祉法人「神愛会」と岩田幼稚園にはお役に立つまで働き、あとは神によって集められる同志に引き継がれ、私達は修道生活に専心、祈りつつ守り、助ける決意で一致団結しております。小さき群「神愛修女会」「神愛会」のためにも御加祷をお願い申し上げます。
 深田伊都子(ふかだいつこ)一九一一年、大連生まれ。神愛修女会所属。前霊母。社会福祉法人「神愛会」理事長。                              (平成三年・春号)


湾岸戦争                  (平成三年・春号)
昨年の八月二日にイラクがクウェートに侵攻して以来、全世界を揺るがした中東紛争は、湾岸戦争に発展し、イラクのクウェート撤退となって終結した。
近代兵器を装備した多国籍軍の空爆によって多くの人々が死んだ。クウェート市民のイラク軍による虐殺も伝えられている。クウェートの油田は、破壊され今も炎上中である。原油は、ペルシャ湾に流出し、海を黒く染めた。戦後のイラクは、今も内戦が続いている。
日本もかつて大きな戦争を体験した。新生会の利用者は、その時代を生きた人々である。湾岸戦争をめぐっての座談会は、生き証人からの直言である。
争う心と土壌をいかに克服していくかは、人類の永遠のテーマであり、福祉の実践は、その一つの道であろう。(翁)
  

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2013年06月14日

『福祉を廻る識者の声』31(藤井一興)

音楽と自然                   藤井一興
 恩師「オリヴィエ・メシアン」が二〇世紀を代表する世界最高の作曲家であることは、夙に知られているところである。今から七年前、上演四時間に及ぶ長大オペラ、「アッシジの聖フランチェスコ」を発表し、パリを始めとして世界主要都市で上演され話題となった。「聖フランチェスコ」はヨーロッパ中世の聖人で、数々の奇跡を行い守護神とあがめられ、鳥達と会話しているところを画いた名画によっても、親しく知られるところである。「メシアン」は、このオペラの中で、自ら採譜した鳥の声をモチーフとして作曲し、主だった登場人物にちなむ鳥のモチーフが、オペラ全編にわたって、ちりばめられている。先生は、時間にゆとりがある限り、つとめて森の中を散策する。鳥の声を採譜するためである。森をかすめる風の音以外は寂として、物音のない木立の中に立ちつくす。突然野鳥が鳴き出し、さえずり始める。先生は即座に五線紙をとり出し採譜する。ひとしきりの野鳥の声も、やがてとだえて、もとの静寂な森にかえる。「メシアン」は依然として其処に身を置く、自然のゆるぎなき安定性の中に神に最も近い存在感をひとしお感じているようである。「メシアン」は常日頃から「自然は無限に我々を超える存在であり、我々が失ってしまった純粋さ、新鮮さと湧き出るものを保っている。自然は我々の教師である」と自然観照の重要さを説く。「水と光と色とのモチーフ」そしてハーモニーの中に自分の人生を見出すのは、フランス音楽の特徴だ。「ドビュッシー」は「ノルマンディー」の海まで行って、朝な夕な海や波を見つめて「海」を作曲したことは有名な話だ。たゆたう水の流れが綾なす色の変化に心奪われ、そして触発されて作曲された作品と、単なる観念で作られた作品とは自ずから違ってくる筈だ。それは日本の俳諧の自然観照のやり方と似てはいないだろうか。「カズオキ、ゆき詰った時には自然に親しむがよい。道は開かれてくるよ」とおっしゃる。私が東京を脱出して地方におじゃまする所以もそこにある。深々とした生の感覚に浸ることに出来る世界があるからだ。
 
藤井一興(ふじいかずおき)。一九五五年、東京生まれ。ピアニスト。作曲家。パリ国立音楽院卒。東京芸大、桐朋学園大学講師。                       (平成三年・冬号)


守護天使                  (平成三年・冬号)
 榛名聖公教会が昨年の暮れに改修された。ベルタワーもついて教会らしくなった。聖堂正面には、マリヤ像の下に守護天使をモチーフにした見事なステンドグラスがはめ込まれた。四人の小天使が描かれているが、榛名荘結核保養所時代に早逝した原正男理事長夫妻の四人のお子さんへの想いも込められている。教会員のみならず、幅広く職員からも募金が寄せられた。
 榛名荘が親だとすれば、新生会はその子供になる。親子の絆は、キリスト教主義の経営にある。互いに時を経て、独自の道を歩んできたが、教会の改修を機に、〝創業の精神〟を確認してみたい。
 われらは兄弟姉妹の結びをもって/ 社会の欠陥より生ずる不幸なひとびとのため社会福祉事業を起こし献身奉仕せんとす/ 願わくば天地の主なる神よ この同志の良き志を祝し導き護り育みたまわらんことを(翁)
  

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2013年06月13日

『福祉を廻る識者の声』30(内田邦夫)

あなたと工芸品                内田邦夫
 建築、インテリアと同居している器具、什器が工芸です。昔は殿様など貴族社会の生活を豊かにするため、工人達は精魂こめて道具造りに奉仕したわけです。それが今日の用を失い博物館に、逸品は国宝ともなって保存されています。殿様が愛玩した二つとない物を天下一品といい、青山播磨守の「番町皿屋敷」では命より皿の方が大切でした。人々が同等の権利を有する今日の民主社会では、あなたの生活を豊かにしてくれる工芸が、最高の物といえましょう。ところが日本は今なお過去の貴族社会のために造られた一品主義がネームバリユと共に、高く評価されています。私が世界三十カ国の工芸事情調査研究した折り、その国の工芸事情は、その国の政治のあり方、つまり国民がいかに幸せか、不幸かのバロメーターの一つになっております。しかし戦後北欧四カ国のような福祉国家のビジョンから生まれる工芸は本物でした。一方国の予算が赤字なら、福祉切捨ての日本の工芸行政はと申しますと、人間国宝や芸術院会員(工芸を純粋美術としている国は世界何処にもありません)に対して一人年間二百五十万円が国民の税金から支払われています。私の恩師高村豊周先生(詩人光太郎の弟さん)の歌集の中に「芸術といえばかしこきわざなれどつまり用なき道楽ならむ」とあります。いずれも作家天国を謳歌され、日本では若い作家達がこの道を目標としている現状です。工芸は縄文時代から生活を便利にするため造られてきました。文様があっても飾り物ではありません。今日では生活環境を豊かに、楽しくするための一手段として、飾ることも使うことなのです。それにはよい工芸品が誰にも使われるため、生産性、適正価格、インテリアへの対応性が工芸の三原則です。今日の工芸品の価値とは、作家天国の高価な物ではなく、あなたが楽しい人生を送れるために造られた、グットデザインの作品を選択する力が大切となることでしょう。(※クラフト=手仕事の工芸のこと)
 
内田邦夫(うちだくにお)。一九一〇年、新潟県生まれ、陶芸家。東京美術学校工芸科卒業。日展委嘱辞退日本クラフト運動を起こす。                     (平成二年・秋号)


敬老の日                  (平成二年・秋号)
九月十五日は、敬老の日。新聞やテレビでも高齢者の特集が組まれた。最近は社会問題、政治問題として高齢者の福祉がマスコミで取り上げられるので、この日が特別の日という感じがしない。
芭蕉の俳句に
老いの名もありとも知らで四十雀
という句があるが、辞書に初老は四十歳とある。芭蕉は、五十歳そこそこで翁と呼ばれていた。老境に達した敬称でもあろうが、生理的にも当時では、老人であったかも知れない。ご寄稿いただいた岡本重夫先生も内田邦夫先生も、八〇歳を越えられているが社会福祉学者、陶芸家として今なおりっぱな活動をされている。
 老人の基準は、時代により個人差により違ってくる。百一歳で逝った日本画の奥村土牛さんは、「平成の富士」を完成させている。(翁)
  

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2013年06月12日

『福祉を廻る識者の声』29(小杉一雄)

旅絵師                    小杉一雄
 今から十二年前、四十年勤めた早稲田大学を七〇歳の定年でやめた時、学問は一生の事として、講義が無くなって浮いた時間を何に使ってやろうかと思案した。そうだひとつ旅絵師になってやれ、どうせ人生行旅というではないか、旅の中でまた旅をして気が向いたら、やおら絵筆をとり出す。誰にみせようためでもなく、まして売るためでもない。気随気儘に好きな風景を好きなように描く、わが絵はわれに於いてのみことに妙なりだ。これだこれだとそれからは旅絵師と自称してきた。
 私は日本東洋美術史が専門なので、奈良京都がすきだからつい足がそっちに向く。古い寺々を描きながら気がつくと殆どプロの画家がいない。楽しげに描いてるのは素人ばかり。プロは写真をもとに描いて、実地で描くような無駄はしないそうだ。何だ彼らは銭湯の壁に富士山などを描く、看板屋と同じじゃないか。
 じっくり腰を据え二時間でも三時間でも心ゆくまで描く。いやその楽しさ、絵を描くことがこれほど楽しいこととは思ってもみなかった。東大寺の石段を描いたら、最上段の空際(そらぎわ)を鹿が通ったので早速に描き込んだ。通りがかりの小学生の一人が覗いて「うまいこと鹿だしてはる」と言った。うまいこと鹿かいてはると言わぬところが憎い。そこでその男の子の顔を覚えた。次ぎの日奈良坂の下でバス待ちをしてると、前を小学生を乗せたバスが何台も通り過ぎる。その最後のバスの窓から「おじさーん」と呼ぶ声。あの子だ。私も手を振る。あの子も振る。みるみる遠去かるバス。嗚呼これぞ一期一会、旅絵師の冥利ここに尽くるの思いがしたものであった。
 ある時は老鹿にいきなり肩を突かれた。聞けば私が坐って描いた石がその鹿の餌場だったのだ。大きな山門をわざわざ全部描かず、左半分の構図にして得意になって描いていたら、見ていた老人に半分は明日描くのかと聞かれて、思わずぎゃふん。いや旅絵師
はこれだから堪えられない。

 小杉一雄(こすぎかずお)。一九〇八年、東京生まれ。文学博士。早稲田大学名誉教授。昭和女子大学大学院講師。勲三等。                         (平成二年・夏号)


大正人                  (平成二年・夏号)
小杉一雄先生の〝旅絵師〟は、どことなく陽に暖かさががあり、しかも大気に潤いがあるそんな古都奈良の良さを伝えている。旅の出会いの中に先生のお人柄が感じられて、とても楽しい巻頭言をいただいた。以前、小杉先生の画集を拝見したことがある。ご本人は、素人とおっしゃるが素人離れした絵にも見えた。小杉先生の師会津八一もまた奈良が好きだった。
 〝論壇〟の嶋田啓一郎先生は、関西社会福祉学会の大御所。新島精神を引き継ぐ生粋の同志社人。八〇の齢を越えた人とは思えぬ気魂が文章に満ちている。〝蒼生〟とは人民の意、「我ら土に生きん」が新島の教えである。添え書きに一首あり。
 逆潮も波も立ちて暖流は
       只一筋に流れて止まず
 新生会の社会福祉事業もこうありたい。(翁)
  

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2013年06月12日

『福祉を廻る識者の声』28(杉田信夫)

生きることは学ぶこと             杉田信夫
 私事になって恐縮ですが、わたしの会社はこのたび、まったく思いがけず第五回梓会出版文化賞をいただきました。同賞は出版のいろいろの分野で活動をつづける出版社の中から特に一社を選定するという、日本で数少ない賞でして、関西の出版社でははじめて頂いたことになります。
 選考には、評論家紀田順一郎先生を始め朝日・毎日・読売・日経各紙の書評担当記者の方々が委員として参加され、全員一致で小社ミネルヴァ書房を推挙していただきました。選定の理由は、社会福祉関係書をはじめ、老人・婦人・女性・障害児等に関する専門書、実用書を積極的に刊行していることでした。
 小社が社会福祉の分野に足を踏み入れましたのは、昭和二十八年からです。前仏教大学教授孝橋正一先生の『社会事業の基本問題』というA5版函入り三五〇頁の本がこの分野の処女出版でした。著者の孝橋先生をご紹介いただきましたのは今は亡き元同志社総長住谷悦治先生でした。先生は経済学者として著名な方でしたが、その頃から福祉や老人問題に鋭い関心をお持ちで、時代の変わった今でも、先生の教えに触発されることがあります。
 その時以来、社会福祉と共に、老人、婦人、障害児(者)問題等の福祉関連図書を中心に、幅広く人文・社会科学専門書を刊行してきました。出版をはじめて四十二年、今年でわたしは古希を迎えることになりますが、実感としてはあまり年齢を感じたことはありません。
 「生きることは学ぶことである」という言葉があります。人間はいくら年をとっても、何かの価値を求めてよりよい自分を目指しています。一生が勉強だと思います。出版界はいま、流通問題をはじめさまざま難問をかかえていますが、出版の基本を忘れず、いくつになっても、心をこめてよい本をつくるために、大いに学んでいきたいと思います。このエイジレス社会を生きぬく、わたしたち大正世代の願いでもあります。
 
 杉田信夫(すぎたのぶお)一九二一年、大阪府生まれ。株式会社ミネルヴァ書房取締役社長、株式会社日本書籍出版協会相談役。                         (平成二年・春号)


老樹                    (平成二年・春号)
 元皇族の東久邇稔彦氏が死去した。百二歳の長寿であった。明治天皇の第九皇女聡子様の夫君である稔彦氏は、聡子様が後藤静香の希望社運動の理解者であったのが縁となって、新生会には、何度となく足を運ばれている。戦後処理内閣、宮様内閣といわれ首相に就任したのは、もう四十五年も前のことである。桜が丘庭園に聡子様お手植えの松がある。その松をつつむように、原理事長が五十数年前に植えた桜の老樹が今満開である。
  老樹           後藤静香
 烈風にあたって根が深くなった         その陰にいこわせた
樹かげに泉がわいてきた            自分を倒す樵夫にも
 善いものも悪いものも             終りまで陰を与えた
ご冥福をお祈りします。(翁)
  

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2013年06月11日

『福祉を廻る識者の声』27(祐成善次)

九十年代は「奉仕」の時代           祐成善次
 「他人に奉仕しない人生を『充実した』人生と呼ぶのはよそう」
 昨年六月、ニューヨークの財界人を前にブッシュ大統領が行った演説の一節である。
 この中で大統領は国民にボランティア活動を奨励する「ともしび」構想なるものを提唱し、盛んな拍手を浴びたという。その翌月のニューズウイーク紙が伝えるところによれば、アメリカ社会では長い間、自己中心主義がはびこってきた。
 一九七〇年代は「ミー(me)」の十年であったし、八〇年代はウオール街の投資家がもてはやされた「強欲」の時代であった。いまや、これが終りを告げ、九十年代は愛他主義、奉仕の時代になりそうだ。
 全米にボランティア活動先頭にバーバラ・ブッシュ大統領夫人が立っている::。とそのプロフィールなどを詳細に紹介している。
 この大統領演説を教育、福祉の連邦予算削減の穴をボランティアの力で埋めようとする姑息なねらいと批判するむきもあるらしい。だが、多くのアメリカ人は、この大統領の訴えに素直に共鳴しているという。
 これまでの教会関係のボランティアに加え、最近では企業主導のボランティア活動も各地で目立つし、担い手も中流家庭の専業主婦が中心であったものから、仕事をもつ女性の参加がより積極的になりつつあるともいわれている。
 アメリカで憂慮される自己中心主義の流れは、わが国にとって無縁ではない。最近のわが国の青少年の意識は過度ともみられる個人生活志向を示している。
 平成二年、九〇年代の幕開けの年として、わが国でも「九〇年代はボランテイアの時代」でありたいと思う。

 祐成善次(すけなりよしつぐ)。一九三一年、大分県生まれ。社団法人日本青年奉仕協会常務理事。総務庁青少年問題審議会委員。日本ユネスコ国内委員会委員。  (平成二年・冬号)

年男                    (平成二年・冬号)
 一九九〇年一月。いよいよ二十一世紀まで十年と迫った。今年の干支は馬。原正男理事長は年男となる。八十四歳だが、情熱という馬力は少しも衰えていない。
 昨年の暮れ、十二月二十五日の榛名町議会で、原理事長は名誉町民に推挙された。この地にあって、榛名荘の結核保養所の建設より、社会福祉事業一筋に五十年。原理事長にとって感慨無量のものがあったろう。新生会や榛名荘の存在とその働きが、評価された意義は大きい。
新生日誌をみると、十月から十二月にかけて、見学者のラッシュであった。〝文化としての福祉〟を掲げて、ジョージが丘三ホームが建設されてから見学者は日を追って増えた。十一月には福祉文化学会が設立され、シンポジウムも開催された。
平成元年は必ずしも静かな年ではなかった。消費税で揺れ、東欧諸国には自由の嵐が吹いた。今年は?(翁)
  

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2013年06月10日

『福祉を廻る識者の声』26(木川田一郎)

積極的な愛の心               木川田一郎
 終戦の年の六月と七月、私は学徒勤労動員で大間々に近い武生の農家で麦刈りのお手伝いをしたことがあり、これが群馬県との初めての出会いでした。あの頃、三時のおやつをコジョハンと称して、独特の麦粉の焼餅がでたり、夕食には当時、東京では食べられなかった手打ちうどんが出たことが、今となっては懐かしい思い出であり、また一宿一飯の恩義をいただいたのであります。
 あれから三十年経って、この十五年間に時折、新生会を見学や研修のために訪問することになりました。これが群馬との不思議な第二の出会いであります。新生会に来る度に明るい雰囲気にふれて何か平安な心を与えられるのであります。それは新生会の創立の精神と職員の方々がそれに生かされて働いておられるからではなかろうかと、私は考えております。創立者の原正男先生は、若い時に結核にかかった由ですが、その病気に負けずに、しかも進んで同病の人々を励まし、共にいやされることを願って榛名荘を設立されたとのことです。実は私も終戦後、三年程、同じ病気でしたので、先生の積極的な愛の奉仕の精神をとてもすばらしいものだと思っている次第であります。このお心がキリスト様への信仰と希望とに土台を置いておられるので、お心を反映している事業が美しく、そして人々に平安な気持を与えるのではないかと思います。
 戦後は増加する高齢者の各種ニードに応えて、新生会の施設が次々と増築されて参りました。ここに社会への奉仕の精神が生き生きと働いておるのを見るのであります。どうかこの精神が今後ますます新生会の皆さまの心の内に発揮され、神と人々に喜ばれる施設でありますようにと祈ります。
 新生会におられる、おじいちゃん、おばあちゃん、働きびと、お一人お一人の上に、神様の豊かな祝福がいつも、ありますようにと、祈ります。
 
木川田一郎(きかわだいちろう)。一九二五年、仙台市生まれ。日本聖公会首座主教・大阪主教・聖公会社会事業連盟会長。                          (平成元年・秋号)


芸術の秋                  (平成元年・秋号)
 秋は、一年の実りの季節。名産の梨も、今が最盛期。国道沿線に店が並ぶ。秋はまた芸術の秋でもある。九月二十一日には、ジョージが丘福祉文化ホールで、NHK交響楽団の首席トランペット奏者、津堅直弘さんのコンサートがあった。水準の高い芸術に居ながらにして触れることのできるホームの人たちは仕合せである。すっかり新生会に音楽が定着した感がある。
 音楽だけでなく、渡部星村氏の彫刻や、狩野守氏の絵などの一級芸術作品が、新生会の施設に置かれ、見る人の眼に潤いを与えている。
一頁の写真は、関口コオ氏のきり絵である。氏の作品は、幼き日の情景を四季に描いて、現代社会が失いかけている心を呼び覚ましてくれる。複写でも良いと思っていたが、思いもかけず原画七点を創ってくださった。榛名憩の園の廊下に複写の作品五点とともに掛けてある。(翁)
  

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2013年06月09日

『福祉を廻る識者の声』25(伊藤春次)

素直に生きる                 伊藤春次
 耳が遠くなる。眼が視えにくくなる。動作が遅くなる。老いのさけられない現象である。読むもの、視るもの、聴くものから遠ざかると、過去の経験にとらわれて昔のことをくり返し、話題がなくなり、人に嫌われるのが老人の常である。
 私は、常にその道の先輩に教えを乞うことを日課にしている。「学ぶ心」、これが素直さに通じ、時代に遅れず、仲間外れにならないで若い人にも好かれる要諦である。
 朝のラジオ英語講座(十数年続く)から、テレビニュースから朝夕心の糧になるよい読書、将棋も本職に習って毎週講座を聴く。ゴルフも毎週、実習を楽しんでいる。時々よい集まりに加わり、本物の話を聴き、意見を交わす。
 私が理事をしている船橋カントリークラブで毎週ゴルフを楽しむが、同伴者は勿論、従業員やキャディーさん方から親しまれ、親爺扱いで心和らぐ一日を過ごしている。
 私が長年会長をやっている財団法人東京都中央市場厚生協会でも、和やかなムードで、皆さんに喜ばれる存在になれているのではないかと思っている。私達で創った中央魚類株式会社でも、健保組合でも、よい雰囲気で食事に会合に親しい交わりをつづけている。
 老人は、日常の心がけと鍛錬の継続によってその老化を補うことができる。常に素直さを保ち、感謝と奉仕の日常生活を送ることが、私自身の体験が裏づけている。
    原点を問う時代 
 朝日新聞社の社長が辞任した。沖縄サンゴ礁事件の責任をとるケジメとしての決意である。長い間騒がれたリクルート事件、まさに政・官・財総ぐるみの大事件である。
 人生とは、社会とは、経済とは、更に国家とはの原点を忘れた経済万能、情報先取り、目先、十年先の企業利益に走る誤った風潮がもたらした大惨事である。すべてが厳しく原点を問う時代である。
 
伊藤春次(いとうはるじ)。一九〇〇年東京生まれ。元中央魚類株式会社会長。現船橋カントリークラブ理事長。勲四等瑞宝章。                        (平成元年・夏号)


文化ということ  (平成元年・夏号)
 ここ数カ月の間、中国情勢は目まぐるしく動いた。北京市天安門広場の惨状は、世界を震撼とさせた。それにしても、あの学生や市民を駆り立てたエネルギーはどこから生れたのか。銃を持たず軍隊に抵抗した勇気は。社会主義体制とはいえ、民意はあなどれない。
 第二五回関東ブロック老人福祉施設研究総会が、群馬県の当番で水上町で開催された。テーマは〝二十一世紀文化としての福祉を考える〟であったが、斬新なテーマにふさわしい大会になった。文化は理論だけではできない。実践されて大地に根付かなければならない。
 原慶子常務の『装いのある暮らし』(ミネルバ書房)は、ジョージが丘を舞台とした文化としての福祉の理論と実践の書である。制度としての福祉への提言でもある。(翁)
  

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2013年06月08日

『福祉を廻る識者の声』24(棟方忠)

大局を見る                  棟方 忠
 「着眼大局、着手小局」というのは、将棋の升田九段の言であるが、なかなか含蓄のある言葉だと思う。目は大きなところにむけよ、しかし、なすことは小さいことから着手せよともとれるし、目先の小さいことにとりまぎれ、大局を見失うなともとれる。私たちの日常は、めったに大事件などあるわけではない。大ていは平々凡々、小さいことの連続である。それでも方向を誤ると、とんでもない大事になることがある。毎日の新聞やテレビを賑しているいわゆる大事件などもこの例が多い。
 「そんなつもりでなかった」とか、「ついうっかりと」などと実にたわいのない動機で、何千万円のつまみ食いをやったり、尊い人命を奪ったりする。第三者から見ると、そんなつまらないことで一生を棒にふるとは、なんという勿体ないことと思うが、目先のことに目がくらむと、こんな簡単なことさえ分からなくなるものらしい。国会における乱闘騒ぎなども、国民の目には実に馬鹿げて見える。これがわれわれの代表かと情けなくなる。やっている本人たちも、何のためにやっているのか分からないのではないだろうか。大局を見失うと人間が人間でなくなるから恐ろしい。
 傍目八目(おかめはちもく)という語がある。碁をやっている当人たちは夢中になって、目先のことしか分からないものだが、傍らで見ている人は、冷静な判断ができるから八目くらい先まで読めるという意味だそうである。相手の石を殺したつもりで、いい気になっていると、逆に自分の石が囲まれていたなどということは、私たちのヘボ碁にはよくあることである。
 頭の運動には、前後左右のほか、上にもちあげる運動があるといった人がいる。私たちもときには、頭を上にもちあげてみる必要があると思う。大局を見失っていないかどうかを確かめるために。
 
棟方忠(むなかたただし)。一九一四年函館市生まれ。東栄株式会社取締役会長。社会福祉法人函館厚生院理事長。                  

平成元年                 (平成元年・春号)
昭和は去り、四月一日からは平成元年度となった。大喪の礼も終わり、「平成」のことばの響きに少しずつ慣れてきた頃である。
〝降る雪や明治は遠くなりにけり〟
書店に、昭和の歴史書が並ぶのを見ると、明治を昭和に変えれば草田男の句に実感がわく。昭和は実に長く、波乱に富んだ時代だった。
四月一日からは、紆余曲折、消費税がスタートした。その関連で、施設利用者に一時金の支給があった。措置施設では、お年寄りのためにその使途を施設が考えることになった。
ふるさと創生の一億円ではないが、日頃から課題をもっていればすぐ使途は決まる。けれども、日本の福祉は、行政指導型。我々のお年寄りのためには、どうも違っているらしい。小遣いは、子供が使うからこそ成長も意味もある。(翁)
  

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2013年06月07日

『福祉を廻る識者の声』23(渡部星村)

木彫「天に結ぶ悲しみ」について        渡部星村
 天に結ぶとは、神の霊と交わること、至高至純のいと高きところに在すもの、大宇宙の生態系運行体系の創造主との霊的交流であります。
 数十億の人間、それ以上の生物が自由を許されて生きています。神に似せられて創造された人間も、その愛を忘れて神にそむいた行動に走ります。そしてお互いが近い関係にあるほど、深い悲しみに打ちひしがれます。その悲しみを慰めてくれるのは天よりさしのべられる神の愛の手でありましょう。その御手と結ばれて、霊の働きによって、内なる魂はゆり動かされ、大いなる力を与えられます。これは観念ではなく体験したものの実感であります。
 現実の人間世界を眺める時、あまりに愚かな行為―神不信、人間不信による世相が目立つ。自分も含めて、そしてどうしようもない無力をなげき悲しむ。全能の創造者を思うとき、被造物に表される真善美の壮観に心を打たれる時、大いなる喜びと力を与えられる。
 「悲しんでいる人たちは、幸せである。彼らは慰められるであろう」
                             マタイ五、四
 「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自らが人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、既に過ぎさったからである」
                         ヨハネ黙示録二一・三・四

 渡部星村(わたなべせいそん)。一九一〇年山形県生まれ。彫刻家。日展などに数多くの作品を出品。代表作「からしや想」、「脱意」など。                   (平成元年・冬号)
健康管理                  (平成元年・冬号)
 一九八八年は、辰年の名にふさわしく新生会にとって激動の一年となった。ジョージが丘三ホームの建築から完成、引越し、入居。それにともない職員も増え、異動もあった。休む間もなく創立三十周年記念式典を挙行。「新生会三十周年史」は、一年がかりで十月に完成した。十一月は、〝新生会祭り〟と〝杉良太郎ショー〟と続いた。
 休むことなかれ新生会/ 疲れることなかれ新生会
 五十年以上も前の新生誌のスローガンが浮かぶ。
ここ数年に及ぶ三十周年記念事業により、新生会は事業を拡大し、建物は木造から全て鉄筋に変身した。心身ともに成長したこの体の健康管理は、新しい年の課題の一つである。そして、健康体を維持しながらの新たな夢は、「地球市民祈りの家」の建設である。その体にまとう装いとして。(翁)
  

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2013年06月06日

『福祉を廻る識者の声』23(田村大三)

魂に訴える音を求めて             田村大三
 指笛との縁は、小学校六年生のときに始まる。新しく体操の教師として赴任してきた先生は、生徒を集める時に、号令のかわりに、指をくわえてピーとやるのが常だった。
 それをまねしたのだが、不思議にも音が出たのである。それから六十数年、指笛とともに生きている。
 指笛は、誰にでも吹けるというものではない。音が出せたとしても、演奏が出来る人は数少ない。その意味でも、私は指笛演奏を天職とも考えている。
「指笛」という単語が、国語辞典に載ったのは、私が「指笛、指笛」と言い始めてから四十五年もたってからのことだった。指笛の音色に魅せられて以来、〝指笛音楽〟とい領域を確立するまでに、私は良き指導者に恵まれた。〝希望者〟運動のリーダーで社会教育界の先駆者であった後藤静香である。希望者の経営する日本印刷学校に入学して間もない頃、校庭の片隅で、指笛を吹く少年の姿が後藤静香の眼にとまったのである。
「田村、先生に吹いて聞かせてくれないか」と語りかけられた。空に溶け込んでゆく指笛のメロディーが終わったとき後藤は、私の肩を抱いて囁くようにいった。「これから、お前は、その指一本で生涯を生きていけ。そして死ぬまで、一本の指に自分の生涯のすべてをかけるのだ」この言葉が私の生涯の方向を決定づけたのである。
原正男理事長も若き日、後藤静香の薫陶を受けた一人である。自身の結核を基点に、半生を福祉事業一筋に歩んだ点、私の指笛一筋の人生と共通するところが多い。原氏の人生訓の一つに「我をより高き崖下におけ」というのがある。指笛演奏の道も、究めようとすればする程道は遠く、けわしい。しかし、肉体から出る迫力と独得の音色は、器楽とは異なった魅力で人の魂に訴えることが出来る。私は、このことに感謝し、今後も
息の続く限り指笛を吹き続けたいと思う。

田村大三(たむらたいぞう)。一九一三年。秋田県生まれ。指笛音楽創始者。(昭和六十三年・秋号)


開かれた老人ホーム           (昭和六十三年・秋号)
 新生会の創立三十周年の式典会場になったジョージが丘三ホームの食堂は、「福祉文化ホール」と称して文化活動を開始した。八月三日のアンブロジアン弦楽四重奏団のコンサートに続き、九月二十二日には、群響のメンバーによる〝ウィーン古典派の音楽の夕べ〟が、ともに百名前後の人々を集めて催された。会場には、木彫の裸婦像が、室内楽の夕べにふさわしく精美な姿を見せていた。
〝開かれた老人ホーム〟が叫ばれて久しいが、それは、制度としてのデイサービス事業やショートステイなどに視点が置かれ、老人福祉関係者の議論に終わっていたのではないだろうかと思う。
使命感といった気負いに捉われることなく、肩の力を抜いて人の生活の原点に戻って発想したい。老若男女、ただ音楽を愛する人達が新生会関係者に限らず「福祉文化ホール」に集まった。開かれた施設とあえて言うまでもない。(翁)
  

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2013年06月05日

『福祉を廻る識者の声』22(原正男)

シンボルマークの制定とビジョンの確立      原正男
 新生会は、創立三十周年を記念し、シンボルマークを制定し又ビジョンを後世に伝えるためその言葉碑に刻み本部事務所前に建立した。
 シンボルマークは、赤の十字に緑色の二つのSを縦横にからませたものである。赤十字は勿論国境を越え、敵も味方もない赤十字精神と、多少形は異なるが新生会の創立の精神であるキリスト教の十字架を加味したものである。それと遠くさかのぼる昭和十年頃、ある家の床の間にかけられた軸の―「歴史はさし示す世界一家の道」という言葉に魅せられ、その思想が以来私の信条となり、思想ともなっている。常に国境を越えて人類愛に燃えよという私の呼びかけである。緑のSは新生会のSをとり、二十一世紀にむかって明るい希望を表わすと共に、新生会創立の精神の神への祈りの結びの言葉の祝し 導き 護り 育み たまわらんことをの四つをシンポライズしてある。
 新生会のビジョン
新生会の老人コンビネーションシステムは、最初から「かくあるべし」と大上段に構えてできたものではない。老人ホームに入居されることは、各々にとって人生の大事件である。住みなれた家の庭木一本、柱に残る傷にも懐かしい思い出がかくされている。まして、近隣の人との人間関係など、限りなき思いを残しての転居である。ある人はお嫁入りのつもりで一切をすて新居にふさわしい調度品を買い揃え、第二の人生の出発だという。ある人は、今まで愛用している多くの家財道具一切を持ち込み貸倉庫も利用する。又庭木もたくさん持ってきてホームの庭に寄付される。そうして多くの方は、この榛名の地―を第二の故郷として平安に過ごすことを願っておられる。この方々は、新生会の事業を信頼され貴い人生を託されたのである。どんなことがあっても最後までお世話したい。この切なる思いが新生会のコンビネーションシステムをつくったのである。今まで胸に秘めてきた
この思いを「誓いのことば」として碑に深く刻み新生会の事務所前に建立した。
 
原正男(はらまさお)。社会福祉法人新生会理事長。          (昭和六十三年・夏号)


創立三十周年              (昭和六十三年・夏号)
 六月十日、新生会の創立三十周年式の日、雨は降らず、天は我々に最高のプレゼントを送ってくれた。会場となったジョージが丘三ホームは、マリヤの森に緑につつまれ、ホームのフラワーボックスには、あざやかなペチュニアの花が参列者の眼をひいた。「文化としての福祉」を理念にして二年にわたり建設を進めてきた関係者の願いがこの日結実した。
式典では、近石真介氏の名司会のなか、関係各位のありがたい励ましと祝辞をいただいた。新生会後援会会長でもある福田元総理も祝宴会場に、多忙なスケジュールをぬって駆けつけてくださった。
当日の朝、新生会事務所前に建てられた碑の除幕式が行われた。人の求めには誠心誠意尽くすという理事長が常に新生会の精神として語ることばが刻まれている。次代を担う者は、これを守り新生会を支えてくださる人々に応えなければならない。(翁)
  

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2013年06月04日

『福祉を廻る識者の声』21(中山克巳)

創りだすよろこび            中山克巳
 「幸せは待ってるもんじゃなくてやっぱり自分たちで創(つく)りだすものなんだよ」
 これは、オールドファンにはなつかしい「晩春」という映画(小津安二郎監督・昭和二十四年作品)の中で、老いた笠智衆が、一人娘の原節子に、京都の夜の宿でしみじみと言った言葉である。 父一人子一人の親娘が織りなす綾をストーリーとしているが、作品の中に一貫して流れる親娘の情愛に当時の私は感動するとともに、気品のある画面の美しさに、すっかり魅了されてしまったものだ。
 娘は、父と二人だけの生活の平安に慣れて、いつしか年齢をかさね婚期を逸してしまった。その娘がやっと結婚を決意してくれたので、記念にと親娘水入らずの旅を思い立ったのである。だが、旅の最後の日の夜のこと、娘は結婚について何か思いとどまっている。そんな娘の気持を父親は十分理解しながらも、結婚をすすめる。その時、娘は言う。
 「このままお父さんといたいの::」「お父さんが好きなの」「お嫁に行ったって、これ以上の幸せがあるとは、あたし思えないの」と。思いがけない娘の言葉に父親の気持はゆれ動くが、しばらく間を置いてから静かな口調で(くちょう)で「そりや、結婚したって初めから幸せじゃないかもしれないさ::」という語り出しで冒頭に紹介した言葉を言う。父親の慈愛あふれる言葉に、娘は改めて結婚する気持を固める。
 ―さて、新生会では現在、創立三十周年の記念誌を編纂中で、私も委員の一人としてお手伝いしている。おかげで、「自分たちで記念誌を創り出す喜び」を、満喫させていただいている。文字通り波瀾万丈に富んだ新生会の三十年が、活字という衣装をまとって皆さんに紹介される日も間近い。発行の日は、「自分たちで創りだしたんだ」という喜びにひたりながら、委員の皆さんと祝杯を重ねたいと思っている。
 それにつけても、委員の皆さんの素晴らし人柄は、私をすっかり新生会の虜(とりこ)にしてしまった。まさに素晴らしき仲間との出会いで、心から感謝したい。
 中山克巳(なかやまかつみ)。財団法人群馬経済研究所主任調査役。元群馬銀行五〇年史編纂室主幹。(昭和六十三年・春号)


新生会三十年史             (昭和六十三年・春号)
 昭和六十二年は、新生会の創立三十周年にあたっていたが、その年に「新生会三十年史」の編集委員が発足スタートした。発刊は、一年遅れの六十三年八月になる。
 依頼原稿は、ほとんどレイアウトも済んで、ゲリラ刷りとなり、校正の段階に入っている。編集の複雑な作業の大半を受け持ち、指導してくださるのは、群馬経済研究所の中山克巳さん。原常務理事の「祈れ祈りは力なり」の編集者で、新生会に理解の深い方を編集顧問にむかえて編集委員は心強い。編集のプロセス、作業一つ一つの手ぎわ良さ、正確さは、さすがプロだと感嘆させられる。「人の幸不幸はその人の出会いによって始まる。よき出会いを」(相田みつを)を座右のことばとされている中山さんとの出会いによって、次代に残すに足る「新生会三十年史」を完成させたい。
  

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2013年06月03日

『福祉を廻る識者の声』20(飯田徳明)

世話になれ、お世話しろ            飯田徳明
 足掛け十四年榛名憩の園でお世話になっていた母が、昨年十一月に天父に召された。もう一月で八十五歳になるところであった。現職の牧師であった父は、東京の聖ルカ病院で胃癌の手術を受けたが、既に手遅れ。病名を知らされず、術後回復中と思い込んでいる父は、所属教区から帰任するに及ばずとの通知を受けて、憤慨するばかり。当時立教大学チャプレンであった私の直接の上司であった北関東教区の大久保主教のお奨めで、療養を兼ねた嘱託のチャプレンという名目をいただいて、父は、既に顕著に老人性痴呆の症状を示していた母を伴って、榛名荘病院に赴いたのだった。
 父の病状は半年を経ないうちに悪化し、東京で逝ったのだが、母は直前に病院の廊下で転倒し、左大腿骨を骨折していたため、動かすことができず、そのまま寝たきりとなって、榛名憩の園でお世話を受ける身となってしまった。私の九州教区帰任が決まった時、母を九州の老人ホームに移すことを御相談したのだが、老人には環境の変化が命取りになると説得されて、その儘となってしまった。しかし、母が榛名憩の園にお世話になったお陰で、老人ホームの重要性に目が開かれた想いである。二十一世紀の日本では、老人人口がピークに達すると言う。現在の東京中心の政策が大幅に変更されない限り、地方の老人人口の割合は増幅されることが予想される。医学の進歩によって細菌性の病気が殆ど克服された現在、母のようなケースは益々多くなって行くであろうし、核家族化してしまった情勢を過去の三世代四世代同居家族に引き戻す、よすがもないとすれば、老人達はどこに最後の安住の地を、人間らしく死ねる所を見出せばよいのであろうか。「遠慮なく世話になれ、見返りを求めずお世話しろ」とある先輩から言われたことがある。どんな健康な人でも、生まれて育つ時と死ぬ時は、否応なしに人様のお世話になる。しかし誕生と死の中間では、必要としている人の世話をするのが人間の務めではなかろうか。九州の地で老人ホームを開設することが、長年母を世話下さった榛名憩の園への恩返しだと思っている。
 
飯田徳明(いいだのりあき)。一九二九年生まれ。日本聖公会九州教区主教。(昭和六十三年・冬号)

追悼                       (昭和六十三年・冬号)
昨年の十一月、相次いで新生会にご助力いただいた二人の役員が逝去された。
その一人、古川慎吾氏は、榛名荘の創立理事であり、戦前、近く完成予定の〝ジョージが丘三ホーム〟の立つ敷地購入にあたり尽力された方である。音楽にも造詣が深く、初代榛名春光園の落成記念に、東京交響楽団を高崎の音楽センターに招いたのも氏の功績の一つである。
加藤善徳氏は、原理事長の古くからの友人である。青年の頃、後藤静香の希望者運動に熱き血を燃やした同志でもあった。「ボクの弔辞は誰にもましてこの人に」というほどの友人の死に、理事長は悲しみを情熱にかえて事業にとりくもうとしている。氏はまた、「次郎物語」の下村湖人に師事した文人でもあり、日本点字図書館での業績も偉大なものがある。心よりご冥福を祈ります。(翁)
  

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2013年06月02日

『福祉を廻る識者の声』19(近石綏子)

ときめきの出会いを重ねて           近石綏子
何故老人ホームの芝居を書いたのか、と自問自答してみるとやはりそこに劇を感じたからとしか言えない。豊穣しつづける精神と減退する機能、その葛藤が内なる火花を散らしている人間の老年期ほどドラマチックなものはないと思う。五十代の私にとって、六、七〇代は新しい生の体験のページであり、八、九〇代は計り知れない発見のある未知の世界だと思うようになった。十年ほど前に芝居がご縁でお付き合いをさせていただいている老人の方々から私は啓発された。家庭の中の、家族から見た老人でない、より人間的に自己を全うしようとしている方々との出会いにより「楽園終着駅」と言う芝居を生むことができた。その感動的発見?の一齣を御紹介すると、七十二歳の教師のSさんが九十二歳の学者のKさんに自分の性の悩みを相談され、「一体人間は幾つまで?」。K老人曰く「人間灰になるまでです」。本当にそう言ったんですよと言うS老人の真顔を今も思い出す。K老人が亡くなられて数年たち、今回の再演の改稿にそのエピソードを少し書かせていただいた。老人ホームでK老人と親しくしていらっした方々が、芝居を見に来られた。場を出る時、八十五歳のN女さんは声をはずませ私の耳元に囁いた。「あの方よく、そうおっしゃってましたもの。とても残念だわ、お聞きしておけばよかった。(声をひそめ)ご自分はどう処理していらっしたのかしら?」冗談ともまじめともつかぬ面持ちで去って行くN女さんを見送りながら、こんな素敵な内緒ばなしは同年配の友人からは聞かせて貰えないと思った。お訪ねするといつも泰然としてトルストイの話など聞かせて下さったK老人の新たな魅力の発見でもあった。
井上勝也先生の御紹介により、原慶子さんとお目にかかる事が出来たのは、書き手の私にとって衝撃的な事件だった。三年ほど前、新生会をお訪ねして目を見張ったのは職員の方の人間に対する認識の深さだった。榛名憩の園ではご老人が固有名詞を持った人間として人格が尊重されている事も発見した。再演でのテーマを深める上で私の中に嵐をまき起こして下さった事から心から感謝している。

近石綏子(ちかいしやすこ)。一九三二年生まれ、劇作者。二男の母。「楽園終着駅」他数作品を劇団東演により上演。                            (昭和六十二年・秋号)


楽園終着駅               (昭和六十二年・秋号)
東京の俳優座で「楽園終着駅」という演劇を見た。老人ホームで生きる老人達を描いている。作者は、今回の〝新生〟の巻頭言をかいてくださった近石綏子さん。ご主人は、俳優の近石真介さんで、この劇を上演している劇団東演を主宰しておられる。近石綏子さんは、数年前に新生会を取材された。その印象が登場人物にも反映されている。
ダイナミックな人間模様が展開され、登場する老人達が個性的に描かれていることに好感を持った。〝ひかり輝く老戦士達の愛の調べ〟という近石さんの主題は、〝老人ホームとは、その人らしく生きられる場所〟ということを指摘しているように思えた。
老人ホームが、老年期における特殊環境であるという根強い社会通念の再考を促す作品として一度観賞することを勧めたい。施設関係者には、老人ホームを客観視できる良い機会になるはずである。(翁)
  

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2013年06月01日

『福祉を廻る識者の声』18(いまむらいづみ)

始めての老け役             いまむらいづみ
柄が小粒な私は、これ迄比較的娘役が多うございました。ですが永い舞台生活の中で六本ばかりの老け役はあります。民話に出てくるお婆さん、歴史に残る老母、最近では現代劇で沢田美喜女史などです。ひと口に老人と申しましても、その時代、その人の境遇などによっても大変異なります。また老け役を若い役者が演じる場合、勿論地(じ)のままでは出られません。つくる、いわゆる技(ぎ)という作業が必要になります。ですから若い俳優にとって老け役は勉強になるものです。
私が始めて主役の老け役を貰いましたのは二十年前、三十代前半の頃でございました。その役は、天正十八年小田原の陣で、愛する一人息子の為に何か人の役立つ事を、と永年かかって橋を掛け、橋の欄干の擬宝珠(ぎぼし)に文を残した、それが歴史上女性三代名文の一つとされて、今でも熱田に現存している、そういうお母さんでした。幕開きは四十代の中年、武人の妻で読み書きもする、多くの人に尊敬され、終幕には降りしきる雪の中でさらさらと巻紙に筆を走らせ、涙ながらに帰らぬ我が子への想いを綴る、よわい八十二歳。台本を繰り返し読む内私は、私の祖母をモデルに役造りをしようと思いました。その祖母は明治のフェリス女学校を出、産婆の免許も持つ、やけに落ち着きのある思慮深い人でした。モデルに決めたことは祖母に告げず、その日から私はずっと観察し続けました。お稽古でも絶えず目の前に祖母を浮かべて自分が出て来ないように務めたものでした。そのリズムがある定着を見せた時、無理なく感情が入ってくるといった具合です。初日に私の舞台を観てくれた祖母は「よかったよ、本当に八〇歳のお婆ちゃんになってたよ、だけど中(ちゅう)ぶけの方は今ひとつだった、中年は難しいねえ」と言ったのを今でも忘れません。なるほどその筈、祖母が中年だった頃、私はまだ産声を上げたばかりだった、多分地(じ)が出てしまったのだと思います。

いまむらいづみ。一九四九年劇団前進座入座。「真夏の夜の夢」パックでデビュー、一男一女の母親でもある。現在「出雲の阿国」で巡演中。       

集団圧力                (昭和六十二年・夏号)
社会心理学の用語に〝集団圧力〟という言葉がある。大勢を占める意見に流されやすい心理をいっている。日本人は概して集団行動型である。
東京で起こった深夜の特養火災は痛ましい限りであり、また他人事でなく施設関係者にとっては、胸の引き締まる思いである。
大新聞の読者の声欄には、正義感に溢れた老人ホーム火災への批判記事が載った。よく読めば、ほとんどが掲載した新聞社の論調である。
しっかりした批評は、物事の実態を知ることである。また自分の眼で確かめることである。高齢化社会の問題は、社会に浸透したとしても、老人施設の内容は、それ程知られているとは思わない。対象的に、はるばる太平洋を渡り新生会を訪れた人達の印象は、風薫る季節に似て、さわやかであった。各人の立場と視点が明快で、見学する姿は真剣そのものだった。
(翁)

  

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2013年06月01日

『福祉を廻る識者の声』17(磯崎良誉)

聖母子像                   磯崎良誉
 聖母子像とは、いうまでもなく、聖母マリアと御子イエスの像である。中世以来さまざまに描かれ、また大理石などに刻まれて、キリスト教徒のあつい崇敬の的となってきた。
 新生会総合事務所の階下にある礼拝堂にも、一体の聖母子像がひっそりと安置されている。
大理石の生地の色を生かし、聖母子の御顔は勿論、御手足まで精緻に刻んだ御像は、小さいながらも荘厳で美しい。イタリヤで刻まれたと思われる御像は、ここに落ち着かれるまでに数奇な運命を辿れたようだ。
 私の知人K氏は、東京御茶ノ水に事務所を持ち、盛大に不動産業を営んでいる。本郷根津に六百坪の大邸宅を構え、百億といわれる資産を終戦後二十年間で築き上げた。元信用組合の本店であった事務所では、社長の机の上は勿論、背後の古めかしいマントルピースの上にも、不動産の資料が雑然と積まれていた。K氏は事務所の隅までとおる大声で従業員に命令し、叱りつけた。休日には特注の鰐皮製のバックを愛用のリンカーンに積み、ゴルフにでかけるのであった。
 私は裁判所時代の知人の紹介でK氏を知り、時に不動産取引にからむ訴訟を担当した。ある時社長席の背後のマントルピースの上に奇妙な置物があるのに気付いた。不動産の資料に半ば埋もれ、埃を浴びていたが、それがまぎれもない聖母子像であることを知って驚いた。ある事件が解決し、上機嫌のK氏に「事件の謝礼にかえてあの聖母子像を貰えまいか」と私は切り出した。K氏は大声を上げて笑いながら「磯崎先生、あれは駄目です」とキッパリ言い、「私だってあの置物の値打ちはチャンと知っています」といわぬばかりの表情をした。ところが数カ月後、突然聖母子像が私宅へ届けられた。K氏は「この置物は、ある医者から担保に取った屋敷に残されていたもので、ドイツに留学した医者があちらから持ち帰ったものでしょう」と話してくれた。私は、聖母子の精美そのもの、御顔を近々と拝し、御像が辿られたであろう遠き旅路の道程と永い歳月にしばらく思いをはせた。
 
磯崎良誉(いそざきよしたか)。一九三六年東京大学法学部卒。社会福祉法人新生会、財団法人榛名荘顧問。社会教育団体心の家代表理事。弁護士。             (昭和六十二年・春号)

起工式                 (昭和六十二年・春号)
春の雨あがりの土の黒さ、そこから伝わってくる暖かさは、心に沁みてくるものがある。大地には犬ふぐりが可憐な花を無数につけ、梅香ハイツの梅も薄紅色の花を香り豊かに咲かせている。まさに春たけなわ。
三月十七日、ジョージが丘三ホーム(恵泉園・エンジェルホーム・新生の園)の起工式が行われた。旧榛名春光園の建物が壊され、整地された土地に新しい建物の輪郭が杭を結ぶテープによって浮かび上がった。新生会三十周年事業の最後を飾るのにふさわしいスケールの大きさを感じる。
〝二十一世紀の老人ケアモデル〟(原慶子常務理事)への想いがこの施設群に込められている。ここまでの道のりに多くの難関があり、雪解けが久しかっただけに関係者には感無量のものがある。来春、榛名春光園跡地は、まさに新生の地へと転換する。(翁)
  

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