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2013年05月17日

『夏の海』(拙著)信州松本平から安曇野へ

信州松本平から安曇野へ
 仲秋の名月とは、陰暦八月十五日の月のことで、今年平成十四年は九月二十二日がその日にあたる。息子には車で松本へ行こうと話してあった。仕事を終えた土曜日の午後彼の運転で松本へ向う。我が家には、車社会群馬では当然のように家人各々が車を持っているが、長距離運転となるため私の愛用車(?)で出掛けることにした。一つ心配なことがあって、年齢限定の保険が掛けてあるので成人後まもない息子には適用されない。
「運転には自信があり、長野県の地理には詳しいから」
と言っていた彼の言葉を信じることにした。息子にはただ
「松本へ行こう」
と言っただけで、旅の内容は話していない。
「信州そばと名物馬刺でも食べてこよう」とだけ言った。成人してからの子供との二人旅は初めてである。これから先、こういう機会はさほどないと思っている。ホテルの予約もせず、天候と休日を利用することだけを考えていたので、車中から携帯電話で予約する。残念ながら松本の夜空に仲秋の名月は雲に遮られて見られなかった。
 『夏の海』(拙著)信州松本平から安曇野へ
 ホテルから歩いて数分のところに「あがたの森公園」があるのを知った。旧制松本高等学校の跡地でもある。ヒマラヤ杉の大木が何本もあって、木造洋風建築の当時の建物が保存されている。その一画に「旧制高等学校記念館」がある。こちらは鉄筋コンクリート造りであるが、外観は洋風で古い建物とマッチしている。
 旧制高等学校が廃止されたのは、戦後であるが、館内を見てまわるうちに懐かしさの感情が湧いてきた。それには理由がある。
 旧制の中学校は、戦後、教育基本法により現在の高等学校になるのだが、地方によっては、旧制高等学校の校風を残すことになる。男女共学ではない進学校と言われる公立の高等学校で〝バンカラ〟という気風が加わる。〝バンカラ〟という言葉は〝蛮カラ〟であり、風采の粗野なことを言い、ハイカラをもじって対応させていると辞書にある。幣衣破帽、マントと高下駄姿。そしてヨレヨレになった肩掛けカバン。私の学んだ高崎高等学校にはその風があった。
 冬の寒い日ながら、隊列を組むようにして、烏川にかかる和田橋を下駄を履きながら自転車で登校する生徒の姿は周囲から見れば異様な姿に写ったのではないだろうか。もちろん靴下などは履かない。
 授業中は教室にダルマストーブはあっても足元は寒い。前の生徒の椅子の下に置いてある柔道着にたまらず足を入れたのを思い出す。
「水虫が移るからやめてくれ」
とは誰も言わない。足を忍ばせている柔道着は自分のものである。前へ前へと椅子の下に置くという協定が成立していたからである。可愛そうなのは最前列の生徒である。少しくらい足が冷たい方が授業が身になるという痩せ我慢組もいた。そんな高校時代の思い出も重なり、一時間ほど苦笑を浮かべながら展示室を見てまわった。
 旧制高等学校についてもう少し触れてみたい。明治十九年から廃止されるまでに全国に四十一校が創られた。とりわけ歴史の古い一高から八高には優秀な生徒が集まった。その所在地は、一高(東京)、二高(仙台)、三高(京都)、四高(金沢)、五高(熊本)、六高(岡山)、七高(鹿児島)、八高(名古屋)である。
 九高となる予定だったのが、松本高等学校である。卒業生は〝松高〟と呼ぶ。長野は教育立県という国柄で、昔から教育に熱心であったこととも関係がある。徽章も九を意味するように作られている。八高以後はその土地の名前が付けられるようになった。官立がほとんどであるが、公立二校、私立四校があり、学習院は皇族も入学することもあり別格である。さらに詳しく見ると、戦前日本が統治していた朝鮮のソウルに一校、中国大陸旅順に二校、台北に二校あった。旧制高校は帝国大学への予備コースのような存在であり、一高からは東京帝国大学に多く進学した。
 しかし、旧制高等学校はただのエリート教育だけの場所ではなく、独立、自由の校風をもって豊かな人格と個性を持つ人間を育てた。その基本となったのが寮生活である。自然と寮歌が作られ、卒業生は勿論、広く後世大衆からも親しまれたのはその校風と無縁ではない。とりわけ第三高等学校の寮歌は良い。
 紅萌ゆる岡の花
 さみどり匂う岸の色
 都の花に嘯けば
 月こそかかれ吉田山
まさに、古都の自然の中にあって思索する哲人の姿を彷彿させる。
 方や第一高等学校の寮歌は
 ああ玉杯に花うけて
 緑酒に月の影やどし
 治安の夢に耽りたる
 栄華の巷低く見て
向が岡にそそりたる
五寮の健児意気高し
個人的には、何かエリート意識過剰の気分が漂っているようであまり好きにはなれないが、寮生にとっては体に沁みて素晴らしい青春の詞に違いない。
 『夏の海』(拙著)信州松本平から安曇野へ
 〝旧制高等学校記念館〟の最上階には松本高等学校のコーナーがあった。松本市は、明治初期、廃藩置県によって筑摩県に組み込まれた。筑摩書房というのは、小説『安曇野』を書いた臼井吉見の興した書店であるが、その名の由来はこの地名にある。臼井吉見は松本高等学校の出身である。
旅先のバックの中に筑摩文庫の『安曇野』をしのばせてきたが、いまだ一部の途中である。五部からなる大作である。松本平(海に面していない山あいの平地だからそう呼んでみたくなる)から安曇野(豊科町、穂高町一帯の総称)ゆかりの人物を描いている。その人々の香りに触れて見たいというのが今回の旅立ちの動機になっている。
 『夏の海』(拙著)信州松本平から安曇野へ
 小説『安曇野』は明治中期から昭和の大戦後までを多様な人物を登場させて描いている。文人や思想家、社会運動家が登場するので多少は理屈っぽく硬派の傾向がある。長野の県民性でもあるが、元新聞記者の臼井の取材力は見事である。
 文人ばかりになるが、歌人齊藤茂吉の子、北杜夫や先年軽井沢で死んだ辻邦夫も松本高等学校に学んだ。北杜夫のコーナーには、学生時代に創った短歌があり
 父より大馬鹿者と来書あり
      さもあれ常のごとく布団にもぐる
『夏の海』(拙著)信州松本平から安曇野へ 
 というユーモラスなものがあり、自ら躁鬱症と診断しているマンボウ先生の片鱗を垣間見ることができた。『西行花伝』などの作品を書いた辻邦夫については〝高貴な魂、美への希求者〟と紹介されている。辻が北より一期上であったことがわかる。二人が親交を深めていたことを同年代であり、学び舎が同じであったことからすれば容易にうかがうことができる。
 映画監督として「謀殺下山事件」、「千利休」、「深い河」など重厚な作品で知られる熊井啓も卒業生であった。
 寮生活や授業風景も貴重な写真と説明書きによって紹介されている。〝月夜の晩に雨が降る〟というのは解説を読まないと何の事かわからない。写真を見れば一目瞭然である。名月のかかる大宇宙に向って寮の二階から放尿する数人の学生の姿が写っている。同時に、あるいは交代して事に至っているのだろうから、階下の住人には雨が降っているという印象になる。不衛生極まりないが、男子だけの世界だから我が高校時代の体験からも想像がつく。
 バンカラ高校であった母校の夏の出来事である。校内にはプールがあり、午後の体育の時間、準備体操を終え、いざこれからプールに入ろうとした時、一人の猛者がサット水泳パンツを脱いでザブンと白昼露な姿となって飛び込んだのである。一瞬誰もが唖然としてシーンとなったが、その後拍手し笑い出す者もあった。同性同士とは言え、また全裸でプールサイドに上られてはたまらないと思ったのか、脱ぎ捨てられたパンツは気持良さそうに泳ぐ彼のところに投げられたのは自然の流れであった。
 共同浴場だと思えば良いとはとうてい思えなかった。この行為が英雄的であったか、風俗を乱す破廉恥なものであったか議論はあったが、退学ということにならなかたところをみるとイエローカード程度の教員の注意で納まったのであろう。男子だけの世界では時として、考えられない行動に出る者がいるのも事実なのである。
女人禁制の学校生活のクラス会では、華やかに芸者をはべらせ酒を飲むこともあったらしい。旧制高校では文武両道ばかりか硬軟両道もあったことになる。今の時代からすれば、未成年の飲酒、遊興を公然と認めることになるが、共学でない鬱屈した青春時代の余興程度であれば許されたのであろう。しかしながら、恋が芽生え芸者と心中する事件も起こったという記事もあった。
 『夏の海』(拙著)信州松本平から安曇野へ
 旧制高等学校には名物先生が一人や二人はいるものである。〝松高〟の名物先生を一人だけあげる。蛭川幸茂先生である。彼は、東京帝国大学を卒業し、大正四年に松本高等学校に赴任した。以来、昭和二十五年に廃校になるまで在職した。平成十一年に九十五歳の天寿を全うした。『落伍教師』という自著があって、記念館で買って読むことにした。少し読み始めたら笑ってしまうほど面白い。けれど人情味に溢れているというだけではすまない深さもある。読みかけになっているが、時間をみて一気に読んでみたくなる本である。
 蛭川先生は、酒も煙草もやらないが、いわゆる形式主義の人ではなかった。数学を教えるかたわら陸上競技部を指導した。教壇に立つ時は、決まって紺ガスリの和服姿。暑い夏の校庭ではパンツ一枚になって陸上競技の指導にあたった。情熱家であり、生徒には親身になって文武両道にわたって身を挺して指導する先生であった。
 帝大を卒業したら真剣に〝船頭〟にでもなろうと思っていた蛭川先生は、どこか無欲のところがある。立身出世を志すタイプではなかった。しかも、学生時代神経衰弱に苦しんだこともあり、周囲からは奇行のある人と見られた。
 同期で松本高等学校に赴任した一人に東大名誉教授の手塚富雄がいるが、『落伍教師』の推薦の言葉を書いている。また、北杜夫も〝蛭さん〟と愛称を使って書いているが、二人に共通する蛭川先生の評価は、全人的教育の実践者であったということである。
 蛭川先生の家は貧しかったこともあり、弱い立場にある生徒にはことのほか同情心をもって優しく接したようである。また、一高から東京帝国大学を卒業し前途を嘱望されていた弟が、社会人となってまもなく自殺したことも、蛭川先生の人生に重くのしかかかっていたが、それを振り払うように生きた。〝俺は〟という一人称を使って、文章に飾り気がなく、しかもユーモアがあり、加えて行間に人間的温かみが感じられる。
 「あがたの森公園」で旧制高等学校の往時に想いを馳せながらすっかり時間を費やしてしまった。記念館の階下から漂ってくるコーヒーの香りに誘われ、松高の中庭を眺めながら喫茶コーナーで休憩し、松本城と開智学校に向けて車を走らす。そう言えば、息子も興味深そうに展示室を見て廻っていた。何か感じるところがあったかもしれない。
 『夏の海』(拙著)信州松本平から安曇野へ
 松本城は、数少ない国宝の城である。明治になって内乱の拠点となるとして武士社会の象徴であった城の多くが解体され、第二次世界大戦による戦災により焼失したこともあり、築城当時の名残を伝えている城が少ないからである。他に国宝に指定されている城には、姫路城、彦根城、犬山城などがある。高知城、松江城、松山城は重要文化財で、大坂城、名古屋城、熊本城などの名城と言われた城は重要文化財ですらない。
 松本城は、一五九〇年代に築かれたとされる。初代石川氏から戸田氏まで六氏の藩主が城主となった。七~八万石というから大大名ということではないが、松平氏、堀田氏、水野氏など徳川幕府の中枢に加わった大名家が治めた城であった。城そのものが国宝であるが、城内には火縄銃が多く展示され、鉄砲による攻防戦を意識した城であったことがわかる。鉄砲狭間と呼ばれる穴が随所に見られる。外観は黒塗りで、天守は六階まであり、急な階段で六階まで登ることができる。
 『夏の海』(拙著)信州松本平から安曇野へ
 開智学校は、松本城の内堀の北側にある松本神社からほど近いところにある。隣接して開智小学校があったが、建物はモダンで、校庭に子供たちが元気よく運動していた。開智学校の校舎は、明治九年に建てられ、九十年にわたり使用されてきた。元は、女鳥羽(めとば)川の近くにあったが、現在地に移設され保存されている。
 和風と洋風を合わせた文明開化を象徴する建物で、建築を指揮したのは立石清重という棟梁である。東京大学の前身である開成学校を参考にして設計されたというが、短時間で西洋建築を咀嚼する技量には感服させられる。二階の講堂へ繋がる階段は螺旋階段と洒落ている。外から眺めると中央部にテラスのある塔があり、その下に右から開智学校と書かれている。装飾も凝っていて、雲を想わせるもの、龍などの彫り物が建物正面玄関の上に飾られている。全体は、シンメトリーの建物であるが、なにやら中国風である。建物の基調の色は白である。
 建築費は、当時のお金で一万一千円というから、今日のお金で数十億円という費用をかけたことになる。そのうちの七割は松本町民の寄付が充てられた。いかにこの地の人々の教育への熱意があったかを証明している。明治以前、庶民の児童が学んだのは寺子屋と呼ばれる小さな塾であったが、松本には六〇〇余りの数があったといわれている。全国でも有数と言える。
 各教室の跡が展示室になっていて、教育制度の歴史や教材などが陳列されている。大正中期から昭和初期に出版された『赤い鳥』の本の実物を初めて見ることができた。童話や童謡を掲載していて、鈴木三重吉、北原白秋、芥川龍之介などの名前が目にとまる。
『赤い鳥』からは数々の名作が生まれ、館内をその童謡が流れていた。
『夏の海』(拙著)信州松本平から安曇野へ
 松本市街地を抜けて国道一四七号線を行くと、安曇野と呼ばれる平地が広がっている。
この旅のメインは碌山美術館である。JR大糸線の穂高駅から近い。敷地のすぐそばを線路が走り、踏み切りも近いが、木々が繁り静けさがある。受付から本館に向うところに「労働者」という名前の彫刻に出会う。頬杖をついて休息しているように見える。この像はロダンの「考える人」を連想させる。しかし、両足の膝から先がなく、しかも、左手は方から先がない。文展出品当時はあった手足の一部を切り落とした碌山の心境の変化はどのようなものであったであろうか。
 『夏の海』(拙著)信州松本平から安曇野へ
 碌山の彫刻や絵画が展示されている本館は、古風な教会風に造られていて、蔦が絡まり趣をいや増している。碌山の最高傑作とされるのが「文覚(もんがく)」と「女」であることは世に知られている。手を後ろに組み、反るようにして顔は上に向けられている。目は閉じ、唇はゆるく開かれている。健気な女性の姿とも写るが、この「女」のモデルは相馬良(黒光)だと言う人がいる。
 『夏の海』(拙著)信州松本平から安曇野へ
 碌山、本名荻原守衛は、安曇野の農家の五男として明治十二年に生まれた。隣家には相馬家があり、年に三回の養蚕を実現した養蚕研究家相馬愛蔵とは親交があった。愛蔵は、明治初期には珍しい女性教育を受け近代思想を身につけた星良と結婚し、新宿中村屋を成功させた人物であるが、「穂高禁酒会」に参加した社会教育家でもあった。守衛も「穂高禁酒会」に顔を出すようになり、相馬愛蔵、井口喜源治などに触れ、知的好奇心やキリスト教への関心も重なって、学問に目覚めていく。一農夫として田舎で生きていくことに満足できなかった。その守衛を決定的に目覚めさせたのが愛蔵の妻、良であった。
 東京から信州の山深い里に嫁入り道具として持ってきたオルガンと油絵は、あまりにもハイカラで地元の人の度肝を抜いたと小説『安曇野』にも書かれている。その油絵は、長尾杢太郎の「亀戸風景」であった。その絵を良から見せられたとき、絵描きになろうと決意して東京に出ることになるのである。
 東京に出た守衛は、自分に絵の才能があるか悩み、女性との恋にも煩悶しながら、海外に絵を学ぼうと志す。行き先はアメリカであった。滞在中どん底の生活と光の見えぬ画家修業の中、守衛は一人の少年に手紙を書く。松井秀雄という十三歳の少年で、そのとき重い病を得ていた。その病状をいたわり、夢中になって慰めと励ましの手紙を書いた。少年はこの手紙を見ることなく生涯を閉じたが、秀雄少年の母は、全文を「涙の日記」として留めたのである。自分が逆境の中にあっても他人を思いやる守衛の心はキリスト教の信仰から生まれたもので、手紙の随所に神という言葉が使われている。
  
 彫刻家としての荻原守衛の出発は、パリに渡ってから生まれた。郷土信州の先輩であった中村不折らの助力もあり、ロダンの「考える人」に出会うのである。そして、明治四十年に憧れの人ロダンと会うことができた。『不如帰』、『自然と人生』の著者徳富蘆花が晩年のトルストイを片田舎に訪ねて行ったのにも似ている。時も同じ頃かもしれない。そこで、守衛はロダンに
「君は私の本当の弟子だ」
と言われた。高村光太郎ともこの頃親しくなり、碌山美術館の別館展示室には、光太郎の「手」や「十和田湖の裸婦像」などが置かれている。ところで碌山という名前であるが、夏目漱石の『二百十日』の主人公の碌さんからヒントを得たらしい。
 帰国した碌山は、京都奈良の仏像彫刻を見て廻ったりして、日本文化の素晴らしさにあらためて感動するところがあった。新宿中村屋の近くにアトリエを構えた彼は、安曇野に多くを暮らす愛蔵と別居同然のようにして働く良に同情心を持ち、それがいつしか恋心に変わる。しかし、愛蔵への感謝と尊敬は消えることがなく碌山は悩む。
 『夏の海』(拙著)信州松本平から安曇野へ

 その苦悶の中から生まれた作品が「文覚」である。文覚は西行と同様、遠藤盛遠という名の北面の武士であったが、仲間の妻だった女性を誤って切り殺し、そのために僧となった人物である。彼が、文覚という数奇な人生を送った人物に題材を求めたのは良く分かるような気がする。
 明治四十三年四月二十二日、新宿中村屋で吐血した後にわかに衰弱して死ぬ。三十歳の若さであった。死の間際にも碌山は
「僕の病気はうつるから専門の看護婦に世話させた方がいい」と良など中村屋の家人を気遣ったと伝えられている。
 LOVE IS ART.     STRUCGLE IS BEAUTEY.
 〝愛こそ芸術、相克は美〟と碌山美術館本館の壁に彼の言葉が刻まれている。彼のたどり着いた人生の結論である。


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Posted by okina-ogi at 12:43│Comments(0)旅行記
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