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2013年08月30日

『冬の渚』(拙著)良寛菩薩への思慕

良寛菩薩への思慕
 長男、小学校四年生、長女、小学校一年生の夏、新潟県の出雲崎に海水浴に出かけたことがあった。今から十四年も前のことである。どちらかといえば、家庭よりも仕事中心だった父親として、数少ない子供へのサービスだった。日帰りの慌しいスケジュールだったが、何枚かの写真が残っている。
 出雲崎と言えば、良寛さまが生れた地である。当時から、良寛の生き方に惹かれていたのであろう。海水浴ということで子供たちを誘い出した訳だが、親の目的もしっかり果たしている。その証拠に、良寛記念館を訪ねたことが記念写真でわかる。
 今日、成人した二人を海水浴に行こうということで連れ出すことは不可能である。長男から、数日前に結婚の希望を打ち明けられ、それではと、巣立つ息子の記念として、親子の最後の旅だからという理由で、新潟への旅が実現した。美味しい海鮮料理と買い物も誘い水になった。運転は長男が買って出た。運転手付き、車も長男の物。費用は全額父親負担というのは、十四年前と同じだが、今回は黄門様気分ということでもある。娘もよくつきあってくれた。二人とも良寛のことは詳しく知らない現代っ子ではある。
 良寛は、江戸時代の宝暦八年(一七五六年)に出雲崎に生をうける。橘屋という屋号を持つ、格式のある庄屋の家の長男として、将来は名主としての人生を歩むことを宿命づけられる境遇にあった。本名は山本栄蔵。祖父に山本家を継ぐものがなかったために、佐渡の分家であった山本家から養女をもらった。良寛の母である。おのぶと言った。父親は、与板の新木家からおのぶの婿として山本家の人になった。以南という俳号を持ち、風流人として知られている。後に、京都の桂川に入水自殺したとされる。
 富裕な家に生れた良寛はなぜ、仏門に入ったのだろうか。幼いとき、朝寝坊した良寛が、父親からひどく叱られたことがあった。そのとき、上目遣いに父親を見上げたので
「親を上目でにらむやつは鰈になるぞ!」
と言われ、本気でそう思った良寛は、海岸の岩に腰をおろし、いつ自分が鰈になるかと海を見つめながら不安に打ちひしがれていた。夕暮れになっても家に良寛が帰ってこないので、母親が心配し探し歩き、とうとう見つけると、母親に向って
「わしはまだ、鰈になっていないかえ」
と言ったという逸話が残されている。
 純真といえば純真だが、後の良寛を彷彿させるものがある。その後も読書好きで自閉的な幼少年時代を送っている。七歳の時には、荻生徂徠派の儒学者、大森子陽の塾で儒学を学んでいる。庄屋の息子だからできたことで、後に多くの漢詩を書く素地になっている。
 庄屋というのは、争いごとの仲介にあたることも多かった。良寛は根が正直だから相手の言い分をそのまま伝えるので、両者の感情に火を注ぐ羽目になることがしばしばであった。それに、罪人の処刑に立ち会わされることもあり、良寛の人間性からは名主見習はとうてい務まらなかった。意を決し、十八歳のとき同じ出雲崎にある曹洞宗の光照寺で剃髪する。しかし、父以南から認めてもらえない。そして四年を経て、二十二歳のとき、光照寺に、備中玉島(現岡山県倉敷市)の円通寺から国仙和尚が訪れ、父親の許しを得て、修行僧としての道を歩むことになったのである。国仙和尚とともに郷里を離れるが、同時に母との永別となった。
 たらちねの母が形見と朝夕に
     佐渡の島べをうち見つるかも
師匠の国仙和尚の死後、郷里に帰った良寛が母を偲んで詠んだ歌である。
 良寛記念館から海手に小高い丘があり、遥か先に佐渡の島を望むことができる。右手海岸沿いに弥彦山があり、良寛が庵にした五合庵のある国上(くがみ)山が見える。涯下には日本画の安田靫彦が設計した良寛堂が見える。生家の橘屋の跡地に立てられている。良寛の坐像もあり、国道に面し、佐渡を見つめているようである。晩年の釈迦は北へ北へと旅をした。幼くして死別した母親の眠る故郷を目指したと言われている。良寛の母の生地である佐渡相川も北にあった。それにしても、出雲崎の町並みは、江戸時代の良寛の時代を思わせるものがある。
 今宵の宿は寺泊である。出雲崎からはそれほど遠い距離ではない。橘屋は、回船問屋も営んでいたというが、今日漁港の基地はすっかり寺泊に移っている、佐渡への船も寺泊から出ている。魚を売る店が軒を連ね、大量に観光客が買ってゆく。
泊まったのは割烹旅館で、元は網元だったらしい。家は古いが、料理は一級だった。しかも温泉付きで、一泊二食一万円。テレビの他に、これといった設備はない。夜更かしもせず、親子三人何年ぶりかの川の字になって寝た。朝食も朝から刺身が出た。品数も多く大食漢の長男も手をつけないものがあった。
「父さん。あちらとこっちのおかずの内容が違うよ」
と娘。女の子らしい観察眼である。大広間での食事だったが、昨夜の客は我々を含めて七人。旧館に泊まった分、料理の内容が良くなったらしい。
 『冬の渚』(拙著)良寛菩薩への思慕
良寛は、後世なぜに人々に親しまれているのであろうか。ただ、そういっても、真似のできる人生ではない。独り身で、冬の厳しい山の中の山荘暮らしである。しかも、住職としての寺持ちでもない。りっぱに曹洞宗の高僧になる資格があっても、それをあえて望まなかった。托鉢をして里に出て糧を得た。乞食僧といっても良い。そんな暮らしを二十年以上も続けたのである。
 国仙和尚が良寛に与えた印可の偈、つまり修了証書には
  良寛庵主に附す
 良はまた愚の如く 道うたた寛し
 騰々として運に任す 誰か看るを得ん
という人物評価を与えている。「大愚良寛」まさに言い得ている。しかも、ゆるやかにして天地自然に遊ぶようである。「任運騰々」は良寛に最も相応しい言葉であるが、このことを理解する人は少ないであろうというのである。
 『冬の渚』(拙著)良寛菩薩への思慕
 一方、良寛の残した数々の書、短歌、俳句、漢詩などを見ると只者ではないことがわかる。その背景には、教養などと言って済まされない、修学の歩みと精神の練磨が想像される。人生とは己を高めるためにあるとでも主張しているようである。しかし、良寛自身は
「そんなことは、わしは知らんよ」
というかのように、子供たちと毬つきをして遊びほうけている。
 この里に手まりつきつつ子供らと
遊ぶ春日はくれずともよし
 霞立つながき春日を子どもらと
手まりつきつつこの日暮らしつ
国上山の中腹の杉林に包まれて、五合庵がある。九月十二日、残暑の日の訪問では、木立ちに囲まれ涼しさはあるが、雪深い冬の厳しさを想像すると、住むこと事態が脅威に感じられた。里へ托鉢に上り下りすることを考え合わせると尚更の感がある。
当時の一流の学者や友人が五合庵を訪ねることもあった。夜を明かして語らったこともあった。訪ねる人からすれば、一晩二晩の仮の宿だから風流さにしたれるが、良寛にとっては、生活の拠点である。
 国上山を去るにあたって、豊かな自然と、四季の移り変わりの中での日々を振り返り
 形見とて何残すらむ春は花
夏ほととぎす秋は紅葉ば
と詠んだ良寛ではあるが、友人が庵を去るときには
 月よみの光を待ちて帰りませ
山路は栗のいがの多きに
と帰りの安全に配慮もするが、ひきとめたい心も覗かせる。岩手花巻の郊外の山荘に晩年暮らした高村光太郎は、良寛の心境に共感する日々もあったであろう。
 政治とは無縁だった良寛に、長岡藩主牧野忠精(ただきよ)から声がかかった。というよりは、藩主自ら五合庵を訪ね、長岡の寺の経営を依頼したのである。そのとき、良寛は次ぎの一句を紙に書いて渡した。
 たくほどは風がもてくる落葉かな
この句に、藩主は良寛の心を変えることはできないと知った。松平定信の信任も厚く老中にもなった人物に媚びることもなかった良寛もさすがだが、藩主も偉い。
 良寛と同時代の人で、伝国の辞で知られる上杉鷹山の藩政改革には関心を寄せていたらしく、米沢へ旅をし、詩を残している。教育者として鷹山公のブレーンになった細井平州の名を若いときに聞いていたからである。政治に参加し、教育者として組織的に行動はしなかったが、良寛の人生がそのまま後世までの教育行為になっている。
 仏教の教えの中に「愛語」というのがある。これは、人と接するときの態度のあり方を説いたものである。良寛の遠い師である、曹洞宗を永平寺に開基した道元の『正法眼蔵』にも書かれている。今は亡き、奈良薬師寺の管長であった高田後胤が、講和の始めに語っていた言葉を実践することである。
「仏教は丸い心の教え也。仏教はおかげさまの心の教え也。仏教は大慈悲なる心の教え也。仏教は静かなる心の教え也。仏教は安らかなる心の教え也::::」
良寛という人の肉声は聞くこともできないが、数々の逸話から想像し耳を澄ませば、柔らかく、優しく、温かい声の響きの持ち主だったことであろう。
 どのような素晴らしい言葉を述べようが、気持が一致していなければ、白々しく他者には伝わるだけである。福祉の仕事が尊いというよりは、仕事に望む態度こそが尊いということと同じである。
 生きるということは食べるということに他ならない。僧侶といえども霞を食べては生きられない。禅では労働のことを作務(さむ)という。円通寺での修行時代、日課といえば一に作務、二に座禅、三に読経で、労働が最も重視されていた。国仙和尚は、若き日の良寛に「一に石を曳き、二に土を搬ぶ」と修行の根本は労働であると教えた。良寛はどちらかといえば理論派で、仏教を頭で考えていたらしい。
 同じ修行僧の中で仙桂という兄弟子がいた。この人は座禅や経典を読んだりせず、もっぱら野菜を作って他の修行僧に食べさせていた。後年、良寛は仙桂和尚の死を知って、尊敬をこめて詩を書いている。仙桂和尚は真の道者だとも言っている。
 今日、檀家を持った住職は、経を上げる代償にお布施をいただく。戒名をつけるのに院号つきだと百万円が相場だという話を聞いたことがある。そのお金の一部は本山に献金され、その宗派での位に関係するのだという風聞がある。まるで、どこやらの政党の金権政治に似ている。こんな現代の寺の様子を見たら良寛はどう思うのだろうか。
良寛は、お金を得るための労働をしたわけではない。托鉢をし、自分の身を養うだけのものを得ればそれで十分であった。ただ身の回りのことは自分でした。飢饉もあり、
自ら生きるだけでも大変だった時代、人々から糧を得られたのは、良寛の徳にあったというしかない。
 道元禅師の次の話も有名である。中国の宋に留学した道元は二十三歳の若さであった。ある夏の炎天下の中、仏殿の前で汗まみれになりながら椎茸を干している老典座に出会う。道元は高齢の身を案じ
「この暑い日照りの中で、どうして年をとったあなたがそんなことをなさるのですか、人足をお使いになれればいいのに」
老典座は若留学生に
「他はこれ我にあらず」
とこの仕事は自分の役目なのだ。他には任せられないという。
「それでは、もう少し日が翳ってからなされば」
それに対する答えは
「さらにいずれの時をか待たん」
と今しか椎茸を干す時間はないのだと言い切る。
貴族出身の道元にとって、勝手仕事は軽蔑していたが、この出来事により禅の修業の中で作務の大切さを知ったというのである。
 本来、労働というのは人から命令されてやるのではない。自ら自覚して、しかも自分の都合でやるものでもない。人々が誰しもこのようにして働ければ労働者、使用者の区別もなくなるが、世の中それほど単純にはいかない。
 企業でも、政治のリーダーでも、働く人々が自ら進んで働けるような環境を作るのが本来の役割であって、労働者や国民に、働いてもらって食べさせてもらっているくらいに謙虚になれたら良いのだと思う。仕事に使ってやっているのだから特別な存在だというのは傲慢である。加えて、リーダーになることは重荷を負うことでもある。
 また、宗教者は、一面“道を説く君”である。経典を良く学び、頭でその教えをわかったつもりで、身分も保証された寺で檀家の人々に話し、その役目を果たしているように見える。解剖学者の養老猛が、最近ベストセラーになっている『バカの壁』で指摘しているが、体で考えるということも大事なのである。禅の中で、座禅による瞑想、作務による行(ぎょう)の意味がそこにある。
 ヨーロッパから、未知の日本にキリスト教の布教にやってきたフランシスコ・ザビエルなどは立派な宗教者である。なぜなら、多くの信者に囲まれて、権威の中に保守的に安住している宗教者も多い。平和な時代は、宗教者も保守的になりやすいものだ。良寛の乞食のような生活に刺激され、少し言い過ぎになっている。
良寛は、六十九歳の時に、国上山の庵から里に下りる。島崎の木村家の一画に住まいを提供され、家人の世話も受けるようになった。このあたりは、素直である。老いを意識し、独り暮らしの限界も知っていた。それだけではない。四十歳も歳の違う女僧と心を通わすこともあった。歌集『蓮の露』を著わした貞心尼その人である。安田靫彦画伯の二人の対面図は、複製だったかも知れないが良寛記念館に展示されている。
 瀬戸内寂聴は、二人の間に通う恋心を小説に書いているが、プラトニックな(?)男女の愛は美しくもある。
あづさゆみ春になりなば草の庵を
とく出て来ませ会いたきものを
 良寛の死を見取ったのも貞心尼である。
 裏を見せ表を見せて散る紅葉
 散るさくら残る桜も散る桜
『冬の渚』(拙著)良寛菩薩への思慕
 良寛の辞世ではないが、良寛の人を良く表わしている。その良寛は、木村家の菩提寺、隆泉寺に眠っている。墓石は大きいが良寛菩薩を思慕する人の思いのためである。隆泉寺は浄土真宗の寺である。雑炊宗と言われた良寛らしい。


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Posted by okina-ogi at 12:07│Comments(0)旅行記
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