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2012年09月06日

野口雨情の「童心」

 野口雨情は、大正から昭和にかけて、たくさんの童謡詩を書き、本居長世や中山晋平らの曲に載せて童謡を世に広めた。誕生の年は、明治十五年であるが、岡倉天心が日本美術研究の拠点にした五浦からごく近い、磯原海岸に近い町に生れた。磯原地区は五浦と同様、現在では北茨城市にくみいれられている。岡倉天心を綴った「百年後の五浦」がA面とすれば「野口雨情の童心」はB面のつもりで書いている。
 野口雨情の生家は、殆ど当時の姿のまま残されていて、現在も直系の子孫が生活の場としている。屋敷内に資料館があり、館長は、孫にあたる野口不二子氏であるが、訪ねた日は不在であった。代わりに係員(?)の男性が親切に説明してくれた。説明が録音されたテープのようで、こちらからの質問には満足のいく返答がなかった。係員の人が三度繰り返した内容は
「野口家は廻船問屋でありこの土地の有力者でしたが、雨情が家督を継いだ時はだいぶ事業は傾いていた。その理由は、常磐線の開通です」
ということであったが、館内にある家系図を見て驚いたのは、遠い先祖は楠木正成の弟
にあたる人物である。楠木某氏の末裔は、室町時代、戦国の世を経て、徳川の時代になって水戸家に仕え、幕末には勤皇の志士も出している。黄門様で有名な水戸光圀も野口家に立ち寄り「観海亭」の名前を与えている。何時頃の築だかは、係員の方に聞かなかったが、古く格式のある家屋敷になっている。
 生家の近くには、野口雨情記念館が昭和五十五年に開館し、資料を多く集めている。筆を持って坐る雨情とシャボン玉を吹く子供の像が駐車場の中央に置かれている。郷土の偉人の代表が野口雨情ということで記念館の名前がついているが、二階は郷土資料館になっていて、福島県いわき市に常磐炭鉱が近年まであったことを思い出した。
 野口雨情の本名は英吉で、量平・てるの長男として生れた。資産家の長男として家を継ぐのは当然であり、二十二歳の時、父親の死により相続、同年結婚する。相手は、高塩家の三女ヒロで、彼女は宇都宮高等女学校卒業の才媛で、俳句や短歌を創る文学趣味があった。高塩家は、野口家を凌ぐ資産家で、傍から見れば申し分のない縁組であった。一男二女に恵まれるが、新聞記者などしながら転々とするサラリーマン生活を送る。家は妻が守るが、野口家の資産は減るばかりであった。この放浪に近い記者生活の間に石川啄木などと親交を結ぶが、詩人としての評価はされず、母親の死もあり、三十歳近くになって帰郷する。そして三十三歳の時に妻ひろと協議離婚することになる。後年離婚した妻と多くの手紙のやりとりが残っていて、性格の不一致などという理由で別れたわけではないらしい。そのあたりの真相に深入る事はしない。雨情の晩年には、長男雅夫の母親として野口家に復籍している。
 次女のみとりは早逝したが、二児を手元に置いて雨情は、人生最大の苦難の局面を迎えたと言えるが、雨情の詩が世に出る前の生みの苦しみの時代と言えるかもしれない。出世作が「船頭小唄」である。原題は「枯れすすき」である。
 
おれは河原の 枯れすすき
 同じお前も 枯れすすき
 どうせ二人は この世では
 花の咲かない 枯れすすき

随分と暗い詩である。作曲した中山晋平も歌のタイトルを「枯れすすき」にすることは反対した。「俺」は、野口雨情で「お前」は前妻ヒロであったともとれるが、この時、雨情は、二十歳若い中里つると生活を始めている。婚姻届を出したのは雨情五十三歳の時でずっと後年の事であったが、つるとの間には二男七女をもうけている。先妻から数えて四女の恒子はわずか二才の亡くなっている。シンガーソング・ライターの合田道人が『童謡の謎3』の中で、雨情の代表作の一つである「雨降りお月さん」の詩の背景を分析しているが、角隠しと白装束に身を纏った花嫁が、雨の降る中を馬に乗ってただ一人俯きながら雲がかかった月の下を進む挿絵があって、この花嫁が恒子だというのである。まるで、月へ嫁ぐようで、それは死出の道を行くようだとも書いている。原題は、「雨降りお月」で、中山晋平の曲で世に出た時に「雨降りお月さん」になったのだという。
 
雨降りお月さん 雲の陰
 お嫁に行くときゃ 誰とゆく
 ひとりで傘(からかさ)さしてゆく
 傘(からかさ)ないときゃ 誰とゆく
 シャラシャラ シャンシャン 鈴つけた
 お馬にゆられて ぬれてゆく
雨情の号も連想させる曲であるが、なんともさびしく悲哀を感じさせる童謡である。内容からすれば童謡の域を越えていると言っても良いかも知れない。
 資産家の長男に生れたが、文学熱が冷めず、若い時は妻を家に置いて放浪のような生活をし、破産には至らかったにしても資産を減らしたのは、時代の流れもあったが事実である。おそらく、経済的な理由があって離婚することになったのであろうが。先妻には悲しい思いもさせたのだろう。こうみると野口雨情という人間は、なんとも身勝手な人だったということになる。
 野口雨情が残した書があって、記念館で見ることができた。野口家は、代々が能筆で雨情も例外ではなかった。良寛の筆跡に習ったことも説明書きにある。「童心」という文字は楷書ではないが、雨情の人を伝えている。良寛さんも童心の人であった。
「童謡は、童心より流れて童心をうたう自然詩である」
「七つの子」も雨情の詩であるが、彼には十一人もの子があったことは今回初めて知った。そして、亡くなった子供を含め慈しんだこともわかる。また、各地に多くの民謡を残したことでもわかるように旅の人であった。二人の奥さんに亭主の感想を聞きたくもある。

     拙著『翁草』より


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Posted by okina-ogi at 12:52│Comments(0)旅行記
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