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2013年05月18日

『夏の海』(拙著)肥後熊本への旅

肥後熊本への旅
 快晴、快晴また快晴。滞在した三日間、肥後熊本の空はくっきり晴れて澄んでいた。師走に近くあっても、大気は肌に暖かく、南国に来たとの感を一段と強くした。
熊本空港から、熊本市街地までは、リムジンバスで約四十五分。羽田発八時三十五分の全日空便に乗り、熊本駅には、正午前に着く。JR鹿児島本線に乗って田原坂に向う。西南戦争中最大の激戦が繰り広げられた場所である。田原坂駅は無人駅であった。各駅停車のワンマン列車で、改札は車内で済ましたが、他に降りる者はいなかった。
 
 明治十年二月、西郷隆盛以下熊本県士族約一万二千人が、政府に異議ありとして鹿児島を発つ。南国には珍しく小雪が降っていた。北上し、熊本城あるいはその周辺で政府軍と衝突する。いわゆる西南戦争である。これ以前、萩の乱や佐賀の乱といった不平士族の反乱がおこるが、規模が小さく、次々と鎮圧され、前原一誠や江藤新平は死ぬ。共に明治政府の要人だった人物である。征韓論によって下野していた西郷隆盛は動かなかった。
鹿児島にあっても、中央政府に対する不満が燻っていた。中央政府といったのは、鹿児島県だけが、政府に税を納めることなく、地方政府のようになっていたからである。現在の知事にあたる県令は、大山綱良であり、島津久光という特別な存在があった。中央政府は、この特殊な環境をなんとしても変えたかった。封建制からの脱皮が、明治国家にとって急務であった。密偵を鹿児島に潜入させたりして、挑発したりした。西郷はそれを良く抑えていた。
 愛犬を連れて、山に狩りに出かけたりして、政治的なことからは遠ざかるようにして暮らしていたらしい。上野公園にある西郷像は、その頃のイメージが高村光雲にあったのではないだろうか。
征韓論という明治六年に一大政争のテーマになった内容は、文字が示すほど単純なものではない。シベリヤから中国東北部を南下するロシアの脅威が背景にあった。国防を考えると、朝鮮半島を無視できなかった。後年、日露戦争が起こるが、明治時代、朝鮮半島は国家防衛のための生命線のような意識が為政者にはあった。李王朝に一刻も早く、鎖国を解き、開国することを求めたかった。西郷は自分が使者となることを提案したのである。
 熊本城を築いた、加藤清正は、豊臣秀吉の派兵により、朝鮮半島に渡った。虎退治の故事があるが、ロシアという虎の成獣に、日本という一日も早く成長して成獣になろうとする小虎の対峙する構図をみるような気がする。
 
 国を守ることにおいて、征韓論に勝利した大久保利通も西郷隆盛も同じであったが、西洋諸国の実情を見てきた大久保の世界観の違いは大きかった。それが政府軍と、薩摩軍の西南戦争における戦い方に現れている。政府軍は、近代装備された徴兵制によって組織された軍隊であり、薩摩軍は、士族の軍隊であり、軍備は旧式で軍装は、幕末の幕府軍のようであった。ただ、徴兵された政府軍の兵士は、百姓軍といわれるほど戦闘には未熟ではあった。
 田原坂駅から標識に従って田原坂を目指す。少し坂を登り丘の上に出るが、そこに至る道は田原坂ではない。二~三キロ程歩いたであろうか、田原坂公園に着く。ここには、慰霊碑や、資料館があって当時の戦場を偲ぶことができる。資料館の一部は、外壁に弾丸が生々しく残っている土蔵となっている。そして、空中で弾丸同士が当たって重なり合った「行きあい弾」を資料館で見た。いかに戦いが激しかったかを物語っている。
雨は降る降るじんばは濡れる
越すに越されぬ田原坂
じんばは人馬ではない。陣場である。
 右手に血刀左手に手綱
 馬上ゆたかな美少年

 薩摩軍の中には、十五歳そこそこの少年達も参加した。この民謡に詠われた美少年は、そうした少年達の総称で特定の個人はさしていないという説明書きがあった。戦いの当時も繁っていた大きな楠木に馬に跨った美少年像があった。
 慰霊塔があって、政府軍、薩摩軍の戦死者の名前が県別に刻まれている。政府軍の福島県のところに目が止まる。戦没者百二十二名の中に、佐川官兵衛の名前を見つけた。戊辰戦争鳥羽伏見の戦いで、会津藩の家老として指揮をとった人物である。北越戦争にも参戦するが、野戦の名将といわれたが、会津藩は破れ、藩士の多くは戦後青森の下北半島の偏狭に移住させられることになる。西南戦争の悲劇の一つは、苦汁をなめていた会津士族に、警察隊として参戦させたことである。その中心人物が佐川官兵衛である。他の士族も維新以来、薩摩憎しの感情を持っていた。政府はそれを利用したともいえる。今日、百年以上の時が経っても、福島県人と鹿児島県人の間には感情的なしこりが残っていると聞く。
 田原坂の戦いは、三月四日から二十日の十七日間にわたったが、雨の日が多かったという。政府軍が用いたのはスナイドル銃でその発射は雨の中でも容易であった。しかも軍服は雨にも強く、履物は靴であった。一方、薩摩軍は元込め銃であり、服は木綿で雨は沁みこみ動きを鈍くし、草鞋履きであった。しかも弾薬も充分ではなかった。勝るのは、武士としての戦闘への気力と刀に対する強い自意識であった。精神力が物力を凌ぐという思想は第二次世界大戦の陸軍の思想に似ている。こうした点は、日本人の体質かもしれない。近代戦争の勝敗は、物量と組織統制と戦略によって決するというのは、今日の常識になっている。
 

 田原坂公園から下る坂が田原坂で、三の坂、二の坂、一の坂というふうになだらかな道を歩く。加藤清正が造った軍用道路だともいう。一部が深く掘られていて、道上から攻撃しやすくなっている。今は雑木や、竹が繁っている。途中に谷村計介の戦死の地の碑があった。この人は、熊本城を守る熊本鎮台の軍曹であり、谷千城長官の密命を受け、百姓姿に見を変えて熊本城から政府軍野戦基地まで、伝令としての役を果たす。途中薩摩軍に捕らえられたりもしたが、政府軍に加わり、田原坂で戦死するのである。その勇気と軍への忠誠心とで後世に名を残すことになった。熊本城の天守閣の入口にも彼の大きな像があった。
 今では何の変哲もないこの坂道を基点として日本最後の内戦があったというのは想像もつかない。昭和になって二・二六事件もあったが、日本人同士が組織して戦うことはこの戦い以後にはない。
 西南戦争には熊本士族の参戦者もあった。池辺吉十郎や佐々友房といった、学校党と呼ばれる肥後藩では守旧派に属する人々である。異色なのは、宮崎八郎である。彼は郷士である。富農な庄屋といった方が正しい。ルソーの民約論を学び、自由民権思想家であった。彼は、熊本協同隊の参謀となりこの戦いで死ぬのだが、弟には宮崎淊天がおり、彼は孫文の中国革命の協力者として有名である。
 西南戦争の頃、熊本の農村では、高利貸しや、大地主を襲う一揆が起こっていた。徳川政権では、税は米であった。それが明治政府になってからは、貨幣になった。金納のできない自作農で没落する者もいた。明治政府への不満は士族だけではなかったが、直接薩摩軍とは連携することはなかった。西南戦争は、封建時代の特権階級が中核になっている。まさに、武士社会の終焉をこの戦いがもたらしたことになる。
 西南戦争の首領になった西郷隆盛であるが、戦を決意するにあたって
 「俺(オイ)の命はくれもっそう」
と言って、最後に城山の近くにあって
 「もう晋ドンここいらでよか」
と言って首を切らせる間、作戦の指揮はほとんどとらなかったという。
 ぬれぎぬを干そうともせず子供らの
        なすがまにまに果てし君かな
という勝海舟の歌からも、多くの犠牲者を出した責任を個人に帰せることはできない。

 ホテルサンルート熊本に二泊の宿をとる。ホテルは四階にフロントがあり階下には紀伊国屋書店があった。この場所が、第五高等学校に赴任した夏目漱石の最初の住まい後であり、結婚式を挙げた所であると建物の正面に刻まれている。式は極めて質素であり、新妻は一九歳であった。
 涼しさや裏は鉦うつ光琳寺
目の前は、銀座通りで繁華街になっている。
 小泉八雲の旧宅を見て、水道町から市電に乗る。終着駅は健軍町駅である。目指すは横井小楠記念館である。地図で見るとまだ一キロ余の距離がありそうだが、タクシーをひろうほどの距離でもない。
 
 横井小楠は、幕末に活躍する肥後藩士である。名は平四郎といったが、楠木正成、正行父子を尊敬していた。名前の由来もここにある。藩校時習館きっての秀才で若い時には、江戸に遊学し、水戸の藤田東湖などとも交友する。初めは攘夷論者であったが、世界を意識し現実的思考を持っていた。
 藩校の党派は三つあって、学校党と実学党と勤皇党であったが、学校党は石高の高い上級武士が多く、保守的な佐幕派であった。小楠は、実学党に属していた。幕末は、列強諸国が開国を求め、きわめて緊張した国難の時代であった。小楠がその見識を認められ活躍するのは、北陸越前藩であった。藩侯は、英明君主とされた松平春嶽(慶永)であった。ブレインとして「国是三論」や「国是七条」などの富国への施策を示す。この頃、越前藩士橋本左内は、安政の大獄で刑死している。このとき、小楠は五十歳を越えていた。
 肥後藩は、倒幕には加わらなかった。勤皇党の宮部鼎蔵は維新に向けて奔走するが、池田屋事件に斃れる。生家は内坪井地区にあって、碑が建てられている。小楠の生地もごく近い。明治二十九年に熊本に赴任した夏目漱石の住んだ最後の家が隣り合わせのような場所に記念館として残っている。
 小楠は、幕末の動乱の中、国の行く末を見つめながら思索を深めてゆく。明治政府は、この英才を九州の地に埋れさすことはなかった。出仕を求められ参与となる。維新の元勲とされる、木戸孝允、大久保利通、西郷隆盛らも横井小楠には一目おいていたという。明治二年、太政官から退朝する途中暗殺される。身を守ろうとして刃こぼれした短刀が記念館に展示されている。時代を先駆ける人は危険視される。六十一歳は当時としては高齢ではあったが、頭脳は極めて若かった。
 
 「横井小楠記念館」は市営であるが、一角には四時軒という塾の建物が復原されて残っている。四時とは四季、春夏秋冬の意味である。この日、開館まもない時間であったためか、入館者はなく、館員の方が専属のようにして説明してくれた。どちらから来られましたかというので、
 「群馬県です」
というと、あるコーナーに案内してくれた。
徳富初子、後に群馬県安中市の湯浅治郎に嫁いだ婦人である。廃娼運動に力を尽したと書いてある。なぜこの記念館に彼女の名前があるのかは、四時軒に学んだ肥後の人々と、同志社のことに触れなければならない。
 四時軒の小楠に学んだ人々の中に、徳富一敬がいる。徳富猪一郎(蘇峰)、健次郎(蘆花)の父である。水俣の豪農、正確には惣庄屋である。初子は彼らの姉である。徳富兄弟が、熊本バンドとして大挙して同志社に入り、新島襄との出会いがあり、その縁で、初子は、湯浅治郎に嫁ぐことになるのだが後妻だった。後妻であったが、多くの子をなした。その中には、同志社総長や国際基督教大学の総長となった湯浅八郎がいる。
 館員の方がおもしろい話を聞かせてくれた。初子が犬養毅との縁談があった時
 「あなたは偉くなっても私を大事にしてくれますか」
と迫り、明確な返答がなかったので断ったという話である。
 四時軒に学んだ、徳富一敬と同じ、惣庄屋の一人に矢島直方がおり、その妹の久子は徳富一敬の妻となり、つせ子は小楠の妻となる。その子時雄は、同志社の総長になる。時雄の妹みや子は海老名弾正の妻になる。海老名も安中教会の牧師となり、同志社の総長になっている。小楠は、勝海舟とも親交が深かった。『氷川清話』に新島襄の名前が良く出てくる理由がわかったような気がする。今回、肥後を訪ねた動機の多くを占めたのは、同志社ゆかりの人々のことである。横井小楠は、その独得の位置にあるとも思える。
加えて、こうした思想的な交わりと血の交わりの中に新島襄という存在があった不思議に惹かれて熊本を訪ねたくなったのである。
 「文豪は名家の末に生まれる」
と言ったのは田山花袋であったろうか。民主主義の時代、目に見えるほどの階級はないが、明治初期に国をリードする人物は、武士や、地主、豪商など特権階級から多く生まれたことを否定することはできない。ただその特権に甘んじて平々凡々と暮らす人と民衆の幸福に命をかけるかの精神の気高さの違いが、後世に名を残すかの分かれ目である。その基礎は学問である。
孔子曰く
 「思いて学ばざればすなわち危うし、学びて思わざればすなわちくらし」
である。
 
 小楠記念館から一端ホテルに戻り、附属のレストランで九州の同志社時代の友人と昼食を済ませ、徳富記念園に向う。繁華街からそれほど遠くはないが、タクシーを利用する。蘇峰の開いた大江義塾跡があり、県指定史跡になっている。徳富旧邸は市の指定文化財である。三階建ての資料館があり、徳富兄弟の数多くの書籍などが展示されていた。
蘇峰が二十歳で塾を開いたというのは、早熟と言えば早熟だが、志しの高さと向学心の高さは驚異的である。
 新島襄は生来の教育者であったが、蘇峰は
 「先生はあまり頭が良くなかった」
という意味のことを語っているが、師の人格には生涯頭があがらず、敬愛し続けた。このあたりに人間精神の不思議さがある。
 
 新島襄の残した言葉に〝倜儻不羈〟(てきとうふき)という言葉がある。「信念と独立心に富み、才気があって常軌では律しがたい」といった意味だが蘇峰は新島襄から見ればこの類に属していたかも知れない。同志社の教育は、できるだけ学生の個性を伸ばし、天下に有為な人物を養成することにあった。蘇峰は、九十五歳の長寿を全うし、昭和三十二年まで生きた。どちらかというと、日本主義、国家主義の論客と見られる人で、国の影にありながら、キリスト教主義に根ざし、〝地の塩〟のように生きた人ではなかったが、同志社の一つの巨星のような人物である。
 
 弟蘆花は文人である。『不如帰』という小説がある。この旅で、機中や車中、ホテルで読んだが、文体は会話を除いて文語調であるが、美文である。三島由紀夫の文章も語彙が豊富であるだけでなく美しいと評価する人が多い。それは、古典の素養と幅広い知識の結果である。蘆花にはキリスト教への信仰がある。『不如帰』は空前のベストセラーとして読まれた。日清戦争後、明治三十年頃の大衆を虜にした。夏目漱石もまだ文壇に登場していない。今も岩波文庫で版を重ねている程である。
 この小説のテーマは、不義と悲哀だと思うが、〝家〟という重しのある時代を知らないと理解できかも知れない。小説を読み終えて、ふと白樺派の武者小路実篤の小説を想い浮かべた。『友情』、『愛と死』、『真理先生』など中学時代夢中になって読んだが、あの頃を思い出したのである。「米百俵」の戯曲や『路傍の石』、『波』などの作者山本有三まで蘆花の小説の余韻が流れ込んでいるような気がする。
 人道主義という言葉がある。あまりにも思想としては広義過ぎて曖昧な言葉である。蘆花も実篤も有三もこの範疇に入れたい。蘆花は、死の直前まで兄蘇峰を許さず、絶縁状態であった。これは想像であるが、文人はとかく俗世を軽視、嘲笑するものである。逆にそれは人間関係が不得手であるとも言える。兄蘇峰の生き方があまりにも俗物に見えたかもしれない。二人は、伊香保で蘆花の臨終の日に和解するが、漱石の『明暗』という未完成の小説の題のように、明と暗は表裏である。明を主張することだけが正しいのではなく、暗もしかり。絵画の冥利は、明暗の調和だと思っている。兄弟は、奇しくも晩年のトルストイを訪ねている。
 徳富資料館を出たのは、かなり夕日が傾いた頃であった。庭にカタルバという聞き慣れない木があった。新島襄がアメリカから持ち帰った種から生長した木で二代目とも三代目とも言われる。秋で花はもちろんないが、五月には白い花が咲き誇るという。その木の前で写真を撮ってもらったが、記念館にもこの木の前で写真を撮った兄弟のものがあった。
 「肥後もっこす」というのは、熊本県人の気性というが、地方文化の独自性が失われつつある今日、旅の途中でそういう人には出会えないと思っていた。ホテルの近くの酒屋さんに寄ったら「肥後もっこす」に会った。塩分の強いおでんには閉口したが、解説付きの日本酒は美味かった。試飲させるわけではなく、有料ではあるがついつい話に酔わされて三種を飲んだ。熊本と言えば、焼酎、日本酒の地酒などあるとは思わなかった。赤酒という甘い酒の存在まで知った。酒に拘る亭主の柔和な顔と熊本弁の心地よさに、理屈っぽい「もっこす」の頑固さへの偏見を払拭させてくれた。漱石先生も良い土地に来たものである。
 


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