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2013年09月27日

『浜茄子』(拙著)元日の奥州平泉町

元日の奥州平泉町
 二〇〇七年の元日は、暖かな日となった。地球温暖化が、近年問題にされてきているが、この紀行を書いている二月中旬になっても暖冬そのものである。梅の花もいつもより早く咲き出している。メリハリのある四季がなくなることは、生態系にも影響が出てくるだろうし、四季のうつろいに敏感な日本人の感性にとっても少なからず変化をもたらすかもしれない。
 元日の東北行も六年目となった。日帰りだから、目的地は絞らなくてはならないが、JR東日本の営業範囲内であれば新幹線乗り放題だから、青森まで行ける。実際に、初回は、浅虫温泉の初湯につかることができた。今年の行き先を平泉にしたのは、NHKの大河ドラマ「義経」ブームも冷めているだろうからという読みがある。日本人は、良い意味でも、悪い意味でも熱しやすく冷めやすい民族と言われる。「判官贔屓」という言葉は、源義経から出ている。日本人は、この悲劇の英雄が好きである。兄の頼朝は、老獪、非情な政治家として、悪役にされる。歴史や政治は、正義と悪などという単純な基準で評価はできないが、義経の末路に対しては、日本人にはかわいそうな人と写るのである。母性本能のようでもある。
 少し脱線、飛躍するが、昨年の暮れに「硫黄島からの手紙」という映画を見たり、塩野七生の『ローマ人の物語』を読んだりして思うのだが、あの戦争が(昭和の十五年戦争)がなぜ防げなかったかということについて言えば、日本人の〝長いものには巻かれろ〟的な権力に対する従順さと、熱狂しやすい体質が基礎にあって、その上に原理主義的というか、教条主義的というか国家神道のような画一的なイデオロギーに覆われ、物言う自由も奪われたのではないのだろうかというのが個人的見解になる。
 神道というものは、八百万の神があるようにキリスト教のように唯一の神を信じる宗教ではなく、男女の性にも開放的で本来は寛容な宗教である。明治維新の一時期に、尊皇攘夷思想による民族結集のためのイデオロギーが思い出されるが、神道とは無関係ではないにしても、戦前のような硬直した精神風土とは異なるものを感じるのである。
 ユリアヌスという人物が、ローマ皇帝の中にいたことは知っていたが、なぜ背教者と呼ばれたのかを深く知る機会はなかった。ユリアヌスのしたことは、国家が信仰の自由を保障するという、今日の日本国憲法と同じことを政治の上で実現しようとしたのである。それ以前にコンスタンティヌス帝によって、キリスト教は優遇されてきたのだが、ギリシャ文化に造詣の深さをもっていたユリアヌスは、ギリシャを師とするローマの文化もキリスト教に支配される(国教)ようになれば滅びると考えた人物であろう。
 ギリシャも、ローマも多神教である。偶像崇拝ももちろん認めている。彫刻や神殿等の芸術作品も生み出した。ユリアヌスの死後、時を経てローマ帝国は、キリスト教を国教にするのだが、その時、今日で言えば国宝級の像が河や谷に投げ捨てられたという。そして、ユリアヌスが考えたようにローマ帝国は滅びるのである。
 そろそろ脱線した列車を元に戻さなければならない。一つの宗教、思想を国家が選択することは、危険である。好ましくない。その宗教や思想が素晴らしいものであっても。それは人が自然に選び、身につけるものであると思うから。宗教、思想を国が選び、国民を教化したら北朝鮮のような国になる。塩野七生は、ローマ文化の特徴に他民族の宗教に対する「寛容さ」を上げている。もちろん、帝国の一員となるという条件はつくが。
 新幹線の一関の駅から、東北本線に乗り換えて、二つ目の駅が平泉である。この町は合併しなかったらしい。観光の町を意識して町民が結束した結果なのであろう。駅を出ると地元有志の餅つきが行なわれていた。無料となっていたが、近くで「中尊寺を世界遺産に」という募金活動を行なっている。結局は有料になってしまった。中尊寺はとうの昔に世界遺産になっていたと思っていたので意外な感じがした。
 地図で見ると平泉の町はそれほど広くはないように見える。名所旧跡だけ訪ねるのであれば、歩きで充分である。駅前通りを右手に折れ、高館(たかだち)を目指す。義経終焉の地と伝えられている場所である。
 
 NHKの大河ドラマに義経が主人公として登場するのは、一昨年の「義経」が最初ではない。遡ること四十年前に放映されている。当時は白黒画面である。義経が尾上菊之助、静御前が藤純子であった。二人はその後結婚した。女優、寺島しのぶは娘である。
 二〇〇五年の〝滝沢義経〟は、若い世代に人気を呼んだが、初代の義経の庇護者であった藤原秀衡の役が滝沢修で、慈悲深く威厳のある人物を演じていた印象が残っている。四〇年前の映像の中の断片ではあるが、藤原泰衡の軍勢に囲まれた義経を一人で守る弁慶の姿は強烈で、今直脳裏に蘇ってくる。多くの矢を身に受け、目をかっと開き、仁王立ちになって動かない。もはや死んでいるのだが、その形相に畏れをなして敵兵は近寄ることができない。弁慶は、緒方拳であった。
 
 高館は山というより丘に近い高台になっている。石段を登り頂上に出ると、北上川が眼下に流れている。流れはそれほど大きく見えないが衣川が合流している。この一帯が大和政権から覇権された武士と奥州の有力武士団の抗争が繰り返された地であり、義経の死後、鎌倉幕府の軍隊に敗北した藤原氏の戦場になったこともあり、ひときわ感慨深いものがあった。芭蕉の句碑が立っている
 夏草や 兵どもが 夢の跡
芭蕉自筆の句が毛越寺にあるが、高館の碑には、奥の細道の文章が読み取れる。
「三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先、高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし固め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ」
 北上川の流域は、今は田園地帯になっているが、その先には桜の名所で知られる束稲(たばしね)山が見える。今はその時期ではない。桜の花が好きだった西行も、あの時代とはいえ、二度もこの地を訪れたという。一度は、束稲山の桜を見ている。
 きゝもせず束稲やまのさくら花よし野のほかにかゝるべしとは
芭蕉と曽良の一行がこの地を踏んだのは夏であった。
 奥州藤原氏三代の栄華とは、初代清衡、二代基衡、三代秀衡が平泉にあって、中央政権からは独立国家のようにして栄えた時代を言うのであるが、その政庁の跡が発掘されている。時間がないので立ち寄ることはできなかったが、高館に行く途中に案内の標識を見た。柳之御所跡と伽羅御所跡がそれである。伽羅御所は秀衡の政庁で、義経は短い間ではあったが、ここで秀衡と語らったのであろう。束の間の春のような時間であった。
 

 この伽羅御所跡の近くに無量光院跡が田んぼの中にある。田植えの時期には早苗の田に囲まれた島のような風景になり、松の老木が植えられているので、情緒ある風景になっていることが写真で見ることができる。無量光院は宇治の平等院を模したものである。今日建物が残っていれば、国宝になっているだろう。金鶏山に沈む夕日を背後にした位置に建てられていたので、容易に極楽浄土を人々に連想させたことであろう。
 高館の義経堂に合掌し、中尊寺に向う。途中東北本線の踏み切りを渡ると急に人の数が増える。高館とは対照的で、現実の世界に引き戻された感じがした。中尊寺の金色堂に至る参道は長く、上り口のあたりは、月見坂と呼ばれている。その手前の道路に面した場所に松の大木があって、そこに武蔵坊弁慶の墓がある。
 中尊寺の開山は、慈覚大師によると伝えられている。その後、今日の中尊寺の骨格を造ったのが、藤原清衡である。清衡の半生は戦いの連続であった。前九年・後三年の戦いで父を失い、妻子を殺され、一族の多くの死を経験した。そこから生れたのは、敵味方なく、死んでいった人々への供養であり、非戦の誓いであった。『中尊寺供養願文』の中の鐘楼の段に記されている。その子供基衡も父親の遺志を受け継ぎ、毛越寺を建立し、妻は観自在王院を建てた。後者は、史跡公園になっている。
 
 五月雨を 降り残してや 光堂   芭蕉
金色堂までの道のりは遠かった。日陰にわずかに雪が残っていた。近代建築の覆堂(さやどう)中の金色堂は、眩いばかりの金と装飾に埋められた須弥壇により拝観者を圧倒するものがある。修復されたとしても九百年近くの月日を経ていることは驚異である。しかも、四代泰衡までの遺体が収められていたことも。
 日本の美を、伊勢神宮や桂離宮に見たブルーノ・タウトが、戦前中尊寺を訪れているが、一定の評価を与えている。日光の陽明門のようなけばけばしい装飾に飾られた建築を嫌ったタウトであったが、ビザンチン建築を想いうかべながら、その荘厳さに「建築のダイヤモンドとして尊重に値する」と書いている。タウトの関心は、金色堂よりも能楽堂に向けられている。タウトは、東北旅行しているが、旅館の厠の臭気に閉口したことや、不衛生きわまりない町の姿を描写している。刑事に疑われた不愉快さも正直に書いている。タウトは他人に媚びを売るような表現のできるような芸術家ではない。 現在の金色堂のやや奥まったところに、旧覆堂があって、近くに芭蕉の像もある。芭蕉が中尊寺を訪れた時には、この建物の中に金色堂があったわけである。
 
 この日は繰り返すが、冬とは思えない暖かさである。風も何かしら春風のような優しさで流れている。日差しを正面に受けて汗ばんでくるのがわかる。毛越寺へ行く途中に、公営の温泉を見つけた。元日から営業している。毛越寺の池巡りした後立ち寄ることにした。湯船も広く、施設も新しく、すっかりリラックスして正月気分を味わえた。時間があったら、福島の飯坂温泉の公衆浴場に入って帰ろうと計画を立てていたが、その必要はなくなった。


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