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2013年10月17日

『白萩』(拙著)イタリア紀行Ⅱ

『白萩』(拙著)イタリア紀行Ⅱ

 ミラノからヴェネチアに移動する途中、ヴェローナという町に立ち寄った。既に日は暮れかかっており、足早の見学となった。シェークスピアの「ロミオとジュリエット」のゆかりの街だというのだが、それほどの感慨も湧いてこない。古い街並みが残っており、イタリアの古くからの有力な都市であったことは想像できる。ローマ時代の円形劇場だった建物は、既に照明に浮かびあがっていたが、立派な歴史遺産に違いない。ヴェネチアに着いたのは七時を過ぎていた。船でホテルへ移動したのだが、街灯のあかりが見えるだけである。千年の都というが、運河を始めとするその景観を白昼に見るのが楽しみである。ゲーテもその紀行に記した、ヴェネチアの夜を日本人には嬉しい魚料理を食べ、ワインを楽しみながら、歴史ある建物のホテルで、ようやく熟睡することができた。
 『白萩』(拙著)イタリア紀行Ⅱ
 西ローマ帝国が、異民族の侵入により崩壊すると、イタリア半島は混乱の時代に入る。ヴェネチアの起源は、異民族の略奪から避難した人々が干潟(ラグーン)の上に住居を建て、暮らし始めたことによると伝えられている。地盤の軟弱な干潟の上に建物を築くこと自体が不思議なのであるが、木を杭にして、地盤を強化したのだという。木が水分を吸収すると、腐らず建物を支える基礎になる。ヴェネチア人の知恵である。
商業国家として発展するのだが、共和国の政治形態をとり、東ローマ帝国や、オスマントルコといった大国と対峙しながら、巧みな外交を駆使し、ナポレオンに滅ぼされるまで、千年の都をこの小さな人工的な島々を中心に保ち続けたのである。海軍力も持ち、レパントの海戦では、オスマントルコの海軍を撃破したこともある。コンスタンチノープルがオスマントルコに攻められたとき、同じ商業国家であった、ジェノバとともに援軍を出したが、東ローマ帝国の首都は陥落した。
『白萩』(拙著)イタリア紀行Ⅱ 
 ヴェネチアの中心は、サンマルコ広場である。サン・マルコ教会、ドゥカーレ宮殿、時計塔、鐘楼などがあって、観光客ばかりでなく、たくさんの鳩が冬の日差しを受けながらのどかに時を過ごしていた。イタリアの都市には、守護聖人がいるが、ヴェネチアは、福音書を書いたマルコである。
ヴェネチアの街中を自動車が走ることはできない。島には、観光都市になってから、鉄道も引かれ、バスも乗り入れることはできる。しかし、市街地への移動は、全て船に頼らなければならない。狭い運河は、ゴンドラと呼ばれる、小さな小舟が使われる。昔は、装飾や華やかな色が施されていたが、現在は黒に統一されている。しかし、休日などには、島を離れてイタリア本土に車を走らせる住民もいるのだが、未熟な運転(?)のため事故を起こすことが多いという。逆にローマの市民は運転は荒いが、事故を起こす確率が低いというのは、塩野七生のエッセイで読んだ記憶である。
 『白萩』(拙著)イタリア紀行Ⅱ
 北イタリアの平原を後にして、ポー川も越え、フィレンツェに向う。アペニン山脈を越える。これから先は、旅の時間の経緯は無視して紀行を綴ることにする。
フィレンツェは中世の街並みが良く保存されている。この町のドウォーモは、サンタ・マリア・デル・フォーレ大聖堂であるが、一七五年の歳月をかけて建設されたもので、ひときわ大きく聳えている。高台にあるミケランジェロ広場からフィレンツェの町が一望のもとに眺められるのだが、アルノ川やドウォーモは、大きく視界のなかに飛び込んでくる。風は強く、肌寒くはあったが、快晴であこがれの場所に立てたことに感慨ひとしおな気分になった。青銅でできた、ダビデ像が広場の中央に力強く置かれている。
「冷静と情熱のあいだ」という映画が上映されたが、ミケランジェロ広場の背後から航空撮影されてフィレンツェの町を映しているのが記憶に蘇ってきた。
 『白萩』(拙著)イタリア紀行Ⅱ
 イタリアの都市で一か所だけ観光するとしたら、どこが良いかと言われれば、フィレンツェと答えなければならない。ルネッサンス期の美術作品に関心が強いからである。その作品の多くがウフィッツィ美術館に収められている。ゆっくり見れば、二、三日かけても飽きることはないだろう。ボッティツェッリの「ビーナス誕生」、「春」、レオナルド・ダヴィンチの「受胎告知」、ミケランジェロの「聖家族」など、美術史に登場する作品を上げればきりがない。先年、東京国立博物館に展示されたレオナルド・ダヴィンチの「受胎告知」に順番待ちの列の中で鑑賞する機会があったが、今回ロープの先に身近に飾られているこの絵画を、足を止めてじっくり見られたことは、現地に足を運んだから成せる特権であった。しかし、ウフィッツィ美術館に入場する時の手荷物検査は、飛行機に搭乗する前のそれよりも厳重であった。
フィレンツェと切って離せられない存在は、メディチ家である。長くフィレンツェを支配したが、その祖先は薬売りだったという。家紋にもシンボリックに使われている。銀行業にも成功し、巨万の富を築き、多くの芸術家のパトロンとなり今日の絵画、彫刻、建築物をフィレンツェに残した。ヴァザーリという画家は、建築家でもありウフィッツィ美術館の建造にあたったばかりでなく、メディチ家の宮殿であったビィティ宮殿とを結ぶ回廊を設計したことでも知られている。有名なヴェッキオ橋の上を回廊が通っている。肖像画などが掛けられて美術館の一部になって公開されている。彼は、サンタ・マリア・デル・フォーレ大聖堂の天井画も手掛けている。


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Posted by okina-ogi at 09:03│Comments(0)旅行記
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