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2012年08月31日

心に浮かぶ歌・句・そして詩③

西東三鬼という俳人がいた。明治に生まれ、戦後亡くなった。岡山県津山市の出身で、大学時代の友人にお墓に案内してもらったことがあった。彼も津山市の生まれで、俳句を若い時から嗜んでいる。その墓に刻まれた句が
 
水枕 ガバリと寒い海がある

であった。30代、肺疾患で病床に伏した時の作品で、彼の出世作であり、自信作であった。「ガバリと寒い海」という表現が斬新的な表現だという評価を得たのである。
 西東三鬼の句集に目を通したことがあるが、かなり昔のことで、口ずさむ程の句ではないから好きな句の中には入れられないのだが、戦時中、思想的な弾圧により句作を中断した後、戦後の混乱期の句が「りんごの歌」のように希望に満ちているように感じた。彼の生涯は、優秀な兄達へのコンプレックスと、甘やかされて育ったこともあり、屈折して暗い印象があるが、明るいものもあった。
 
大仏殿 いでて桜にあたたまる
 
身に貯へん 全山の蝉の声

いずれも、奈良滞在の時の句である。
  

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2012年08月29日

法律門外漢のたわごと(国民年金①)

 国民年金にだけの加入者のことを第1号被保険者というんですね。個人で農業している人、個人でお店を経営している人、開業医の先生などがそうです。サラリーマンや公務員の配偶者で収入がないか、少ない第3号被保険者というのも国民年金にだけ加入している人ですが、「1号さん」と「3号さん」の違いは、毎月保険料を15,000円程度を払うか、払わないかです。年金は、個人単位ですから個人経営のお店の御夫婦は、毎月3万円の保険料を支払うことになります。大変だと思いますが、40年完納すれば、毎年、2人で年間160万円程度の年金収入になります。自営業の人は、退職もないので仕事による収入もありますし、高齢で元気であれば、なんとか生活できるでしょう。
 ところが、第1号被保険者の未納者が増えています。国民年金は「賦課方式」ですので、今の財源が受給者に回るわけですから、将来の財源が枯渇すれば、やがて高齢者になる人は、国民年金を受給できなくなります。国民年金の財源の半分は、税金ですが、政府はその財源を確保するのに四苦八苦しています。今月になって、法案が国会を通り、消費税を上げることが決まりました。消費税の一部を国民年金の財源にする見込みがついたということですが、未納者の問題が解決しないと国民年金の制度が成り立たなくなる可能性があります。減額すればいいのでしょうが、それでは生活費用として不十分ですよね。しかし、問題は、未納者だった人が、年金の受給者になれず、生活保護となり、満額の国民年金以上のお金を支給されるとしたら納得できませんよね。公的年金というのは、多くの人でお互いを支え合う仕組みですから、強制加入が原則です。65歳までに死んでしまったら貰えないので損じゃないかなどと考えないようにしましょう。その分は、他人とは言え、長生きしてくれた人が使ってくれます。「国民連帯」の思想です。残された家族に「遺族年金」や「死亡一時金」が支給される場合もあります。年金は、生きるための生活資金です。死んだら必要ないと割り切れば良い。高額納税者のお医者さんが未納ということは考えられませんね。
  

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2012年08月28日

八ツ場ダム建設予定地視察記

民主党政権になって、公共事業の無駄の削減が政治課題となり、群馬県長野原近くにある八ツ場ダム建設の工事がストップに近い状況になっています。昭和30年からの継続事業ということですから、半世紀以上に渡って今日に至っています。
ダムができれば、湖底に沈んでしまう温泉地があります。川原湯温泉です。地元の人は、長い年月温泉の恩恵を受けて生きてきましたので、国の政策に反対してきました。しかし、下流域の要望が強く、群馬県の斡旋により、ダム建設を容認し、高台の造成地に新天地を求める決断をしました。そして、事業は進み鉄道、道路、橋梁のインフラ整備は、ほぼ完成しつつあります。ダムを造るのか造らないのか結論が出ません。
そんな状況にあって、大学教授である私の友人が、静岡大学の財政学ゼミの生徒を引率して八ツ場ダム建設予定地の視察を企画しました。群馬県の人間として、関心は少なからずありましたので、道先案内をすることになりました。川原湯の「山木館」という、江戸時代から続く老舗旅館に宿泊し、翌日、「やんば館」で説明を受け、バスで建設状況を案内してもらいました。
今まで、人ごとのように思っていたのも事実ですが、国民の税金が本当に意味あることに使われているのかということを最初に考えたわけです。そうでなければ、移転を余儀なくされた地元の人たちの、犠牲は浮かばれません。残念ながら、自分には結論は出せませんでしたが、ダムは造らずとも、インフラ整備と移転住民の保証はやらないといけないということです。自然災害との戦いの歴史が日本の歴史でした。津波災害のことを考えましたが、早く復興するためには、住まいを早く決めるべきです。50年以上、生活の場所を決められなかったこの地の人々に学ぶことです。視察した時の写真はフェースブックに載せてあります。
  

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2012年08月28日

心に浮かぶ歌・句・そして詩②

漢詩などは、高校の国語で習って後、関心が向かなかったが、若い時入院することがあって『唐詩選』を手にすることがあった。ゆっくりと味わってみると、中国の墨絵の世界のような情景が浮かんでくるようである。
特に、李白の詩に惹かれるものがあったが、次の詩は彼の作品ではない。

白日依山尽
黄河入海流
欲窮千里目
更一層楼
「登鶴鵲楼」という題名がついている。作者は、王之渙という人。
いろいろの訳詩があるだろうが、大意は次のような内容である。
「太陽が山に沈んでいく。黄河は海に向かって流れている。更に遠くを見たいと思い、高殿にある楼に登る」
中国に知人がいて、25年ぶりに最近再会した。彼も今年で定年である。時間ができたので奥さんと一緒に日本に来た。東京で仕事をしている、息子夫婦のところに数カ月滞在するらしい。昔、彼にこの詩を朗読してもらったことがある。
「パイリーイイシャンチン・・・・」日本人の私の耳にはそう聞こえた。抑揚があって、独得の読み方だった。
  

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2012年08月27日

法律門外漢のたわごと(確定拠出年金)

 平成13年に確定拠出年金法が施行されましたが、10年が経過した今日、サラリーマンの個人型年金の方は、あまり普及していないようですね。小さい企業だと企業年金がありません。それで、将来厚生年金にプラスして受けとれるように、個人で掛け金を銀行や証券会社等に「指図」し運営管理をまかせるものです。
当初は、財形貯蓄のように給与から天引きになっていたので、事務担当者の理解も得る必要がありました。この法律では、事業所も職員の加入の意志があれば協力することになっていたのですが、変な誤解もあったようです。それは、運用次第では、掛け金が将来減ってしまうことがあるからです。事業所が、掛け金を出すわけではありませんよ。運用する商品の中には、元本割れするものもあります。しかし、その責任は、個人にあって事務職員にあるわけではありません。国民年金基金が最終管理をしているのですが、その管理料や、銀行や証券会社等への手数料なので受け取る金額は、掛け金より減ってしまうことが多いかもしれません。
しかし、この年金は、公的年金のため掛け金は全額税の控除になるのです。個人的に給与所得によって違うのですが、年額5万円以上納税額が少なくなる場合もあります。預貯金利子の少ない時代、税を控除してもらう方が得策です。普及しない一番の原因は、個人の資金運用に日本人は慣れていない。他人任せが多いのではないか。だから、多額の資金を詐欺のような金融商法に引っかかってしまうことがあるということでしょうか。少し生活資金に余裕ができれば、確定拠出年金に掛け金を預けてみても良いのではないでしょうか。月額の上限は、23,000円です。先ず隗より始めましたが、いまだに、加入者は事業所で私一人のようです。正確に言うと今月過ぎれば、一人もいなくなります。60歳の誕生月までしか掛け金を掛けられないからです。
 ちなみに、年金が受給できるのは、64歳です。2年と1カ月しか掛けられなかったからです。一時金でもらうことにしています。取得する時の税控除もあるようです。趣味の旅行の資金にもなるかもしれません。
  

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2012年08月25日

法律門外漢のたわごと(労働基準法⑤)

年休、正確には「年次有給休暇」というのがありますが、年休を取ることが悪いように考えている管理者もいれば、仕事に支障がなければ取れるように考える管理職もいます。個人的な格差が出ないように平均的に年休が取れるように勤務を工夫している場合もあります。労働基準法では、年休取得を促進するように法律を改正しています。「計画的年休付与」とか「時間単位の年休」などという制度がそれにあたります。現在、厚生労働白書などを見ると年間の年休消化の平均は8日位だと思います。年休持ち分は、16日位でしょうから、半分ということになります。
 そもそも年休というのは、自己都合で時季を請求する権利が労働者にあるとされています。使用者には時季を変更する権利がありますが、仕事が成立しないような場合行使することになるわけです。管理者の中には年休で休ませてあげるという義侠心の塊りのような人がいますが、本来は、年休は本人の希望に沿ってとるわけですから、労使協定を結び、「免罰効果」によって計画年休付与という手続きが必要なわけです。しかも、5日は本人が自由にとれるという条件付きです。
 また、年休の時効は2年ですから、それ以前の年休は使えません。20年以上勤務して全然年休を取らない人がいたら、1年分休みを放棄したことになりますが、健康で働けたからそうできたともいえますが、家族サービスはできなかったでしょうね。この消えた年休を「メルトダウンした年休」と言ったら、時期(年休の時季にかけたつもり)的にふさわしくない表現だと言われました。ごもっともな意見です
  

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2012年08月24日

法律門外漢のたわごと(労働基準法④)

これは、友人から聞いた話ですが、職場には、いろいろな人がいて、勤務終了後も居残って毎日のように仕事をしている人がいます。彼が、「早く帰らないと奥さんに叱られるんじゃないの」と言っても効果がありません。もしかしたら奥さんにも呆れられているのかもしれません。そのかわり、休みはきちんと取って家族サービスをしているので、奥さんから見放されたわけではないようです。この職員さんに言わせると、勤務時間内では、自分の満足のいく仕事ができないのだということなのです。私の友人などは、「職人○○さん」などと呼ぶことにしているそうですが、他の職員も彼の勤務習慣を知っていて「あれは生活習慣病だ」とか「慢性疾患の○○」などと半分好感を持ちながら、半分は呆れてそう言っている人がいるそうです。管理職であるわけでもないんです。歳も重ね、役職も上がってきた今日でもその習慣は抜けてはいないようですが、同僚や新人の労働時間には逆に配慮があるので、信頼が厚いようです。本人は、自分の都合で居残って仕事をしているのだから、サービス残業とも思ってもいないし、もちろん残業手当も請求したこともないといいます。へたな管理職より管理職らしい人物なのです。早く管理職になってしまえば問題ないのですが、労働基準法からすれば管理者泣かせということになるのでしょうか。  

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2012年08月21日

心に浮かぶ歌・句・そして詩①

かつて出会い、心のどこかに沈んではいるが、何かの折にふと出てくるような、歌、句、詩がある。ほとんどが人口に膾炙されているものが多く、目新しいものではない。旅行記などに引用しているので、重複にもなっている。
 学生時代、京都にいたので『京都故事物語』を読んだ。著者は、池田弥三郎である。調べ直していないので、間違っているかもしれないが、その中にあった歌とも都々逸とも言えないのがあった。

 桜という字を分析すれば二階の女が気にかかる

 旧字では、桜は「櫻」と書いた、女の上には貝という字が二つあって、木偏を「気」と読ませている。なるほど、粋な字の憶え方もあるものだ。次のも同類のもの。
 
恋という字を分析すればいとしいとしという心

恋という字は「戀」と書いたのである。見ただけで覚えにくそう。上から順番に読みなさいということだが、「いとしいとしという心が」恋というものに違いない。 私もまねて創ってみた。

松という字を分析すれば君と僕との向かい合い
解説しないが、御理解あれ。やはり、詩心のセンスがない。
  

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2012年08月20日

法律門外漢のたわごと(労働基準法③)

日本人は働き過ぎだという外圧があって、宮沢内閣の頃か、労働時間の短縮が求められるようになりました。もう20年近く前のことになるでしょうか。土曜日は半休、日曜日が休日という時代が長く、高度成長時代は、たくさんの「時間外労働」をして、企業は収益を上げ、職員の給料も上がりました。今の、中国のような経済状況だったのですが、その成長も鈍化し、日本は「生活大国」をスローガンにするようになりました。労働時間を短くして休日も増やし、豊かな、ゆとりのある生活ができる国にしましょうということでした。働き蜂のような生活から蝶のようにヒラヒラという感じでしょうか。
 1週間は、40時間以内で働くこと。祭日、国民の祝日、年末年始の休みを含めて、土日は休み。完全週休2日制を目指そうということでしたが、中小企業では、そんなに休んでいたら経営がなり立たなくなってしまうところが出てきます。そこで、労働時間の弾力的な運用規定ができて、そのいくつかのメニューの中から選択することができるようになりました。
 「1か月単位の変形労働時間制」という制度があります。月前に、1か月が週40時間以内になるように勤務表を作成し、勤務するというやり方です。仕事というものは、自分の都合ではなく相手に合わせるものですから、勤務を変更することも出てきます。ここからが、「常識」が問われることになります。原則的な決まりはありますよ。変更した結果、ある週が40時間以上になれば、割増賃金が必要になる。その月が40時間以内になっていても。労働者に対する不利益料のようなものでしょうか。しかし、労働者が、職場のことを理解し、予定できる変更だったら、割増賃金を請求しなくても良いと考えるのが「常識」だと思うのですがどうなんでしょう。こうした解答を試験問題でしたら×になりますね。管理者の中には、割増を出すなら変更はできないという指示を出す人もいるようですが、仕事がスムーズに行くことが優先するというのも「常識」だと思うんですが。こうした考えは、コンプライアンスに反し、柔軟過ぎて規律のない考えでしょうか。
  

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2012年08月19日

法律門外漢のたわごと(労働基準法②)

「日本から労働者というものがなくなったらいい」とある人が言ったのを憶えています。すごく同感したことがありました。「経済学という学問も必要ない」と言った人ですから、ある意味で極論だと思うのですが、意外と真実があるような気がします。だいたい、人間は自分が先になるんですね。自分の権利を要求します。しかし、力の弱いものは権利を守れないことがあるのも事実です。「使用者」と「労働者」の間に立つ行司役が「労働基準法」ということでしょうか。こういう言い方ができるところが、気ままにものを言う法律門外漢の特権です。
 労働者の時間把握ということを「労働基準法」は、しつこく言います。後で、労働時間のことでトラブルにならないための客観的証拠資料ということでしょう。もう故人となられた、私の勤務する法人の理事長さんが「物は管理しても、人は管理しない方が良い」と言っていました。管理職の中には、この時間管理を人の管理だと思っている場合があるようですが、「働く人への配慮する資料」と考えた方が良いと思うんです。こういうリーダーのいる職場の「労働者」は、自分からヤル気になると思うんですがどうでしょう。時間把握に無関心で、出勤簿にも目を通さない管理者は論外です。
  

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2012年08月18日

法律門外漢のたわごと(労働基準法①)

労働基準法は、戦後まもない昭和22年に制定されました。日本国憲法の理念が色濃く反映された法律という感じです。産業革命のイギリス資本主義社会では、経営者が労働者を過酷な状況の中で使役し、富を得た反省があります。オリンピックの開会式のセレモニーを見てそのことを連想しました。戦前の日本でも、女子が炭鉱労働したこともありました。健康を害せず働ける環境を保持しつつ、労働者の権利を守るための法律が労働基準法というところでしょうか。
映画「男はつらいよ」でフーテンの寅さんの渥美清が、「労働者諸君」と呼びかける言葉には、「君たちはいつも人に使われていて大変だなあ」という同情の気持ちがあるが、寅さんは、きままな旅の中で、組織にも属さず的屋商売で見知らぬ人と人情を交し生きていく。そうした孤高に生きる自分とも重ね、何とも意味深な言葉になっています。
昔から、私も人から使われて仕事をしているという感覚は好きでなかったし、言われなくても進んでやるのが仕事だと健気な精神でやっていた時代が長かったし、定年に近い今日でもその初心は変わらない。けれども、多数の人を組織して仕事をしている団体には、働くための規範が必要だということもわかります。
社会保険労務士試験問題の中で、労働基準法が一番難しいと思っていますが、人間の「常識」で解決がつくことがほとんどだと思います。それと「権利」と『義務』のバランスが大事で、このことは「常識」という言葉と同意語のようにも考えられます。
良く話し合い、納得しあえば問題ないのですが、どうしても基準はなくては困る。基準作りの歴史の積み重ねが「労働基準法」だと言ったらあまりにも散文的な表現でしょうか。
  

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2012年08月18日

法律門外漢のたわごと(厚生年金法②)

 昨年の東日本大震災の影響で、平均寿命が少し下がったということですが、いぜんとして日本は長寿国です。歳をとれば、ほとんど年金頼りの生活になりますね。子供がいるではないかという人もいるでしょうが、このご時勢では、扶養されるのではなく扶養し続けるということにもなりかねません。「後期高齢者」(75歳)に近づけば近づくほど、医療費や介護費もかかることが予想されます。年金収入がある程度あるにこしたことはありません。
 また、厚生年金の話になります。昭和36年4月2日以降に生まれた男性は、65歳からでないと老齢厚生年金が、受給できません。女性は、5年遅れになっていますね。馬の食べたいニンジンが、少しずつ先に逃げていってしまうという感じですね。要は、65歳までは、働かないと収入がないということです。でも、定年は、ほとんど60歳までになっています。「高年齢者雇用安定法」という法律があって、60歳以後も本人の希望があれば、働き続けられるように配慮している企業も多くなっているようです。給料も減額され、契約も嘱託契約になったりすることが多いようです。考え方ですが、年金生活より働きながらの生活の方が健康的のように思うのですが、人さまざまな考え方がありますからいちがいに結論付けられません。高齢者が働くことによって、若者の雇用が奪われるなどという狭い考え方の人もいらっしゃるようですが、技術、文化の継承ということを考えれば、高齢者にとってやりがいのある5年間ということも言えます。「在職老齢年金」という制度があって、この5年間、厚生年金の受給権のある人は、給料の額によって、年金が減額されたり、全額支給停止になることがありますが、生活できる収入があるということですから、働いて損したなどと夢にも思わないことです。
  

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2012年08月17日

法律門外漢のたわごと(厚生年金法①)

労働基準法からと思ったのですが、厚生年金法の話になります。この8月に60歳になりました。誕生日がいつかということは個人情報なので申し上げらないのですが、誕生日の前日以後ならば、年金事務所に行って年金の手続きができることになっています。これを「裁定請求」と呼んでいます。この手続きをしないと永遠に年金を受給することができません。めんどうなので、金融機関お抱えの社会保険労務士に頼む人も多いようですが、まあ、自分のことは、自分でやるようにしましょう。誕生日に休みがとれたので、年金事務所に行ってきました。少し順番待ちになりましたが、無事手続きは終了。意外になんていうと失礼なのですが、職員の方も親切で、敷居は、高くありませんでした。他のブースに友人がいて、久しぶりの再会となりました。高校時代の同級生で、「どこの爺さんかと思ったら、あなたでしたか」と言うと「お前さんに同じこと言いたいよ」と逆襲がありまして、近くの、喫茶店で二人だけの同窓会になりました。
 「この年金額じゃ暮らしていけないよなあ」というのが二人の一致した感想。厚生年金は給料によって保険料が違うのですが、上限があって給料が高かった人の年金額もそれほど高くないのですね。それに我々の年代だと国民年金(老齢基礎年金)は65歳からの支給で、厚生年金支給の特別支給年金(報酬比例部分)しかもらえないのです。
「65歳までは、隠居の身になれないな」と再会を約して、喫茶店を出ました。店の勘定は彼が済ませ、ちょっとした年金アドバイス料と思い甘えることにしました。
  

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2012年08月16日

法律門外漢のたわごと(法律の沿革)

法律門外漢のたわごと(法律の沿革)
 社会保険労務士試験に出題される、主な法律の中で一番古い法律は何かというと、「健康保険法」なんですね。大正11年に制定され、昭和2年に施行されました。国民の一部で、今日のような制度ではなかったと思いますが、意外と早い導入だったという印象です。
驚いたことに「厚生年金法」は、昭和19年に制定されています。戦時中ですよ。こんな非常時に、国民の将来の生活を考えてくれる政府があったのかと感心したのですが、元厚生省の老人福祉専門官のM先生に話すと
「お金集めですよ」。「はあ」。先生さらに曰く「年金は、将来払えばいいんでしょう」。なんだ、軍事費に使ったのか。いつの時代にも頭の良い人間は、いるものだ。そのせいか知らないが、無駄とも思われるデラックスな福利厚生施設の建物に多額の年金財源を使ったのも、その習性かしらと思ってしまう。年金給付だけに使途を限定してもらいたいものだ。長いことお金を預かるシステムだから、途中でタガが緩むことあるかも知れませんね。いつも、年金加入者はチェックする必要がありますね。100年プランなどと言っていますが大丈夫かな。
  

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2012年08月14日

敗るるも亦よき国

 戦争をテーマににすることが、いかに辛いことかということがわかりました。戦うこと、争うことは人類や生物にとって宿命のようにも思いますが、空間も時間も限られた生物(与えられた命)にとって、この性(さが)を抜け出す道はないのでしょうか。オリンピックは、スポーツという手段を通じて個人、国家の競争になっています。経済面の競争もあります。地位、名誉の競争もあります。人はどうしたら満足が得られるのでしょうか。かつてお会いした大数学者の岡潔博士は、「人は懐かしさと喜びの世界に生きている」と言われました。つまり人は、心の世界に生きている。その心の世界の中心は、「情」なのだと。物質的なもので、心は満たされない。ご縁のある人、身近な人、これから出会う人、同時代に生きる人と心通えるように致しましょう。「敗るるも亦よき国」とは、日本のことです。「敗るるも亦よき国」と表現された岡潔博士は、日本という国を愛しておられました。国粋主義者ということではありません。「自分を後にして他人を先にする」、常に自我を抑止し、生涯を過ごされました。サッカーで、韓国に敗北した後、日本のサポーターが、観客席のゴミを片付けている写真がありました。日本人もまだまだ捨てたものではない。自国のことを卑下するのはやめましょう。

敗るるも亦よき国
 昭和二十年八月十五日に先の大戦は、日本の無条件降伏で終戦となった。昭和十六年十二月八日に米国と開戦し、太平洋戦争という名称が一般的だが、日中戦争まで含めると、関東軍参謀であった瀬島龍三氏などは、大東亜戦争と呼ぶのが正しいと言っている。
 今年もまた終戦記念日がやってくる。思えば、硫黄島の戦い、沖縄の戦いを取材しながら、戦争の意味を考えてみた。国力の違う国と戦うのは無謀だということである。ならば、逆に国力の弱い国なら戦って良いのかということになるが、国と国との間の紛争を解決するのに戦争によるのは誤りだという結論になる。その結果、多くの人々が死ぬ。沖縄戦のように民間人が巻き込まれることもあるし、原爆のように最初から非戦闘員を目標にしている戦略は、久間防衛大臣の「しょうがない」発言ではすまされないものである。戦争の結果は、勝者も敗者も悲惨だということである。
 硫黄島の栗林中将の統率力、沖縄の八原高級参謀の冷静な作戦と現地の実状を無視した大本営の作戦干渉について書いたのは、生活や経営といった平時の営みよりも戦闘状況には究極の厳しさがあると考えたからである。死をみつめて生を考える思考に似ている。太平の世に命を本当に賭けているかといったら、ほとんどが否である。おかしな話だが戦争に学ぶことは多いのである。反戦、非戦を口で言ったり書いたりするのは簡単である。せめて現地を訪ね、資料を調べ、できれば時間を超えて心だけは、その場にいられるようにしたかった。
「一〇〇年兵を養うは、平和のためなり」
軍人は、戦争に勝利することが仕事であるが、国防の最善な状況は、平和であるという
山本五十六元帥の言葉は、実に重い。
 なぜ、強者である連合国と戦争に至ったか、数限りない分析がある。私観だから、極めて大雑把である。朝鮮半島を足場にして、中国東北地区に進出していったことが、紛争の火種になっている。満州国の建国は、日本が領地を保有したわけではないが、日本本土から多くの開拓民が移住している。満州鉄道は、日本が経営し、資源を確保するために鉱山などの経営にも乗り出している。行政にも関与したし、軍隊も駐留させている。
満州国は、人工的な国家で、アメリカ合衆国のように発展しなかった。臓器移植のように、生体間拒否反応が、日中戦争に発展し、英米の世界戦略からしたらば、アジアの勢力バランスを崩す国家として許容できなくなった。癌細胞のような扱いになった。
 日露戦争以来、日本の国防政策の中で、ソ連が仮想敵国になっていた。主力になるのは、陸軍である。関東軍という大陸に置かれた軍隊は、中央が制御できないほど肥大化し、実際紛争も起こしている。満州国と関東軍の存在は、太平洋戦争に至る原因といえる。決定打は、三国同盟である。相手は、ドイツとイタリヤである。米英と戦争を回避したかった。兵力、増して国力が違うことが歴然としていた。海軍、とりわけ米内光政、山本五十六、井上成美らは必死で反対したが、海軍への予算が削られるのでは困るという理由で賛成する人物もいた。
 思想統制の軍国主義下にあったが、新聞各社の論調も戦機を煽った。戦争への流れを変える力は、無かったというのが開戦直前の国情であった。天皇ですら
「戦争反対を言い出したら、自分ですら殺されていただろう」
後に語られたという。
開戦の御前会議で、直接反対の言葉は述べなかったが、明治天皇の御製
四方の海 みな同胞(はらから)と思う世に など波風の立ち騒ぐらん
を披露し、ご自身の平和を希求する心情を示された。
 
千葉県野田市関宿に鈴木貫太郎の記念館がある。終戦に至るまで、内閣総理大臣を務めた人である。小磯内閣の後を受けて、内閣総理大臣になったが、八十歳近い高齢でもあり就任を固辞したが、推されて大命降下となった。昭和二十年の四月六日に組閣を行なったが、沖縄では上陸作戦が始まっていた。鈴木貫太郎は、国会で演説する中で、陸軍が唱えた徹底抗戦を国民に呼びかける。一方、この戦争が自存自衛のもので、天皇は終始一貫して世界平和を志向していたことを述べた。表向きは、戦争遂行を唱え、国民を鼓舞したが、本音は、自分の内閣で戦争を終結しようと考えていた。
 総理に就任するときの決意が
「戦争を終結させた後、自分は殺される」
というものであった。鈴木貫太郎は、殺されかかったことがある。昭和十一年二月二十六日に起こった二・二六事件で私宅を襲われ、四発の銃弾を受けた。妻の哀願でとどめをさされず九死に一生を得たのである。指揮したのは安藤輝三大尉であったが、鈴木貫太郎自伝の中で、安藤大尉の人物像を述懐している。決行に至る前に、民間人と共に、鈴木を訪ねたことがあった。その中で、陸軍大臣は別としても、軍人が政治に深く関与することの非と、特定の人物を首班に推すということの問題点を丁寧に話したことが書かれている。当時、東北地方は飢饉もあり、身売りする人すらあることの窮状を軍人の手で変えたいとも訴えたが、同情はしつつも反対した。安藤大尉は、鈴木貫太郎を見直すが、仲間を説得することができず、自分の赤誠を示すために鈴木貫太郎襲撃の指揮をとることになった。貫太郎は、安藤大尉を間違った思想の犠牲者とだけ述べている。
 とどめをささないように指示したのは、安藤大尉であったが、安藤は鈴木の妻に
「閣下には何の恨みもありませんが、我々と意見が異なり、このような結果になった」と話し立ち去ったが、意見が違うからという理由で殺されたのではたまらない。これは、テロと言わざるを得ない。殺されなくとも、理由もわからず人事権をふるう行為も広義に解釈すればテロ行為のようなものかもしれない。
 この事件では、同時多発テロであったために多く政府要人が襲われた。高橋是清大蔵大臣のように腕を斬られ惨殺された人もいたし、渡辺教育総監のように、娘の目の前で多数の銃弾を浴びて殺害された惨劇もあった。娘は、その場面が消しがたい心的外傷になって、カトリックの信者になった。
 「君臨すれども統治せず」の総明な天皇は激怒したとされる。近衛師団を自ら率いて鎮圧するとも言ったという。陸軍の中には青年将校の行動を理解する者もいたが、天皇は明確に反乱軍という結論を出していた。明治憲法上、天皇のとった行為は問題だという指摘があり、この事件以後天皇は自ら政治的決断を表明することはしなかった。唯一の例外は、終戦のための御前会議でのいわゆる「聖断」である。
 重傷を負った、鈴木貫太郎は侍従長として天皇の側近として長く仕えていたのである。
昭和天皇の心を深く知る人物の一人として鈴木貫太郎は評価されて良い。この時、鈴木貫太郎が殺されていたら、終戦内閣を組織することもなかった。原爆投下やソ連軍の参戦で決断を迫られたが、それでも無条件降伏に対し、鈴木総理を除く最高戦争指導会議の参加者の意見は三対三に分かれている。当然、総理が決断し、天皇に奏上し決断するのが、輔弼する者の役割であるが、鈴木貫太郎は聖断を仰いだのである。そうしなければ、軍部は鉾を収めないと考えたからである。天皇と鈴木貫太郎の以心伝心の行為が亡国の危機を回避させたと言える。
 記念館に飾られた、白川一郎の描いた「最後の御前会議」の出席者の表情は、一様に重苦しく、それは地下深い薄暗い電灯のせいばかりではない。天皇のその時の発言が、終戦の自ら読み上げられた勅語に反映されている。その内容を一部省略して紹介すると
「外に別段意見の発言がなくば私の考を述べる。反対側の意見はそれぞれ聞いたが私の考は此前申した事に変わりはない。私は世界の現状と国内の事情を充分検討した結果これ以上戦争を継続することは無理だと考える。(中略)此際耐へ難きを耐へ、忍び難きを忍び、一致協力将来の回復に立ち直りたいと思ふ、此際私としてはする事があれば何でもかまわない、国民に呼びかける事が良ければ私は何時でも「マイク」の前に立つ、此際詔書を出す必要もあらふと思ふ、政府は早速其起案して貰ひたい。(以下略)」
 関宿は、幕末久世家が治め、鈴木貫太郎の父親は代官であり、後には地方官吏となり、群馬県庁にも務めている。貫太郎は、大阪で生れたが、関宿は幼い日々を過ごした故郷である。晩年もこの地で過ごした。記念館は吉田茂総理大臣の提案で建てられたが、今日訪れる人も少なくなっている。大宮駅から東武野田線に乗り継ぎ、川間駅からバスに乗ったが途中で降ろされてしまった。乗り継ぎに、豆バスという遊園地にあるようなバスに乗ったら二五分もかかってしまった。高齢者用の巡回バスだった。江戸川と利根川が分岐する関宿は高い堤防に守られ、昔は水運の要所であった。千葉県だが、母親の実家のある群馬県の館林までは二〇キロほどの距離しかない。
 昭和の前半は誠に不幸な時代であったが、戦前、戦後にあっても昭和天皇は名君であった。鈴木貫太郎と言う忠臣の名はとどめておきたい。決して君側の奸ではない。

         拙著『浜茄子』より
  

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2012年08月14日

「戦争と平和」を考える-3

戦陣訓
 硫黄島の戦い、沖縄戦、終戦における聖断について書き、先の大戦のとりわけ敗戦にいたる昭和二十年に思いを馳せた。時は既に六十二年を経過している。個人史からしたら、生前のことであって記憶にある時代ではない。
硫黄島は、現在東京都に属しているが、在日米軍と自衛隊の共同基地となっており、遺族やその関係者の慰霊祭や、取材などの目的で許可されなければ、民間人の渡島は許されていない。「硫黄島の戦い」は、映像の世界からの感想に過ぎない。ただ、指揮官であった栗林中将の生地は訪ねる事ができた。「沖縄戦」は、友人の案内で戦跡めぐりができた。「終戦における聖断」は、終戦内閣の総理大臣であった鈴木貫太郎の記念館を訪ねることができた。資料や書物を読むだけで物を書く気にはなれない。せめて、時間を共有できないならば空間を共有したいと思うのが歴史好きの人間の習性である。
芭蕉を始めとして、好きな作家である司馬遼太郎、城山三郎、塩野七生などは、自分の身を現地に運んでいる。特に、塩野七生は、地中海に展開する歴史に関心が強く、イタリヤに定住して、『ローマ人の物語』を十五年かけて書き上げた。膨大な資料を調べたのであろうが、ローマ帝国の多くの遺跡を訪ねている。ローマに住んでいるので、当時のローマ帝国の国境までは、飛行機で一時間で行ける距離なのだという。
想いを寄せる地に行くことは、「兵どもが夢のあと」であって、ただ山河があるだけかもしれないが、風に吹かれ、空気を吸うだけでも大いに意味があると思っている。テーマをもって旅に出ると紀行文が書けるのに似ている。共有できない時間を、現地の人々の肉声で埋める幸運に出会えることもあるかも知れない。
「戦陣訓」については、説明が要る。昭和十六年に兵士に対する戦場における心得を述べたものである。中国大陸の戦闘の中で、軍規が乱れているのを憂慮して陸軍省から出されている。その推進役になったのが、戦後A級戦犯として絞首刑になった東条英機である。文章の校正にあたっては、島崎藤村や土井晩翠の手が加わっている。教育勅語もそうだが、「戦陣訓」も今や悪しき戦前の遺物のように忘れ去られている。
戦場では、人と人が殺しあうという異常な状況の中で、古くから人がしてはいけないこととして戒律で示されている行為が、個人の衝動でなされることがある。「殺す」、「焼く」、「犯す」、「盗む」だという。「戦陣訓」では、本訓其の三の第一に〝戦陣の戒〟というのがあって、その八に「戦陣苟(いやしく)も酒色に心奪はれ、又は慾情に駆られて本心を失ひ、皇軍の威信を損じ、奉公の身を過るが如きことあるべからず。深く戒慎し、断じて武人の清節を汚さざらんことを期すべし」
最もな道理が書かれている。しかし、「戦陣訓」は、悲劇を生む。
 それは、後世に指摘されるところであって、「戦陣訓」の其の二の第八は、〝名を惜しむ〝では「恥を知るものは強し。常に郷党家門の面目を思い、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」となっていて、とりわけ、「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」の部分が、多くの島々での守備隊の玉砕や、沖縄戦の集団自決を生んだとされているからである。
 硫黄島の指揮官は、玉砕する思想はなかったが、降伏するという考えはなかった。最後まで戦えということは、死ねという命令に近い。アメリカに駐在武官として、合理主義的な思想を身につけていた栗林中将なら、「徒手空拳」で戦う状況になれば、自ら責任をとることはあっても、白旗を立て降伏しても良かった。それは、多くの遺族の心情であると思う。しかし、そうはならないのである。栗林も日本人の心を持った人であった。しかも、職業軍人であり、将官でもあったからである。
『菊と刀』でクール・ベネディクトは、日本は恥の文化だと言っている。さらに、親類縁者に迷惑をかけることは辛く、「非国民」と呼ばれる時代であった。「村八分」という言葉があるように、仲間外れにされることを戦前の日本人は恐れた。それなら、死んだ方がましだという選択は、生命体には苦痛には違いないが、「戦陣訓」を刷り込まれた兵隊には可能だったのである。
 沖縄の集団自決が、日本軍の命令であったかどうかは、大江健三郎と曽野綾子の取材では、見解が異なっているが、「戦陣訓」の影響は、あったのだろうと思う。「戦陣訓」全体を見て、気がつくことは、「天皇陛下」、「皇国」、「皇軍」という言葉がやたらに多い。
陸軍という組織は、上司の命令は、天皇陛下の命令だという。「戦陣訓」に最も学んだことは、「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」の言葉では、なかった。
天皇を利用し、恥を利用し、志願したわけではない兵隊に死を強要した「組織」あるいは「思想」である。迷惑したのは天皇であり、それ以上に苦しんだのは国民である。この構図は、一般社会、組織、人間関係の中でよくあるかたちである。〝虎の衣を借るきつね〟という諺があるが、本来は、日本人が最も嫌うものでもあるのだが、戦時中は〝虎の衣を借るきつね〟に苦しめられた。感情的に言うと「卑怯」という言葉になる。「戦陣」にはなく、遠くから、指揮する大本営という組織も、きつねの巣窟に見えてこないでもない。
ローマ帝国の時代は、武力による征服と、建築や土木に人々を使役し、一部の特権階級が人生を謳歌した暗黒の時代だと思っていたが、塩野七生『ローマ人の物語』を読み、考えを新たにしてみようという気持になった。長い、ローマ帝国の歴史の中には、醜い出来事も多いが、法治国家の発明は、人の世が多くの人々と暮らす限り、ローマ人が人類に与えた一つの英知かもしれない。宗教だけで世界が平和になるとも思えない。ローマは、ギリシャと同様多神教であった。他の民族の宗教を認めるが、法律を守ることだけは求めた。西ローマ帝国が滅び、キリスト教がヨーロッパを席巻するが、中世のヨーロッパは、逆に暗黒の時代のように見えてくるから不思議だ。
戦前の日本軍は、徴兵制度によってできていた。ローマは基本的には志願制であった。そして給料もそれなり支払われ、除隊すれば市民権も与えられた。兵隊は、皇帝に忠誠を誓うが、皇帝は前線に立った。その皇帝はローマ市民から選ばれた者である。国を守るのは、皇帝も、兵士も使命感による。「戦陣訓」のようなものが必要であったかは、ともかく、軍規は良く守られていたらしい。イタリヤに行って見たくなった。
 
     拙著『浜茄子』より
  

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2012年08月13日

非戦の祈り、沖縄へ

非戦の祈り、沖縄へ
 硫黄島には行けない。ならば、沖縄に行こうと思った。二〇〇六年の暮れに上映された『硫黄島からの手紙』は、戦争の悲惨さを伝えるだけでなく、極限状態の中で戦わざるを得なかった人々の悲運をどこまで自分自身が受け止められるかという課題となった。
重苦しい気分は、理性では振り払うことはできない。そのためには、戦場になった地に行き、慰霊する他はないと思ったからである。
 沖縄には、数学者岡潔先生の御縁による友人がいる。陸上自衛隊に勤務した人で、二十年以上前から沖縄に住んでいる。鹿児島出身の人だが、老後のことも考えてか(?)永住地と決めている。奥様から
「あなたのような口うるさい人は、沖縄が合っている」
どういう意味か不明だが、むしろ伴侶の方が積極的だったようである。
 年賀状に、沖縄訪問のことを書いたら
「二日でも三日でも案内しますよ」
と返事がきた。加えて、出発の前に〝沖縄戦〟に関する資料を送ってくれた。その中には、ご本人にとって大事なものもあり、その心遣いを嬉しく思った。実際、親切な人なのである。大隈博行さん七十歳、岡先生を慕う人達の集い「春雨忌」では、〝閣下〟と呼ぶ人がいる。
 沖縄は、未踏の地である。大隈さんに電話を入れたら、桜は散っているという。三月八日に出発したのだが、群馬は梅が咲き始めている。服装が難しい。〝沖縄戦〟は、別だが沖縄がどんな所かは、観光案内などで調べず、全てを大隈さんに委ねての白紙の旅となった。
 沖縄の戦いとはどのようなものであったのであろうか。数多い戦記が書かれているが、光人社NF文庫『沖縄』が概要を詳しく綴っている。米国陸軍省の編集を翻訳したものであるが、客観性がある。米軍が沖縄戦に参加させた記録班の記録と日本側の資料を合わせて作成しているからである。大隈さんから送られてきた本の一冊である。
 米軍が本格的に沖縄の島に上陸したのは、昭和二十年四月一日であった。沖縄攻略作戦に参加した兵員は五十五万人で、当時の沖縄県の人口四十五万人を上回る数であった。兵員を載せた艦艇は一五〇〇隻にのぼる。アメリカ本土からはるかに離れた沖縄の沖合いに、これだけの軍隊を結集させることのできる国力は驚異である。
アメリカとの戦争の中で、日本軍が実感したのは、物量や兵器の質、兵站を無視できず、近代戦争が単なる作戦や、勇敢さだけでは勝利することができないということだったと思うが、その実戦経験が謙虚に生かされなかった。太平洋戦争が始まる前に、満州国に置かれた関東軍がソ連とノモンハンで国境紛争を起こし、壊滅的な敗北をきっした事件があった。航空機や戦車という近代装備による攻撃に、日本軍の得意の白兵戦は通じなかった。この事件の真相は、長く秘密にされていたらしい。
米軍の上陸作戦に参加した将兵は十八万人。司令官は、バックナー中将で、沖縄戦が終結する直前に、日本軍の砲弾により戦死した。米軍の司令官が戦死した戦いは、沖縄戦だけである。いかに戦いが熾烈だったかを物語っている。守備する日本軍は、十一万であったが、そのうち約二万人は現地で召集された戦闘訓練も充分でない民間人に近い人々であった。総司令官は、牛島満中将で、最後は、摩文仁の洞窟で自決した。その日は、六月二三日で、沖縄戦は、九十日の長きにわたって戦われたのである。
沖縄戦で、牛島司令官に参謀として仕えた一人の軍人の思考と生き方に関心があった。
八原博通大佐である。彼は、第三十二軍の牛島軍令部の高級参謀であった。八原大佐が、ほぼ中心になって、沖縄戦の戦略、戦法を立案したとされている。
 八原博道は、米子中学から陸軍士官学校に進み、同期の中では、最も若くして陸軍大学校を卒業した。成績優秀で恩賜の軍刀を受けている。軍人にとっては、菊の紋章の入った軍刀をもらうということは名誉なことである。八原の留学先は、アメリカであった。幼年学校からではなく、中学から陸軍士官学校に入り、アメリカの文化に触れたことは、硫黄島の司令官、栗林中将に似ている。
 八原大佐がとった作戦は、持久戦法である。沖縄の地形や地質を利用して、地下陣地を構築し、そこに立て篭もりながら米軍を迎え撃つ戦法である。強力なパンチを持つボクサーと柔道家が戦う時、寝技に持ち込み勝機を得るのに似て、「寝技戦法」と呼ばれた。そのため、上陸時は攻撃することはなく、上陸部隊はあまりの無抵抗に日本軍の罠ではないかと疑った。上陸の日が四月一日のエプリルフールにあたることも皮肉にとれた。上陸地点は、日本軍の想定していた読谷、嘉手納の海岸で、近くに飛行場があり、その日の内に無血に近い状況で占領されてしまう。このことは、沖縄守備軍にとっては、想定内のことであったが、遠く本土にあって作戦を司令する大本営にとっては不服だった。そして、悲劇が生れる。この飛行場奪回を要求して攻勢をかける指示を、牛島中将に出すのである。大本営の作戦要求の背景には、容易く飛行場を占領されたことへの不満、加えて受身の戦いがいかにも勇気に欠けていて、帝国軍人らしくないということであった。この要求は、現地司令部からしたら、現状を知らない無謀なものであったが、牛島司令官の下で参謀長であった長勇少将は、勇猛、剛毅な人物で心を動かされるところがあった。各部隊の責任者を集め賛否を問うという形をとったが、八原参謀だけが反対意見を述べた。その主旨は
「飛行場を一時的に奪回したとしても、それを守備し、日本軍機が離着陸して、米軍を攻撃するための拠点とはならない。さらに、壕を出て積極攻勢に出れば、圧倒的な火力の差で我が軍に多大な死傷者が出ることは明らかである。最初から持久戦と決めたのは、一日でも長く米軍を沖縄に止め、本土への攻撃を遅らせることである」
しかし
「この攻撃案は、牛島閣下も賛成しておられる」
との長勇参謀長の言葉で作戦は実行に移された。その結果、主力部隊に大損害を受け、作戦は失敗し中止された。従来の首里に司令部を置いた攻防戦が一カ月間戦われることになる。
 作戦の失敗に、牛島中将は、八原参謀の主張する作戦を容れなかったことを詫び落涙したという。強気の長参謀長も、これで沖縄戦の勝機は去ったと弱気になった。八原参謀も同感で否定することはなかった。
 首里攻防戦の中で激戦地であった運玉森に大隈さんの運転で案内してもらった。沖縄では、森を「むい」と発音する。したがって運玉森は「うんたまむい」である。米軍の戦史では、コニカヒルと名づけられた場所である。現在、斜面にゴルフ場が出来ていて緑も茂っている。大隈さんには、この地に思い入れがある。高校の二年間、体育の教師川崎先生の教えを受けた。
川崎先生は、中尉としてこの激戦地の戦いで生き残った方である。弾丸を何発も身体に受けたが、幸運にも急所を外れ生還する。沖縄を訪ねる前に大隈さんが大事なものとして送ってくれたのは、川崎中尉が綴った『ああ運玉』(沖縄戦記)であった。実際に戦場にあった人の文章は重い。最後、住民とともに避難する中で、米軍に遭遇し捕虜となるのだが、手榴弾を迷惑になると思い棄てる箇所があったが、軍人としての本分を棄てる川崎中尉の心情の辛さも伝わってきた。ここまで、軍人として過ぎるほどに部下とともに戦ってきた人だったからである。川崎先生は、優しく厳しい人で、叱るときは、「貴様・・・」と軍隊時代の言い方になったと大隈さんは懐かしそうに語った。
運玉森の麓と言ってよい場所に西原町があるが、この地区の人々は半数以上の世帯で死者を出すほど不幸に見舞われた。慰霊碑のある場所に案内されたが、沖縄の戦いが住民を巻き込んだ悲惨な戦争であったことを改めて現地を訪ねたことによって知った。
首里の司令部が摩文仁のある南部に撤退し、抗戦することになってさらに多くの一般住民が戦禍に巻き込まれ多くの死者を出すことになった。ひめゆりの塔のある場所には行けなかったが、そうした負傷者の看護にあたっていた女子生徒の悲劇も生れた。
沖縄戦の直前に、沖縄県知事として単身赴任した人がいる。島田叡(あきら)という人で、大阪府の内政部長から、生命の危険を知りつつその職に就いた。牛島司令官に南部転戦の非を述べたが、それは県民の生命を守る文官としての使命感だったからである。最後は、荒井警察部長と行動をともにしたが、後方不明となった。
また、沖縄県民にとって忘れられない人物が、海軍の沖縄司令官であった太田実少将である。海軍は、陸軍とともに軍事行動することなく小禄地区に築いた地下壕を拠点に米軍と戦った。戦闘開始から十日後の六月十三日に太田司令官は壕の中の司令官室でピストルにより自決するのだが、玉砕に近いことを自覚した太田司令官は、もはや本土に向けて通信手段を持たない島田知事の真意を汲んで打電する。沖縄戦の経過を真摯に伝えているので全文を載せる。
「六日二十時十六分発
左の電を次官に御通報片、取計らい得たし。
沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告せられるべきも、県には既に通信力なく、三二軍司令部もまた通信の余力なしと認められるにつき、本職県知事の依頼を受けたるにあらざれども、現状を看過するに忍びず、これに代って緊急御通知申し上ぐ。
沖縄県に敵攻略を開始以来、陸海軍方面とも防衛戦闘に専念し、県民に関しては殆んど顧みるにいとまなかりき。然れども、本職の知れる範囲においては、県民は、青壮年の全部を防衛召集にささげ、残る老幼婦女子のみが、相次ぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ、わずかに身をもって、軍の作戦に差支えなき場所の小防空壕に避難、なお砲爆下をさまよい、風雨にさらされつつ乏しき生活に甘んじありたり。
しかも若き婦人は率先軍に身をささげ、看護婦、炊事婦はもとより、砲弾運び、挺身斬込隊すら申出るものあり。所詮、敵来りなば老人子供は殺さるべく、婦女子は後方に運び去られて毒牙に供せらるべしとて、親子生別れ、娘を軍衛門に捨つる親あり。
看護婦に至りては、軍移動に際し、衛生兵すでに出発し、身寄りなき重傷者を助けて共にさまよう、真面目にして一時の感情にはせられたるものとは思われず。さらに、軍において作戦の大転換あるや、自給自足、夜の中にはるかに遠隔地方の住民地区を指定せられ、輸送力皆無の者、黙々として雨中を移動するあり。
これを要するに、陸海軍沖縄に進駐以来、終始一貫、勤労奉仕、物質節約を強要せられて、ご奉公の一念を胸に抱きつつ遂に・・・(不明)・・・報われることなくして、本戦闘の末期を迎え、実状形容すべくもなし。一木一草焦土と化せん。糧食六月一杯を支えるのみとなりと謂ふ。
沖縄県民かく戦えり。
県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを」
最後の二行が特に有名だが、死の迫る中でこれほどに戦況を正視し、沖縄県民に感謝する電文を打つことが出来た太田司令官の人間性に頭が下がる。
司令官室には質素な木の机と椅子があり、生花がいけられてあった。壁には、辞世の歌が貼られている。
 大君の御はたのもとにししてこそ人と生まれし甲斐ぞありけり

 海軍壕は、漆喰やコンクリートなどで作られていて、発電室や通信室、さらには炊事ができる場所もあったらしい。大隈さんの先導で、司令官室の隣にある幕僚室に入ると、漆喰の壁に残る傷跡を指差し、参謀が手榴弾で自決した時にできたものだと説明してくれた。そして、大隈さんは部屋の壁に向かい祈りを奉げ始めた。最初は、古事記の冒頭の部分、それが終るとキリスト教のお祈り(ヨハネ伝一―四)になった。大隈閣下は、クリスチャンであった。このとき、初めて知ったのである。
 摩文仁の地を訪れた時、最初に多くの観光客のいる平和の礎(いしじ)のある場所に行かず、太平洋が見下ろせる崖下の道を案内してくれたとき
「今回は、我々はあまり皆さんがお参りすることない裏道から行きましょう。英霊もそのほうが喜ぶかもしれない」
大隈司祭(?)の意図が理解できた時、沖縄慰霊の旅は成就したと思った。そこには、はるか南洋の地で戦死した人々の慰霊碑があったのである。そこまで行けない遺族が、建てた碑である。父の兄もニューギニアで戦病死した。南方に向け合掌した。
 大叔父は、今も九十六歳で健在である。終戦時、陸軍少佐であった。『戦後五十年の回顧』―荻原行雄―の冒頭に記された言葉に、今回の沖縄の戦跡をめぐっての感想が代弁されている。
 「先の大戦は、無謀な戦いであった。孫子の兵法に、『敵を知り、己を知れば、百戦あやうからず』という諺がある。この逆で、敵情を無視した戦争であった。先ず支那事変で深入り過ぎ、引くに引かれぬ戦いとなり、遂に太平洋戦争に発展して、列強を相手に有史以来初めて、敗戦の憂き目を見ることになった。盧溝橋か保定の辺りで止めるべき戦であった。為政者が戦争の終局を誤ったのである。この大戦から、色々の教訓を得た。先ず精神力だけでは戦いに勝てず、一発打てば、十発打ちかえす物量戦で、その工業力に負けたのである。
 戦争は、国家総力戦で、制空権、制海権を得たものが勝ちを制するのであるが、勿論精神力も大切である。何れにしても、戦争は総てを壊滅し悲惨である。戦後五十年、戦いが無く平和に過ごし得たことが、敗戦の廃墟から立ち上がり、祖国の再建、今日の経済大国を築き得た所以である。戦争は、如何なることがあっても、国際間の紛争解決の手段とすべきでないことを痛感した」
人は非戦を求め、力によって人を屈服させてはいけない。平和の時代にあっても見えない戦争があることを意識したい。
沖縄旅行の余話
 沖縄に行くのに一つの抵抗があった。それは、昔から生理的に蛇が苦手なのである。道路に紐などの長いものが落ちているだけでも一瞬ギョットする。山菜取りが好きで山に入っても茂みがガサガサと音を立てると蛇がいるのではないかと思ってしまう。
過去に遡って考えてみると、ごくごく幼い時、でも三歳以上だったと思うが、とぐろをまいた蛇と家の二階で対面した像が脳裏に浮かんでくることがある。昭和三十年代、農家の二階では養蚕をしていた。蛇が二階にのぼることも珍しいことではない。そのことが、トラウマになっているかは知らないが、旅行期間中、那覇市内は良かったが、郊外のサトウキビ畑、森、道端の草むらにハブの存在が気になって、その幻影に怯えていた。実際、〝ハブに注意〟という標識などが立っていると無意識に後ずさりしてしまう。
摩文仁の丘を慰霊したとき、裏道から各県の慰霊碑のある丘をめざしたのだが、沖縄県の師範学校の供養塔から先は、岩肌が崩れやすく危険だということで、立ち入り禁止の札がロープに掛かっている。その先は、コンクリートの階段とステンレスの手摺がついても人が通った跡が無く、落葉などもあってじめじめしていて、ハブが本当に出て気はしないかと、本来ならば急階段を上ることによる健康的な汗がかけるところ、冷や汗になっていたのではないかと思った。
階段を上りあげる直前に、牛島中将と長参謀長が自決した洞窟があった。ここも立ち入り禁止になっていて、こちらは厳重に囲いがしてある。囲いの手前には、花が手向けられている。驚いたことに、大隈さんは囲いの端の隙間から、尻をよじるようにして入ろうとしている。昨夜、洞窟の案内をするのに
「荻原さん、そのスーツ姿では、洞窟には入れませんね。それにあなたの体格だと厳しいかな」
と話していた意味がこの場に遭遇してわかった。
しかし、大隈さんは、通過するのに難儀をしている。突然
「トッテください」
というので、夢中で持っていたカメラを向けてシャッターを切ったが、それは岩か、囲いのステンレスに服がひっかかったためだった。トッテは、撮ってではなく、取ってだったのである。
こちらは、到底入るのは無理なので、囲いの前で合掌し、大隈さんは中に入ってしまった。通り抜けができるので、上で待っていてほしいと指示されるとおり、海の見える高台で待っていたが、なかなか大隈さんの姿が現われない。きっと、海軍壕の中でやったように、お祈りしているのかもしれない。
「お客さん、どちらの県から着ましたか。お花はいかがです」
と花売りの老女が近づいて来たので、購入したついでに、友人のいきさつを話すと、ハブが洞窟にいると話す。心配になって、携帯電話をかけたら、後ろから大隈さんの声がした。大隈さんの慰霊する心に比べたら、なんともハブに恐怖する臆病者かと、無明に支配された自分を情けなく思った。
沖縄戦を「鉄の暴風」と表現している解説文を見た。沖縄の島におびただしい砲弾、爆弾が、陸・海・空から落とされたからである。東京空襲の場合、焼夷弾が多かったと思うが、時々今日でも工事現場から不発弾が見つかり、自衛隊が出動するのをテレビで見ることがある。
那覇空港に隣接して、陸上自衛隊の駐屯地がある。大隈さんが予約して展示室を見学することができた。後輩の自衛官である迫(さこ)一曹さんが説明してくれたが、いまだ多くの不発弾があるという。米海軍の砲弾から様々な大砲の砲弾が展示されていた。今度は、沖縄の大地にハブに加えて不発弾の幻影を見るようになった。

            拙著 『浜茄子』より
  

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2012年08月12日

硫黄島玉砕戦の悲劇と教訓

硫黄島玉砕戦の悲劇と教訓
 硫黄島は、小笠原諸島の南端にあり、緯度は、ほぼ台湾と同じで、東京からは約千二百五十㌔の距離にある小さな島である。第二次世界大戦の末期、沖縄と同様に日本本土防衛のための激しい戦いがあった場所として知られている。しかし、その戦闘がどのようなものであったかを知る人は少ない。
 その戦いがあった年から六十一年目になる平成十八年に、アメリカの俳優クリント・イーストウッドが監督になって、日米両者から見た硫黄島の戦いを描いている。「父親たちの星条旗」(アメリカ)と「硫黄島からの手紙」(日本)である。戦闘のシーンが多く、見るのが辛い場面も多いが、反戦の映画になっている。映画の内容に多くは触れないが、国家の争いの中で翻弄され、死んでいった将兵の生き様の中に胸を打つものがある。
 梯久美子という作家が新潮社から『散るぞ悲しき』を出版している。取材記事を得意とする作家らしい労作として、大宅壮一ノンフィクション賞を受章した。司馬遼太郎がそうであったように、関係者の取材や資料から真相を浮き彫りにしていく手法は、読者を納得させる。この人は、テーマが与えられれば、また良い作品を書いてくれるに違いない。副題は、硫黄島総指揮官・栗林忠道である。
 栗林忠道は、硫黄島兵団の長として赴任した当時、陸軍中将であり、戦死後大将になっている。「硫黄島からの手紙」で栗林中将を演じたのが渡辺謙である。映画にも、『散るぞ悲しき』の内容が使われたことが、文芸春秋の二人の対談記事でわかる。辞世の歌が三首残っている。その一首が
 国のため重きつとめを果たし得で
         矢弾つき果て散るぞ悲しき
であり、本のタイトルはこの歌の最後からとったものである。歌の意味は解説をするまでもなく平易であるが、この歌を打電された大本営軍令部は、新聞に報道する時に、「散るぞ口惜し」と変えてしまう。軍人、しかも将官であれば、「悲しい」などいう情緒的で女々しい言葉は許されないという観念が当時は支配的であった。この「悲しい」は、栗林自身のものではなく、多くの島で戦っている兵士の心情を代弁していると作者の梯久美子は捉えているのである。
 思い切って意訳すれば、「国のために、その重き任務を果たすことが出来ないのは、無念ではあるが、内地にいて図上による作戦の指揮をとる大本営諸君は、充分な補給と戦略もなく、本土に暮らす同胞の米軍の空襲から危険を守るために必死に戦っている将兵のことが本当にわかっているのだろうか。最後は銃弾もなく、戦う術もなく死んでいかなければならないと思えばその心はなんとも悲しいというべきほかない」という栗林中将の抗議ともとれる。
 栗林忠道は、明治二十四年に長野県の松代に生れている。松代は真田十万石の城下町で、幕末の先覚者佐久間象山を輩出した地でもある。栗林家は松代藩の郷士で旧家であった。旧制長野中学から、陸軍士官学校に進むが、英語が得意で一時は、新聞記者になろうと考えたこともあった。特筆したいことがある。高位の軍人の子弟は、陸軍幼年学校から士官学校に進み、陸軍大学校を経て海外留学と、いわゆるエリートコースを歩む。留学先の多くが、ドイツ、フランスであった。A級戦犯になった東条英機もそうであった。英米に留学するものは比較的少なかった。
 栗林には、アメリカ留学の体験があった。三六歳の時で、騎兵大尉であった。アメリカの文化に直接触れ、その国力も知り
「アメリカは、日本がもっとも戦ってはいけない国だ」
と考えていた。このあたりは、海軍の山本五十六と通じるものがある。さらに、当時の時代比較で言うのだが、アメリカ人の長所である合理主義と人道主義も肌にあうものがあった。栗林は、家庭を大事にした人で、家事詳細に渡っても良き父親であった。硫黄島に出征する前に修理できなかったお勝手の隙間風を気にしながら、戦いの寸前まで妻や、子供に愛情のこもる手紙を書き続けた人でもあった。そのような栗林が、アメリカ軍の上陸作戦で最大の犠牲を払わせたのかは不思議である。
 硫黄島の総指揮官は、小笠原諸島の父島から指揮をとることが許されていたらしい。前任者がそうであった。栗林は、最初からその気はなかった。ということは、硫黄島が自分の死に場所であることを自覚していたということになる。硫黄島を守る兵士は、約二万一千人で、その先頭に立って戦うためには、現場指揮をとる必要があった。着任すると直ぐに、海岸線での陣地の構築を止めさせた。これには、反対が多かったが、水際作戦は、サイパンなどの戦いで悉く失敗に終っていた。上陸前の艦砲射撃や空爆で壊滅されていたからである。
 海岸線から一歩退き、地下壕を堀り、上陸前の攻撃に耐え戦う方針をとった。〝バンザイ突撃〟を禁じた。最後はゲリラ戦でも良いから、一日でも長く戦い続けることを守備隊に命じたのである。その結果、アメリカ軍が五日で陥落できると考えていたのが三六日になった。しかも、アメリカの死傷者は日本を上回った。
 硫黄島には、川はなく食糧はもちろん水の確保が最大の問題であった。雨水をドラム缶などにためて飲料にしたのだが、アメリカ側からすれば多く見積もっても守備する兵隊の数は、一万三千人が限界だろうと予想していた。堅固な陣地の構築、生活物資の確保と抑制、無謀な戦い方の禁止、いずれは死ぬと分っていても無駄死にならないようにすること。このような、戦闘方針が周知徹底されたために、信じられないほどの戦闘結果に繋がったと考えられる。
 しかし、いかに指揮官の命令があっても困難を将兵がともにできるわけではない。映画にも映し出されていたが、栗林は、現場を隈なく歩き、多くの将兵に声をかけ励ました。また、高官だけが許される特別メニューは拒否した。一般の兵士と同じものを食べた。そうしなければ、兵士の実情が分らないと思ったからである。給仕するものが、
「これは決まりですから困ります」
と訴えると
「空でいいから器だけ出しておけよ」
と笑って応える場面があった。水も一日水筒に一杯と決めていた。
 こういうリーダーでなければ、部下は心底命令に服するものではないからである。
 戦争は国家間の紛争の解決の手段にしてはいけないことは、長い歴史の中で学んでいる。けれども、近年になってもアフガニスタンやイラクで戦争が行なわれている。フセイン大統領も裁判で死刑になったのは、つい最近の話である。北朝鮮は、核を保有したとして諸外国から放棄を迫られているが拒否し続けている。そして、北朝鮮の多くの人が言論統制と餓えに苦しんでいると伝えられている。有事への緊張が増しているが、戦争によって犠牲をとなるのはいつも権力から遠い人々である。
 戦争とまではいかなくとも、硫黄島のような状況、つまり生贄のような状況は平和な社会の中でも起こりうるのである。企業における無謀な事業展開、一部の人による独断経営によって倒産に至ることも大げさに言えば「硫黄島の悲劇」になる。
国と国との覇権争いの中に死んで行った、栗林中将始めとする将兵に
「硫黄島を死守せよ」
との権力の衣を着た大本営の参謀的な精神構造になんとも言えない嫌悪感を持った。
栗林中将は、最後は残された四〇〇人に余りの部下と最後の攻撃をして戦死したと伝えられている。その時肩書きを外していたので遺体が発見されなかったともいう。
最後の訓示の言葉は
「予ハ常ニ諸子ノ先頭ニ在リ」
であった。
 長い引用になるが、梯久美子の『散るぞ悲しき』の中から抜粋する。こちらは、的確で取材記者らしい冷静な文章になっている。
 「硫黄島に渡ってからの栗林の軌跡を辿っていくと、軍の中枢にいて戦争指導を行なった者たちと、第一線で生死を賭して戦った将兵たちとでは、〝軍人〟という言葉でひとくくりにするのがためらわれるほどの違いがあることが改めて見えてくる。安全な場所で、戦地の実情を知ろうともせぬまま地図上に線を引き、「ここを死守せよ」と言い放った大本営の参謀たち。その命を受け、栗林は孤立無援の戦場に赴いたのである。平成六年二月、初めて硫黄島の土を踏んだ天皇はこう詠った。
  精魂を込め戦いし人未だ地下に眠りて島は悲しき
 見捨てられた島で、それでも何とかして任務を全うしようと、懸命に戦った栗林以下二万余の将兵たち。彼らは、その一人一人がまさに〝精魂込め戦いし人〟であった。
 この御製は、決別電報に添えられた栗林の辞世と同じ「悲しき」という語で結ばれている。大本営が「散るぞ悲しき」を「散るぞ口惜し」と改変したあの歌である。
 これは決して偶然ではあるまい。四十九年の歳月を越え、新しい時代の天皇は栗林の絶唱を受け止めたのである。死んでいく兵士たちを、栗林が「悲しき」と詠った、その同じ硫黄島の地で」。
 栗林の生地、松代にある皆神山には本土決戦に備えた巨大な地下壕が掘られた。大本営や政府、天皇の御座所を移すために。これが実現し、戦争が続行されていたらば、日本民族は致命的な結果になっていたかも知れない。昭和天皇の聖断によって終戦となったことに、天界の栗林は安堵したことであろう。

          拙著『浜茄子』より
  

Posted by okina-ogi at 12:34Comments(0)日常・雑感

2012年08月11日

『夜と霧』

『夜と霧』
 精神医学者、フランクルの著作である。フランクルは、一九〇五年、ウイーンで生まれ、精神分析学の大家、フロイトやアドラーに師事した。しかし、第二次大戦中、ヒトラー政権によるユダヤ人狩りに合い、アウシュビッツの収容所に家族とともに送られ、彼だけが生き残った。その状況を、心理学者の目で著述したのが『夜と霧』である。八月八日早朝五時半から、再放送だったが、BS3(NHK)で、『夜と霧』を題材にした番組を見た。ロンドンオリンピックを見る人が多い中、どれほどの人がこの番組を見たか分からないが、実に重いテーマを指摘していた。
 この本は遠い昔読んだ記憶があり、書棚を捜したら、出てきた。すっかり古本になっている。みすず書房から出版されたもので、霜山徳爾訳とある。改訂版一九七二年のものである。霜山徳爾は東京大学文学部卒の心理学者である。当時、心理学の学生であった私は、この本を手にしたが、あまりにも過酷な状況が書かれていて最後まで読めなかった記憶が残っている。四〇年ぶりにページを開くと最後まで、ペンの書き込みが残っていた。読了していたのかもしれない。
 テレビで、解説者がアパシーという言葉を使っていた。人は、肉体的にも、精神的にも絶望的な状況に置かれ続けると、無関心、無感動になっていくというのである。そうすると、生きる意欲はなくなり、衰弱し死んでいく。そうでなくとも、収容所での労働は、厳しく食事も十分でなく病死、餓死していった。ソ連が、日本の将兵をシベリヤに抑留したが、アウシュビッツの収容は、ユダヤ人を根絶やしにする目的があり、ただ殺された人も多かった。
 戦争という特殊な状況でなければ、このような狂気ともいえる行為は出現しないのであろうが、心理学者であるフランクルは、人間とは何かを人間性を維持し続けた心理学者の目を通して記録と思索を残したのである。絶望の中でも人は、光をみることができるという。それは、希望と祈りだという。信仰とは言わなくても、心の中に生まれる人間としての善意があるのだという。そして、最後は、その善意によって判断する力が残っているのだという。
 いじめ、仲間はずれということが今社会問題化している。そういう状況は作らないことにこしたことはないが、最後は自分で生き抜く。その時他者をどれだけ思いやれるか。愛の反対は、憎しみでもなく、「無関心・無感動」だからである。
  

Posted by okina-ogi at 17:34Comments(0)書評

2012年08月11日

「戦争と平和」を考える-2

 武者さんは、2008年の12月に他界されている。曹洞宗の住職であり、児童文学者でもあった。高崎中学から、駒澤大学に進み、南方の戦場で過酷な戦争体験をした人である。復員の時の話から、「ビルマの竪琴」の水島上等兵のモデルとなったと言われた。その真意はともかく、戦後戦友の霊をなぐさめ、現地の子供たちへの支援活動を続けた功績は大きい。晩年、手紙のやりとりをさせていただき、著書までいただいた。

『ビルマの竪琴』の水島上等兵といわれて
                武者(中村)一雄さん(平成十六年・夏)
 今年も終戦記念日が近づいている。毎年、戦争を語れる体験者が少なくなっていく。『ビルマの竪琴』という映画を見た人は多いと思う。市川昆監督によって、昭和三十一年と平成五年に二度にわたって映画化されているが、竹山道雄の同名の児童文学作品を脚本、演出している。ビルマ僧に身を変え、戦死者の遺体を埋葬し、供養しながらオウムを肩に乗せ「埴生の宿」を竪琴で奏でる水島上等兵が主役となっている。
 この水島上等兵のモデルになった人が、群馬県の昭和村に今も健在だという話をある老人から聞いた。年齢は九十歳に近いだろうということである。名前は中村一雄さんといって、雲昌寺という寺の住職だという。中村さんを紹介してくれた老人もビルマ戦線から生還した一人である。
 〝インパール作戦〟という戦いの中で、多くの死者が出た。その死者は戦闘ではなく、多くは、飢餓や病気で死んでいる。インドへの攻略を企図して、ビルマからアラカン山脈を越えインパールを目指したのでその名がついた。十万人以上の兵員を動員したが、装備や兵站計画が不十分で、無謀な作戦として先の戦争に悪名を残した。
 七月二十五日、友人の音楽プロデュサーの滝澤隆さんと雲昌寺に中村一雄さんを訪ねた。彼を誘ったのは、この訪問に音楽が切って離せないと直感したからである。中村さんの住む雲昌寺は、上越本線岩本駅に近い橋から利根川を渡ってすぐの場所にあるが、当日は、関越自動車道を利用し、昭和村インターチェンジを降りて行った。〝雲昌寺の大ケヤキ〟という目印が地図にも載っていて迷うことはなかった。
 玄関は開け放たれていて、外から挨拶すると「どうぞ」と寺独得の高い座敷から中村ご夫妻が迎えてくれた。天井が高く、風通しも良く、暑い日であったが家の中は涼しい。中村さんは、高崎中学(現高崎高校)の卒業と聞いたが、同窓会名簿を調べてもわからなかった。その理由がわかった。元の姓は武者といった(以降、武者さんと書くことにする)。先代の住職の姓に変えていたのである。我々訪問者二人の母校の大先輩というご縁もあるが、年齢差は四十歳に近い。
「私が話すより、このビデオを見てもらったほうがよい」
と、NHKが約一時間にわたり放映した番組を見せてくれた。今から五年前、武者さんが八十三歳の時のものである。
 わかったことがある。竹山道雄の『ビルマの竪琴』はあくまでフィクションである。武者さんは、竪琴の名人でもなく、ビルマ僧に変身したわけでもなく、もちろん、あのオウムも肩にかけていたわけでもなかった。訪問前からも、水島上等兵を武者さんに重ねることはなかったが、僧侶としてのイメージは重なった。
 武者さんは、戦後ビルマ(現ミャンマー)を二十数回訪ねている。そして私費を投じて、捕虜生活を経験した収容所近くに小学校を建てた。奇麗な池があって、近くにパゴタ(仏塔)が建っている。これが最後の旅と、武者さんが創設した保育園に勤める次女とミャンマーを訪ねる様子をNHKはカメラに収めている。感動的なのは、多くの子供たちに迎えられる場面である。彼らの目に武者さんは仏さまのように映っている。
 驚いたことがある。武者さんは、児童文学者であった。『ビルマの首飾り』という作品は、武者さんの非戦の思想が綴られている。
秘伝の甲賀流忍法を駆使して敵を殺さず戦いを有利に進める福島兵長とマーチャという少女の間の約束は、「殺したら殺される」という仏教の不殺生の教えである。約束の印が首飾りであった。福島兵長は、最後は見方を助けるために突撃して死ぬ。マーチャは、イギリスの戦闘機の機銃掃射で打たれて死ぬ。戦の中で人を殺さないということは、なかなかできることではない。物語の最後の章は、「祈り」で結ばれている。昭和四十六年、講談社の児童文学新人賞を受賞している。『ビルマの星空』という小説も書いている。実録『ビルマの竪琴』と言える小説で初版は『生きているビルマの竪琴』というタイトルで出版された。この本がきっかけになって、武者さんが水島上等兵のモデルといわれるようになったのである。
 武者さんと捕虜生活をともにした人で、古筆了以知(こひつりょういち)という武蔵野音楽大学出身の下士官がいた。古筆氏は、戦後、東京フィルハーモニーのビオラ奏者として活躍し専務理事になったが、今は故人である。歌う部隊として武者さんを含めて二十数名の合唱団を指導し、収容されている各部隊を慰問したのである。無二の戦友であった。
「いろいろな歌を唄いましたね。日本の童謡。フォスターの曲。『埴生の宿』はイギリスの兵隊に聞かせたものです」
 榛名の梅を土産に持参したが、帰りには著書を署名入りでいただいてしまった。『恥書きあれこれ始末記』(一部~三部)あさを社、は平成十五年の出版である。武者さんの人生の集大成であるが、道元禅師と良寛の歌と句が紹介されている。
 春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて涼しかりけり          道元禅師
 たくほどは風がもてくる落ち葉かな                  良寛
十三歳で仏の道に入った武者さんは、途中、戦争に巻き込まれたが、仏の教えを守ってきた。そして音楽を愛した。宗教と音楽は国境を越え、人の心を繋ぐ。
  

Posted by okina-ogi at 07:11Comments(0)日常・雑感